もののけ姫

 取り合えず感想文その1をUPしました。この後、もう少し何か書き足すかも知れませんが、今のところは未定です。
感想文・もののけ姫

 『もののけ姫』の映画を見て、最初に感じたのは違和感でした。なにかひっかりりがあるような、なにか納得がいかないような……。
で、その理由も漠然と判っていたような気がします。たぶん、私が事前に頭の中で抱いていたイメージ、それに合致していなかったんですよね。
 見る前にはアニメ雑誌等も殆ど買わず前知識は極力いれないようにしていました。余計な情報は排除して素直な気持ちで見れるように……。宮崎アニメとなると雑誌等でもかなり大々的に取り上げられますし、ストーリーがある程度でも判ってしまうことにより、実際に見ての感動が薄れてしまうことを恐れるからです。
 しかしそれでもある程度の情報は入ってきます。ポスターの絵、『風の谷のナウシカ』から13年、というキャッチコピー、自然と人間との対立と共生、森の神々……。それらのものが素直な目で見ることの妨げになってしまったようです。
 そもそもこの映画の主人公はもののけ姫であるサンだと思い込んでいたんですよね。しかし実際にはアシタカが主人公だったようです。これも違和感の原因になってしまったようですね。アシタカはアスベルと同じ声優さんがやるとの話でしたので、漠然とアスベル的なサブキャラになるのかと思ってましたし……。これはやはりタイトルは『アシタカせっ記』とした方が誤解を招かずによかったかも知れません。

 サンの容姿、これも違和感の大きな原因となりました。ポスターで見るとどうしてもナウシカを連想してしまうような姿形をしていました。で、サンがナウシカのような役割を果たすキャラクターであると、頭の中で勝手に決め付けてしまったんですね。実際に『もののけ姫』の映画中でのサンはナウシカと共通点がない訳ではありませんが、かなり違ったキャラでした。ナウシカと比べると随分幼い印象ですし、自分たちの置かれている世界に対する確かな認識を持っている訳ではありません。サンの行動原理は自分の所属している共同体を守りたいという、それがメインであり世界の運命をその肩に背負っている訳ではありません。
 ナウシカは風の谷の族長の娘として生まれ、父の後を継いで谷を背負って立たなくてはならない立場です。更に腐海に頻繁に足を踏み込み腐海の持つ役割についても、独自の認識を持っています。より広い視野で腐海と人間との関係を考えているキャラでした。サンにはそんな広い視野はありません。完全に自然の側に属しているキャラであり、自分の所属している共同体の主張を体現するようなキャラでした。
 どちらかというとアシタカの方が森の言い分にも人間の言い分にも理解を持つことが出来るという意味でナウシカに近い存在だったかも知れません。
 それならいっそのことサンは牙でも生やしてもっと恐ろしい、言葉通りの魔物か野獣のような異形の姿をした娘にしてしまった方がよかったかも知れません。でも普通の人間には魔物に見えるサンがアシタカだけは曇りのない目でその本質を見定める……、とかね。その方が「そなたは美しい。」と言ったアシタカの言葉が生きたんじゃないかという気がします。
 タタラ場の人々もサンを“もののけ姫”などと呼んで恐れていましたが、そういう恐れられる存在である筈のサンがあんなかわいい顔をしていてはいけません。それともタタラ場の人たちはお面をつけたサンしか知らないのでしょう……?

 自然と人間の対立に関しても映画を一回見ただけではちょっと判りにくかったように思います。映画を見て、パンフレットを読んで、それでやっと、あ、こういうことだったのか、と、考えさせられるような……、やや難解だったのではないでしょうか。
 勿論、このような難しいテーマを中心に据えた映画だったということである程度仕方がない面はあったのかも知れませんが……。
 太古の森に対する怖れのようなものもはっきりとは伝わってきませんでした。美しい森というイメージは出て来ましたが、恐ろしい森という感じはなかったように思います。アシタカに助けられた甲六たちはコダマを怖がっていましたが、映画を見てる立場からすると別に“怖い”という感じはなかったですし……。
 『風の谷のナウシカ』の場合は腐海とそこに住む巨大な蟲たちという特殊な環境に置き換えられていた為に、テーマそのものは多少オブラートに包まれていましたが、恐ろしい森、しかし重要な意味を持つ森という点が、かえって判りやすく描かれていたという面はあるかも知れません。

 森の神々に王蟲のような崇高さを感じることが出来なかったのも私にとってはマイナス要因でした。猪神たちの突進は王蟲の暴走を連想させるシーンだった、というような感想を持つ人もおられるかも知れませんが、猪神たちは殆どなんの抵抗も出来ずにあっという間に全滅させられてしまいます。あの呆気なさは一体なんなのでしょう? “一体、あいつらなにしに出て来たんだ?”という気分にさせられてしまいます。
 簡単に殺されたと言えばシシ神もそうですよね。一応、シシ神は他の獣神とは別格の存在として描かれていたようですが、描写の仕方がちょっとわざとらしすぎて、しっくりと受け入れることが出来ませんでした。
 その崇高な存在である筈のシシ神もエボシの放った一発の石火矢の銃弾で首を飛ばされてしまいます。そしてその後の暴走はなんだか気味が悪くてえげつないという印象になってしまって、どうも崇高な神というイメージとは程遠かったように思います。  比喩的に環境問題を表現しようとしたものだろうと、あとから考えればそのように解釈することは出来ましたが、映画を見ている時にはなんだかやっぱり違和感が心の中で疼いていました。

 映像や美術に関しては確かに凄かったです。森の描写、タタリ神の動き、技術的には凄いんだと思います。唯、私にとってはこういう技術的なことってのは二の次なんですね。勿論、映像のレベルが高いに越したことはないんですが、それらは表現する為の手段であって目的ではありません。
 結局、そういう意味で“凄い”はあっても“面白い”と感じるような作品ではなかった……、私にとってのこの映画を見ての印象はそういうところに落ち着いてしまった感じですね。

 なんだかこの感想は殆どが『風の谷のナウシカ』との比較みたいな感じになってしまいましたが、やはりこの映画はナウシカを意識したくなるようなものだったのだと思います。そして個人的な印象としてはナウシカを超えられなかったという感想を抱いてしまったのでしょう。しかしナウシカを知らなければどのような感想を持っていたか、これはちょっと私には判断がつきかねます。そもそも『風の谷のナウシカ』という映画&コミックは私の心の中ではかなり大きな位置を占めている作品でしたし、同じようなテーマを持つ、同じ作家の作品ということで、どうしてもナウシカを基本に置いた感想になってしまったということでしょうね。

 最後におちゃらけた疑問をもう一つ。なんでサンは服を着てるんでしょう? 犬神に育てられたサンが服を着てるなんておかしいです。実在の狼少年、少女は服なんか来てませんでしたよね。勿論、『もののけ姫』の設定ではサンを育てたモロの君は唯の獣ではない、かなり高い知性を持った犬神ですので、そういう知識をサンに授けることが出来たという解釈は出来ますが、サンは人間を強く憎んでいる筈です。そのサンが人間の文化の真似なんかしちゃいけません。そう思いますよねぇ?(^_^;)

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