反戦平和運動にたいする共産党の分裂策動の真相

 

「反戦平和でたたかった戦前共産党」史の偽造歪曲

 

(宮地作成)

 〔目次〕

     はじめに−「反戦平和のために一貫してたたかってきた共産党」説の真偽

   1、コミンテルンの社会ファシズム論と日本支部による左翼運動の分裂策動

   2、コミンテルンの対戦争方針と日本支部による反戦平和運動の分裂策動

   3、32年テーゼの天皇制の転覆・打倒という革命戦略と全協労組破壊結果

       1、コミンテルンによる日本支部への指令とその変化

       2、前衛党影響下の大衆団体実勢力とそこへの指令貫徹と内部破壊結果

       3、絶対主義的天皇制という規定の誤りとその打倒実践の誤り

   4、日本支部の国民からの孤立・遊離と転向・非転向問題の見方考え方

   5、考慮すべき点とそれを含めた結論

 

 〔関連ファイル〕        健一MENUに戻る

     『逆説の戦前日本共産党史』コミンテルン日本支部史のファイル多数

     田中真人HP『1930年代日本共産党史論』(あとがき)

     伊藤晃『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評

 

     『共産党は丸山眞男の何を、なぜ批判するのか』丸山批判関連のファイル多数

     『共産党の丸山批判・経過資料』

     『1930年代のコミンテルンと日本支部』志位報告の論理と丸山批判詭弁術

     丸山眞男『戦争責任論の盲点』(抜粋)

     宮本顕治『‘94新春インタビュー』『11中総冒頭発言』の丸山批判

     志位・不破『1994年第20回大会』の丸山批判

     共産党『日本共産党の七十年』丸山批判・党史公式評価

 

 はじめに−「反戦平和のために一貫してたたかってきた共産党」説の真偽

 

 日本共産党は「戦前から、反戦平和のために一貫してたたかってきた」と宣伝している。宮本・不破・志位・市田らは、あらゆる論文・報告・演説でそれを声高に繰り返している。表向きのスローガンはその通りである。「レーニン神話」に依存した「戦前の日本共産党神話」によって、その宣伝は、左翼勢力だけでなく、国民にも広く刷り込まれてきた。本当にそうなのか。1991年ソ連崩壊後、戦前のコミンテルン日本支部が裏側でしたことの真相はそのスローガンのであったことがさまざまな資料発掘によって証明されてきた。このファイルはその事実を3つのテーマで検証する。

 

 以下のデータは、別ファイル『1930年代のコミンテルンと日本支部』の一部を抜粋し、加筆・改定したものである。それは、宮本・不破・志位らによる丸山眞男批判に関し、志位報告の論理と丸山批判詭弁術を克明に解析したので、きわめて長文になった。よって、そこから、反戦平和運動にたいする戦前共産党の分裂策動テーマ部分だけを抜粋した。

 

 というのも、2006年以降、憲法改悪阻止国民運動における2つの市民団体、()「9条の会」と、()「平和共同候補実現運動−平和の風」にたいする日本共産党の分裂策動が容易ならざる障害に浮上してきた。それを除去する上で、共産党の分裂策動の歴史的経過を明らかにする必要があると考えたからである。

 

 丸山眞男は『戦争責任論の盲点』(岩波書店『思想』1956年3月号「思想の言葉」)において、「有効な反ファシズムおよび反帝闘争を組織しなかった理由に大胆率直な科学的検討を加えて、その結果を公表するのが至当である」として、そういう形での結果責任のとり方を提案した。

 

    丸山眞男『戦争責任論の盲点』(抜粋)

 

 それに対し、共産党は、戦争阻止闘争における戦略、方針についての決定的な誤りの存在を、丸山批判では一切認めなかった。それだけでなく、志位報告では、「真理をかかげてたたかった」として、当時のコミンテルン日本支部の方針は「真理」であったことを強調している。丸山批判部分で、あまり出てくるので数えてみたら、「真理」という言葉をそこで11回も使用している。

 

    志位・不破『1994年第20回大会』の丸山批判

 

 そして「真理はさまざまな客観的な政治的力関係のもとで、そのときどきの歴史的局面、断面で実らないこともある」とした。これは方針は正しくて、「真理」であったが、戦争阻止は「力関係」でできなかったという日本支部の外部的要因に原因を求める論理である。日本支部の内部的要因に根本原因はなかったとはたして言い切れるのか。その方針と活動実態は、本当に「真理」だったのか。

