[トップページ] [平成10年下期一覧][人物探訪][210.755 大東亜戦争:アジア解放][224 インドネシア]
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_/_/   Japan On the Globe 国際派日本人養成講座(45)
_/_/            平成10年7月19日 発行部数:2,636
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_/_/      人物探訪:「責任の人」今村均将軍(上)
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_/_/           ■ 目 次 ■
_/_/      1.責任をとるとは
_/_/      2.あなた方と日本人とは兄弟です
_/_/      3.住民愛護の軍政方針
_/_/      4.マッカーサーを諦めさせた堅固な要塞
_/_/      5.敗戦後のご奉公
_/_/      6.祖国の復興に役立つ社会人とするために
_/_/      7.新たな戦い
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■1.責任をとるとは■

 今村均将軍は、まさに徹頭徹尾、見事に自らの責任を果たした人
である。インドネシアでは、民族独立を目指すスカルノとの友情を
貫き、ラバウルでは陸軍7万人の兵を統率して、米軍の攻撃をもの
ともせずに、玉砕も飢えもさせずに敗戦まで持ちこたえ、無事に帰
国させた。

 戦犯として捕まった部下を救うために、自ら最高責任者として収
容所に乗り込み、一人でも多くの部下を救うべく奮闘した。帰国後
は、部下や、遺族の生活のために奔走した。その姿はマッカーサー
をも感動させたのである。政治家や官僚、企業経営者の責任が問わ
れる今、責任をとるとはどういうことか、今村将軍の生涯を振り返
りつつ、考えてみたい。

■2.あなた方と日本人とは兄弟です■

 昭和17年3月1日、今村中将は約4万の兵を率いて、ジャワに
上陸、わずか9日間の戦闘で、10万のオランダ・イギリス軍を降
伏させた。これは現地人の絶大な協力の賜である。

 たとえば、敵軍は退却時に、舗装道路の両側や中央線に植えられ
たタマリンドという喬木を切り倒して、日本軍の前進を阻んだ。そ
こに多数の現地人が現れて、木を取り除くのを助けてくれた。休憩
時には椰子の実をふるまってくれた。

 そのうちに、長老らしき人物が現れ、今村に言った。

     この国では何百年も昔から「いつか北方から同じ人種が来て、
    我々の自由を取り戻してくれる」と語り伝えられていますが、
    あなた方は同じ人種でしょうか。

 今村は答えた。

     われわれ日本民族の祖先の中には、この国から船で日本に渡
    ってきた人々もいるのです。あなた方と日本人とは兄弟です。 
    我々はあなた方に自由を得させるために、オランダ軍と戦うの
    です。[1,p260]

 ジャワ占領後、現地人から独立の闘士スカルノを獄から救出して
欲しい、という多数の嘆願書を受けた今村は、スカルノと会い、戦
争終結後インドネシアがどのような状態になるかは、日本政府とこ
の国の指導者階級とが決めるべき事で、自分の権限外だが、自分の
軍政中は、オランダ統治時代よりもよりよい政治と福祉を約束した。
スカルノは今村の言葉を信じ、協力を誓った。

■3.住民愛護の軍政方針■

 今村の軍政方針は、自身が起案した「戦陣訓」の「皇軍の本義に
鑑み、仁恕の心能(よ)く無辜(むこ、罪のない)の住民を愛護す
べし」に則ったものであった。

 たとえば、敵が破壊した石油精製施設の復旧に、民衆は全力を挙
げて日本軍に協力した。今村は石油価格をオランダ時代の半額とし、
民衆は石油が安く使えると喜んだ。

 また日本では衣料が不足して配給制となり、ジャワで生産される
白木綿の大量輸入を申し入れてきた。しかし、白木綿を取り上げた
ら、現地人の日常生活を圧迫し、さらに死者を白木綿で包んで埋葬
する彼らの宗教心まで傷つける、と今村は考えて、日本政府の要求
を拒んだ。

 今村の融和的な方針は、強圧的な軍政を行うシンガポールの日本
軍幹部などから批判を浴びた。しかしその実情を調べに来た政府高
官達、軍幹部は、「原住民は全く日本人に親しみをよせ、オランダ
人は敵対を断念し、華僑に至っては日本人に迎合これつとめてお
り」、あるいは、「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調達におい
て、ジャワの成果がずばぬけて良い」などと報告して、今村の軍政
を賞賛した。[1,p290]

■4.マッカーサーを諦めさせた堅固な要塞■

 8ヶ月のジャワでの軍政の後、昭和17年11月、今村は第8方
面軍司令官としてラバウルに向かった。ラバウルはニューギニア島
の東のニューブリテン島にある軍港である。ミッドウェー海戦の敗
北を契機に、米軍は反攻を始め、いずれここが戦場となる運命であ
った。

 今村は日本からの海上補給はいつまでも続かないと判断し、現地
で自活しつつ、持久戦を展開する方針を立てた。国内から農事指導
班、農具修理班を呼び、陸稲や野菜の種子を持ち込み、中国人、イ
ンド人、インドネシア人などの労務者4千人を集めた。今村自ら率
先して開墾作業に従事し、昭和20年には一人あたり200坪の耕
地面積を開墾して、陸軍将兵7万人の完全な自給自足体制ができあ
がった。[1,p385]

 昭和18年10月からは、連日400機以上の大編隊の空襲にさ
らされる。今村は空襲に耐えうる地下大要塞の建設に着手する。完
成したのは、幅1.5m、高さ2.1mの洞窟で、もし一列に並べれ
ば、370kmもの長さになる。15センチ砲までも地下に格納さ
れ、レールで移動できるようにされた。合計5500人もの収容能
力のある病院も洞窟内に作られた。昭和20年に入ってからも、猛
爆撃が続いたが、地下要塞内では、ほとんど被害を受けなくなった。 
[1,p350]

