矢内原忠雄が心血をそそいで編集=藤井武全集
「予言者はその故郷に於て尊ばれない。藤井武君も亦武蔵の一角に立ちて叫ぶこと10年、遂に国人は彼に耳をかさなかった。
しかし知る人ぞ知る、彼は大正、昭和のエレミヤであった。我等は彼の如くに預言者らしく生きまた死にたる人を多く知らない。また彼の如くにキリストの十字架の信仰を高唱したるプロテスタント的勇者を見ない。日本は確信を以って彼を世界に誇ることが出きる。
神を絶対に義としたる彼は叫んだ、神には打ち据えられよと。神に絶対に信頼したる彼は歩んだ、全く打算なき生活。真実は彼の生命、孤独は彼の糧、純潔は彼の生活、希望は彼の歌。エレミヤとダンテとを愛したる彼の皮嚢には、国を愛してしかも国に愛せられざる預言者の涙が満たされた。殊に数年前彼の妻の天国に召されし後、彼の生活はこの世に属ける者の歩みではなかった。彼は全く来世の希望に生きた。彼の研究思索詩歌感想はかくの如き生活を以ってする聖書真理の表現に他ならない。独創清新の香気百合の花の如し。一言一句、斬らば生命が迸り出づるであろう。
彼の書き遺せしものは必ずしも多くない。四六判七千頁に足りない。しかしそれは欧米神学の焼き直しではない。日本人独自の研究である。唯物的モダ−ニズムに穢れしキリスト教は、ここに再び新しき生命の光に輝き、欧米神学の塵にまみれし聖書は、ここに再び新しき聖書として、その鮮かなる姿を示している。我等は彼の著作を以て、世界に訴へ、後代に遺すべき充分の価値ありと信ずる者である。ここに友人相計りて刊行会を組織し本全集の発行を企つる亦この故に外ならない」
上記は矢内原忠雄が昭和5年11月に書いた藤井武全集の「刊行の辞」である。
藤井武は、旧制一高時代から内村鑑三の高弟として教えを受けていた。東大在学中「柏会」を作った熱心なクリスチャンであった。東大を卒業後内務省に入り、京都、山形に勤務した後伝道に献身するために、大正4年に官を辞し内村鑑三の助手となり、鑑三が主宰していた「聖書之研究」に寄稿していた。大正5年に処女出版「新生」が岩波書店から刊行された。
藤井の妻喬子の妹が矢内原忠雄の最初の妻愛子である。従って矢内原忠雄は藤井の義弟ということになる。だが愛子は大正6年24歳で伊作、光雄をのこして夭逝する。
藤井喬子は大正11年に死去。その後、藤井 武は来世信仰に生きた。昭和5年3月の内村鑑三の死を追うようにして、7月に藤井も三男二女を遺して不帰の人となった。矢内原忠雄は神から委託されたものとして自分がこの5人の遺児の養育にあたろうと決意。遺児が成人になるまで面倒をみた。
昭和8年12月に鎌倉海岸で矢内原忠雄と二人の息子、藤井武の5人の遺児が写っている写真があるが、いっぺんに5人の子供が増えたようなもので、きょうだいのように仲良くしたと、矢内原伊作は「矢内原忠雄伝」に書いている。
藤井 武の死後、内村の門下生で級友の塚本虎二が藤井の著作を一に後人に伝える、二に遺された幼者達の急を救う、三に友人達の好意に応えることから一石三鳥の名案と考えた。そこで友人達の醵金によって藤井の全集を出し、その利益を遺児の養育費にあてればよいと考えた。
だが矢内原忠雄は気乗り薄であった。それは全集事業の極めて困難であること知っていたこととその動機が不純なことからであった。
二人は考え、全集のために全集を出す。ただ神の聖手に委ね、その聖書の下に真理の敵に対する戦いをこの全集によって戦おうと決心した。
全集予約数は或は三百、或は五百と予想せられた。併し矢内原らはこの予想が全く空虚であることに気が付いた。もはや数を予想しなかった。金銭上の損失が出来たら矢内原自ら背負い今後数年間の自分の労働をそのために担保としよう。このように決心したら、すべて朗らかに又軽らかになった。会費にかまわず紙もクロ−スもすべて良くした。出きるだけ良い全集を出そう、、、ただそれだけを思った。
そうして昭和6年1月に第一回配本が始まり、昭和7年1月に12巻の全集が完成した。当初の予想を上回って八百部が刊行された。
この全集のために矢内原は、金銭上の負担は負わずにすんだが、研究する時間を予想以上に無くしてしまった。週2日か3日割けばよいと思っていたのが、一ヶ月に自分の時間が4日か5日しかなくなってしまった。自分の学問が大幅に遅れることが苦痛であった。
全集編集中に矢内原の岳父(再婚の妻恵子の父親)危篤の電報を受けたが、校正のためどうしても臨終に間に合わなかった。そのことを矢内原忠雄は何という思わぬ犠牲だろうと回想している。