 

 以下、3点についての私見を述べる。コミンテルンの対日本支部方針のうち、3つの基本方針が根本的な誤りであり、それを機械的、教条的に実践した日本支部は、反ファシズムの統一行動を作り上げる点で、方針上でも、実践上でも決定的な誤りを犯し、戦争突入を許した面での明白な結果責任が存在すると考える。

 

 このファイルは、3つの文献を基礎資料としている。()、コミンテルン路線・方針とその変遷に関する部分は、加藤哲郎『コミンテルンの世界像』(青木書店、1991年)である。()、1930年代のコミンテルン日本支部の路線・方針については、田中真人『一九三〇年代日本共産党史論』(三一書房、1994年)と、渡部徹編『一九三〇年代日本共産主義運動史論』(三一書房、1981年)の2冊である。データの引用において、3資料のそれぞれが入り組んでいる。よって、一々引用ページ数を書かない。()、他にも、石堂清倫著書・論考における証言多数や、加藤哲郎の多くの著書・HPファイルも参考にした。

 

 

 1、コミンテルンの社会ファシズム論と日本支部による左翼運動の分裂策動

 

 これは反ファシズムでの統一行動、統一戦線の分裂、破壊方針と実践だった。コミンテルンでの経過と日本での実践を見る。

 第一、1927年、27年テーゼの中に、統一戦線戦術で、社会民主主義政党・運動を排除、攻撃するというセクト主義があった。日本支部はそれを教条的に実践した。

 

 第二、1928年、コミンテルン第六回大会は、社会民主主義主要打撃論を決定した。その内容は、社会民主主義政党および労働組合の改良主義的指導部は労働者階級内部での帝国主義の主柱であり、革命の最大の障害である。したがって革命の主敵であるとした。よって、日本支部による統一戦線運動の実態は、()軍部ファシストなどファシズムとの闘争ではなく、()社会民主主義政党、団体との闘争に収斂されていった。具体的には、左翼合法無産政党排撃、全ての社民組織の打倒・解体に邁進した。

 

 第三、1929年、コミンテルン第10回執行委員会は、社会ファシズム論を採択した。

 

 第四、1932年、32年テーゼは、社会ファシズム論を、対日本支部方針として定式化した。

 

 それらは、社会民主主義主要打撃論を土台として、その誤りをさらに拡大した。その内容は、強力な社会民主主義政党のある諸国におけるファシズムの特殊な形態は社会ファシズムであるとし、そこでの統一戦線戦術とは、大衆をめぐっての改良主義的、社会民主主義的諸組織との非妥協的な闘争であるとした。

 

 そして日本支部の実践は、「プロレタリアートの党は共産党唯一つ」であるとして、()既存の合法無産政党批判・攻撃だけでなく、()京都・労農大衆党など各地で共産党以外の無産合法政党が結成されることも批判・妨害し、左翼勢力の育成と統一を全力あげて破壊した。

 

 さらにコミンテルン日本支部は、これを機械的に大衆運動、戦争反対運動に持ち込んだ。その結果、政党次元の問題だけでなく、全協(日本労働組合全国協議会)、全農全会(全国農民組合全国会議)、共産主義青年同盟、日本反帝同盟(反帝国主義民族独立支持同盟日本支部、17の団体参加)、ナップなどすべての前衛党影響下の左翼大衆団体が、それぞれの階層、分野で対応する左翼社会民主主義的団体を、「主要敵」としてその排撃・解体のために全力あげて行動した。1932年、総同盟、全労、海員組合など9団体、28万人が、反ファシズムをスローガンとして結成した日本労働組合会議をも「主要敵」として攻撃した。

 

 もっとも、社会民主主義政党や団体も、左右対立の中で、日共系の団体に様々な攻撃をしてきた。これは1917年ロシア革命以来、全世界的に激しくなった社会主義運動の左右二潮流への分裂と対立による。具体的には、労働争議とともに、小作争議が頻発し、盛り上がった農民運動の中で、従来の日本農民組合を改組して、1928年、58000人規模で全国農民組合が結成された。その後、組合の政党支持問題をめぐって、左右対立が激化し、右派指導部が日共系左派幹部4名を除名し、12府県連合会の解散を命令する問題が起きた。

