「小説 吉野秀雄先生」の光明寺

 「週刊新潮」の「男性自身」で小説を読まない読者にも知られていた山口 瞳が、生涯の師と仰いだ歌人、吉野秀雄と「鎌倉アカデミ−」での出会いから、死に至までを自分の青春と重ねあわせて書き記した師の鎮魂譜である。

「鎌倉アカデミ−」は、昭和21年の4月に材木座の光明寺に開校したユニ−クな学校であつた。将来は大学としての構想があったが、文部省から大学の認可が降りないまま、4年余で廃校になった。

 しかし教授陣は当時の錚々たる学者、作家、評論家がいた。その中に歌人の吉野秀雄が、万葉集を講じ、短歌の指導にあたった。そうした教授陣の中でも学生に抜群の人気があったのが、吉野秀雄であった。

 19歳の山口 瞳は入学当初歌を作って、吉野秀雄に添削、や批評して貰ったりしているうちに、自己の歌の才能に見切りをつける。同じアカデミ−の同級生の夏子とここで知り合いになり、恋愛の末、結婚したのが後の山口夫人である。夏子は当時18歳であった。

 吉野秀雄は山口 瞳に「恋愛をしなさい。恋愛をしなければ駄目ですよ。山口君、いいですか。恋をしなさい。交合(まぐわい)をしなさい。」「若くとも、貧しくとも、恋ぐらいすべし」と盛んに吹き込んだ。

 山口 瞳は妻子を捨てた父親と駆け落ちした母親の間に生まれた子であるが、家庭内での躾は厳格で、性に関して口に出して言うことはタブ−視されていた。山口 瞳は性に対して偏頗な考えから抜けきれなかっただけに、この天真爛漫で開放的な性を謳歌する歌人の真に立ち向かう姿勢に圧倒される。

 吉野秀雄は慶応大学在学中に結核に冒され、経済学を断念し、歌道に精進した。子供四人を残して死んだ夫人の後に、偶然に吉野家に家事の世話に来たのが、夭逝した不遇の詩人八木重吉の妻、とみ子である。その時肌身放さず持ち歩いていたのは、八木重吉の書いた詩のノ−トであった。

 とみ子と重吉の間に出来た二人の遺児も年若くして病死した。とみ子は自活しながら天涯孤独の身であったが、秀雄の兄の所で、とみ子の姪が働いていたことから、歌人吉野秀雄と巡り合うのである。経済的に潤沢とは言えない家庭で、献身的に家事に精を出して務める。とみ子がただ一心不乱に盥の中に洗濯板にごしごしやっている姿を秀雄は、斜めに見下ろしている時急に好きになったと言う。秀雄は「われに嬬(つま)子らには母のなき家にえにしはふかしきみ来りける」と詠んだ後に請われて吉野秀雄の妻になる。

 終戦後のインフレの中で、「鎌倉アカデミ−」の俸給が遅配になって来て、いつも生活は逼迫していた。「一皿の乾パンに水の昼飯は机のうへにすぐに済みたり」「食はんもの全く絶えしゆうべにて梅干一つしゃぶり水飲む」で分かるように清貧の生活であった。

 周囲の幸福を常に願って止まないとみ子ではあるが、まだ正式には吉野家の籍こそ入っていなかったけれど、娘との葛藤は避けられなかった。益荒男で知られた秀雄も、とみ子と娘の板挟みにほとほと音を上げて、或る時山口瞳の母親のところに哀訴する。

 気風のよい瞳の母親は、「人の妻傘と下駄もち夜時雨の駅に待てるをわれに妻なし、、、、、、そりゃ、あたしは泣きましたよ。泣いたけれどねえ、いつまでもあんな歌ばっかり作ってちゃいけない。第一ズルイよ。

それにね、とみ子さんが可哀相じゃないか。相聞でいきなさいよ。なんだい、男のくせに。ねえ、吉野先生、元気だしてちょうだいよ。あんたはねえ、日本の一番偉い歌詠みなんだ。歌詠みってのは男のなかの男なんだ。なんだい。泣いたりして、、、、、。え?吉野先生、なんだい。めそめそしやがって、、、なんだい、、、、」

 そう言う瞳の母親も泣き出してしまう。山口 瞳は長谷の家から、小町の吉野の家まで送り届けるが、途中で吉野が電柱に抱きつき、路上に寝てしまうと言う乱酔状態にてこずる。

 吉野秀雄は容貌魁偉、手も大きく、巨体で誰が見ても偉丈夫であるが、それでいて心根の優しい、柔らかな人であった。その前にいると春の日を浴びているかのようであったと、山口 瞳は書いている。

 家庭の不和にさらに追い討ちをかけるように、手術8回の長男の発狂事件が突発する。吉野秀雄は在学中に結核に冒され、その後も喘息、糖尿病、リュウマチと闘病生活に加えて、長男の病気と四面楚歌の中にあっても歌を詠い続けていった。