 マッカーサーの参謀達は、「現有勢力で、このような堅固な敵陣
地をどうしたら、占領できるか、見当がつかない」と投げ出した。 
マッカーサーは「そんな堅固な所は、占領しないことにしようじゃ
ないか」と言い、空爆を続けるだけで、迂回して侵攻を続けたので
ある。[1,p348]

■5.敗戦後のご奉公■

 昭和20年8月16日、今村は電報で受け取った終戦の詔書を、
部隊長ら約60名に読んで聞かせ、別辞を述べた。

     諸君よ、どうか部下の若人たちが、失望、落胆しないよう導
    いてくれ給え。7万の将兵が汗とあぶらとでこのような地下要
    塞を建設し、原始密林を拓いて7千町歩の自活農園までつくっ
    た。この経験、この自信を終始忘れずに祖国の復興、各自の発
    展に活用するよう促してもらいたい。

 敗戦のどさくさで、耕地のことなど忘れていた将兵に、すかさず
今村から新しい指令が出た。

     ラバウル将兵は今後も現地自活を続け、将来日本が賠償すべ
    き金額を幾分なりとも軽減することをはかる。これは我々の外
    地における最後のご奉公である。

 今更、自活でもあるまい、という気持ちもあったが、黙々と畑に
立つ今村の姿を見ては、誰も何も言えなかった。[1,p397]

■6.祖国の復興に役立つ社会人とするために■

 そのうちに、日本政府の海外部隊引き揚げの案が、ラジオのニュ
ースで伝わってきた。ラバウル部隊の引き揚げ完了は、なんと3年
半後の昭和24年春になるという。

 この3年半を兵士らの教育に使おうと今村は考えた。規律ある生
活を維持するためには、目標が必要である。また帰国後も生計を立
て、祖国の復興に役立つ社会人となってもらうためには、兵士たち
の知識、教養面の低さが障害になると考えた。兵の多くは小学校卒
であり、差し当たり中学程度の学識を与える事を目標にした。

 軍の中の教職経験者を集めて、英語や数学などの教師とし、教科
書も作成させた。和歌や俳句、漢詩などの教養講座も設けた。さら
に「かがみ」という謄写版刷り60頁もの雑誌を発行し、将兵の創
作した小説や和歌、俳句、世界情勢解説や英語講座などを掲載した。

 当時、将兵たちはオーストラリア軍の捕虜となり、無報酬で作業
をさせられていた。これは明確な国際法違反なのだが、将兵たちは
不満も忘れて、作業の合間に教科書や雑誌に読みふけった。
[1,p402]

 海の外(と)の陸(くが)に小島に残る民の上安かれとただ祈るなり

 海外に残された居留民や将兵らの安危を一心に気づかわれた昭和
天皇の御歌であるが、これはまた肉親の無事の帰還をただに祈る国
民の気持ちでもあった。今村は、7万人の将として、自らその祈り
に応えていたのである。

■7.新たな戦い■

 こうした今村の配慮が効を奏し、将兵たちは規律を維持したまま、
帰国を待つ生活を続けていたのだが、昭和20年12月5日、暗い
ニュースが伝わった。高屋大佐をはじめ69名が戦争犯罪容疑者と
して指名され、収容されたのだった。

 オーストラリア軍の師団長イーサー少将は、ラバウルでの戦争犯
罪について、すでに調査を終え、本国政府に「ラバウル方面には、
戦争犯罪をもって問うべきものはない」と報告していた。日本軍の
対空砲火で撃墜され、パラシュートで脱出したパイロットなど、少
数の白人捕虜がいたが、彼らはラバウル内の小さな島に収容され、
国際法規に従った取り扱いを受けていたのだった。

 しかしオーストラリア政府は、イーサー少将に戦犯摘発を強く命
じ、シナ人やインド人などの労務者を誘導して、どんな些細な事柄
でも告訴するよう指示してきたのである。[1,p47]

 部下を戦犯裁判から救うべく、今村の新たな戦いが始まった。 
(次号に続く)

[参考]
1. 責任 ラバウルの将軍今村均、角田房子、新潮文庫、昭和62
   年、新田次郎文学賞受賞

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■JOG(36) インドネシア国立英雄墓地に祀られた日本人たち
 私の国インドネシアの場合、多くの日本の青年たちがインド
ネシアを自由にするために独立の闘士たちと肩を並べて戦ってくれ
ました。そして多くの日本の青年がそのために命を捧げてくれまし
た。今日このアジア共生の祭典において、私たちの独立のために命
を捧げてくれたこれらすべての若者たちを偲びたいと思います。

■ おたより: 多田さんより

私はカリフォルニア州に滞在中の留学生で、アジア系の留学生や現地学生との
付き合いが多い毎日を送っています。その一人にインドネシア人がいますが、彼
が一度今村将軍について少し言及したことがありました。東南アジアの人が日本
陸軍の軍人を誉めたのに驚かされましたが、戦時中の話をアジアの人間とするの
は心臓に悪いので早々に話を変えた憶えがあります。今この記事を読んで、彼が
将軍を誉めた理由が分かりました。

■編集長より

現在でも、インドネシア人に覚えられているとは、やはり良いことをすると、
後々の子孫まで、恩恵を残すのですね。そのインドネシア人はどのように
今村将軍の事を知ったのでしょう。

インドネシアの独立記念日には、PETA(日本軍に育てられた独立軍の人々)
を中心に、日の丸を振ったり、日本の軍歌を歌ったりして、行進するそうですから、
そういう人が親戚にでもいるのかも知れませんね。

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