 

 それへの対応を契機に、左派は、1931年、「労農政党支持強制反対全農全国会議」、略称、「全農全会」を結成し、右派を「主要敵」の「社会ファシズム」として攻撃した。軍部ファシストに対する「反ファシズム」の統一行動がもっとも必要とされた、満州事変勃発の1931年に、左右分裂、相互攻撃は、こうして泥沼化していった。右派の側にも、その誤りや責任があるのは当然である。しかしコミンテルン日本支部系左派がかかげた上記基本方針の根本的誤りがそれで免責されるわけではない。

 

 日本支部の実践、その実態は、()軍部ファシストとの闘争よりも、()上記のような社会ファシズムとの闘争が最優先された。これは、反ファシズム、反戦平和の統一行動をわざわざ破壊し、前衛党の政治的孤立をもたらし、戦争突入を許す重要な要因となった。

 

 第五、1935年7月、コミンテルン第七回大会は、社会ファシズム論を見直し、反ファッショ人民戦線に転換した。これではじめて反ファシズムが第一義的課題となった。

 

 しかし、日本支部は、すでに1935年3月、袴田中央委員の検挙で壊滅していた。ただ、1934年以降、上記政策転換過程の途中で、日本の軍部ファシストが「主要敵」であると、コミンテルンがようやく設定した。しかし1933年12月宮本検挙、1934年1月スパイ査問事件での小畑死亡発覚で党中央は壊滅寸前の状態にあり、未検挙の中央委員は袴田、秋笹だけだった。よってその設定・転換指令が二人に伝達されたかどうかも不明である。

 

    立花隆『日本共産党の研究』関係『年表』一部、党中央崩壊直前の2年間

 

 日本支部の存在・活動期間は、1922年党創立から1935年党中央壊滅に至る13年間だけだった。したがって、軍部ファシストを「主要敵」とする反ファシズムを第一義的課題としてたたかったことは一度もない、というのが戦前日本共産党史の真相である。もちろん戦争反対スローガンは掲げていた。しかし、それも次に述べる特殊な対戦争方針の一つであり、あくまで第一義的課題は、社会民主主義政党と社会民主主義的労働組合、団体を「主要敵」とする社会ファシズムとの闘争と天皇制の転覆という革命課題を即時実践することだった。

 

 

 2、コミンテルンの対戦争方針と日本支部による反戦平和運動の分裂策動

 

 志位報告では、日本共産党は反戦平和の真理をかかげてたたかったと強調している。しかし当時の実践は「反戦平和」「反ファシズム」というスローガンを社会ファシズム側のものであるとして批判、全面否定した。そして以下の特殊な対戦争方針を「赤旗」(せっき)や街頭ビラで宣伝し、大衆組織にも持ち込んで、反戦平和運動、反ファシズム統一行動を破壊した。コミンテルンの方針およびその指令に基づいた日本支部の5方針と実践は次の内容である。

 

 〔第1方針〕社会ファシズム論に基づき、社会民主主義政党、改良主義的労働組合、その他の「反戦平和」をスローガンとした運動をすべて批判・排斥した。

 

 1929年8月、賀川豊彦らの全国非戦同盟を「平和主義」として批判し、また「一切の戦争に反対する」という社会民主主義的平和運動を、小ブル的運動と攻撃し、コミンテルン日本支部の運動との区別を強調した。

 

 1933年9月上海反戦大会が開催されることになった。これは1931年以来の日本の中国侵略への国際的、国内的反戦運動として、超党派的な幅広い運動となり、大きく盛り上がった。ロマン・ロラン、アンリ・バルビュスのよびかけが発せられ、国内でも加藤勘十、鈴木茂三郎が幹事となり、団体参加も広がった。コミンテルン日本支部は、「赤旗」などで当初はそれを好意的に報道し、代表派遣も呼びかけた。しかしその直前になって、社民排撃の立場から、一転してその大会を批判し、開催に反対し、反戦の統一行動を破壊した。

 

 〔第2方針〕、たんなる「反戦」否定し、「反帝」「帝国主義戦争の阻止」でなければならないとした。

 