 会津八一に師事し、松岡静雄に古典を学んだ吉野秀雄が、世に広く知られるようになったのは昭和22年1月の雑誌「創元」創刊号に「短歌百余章」が発表された時に始まる。

 「創元」の実質的編集長の小林秀雄は、吉野秀雄の原稿を読むなり、当時八幡神社の脇の山上に住んでいたが、凄い勢いで山を降り、小町の吉野の家に駆け込んで絶賛した。その中の2、3首を上げれば、「おさな子の服のほころびを汝(な)は縫えへり幾日か後に死ぬとふものを」「病む妻の足頚にぎり昼寝する末の子みれば死なしめがたし」「おさな児の兄は弟をはげまして臨終(いまは)の母の脛さすりつつ」

 吉野秀雄が鎌倉アカデミ−で講義をしている時に、大学を卒業していないから、大学教授の資格がないと言い出す教授が出てきた。そして終には教授から講師に格下げされてしまった。そしてあらぬ噂が広まっていた。

 吉野秀雄はこうした理不尽、屈辱,妬心、讒謗を忍ぶために、ある夏の日に、光明時の裏山にとみ子と行き、学校を見下ろして思いっきり「バカヤロウ−。この大馬鹿やろう。」と叫んで鬱憤を晴らした。そしてまぐわってからもう一度ありったけの声を張り上げて「バカヤロ−」と叫んだ。

 吉野秀雄ととみ子は昭和22年10月22日に正式に自宅で結婚式をあげた。誓詞の代わりに歌を詠んだ。その一つ。「恥多きあるがままなるわれの身に添はむとぞいふいとしまざれや」その日は偶々八木重吉の祥月命日であった。

 山口 瞳は初めて結婚式に参列し、吉野秀雄の挿話を皆の前で披露し、近く自分も恋愛中の夏子と結婚する積もりだと言うことを公言する。

 結婚しても貧困は相変わらずであるが、とみ子の稀に見る優しい心は家庭生活に暖かみで包んだ。その様子は次の歌にも表れている「在り経つつ貧しかりとも朝な夕なやさしき妻が声は澄むなり」

昭和25年になると教授に月給が支給されなくなった。教授も一人去り、二人去り、学生が大量に退学していき、最後まで残ったのは三枝博音と吉野秀雄他数名であり、そして9月に廃校となった。

 「鎌倉アカデミ−」は正式には大学としての認可が得られずに終ったが、その後ここに学んだ学生の中からは、学界、映画界、音楽界、タレント等で活躍した者は少なくない。

 現代の大学もその濫觴は寺子屋であったものが、当時の政府や各方面の支援を受けて近代の大学に昇格していったものであるが、「鎌倉アカデミ−」の場合は、惜しいかな人材は揃っていても財源と文部省の認可が得られなかったことから、経営を続けていくことが出来なかった。しかし戦後の寺子屋式専門学校として「鎌倉アカデミ−」の名は逸することは出来ない。

 昭和27年に吉野秀雄ととみ子は、八木重吉の二十五周忌にその生家を訪れ、秀雄は墓前に捧げた。「重吉の妻なりしいまのわが妻よためらはずその墓に手を置け」「われのなき後ならめども妻しなば骨わけてここにも埋めやりたし」

 山口 瞳は二十歳前から、鉄火場に出入りし、賭博に血道をあげていたが、或る時汗水たらして働かなければいけないと自分に言い聞かせて、肉体労働を選ぶ。そして歌も学問も師の吉野秀雄とも離別する。資格のない学校にいつまでいても将来が開けないと判断して、「鎌倉アカデミ−」を去る。

 山口 瞳は国土社を振り出しに、いくつかの弱小出版社を転々とするが、最後にサントリ−の宣伝部に籍を置き、「婦人画報」に連載の「江分利満氏の優雅な生活」で直木賞を受賞する。

 山口 瞳は、晩年の吉野秀雄を世間に喧伝するのに尽力する。吉野秀雄は随筆をあまり書かなかったが、随筆「やわらかな心」は多くの読者に読まれた。吉野秀雄は病床にあって山口 瞳の書いたものを愛読し、山口の好意を徳とした。

 昭和37年から吉野秀雄は起きられない状態になり、昭和42年7月13日に死去した。そしてその一月前に吉野秀雄は、友人達の力添えで特選塾員として慶応大学の卒業者名簿に名がのることになった。それを聞いて病床の吉野秀雄は喜んだと言う。

 山口 瞳は嬉しいに違いないが、遅すぎたと言って「時の流れ」に対して恨みを述べている。そして吉野秀雄の脳裏には光明寺の教員室における屈辱的な事件が思い浮かんだであろう。それが悲しいと付け加えている。

 山口 瞳は生前吉野秀雄に関係した人々はすべて鬼籍に入られたと書いていたが、その山口 瞳も今は泉下でその仲間入りをしている。「小説吉野秀雄先生」によって吉野秀雄の実像が後世に残ることになった。山口 瞳は良き師に巡り合ったことは幸福であり、吉野秀雄は良き教え子を得たことは教師冥利に尽きよう。

 光明寺は毎年10月のお十夜には、名物の植木市で賑わうが、半世紀前の「鎌倉アカデミ−」の面影は何処にもない。当時の若い学徒も老境に入り、幽冥境を異にしている人も少なくない。

灯の数のふえて淋しき十夜かな(たかし)