 そのため1929年11月には、それまでの戦争反対同盟を、国際反帝同盟日本支部に改組した。

 田中真人同志社大学教授は『一九三〇年代日本共産党史論』の「日本反帝同盟の研究」において、様々な反戦運動、反帝運動と組織を当時の「赤旗」記事等で分析している。その上で「革命運動とはことなる独自の論理をもつ平和運動という認識は否定されるべきものとされ、それは絶対平和主義、ブルジョア平和主義、社会民主主義というような否定的レッテルがはりつけられた。たんなる「反戦」のスローガンはブルジョア平和主義的弱点をもつものといわれかねず、「反戦」から「反帝」への「質的飛躍」が強調された」としている。

 

 〔第3方針〕「反帝」「帝国主義戦争阻止」でたたかうが、いったん戦争に入ったら、ロシア革命のように、「戦争を内乱に転化せよ」というスローガンを掲げた。しかも、そのスローガンを大衆組織持ち込んだ

 

 そのためには軍隊を利用せよとして、召集令拒否という態度を批判した。また兵役拒否は社会民主主義者の小ブル的反戦闘争であるとして反対した。

 

 〔第4方針〕、帝国主義戦争反対の中に、「ソ同盟擁護」の方針を併立させて提起した。

 

 その内容は、日本帝国主義の反ソ戦争阻止、しかしいったん戦争になったら対ソ戦争を内乱へ転化せよ、というものである。これを重要課題として全協という労働組合にも掲げさせた

 さらにソ連の資本主義国への戦争は、肯定されるべき戦争であるとして、その勝利のために全力を尽くすという方針も打ち出していた。

 

 〔第5方針〕、民族解放運動の支援も当然入っていた。

 

 この方針を認めないものは、社会民主主義的平和運動であると区別し、排撃した。

 

 コミンテルン日本支部は、これら5つの方針を、1928年、コミンテルン第六回大会の「反帝国主義戦争テーゼ」における()反帝国主義戦争、()戦争の内乱転化と革命成就、()ソ同盟擁護を一体の内容とする方針と、()社会ファシズム論とを結合させて実践した。

 

 上記の方針は、全協の加盟労働組合すべて、全農全会、共産主義青年同盟、日本反帝同盟および前衛党影響下の全ての大衆組織に機械的に指令され、日本支部とその「補助組織」あげて実践した。「補助組織」とは、前衛党傘下の大衆組織のことでスターリン主義のベルト理論による「伝導帯」と呼ばれており、党の方針、指令は大衆組織という「ベルト」を通じて大衆にストレートに伝導され、実践されるものとされていた。

 

 コミンテルン日本支部とその「補助組織」が実践した、これらの対戦争方針は、一般的な「戦争反対」「反戦平和」方針とは、その性質が根本的に異なる。反帝国主義戦争とともに、いったん戦争に突入したら内乱に転化せよという一種の革命戦争肯定方針、革命方針なのである。日本支部とその党員、支持者が帝国主義戦争に反対して、もっとも勇敢に、権力の弾圧に屈せず、英雄的にたたかったのは明白な歴史の事実である。しかし上記のような特殊な方針、実践を「反戦平和の真理をかかげてたたかった」と、自分が排斥したスローガンに言いかえる、または抽象的に言いかえるのは、歴史の偽造、歪曲にほかならない。

 

 

 3、32年テーゼの天皇制の転覆・打倒という革命戦略と全協労組破壊結果

 

 〔小目次〕

   1、コミンテルンによる日本支部への指令とその変化

   2、前衛党影響下の大衆団体実勢力とそこへの指令貫徹と内部破壊結果

   3、絶対主義的天皇制という規定の誤りとその打倒実践の誤り

 

 1、コミンテルンによる日本支部への指令とその変化

 

 1935年党中央潰滅までの13年間、日本支部の革命戦略は、コミンテルンの5種類の革命類型論が変化したのにつれて動揺した。この変化と動揺は、スターリン粛清のコミンテルン幹部への広がりとも直接の関係があった。ただテーゼ決定過程では、日本支部側の意見も当然入っている。この5種類の革命類型論の変化や各国への類型適用のやり方については、加藤哲郎一橋大学教授が『コミンテルンの世界像』(青木書店、1991年)で詳細な分析をしている。

 

 (1)、1927年27年テーゼは、日本支部の任務として、君主制の掃蕩をふくむブルジョア民主主義革命から、強行的速度をもって社会主義革命へ転化せよと指示した。

 

 (2)、1931年31年政治テーゼ草案では、それが「ブルジョア民主主義的任務を広範に包含するプロレタリア革命」とされ、天皇制との闘争は、第二義的課題とされた。

 

 ()、1932年32年テーゼは、ふたたび二段階革命論にもどり、天皇制との闘争を第一義的課題とした。それは権力構造の分析というたんなる理論問題ではなかった。それは「日本における革命情勢の切迫、革命的高揚がある」という日本情勢の主観主義的評価に基づき、「天皇制の転覆・打倒、ブルジョア民主主義革命による天皇制廃止の労働者、農民のソヴェート政権樹立」を即時実践の革命課題として、コミンテルンが指令したものである。

 

 コミンテルン日本支部は、革命は近い、として全力を挙げて取り組んだ。宣伝だけでなく、天皇制打倒行動大衆を決起させようとした。

 

 2、前衛党影響下の大衆団体勢力とそこへの指令貫徹と内部破壊結果

 

 日本支部は、前衛党影響下の赤色労働組合協議会である全協にも、()上述の「ソ同盟擁護」というスローガンとともに、()「天皇制打倒」を労働組合行動綱領に採択させるという暴挙まで行った。

 

 党員でもある全協幹部のほとんどが、労働組合がこのような革命実践課題を組合綱領に掲げるのは誤りであると、この採択に強く反対していた。しかし党中央は裏工作で党員幹部の切り崩しを行い、1932年9月第一回中央委員会において、一票差の票決で、強引に決議させた。

 

 全協は、1932年、32000人の組合員を擁し、左翼勢力では最も強力で、戦闘的な労働組合だった。全協は、この行動綱領を理由として、治安維持法取り締まり団体とされた。1933年一年間で、4500名以上の幹部、活動家検挙され、そのうち512名起訴された。1934年には219名起訴され、組織的に崩壊していった。治安維持法は悪法である。しかし天皇制打倒綱領とは、国体の変更を綱領とすることであり、その団体は、取り締まり団体とされ、完全非合法となり、幹部全員が検挙対象となることは自明のことだった。

 

 全協内の()共産党員は非合法で、()労働組合は合法という半非合法状態だった。そこから、国体の変更を目指す組織になったとして、()労働組合そのものが完全非合法になった。全協の崩壊は、日本支部の誤った方針持込みによって、共産党が内部破壊させた結果と規定できる。

 

 1931年当時、労働・農民運動の状況は、どうだったのか。

 ()労働組合は、818で、368,975人、組織率7.9%、同盟罷業864件で、参加人員54,515人だった。

 ()農民組合は、4,414で、306,301人、小作争議3,419件、参加人員81,135人という広がり具合だった。

 ()兵士の中での運動については、1932年7月から3カ月間、呉海兵団で党員3名の細胞が存続し、機関紙「聳ゆるマスト」を6号まで発行し、党員、同調者5名、一年前までの水兵5名、計10名という規模だった。軍隊内での党細胞は、呉海兵団以外になく、兵士への手がかりもわずかだった。

 

 コミンテルン日本支部は、それらの状況にたいして、コミンテルンの主観主義的情勢評価指令ともあわせて、「労働者、農民、兵士は革命化しており、日本は革命前夜の情勢にある」という根本的に誤った情勢判断を下した。そして「天皇制打倒」の革命スローガン・方針を労働組合に押しつけ、国家権力に弾圧の口実をみすみす与えるという形で、最大の大衆組織を自らの誤りによって崩壊させた。

 

 3、絶対主義的天皇制という規定の誤りとその打倒実践の誤り

 

 高橋彦博法政大学教授は、『日本国憲法体制の形成』(青木書店)において、帝国憲法から日本国憲法への変化を政治史として様々な角度から分析している。その「結び」で、「そもそも戦間期日本において、コミンテルンの三二年テーゼがいう「天皇制の転覆」が政治日程化され、政治争点化された瞬間がなかったのであり、天皇制との対決を帰結する構造分析のあれこれは、コミンテルン型左翼特有の経済分析としてしか評価されていなかったのである」としている。

 

 絶対主義的天皇制という日本の権力構造の分析が、たんなる理論問題、経済分析として使用されるだけなら、政治的力関係には直接の影響はない。しかしその打倒と天皇制廃止による労働者、農民のソヴェート政権樹立という革命への決起が、第一義的実践課題となると、これは文字通りの、日本の現実から遊離した、主観的で極左的な方針と実践だった。

 

 日本共産党は、従来から、「天皇制とたたかった唯一の党」と自己主張してきた。確かに、たたかったのは事実である。しかし、その方針の性質は極左的なものであり、実践の実態は上記のように、重大な損害・内部破壊をもたらした。それは、根本的に誤ったものであり、「真理」とはとうてい言えない。

 

 この方針・実践が、いかに現実から遊離したものであったかは、合法政党となった現在の日本共産党の対天皇制方針からもわかる。「週刊金曜日」(1997.10.24号)で、高橋彦博は、「共産党はどこまで伸びるのか」の中で、志位書記局長が憲法50周年記念日に天皇制廃止を「今日の政治的要求とする考えをとっていない」「それは横に置いて…」と発言したことへの、一党員の批判を紹介し、共産党の「済し崩し」型原理転換方式を指摘している。そして「体制内改革を採用した日本共産党にとって、コミンテルン型戦略としての天皇制転覆(三二年テーゼ)を撤回する作業が避けられない課題となった」として、現在の共産党による天皇制反対スローガンのなし崩し的隠蔽作業をさらに検討している。

 

 上記の方針と実践については、1930年代のコミンテルンと日本支部との関係の実態を踏まえて、検討することが必要である。

 コミンテルンは、単一の国際政党だった。レーニン死後のスターリン恐怖政治下で、かつソ連邦共産党が実質的な唯一指導政党だった。コミンテルンと日本支部とは、鉄の規律の民主主義的中央集権制、実態としては暴力革命路線による軍隊的な上級下級関係にあった。よって、これら3つの方針の即時、無条件実践を義務づけられる隷従関係にあった。

 

 具体的には、1927年、27年テーゼ作成とあわせて、コミンテルンが、福本・徳田・佐野の中央委員罷免、山本・国領の新中央委員選任を日本支部に指示するという関係にあった。また加藤哲郎一橋大学教授の「日本人のスターリン粛清」や加藤著書「モスクワで粛清された日本人たち」(青木書店、1994年)にあるように、山本懸三・国埼定洞・杉本良吉銃殺をはじめ、数十人におよぶモスクワ在住の日本人党員・支持者のほとんどが、スターリンとコミンテルンによって粛清されたという関係にあった。旧ソ連秘密文書など記録による粛清確認者は28人で、内銃殺15名、強制収容所5名、国外追放3名、逮捕後行方不明4名、釈放1名(野坂竜)だった。

 

    加藤哲郎『「日本共産党の70年」と日本人のスターリン粛清』 加藤HP

 

 日本人の粛清について、藤井一行富山大学教授も、野坂参三夫人竜のモスクワでの逮捕問題をはじめとして、詳細な研究をしている。さらには、党中央の誤った指導への批判活動として、形成された、1934年の多数派問題に対して、コミンテルンは党中央壊滅寸前の日本支部の党内状況を正確に把握していないのに、分派であると断定し、その解散を指令するという根本的に誤った決定をした。この多数派問題は、1930年代党史上ではきわめて重要な問題をふくんでいる。ここではこれ以上触れないが、とりあえず、それに言及した埴谷雄高氏の一文を載せた。

 

    埴谷雄高『「一九三〇年代日本共産党私史、宮内勇著」(おくがき)

 

 私が、戦前の前衛党を、「日本共産党」といわずに、あえて「コミンテルン日本支部」という用語を使っているのは、上記の理由からである。現在の日本共産党と戦前のDemocratic Centralism下の世界政党一支部とは、政党としての性格が決定的に異なるからである。だからといって、日本支部の3つの方針、実践の誤りが、コミンテルンの方針そのものが根本的に誤っていたということで免責されるものではない。

 

 これらの方針は、理論問題ではなく、即時無条件実践の運動方針だった。コミンテルン日本支部は、それらを絶対服従の義務、任務として、自らの宣伝、組織活動だけでなく、全協をはじめとする前衛党影響下のすべての大衆組織にもその無条件実践を指示した。それは、()大衆組織への特高による破壊とともに、()誤った方針の押し付けによる内部崩壊という結果をもたらした。

 

 

 4、日本支部の国民からの孤立・遊離と転向・非転向問題の見方考え方

 

 それによって、日本支部の特殊な反戦平和運動は、国民からまったく孤立し、遊離した。社会ファシズム論の実践によって一般的な反戦運動とも断絶し、国民的な反戦平和運動を分裂させた。前衛党傘下の大衆運動も自らの誤りで崩壊させた。

 

 党自体も、この誤った方針についていけない党員の大量転向を生み出し、内部崩壊していった。1933年6月以降に発生した転向の雪崩現象をどう考えたらいいのか。その中には、いわゆる裏切り、変節も当然あった。しかし大部分は、特高による検挙、拷問や治安維持法に基づく起訴の下とはいえ、根本的に誤った方針をかかげた運動体からの正常な離脱といえるものとして見直す必要がある。

 

    『転向・非転向の新しい見方考え方』戦前党員2300人の分析

    石堂清倫『「転向」再論−中野重治の場合』

 

 宮本顕治は、1994年、11中総冒頭発言で、「党から脱落したりあるいは変節したような連中が、丸山眞男の天皇制論を持ってきて、いまだに自分たちの合理化をやっている…」と発言した。宮本顕治や現在の党中央は、折にふれて、党を離れた者転向者「脱落者」「変節者」呼ばわりしている。宮本顕治が、拷問にも屈せず、非転向を貫いたのは、個人としては立派で、英雄的である。尊敬に値することである。自分の12年間の非転向・獄中生活を誇りにし、転向か非転向かを当時の人物評価の価値基準とすることは理解できないわけではない。

 

    共産党『宮本顕治の11中総冒頭発言』

 

 しかし全協関係検挙された4500人起訴された512人の党員、活動家たちや、その他多数が活動から離脱した原因の大きな部分が、あるいは心ならずも転向した原因の一つが、宮本顕治をはじめとする党中央の根本的に誤った上記方針、実践指令にあるとしたら、その人達に「党から脱落したりあるいは変節した連中」という言葉を投げつけるというのは、当時の最高指導者として、また一人の人間としても許されることか。

 

 戦前党員2300人中、非転向党員数十人しかいなかった。戦後、非転向幹部たちは、転向党員軽蔑し、差別した。転向に関する自己批判を強要したりした。転向・非転向問題は、戦後の党中央人事面においても陰湿な形で残存し続けた。宮本顕治は、その傾向がとくに強かった。ヨーロッパの共産党は、戦時中、獄中に永くいた幹部について、その勇気を高く評価しつつも、国民感覚からの長期遊離を理由として、共産党トップクラスに据えなかった。日本共産党は、まったくそので、獄中12年から18年幹部が当然のように、党中央トップを占拠した。

 

 そもそも、非転向の性質そのものも、コミンテルン方針の根本的な誤りが証明された時点で問い直す必要がある。彼らは勇敢で、英雄的だったことが基本評価である。しかし、その党活動スタイルは、100%地下活動であり、一般国民との直接接触は皆無だった。数十人以外の2300人の共産党員は、職場・農村において、コミンテルンの誤った上記3方針を国民に持ち込む中で、かつ、国民の賛同を得られない過程で、3方針の誤りにいやでも気付かされた。それら誤った路線・方針からの正常な離脱が、不幸にも転向という形態をとらざるを得なかったと見ることができないのだろうか。

 

 それにたいし、国民との接触が皆無の数十人は、地下から指令を出し、街頭連絡のみに限定された行動において、スターリン崇拝・コミンテルン信仰状態で、3方針の誤りに気付くどころか、それらを「真理」と信じていた。獄中12年から18年の期間においても、その「真理」性になんの疑いも抱かなかった。戦後、釈放された時点以降、ソ中両党隷従関係の日本共産党においても、その信念を貫いた。宮本顕治が、当時のコミンテルン方針の誤りを、「社会ファシズム」論など一部表面的にせよ、初めて認めたのは、『日本共産党の七〇年』(1994年)だった。もちろん、獄中12年の彼は、「日本共産党の戦争責任論の盲点=戦争突入を許した結果責任」を感情的に拒絶し、丸山眞男批判大キャンペーンで報復した。

 

 戦争突入か阻止かという1930年代の一大政治決戦において、()コミンテルン日本支部は「真理を掲げてたたかった」のではなく、()誤った方針を掲げてたたかい、()反ファシズム、および反戦平和運動の統一行動を分裂させ、()運動を内部崩壊させ、()戦争突入を許した

 

 これが、共産党の戦争責任論=結果責任に対する私の結論である。厳しい評価のようであるが、具体事例に基づく歴史的事実として認めることが必要だと考える。

 

 

 5、考慮すべき点とそれを含めた結論

 

 ただし、ここには考慮すべき点もある。

 第一特高、治安維持法など国家権力による弾圧の激しさと、その権力と前衛党との力関係である。相次ぐ検挙によって、党中央委員会は、13年の間に4回壊滅させられ、活動は断絶した。埴谷雄高はその状況について、リアルに、かつ文学的に表現している。党員の90%一年以下の活動期間しか持っていなかったことも警保局資料で明らかになっている。それでは高度な理論武装や活動技術を身につけることも困難だった。

 

    埴谷雄高『「一九三〇年代日本共産党私史、宮内勇著」(おくがき)

 

 第二、丸山眞男も認めているように、「非転向コンミュニストが…あらゆる弾圧と迫害に堪えてファシズムと戦争に抗してきた勇気と節操」である。また非転向者のみでなく、上記の原因で転向したり、離脱した大部分の党員たちも、その生命と青春をかけてたたかった。その転向者をふくめた個々人の奮闘は、1930年代の輝かしい記録となる。

 

 第三、現在の日本共産党は、「日本共産党の七〇年」で、断片的、または理論面だけであるが、その時点の誤りを認めている。27年テーゼでのセクト主義や、社会ファシズム論の理論的誤り全協に天皇制打倒の綱領を採択させた理論上の誤りなどである。

 

 この3点を考慮に入れても、上記の方針、実践に決定的な誤りがあり、その誤りと戦争突入を許したことに因果関係があるということは解消できない。

 

 方針上、実践上の根本的な誤りがあるのに、それを一切認めないだけでなく、それらを「真理」だと言い張るのは、まさに歴史の偽造歪曲に基づく強弁である。それは同時に、明白な誤りに対する無責任体質でもある。共産党は、都合が悪くなると、よくこの強弁を使って、問答無用の無責任な態度をとる。

 

 1989年、東欧革命時点では、ルーマニア問題があった。宮本顕治は2回もルーマニアを訪問し、チャウシェスク賛美ルーマニア賛美の共同声明を発表した。東欧革命後に、著名人をふくむ党内外多数から、その誤りの指摘、強い批判が出された。それに対し、共産党は、誤りの存在を一切認めず、宮本顕治の個人責任もとらず、それらは当時では正しかったという強弁を押し通した。ここにも共産党の結果責任をとらない無責任体質が明白に表れている。加藤哲郎一橋大学教授「日本共産党への手紙」で、および加藤教授の「東欧革命と社会主義」(花伝社)「あとがき」で、その強弁の内容が分析されている。

 

    加藤哲郎『科学的真理の審問官ではなく、社会的弱者の護民官に』

    いわなやすのり『チャウシェスク問題での宮本顕治批判』元赤旗ブカレスト特派員の告発

 

 こういった強弁も、共産党がよく使用する詭弁術の一つである。

 

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 〔関連ファイル〕

     『逆説の戦前日本共産党史』コミンテルン日本支部史のファイル多数

     田中真人HP『1930年代日本共産党史論』(あとがき)

     伊藤晃『田中真人著「1930年代日本共産党史論」』書評

 

     『共産党は丸山眞男の何を、なぜ批判するのか』丸山批判関連のファイル多数

     『共産党の丸山批判・経過資料』

     『1930年代のコミンテルンと日本支部』志位報告の論理と丸山批判詭弁術

     丸山眞男『戦争責任論の盲点』(抜粋)

     宮本顕治『‘94新春インタビュー』『11中総冒頭発言』の丸山批判

     志位・不破『1994年第20回大会』の丸山批判

     共産党『日本共産党の七十年』丸山批判・党史公式評価