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[トップページ] [平成10年下期一覧][地球史探訪][210.68 日韓併合][330 経済]
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_/_/   Japan On the Globe 国際派日本人養成講座(56)
_/_/            平成10年10月3日 発行部数:3,204
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_/_/       地球史探訪:忘れられた国土開発
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_/_/           ■ 目 次 ■
_/_/       1.李朝朝鮮の飢餓地獄
_/_/       2.20年間で倍増の人口爆発
_/_/       3.植林、河川・砂防工事、ダム建設、、、
_/_/       4.きめこまかな農民保護政策
_/_/       5.開発をささえた資金源は
_/_/       6.食料危機対応のモデルケース
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■1.李朝朝鮮の飢餓地獄■

 本誌55号では、北朝鮮の悲惨な食糧事情により、年間数十万人規
模の餓死者が出ているという推計を紹介した。しかし朝鮮半島での
飢餓地獄は今に始まった事ではなく、19世紀の李朝時代も同様だ
った。

 たとえばフランス人宣教師シャルル・ダレの遺した「朝鮮事情」 
には、次のような記述がある。

     1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲
    い、国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人々のなかに
    は、娘を中国人の密航業者に一人当たり米一升で売るものもい
    た。北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人か
    の朝鮮人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、
    「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。

     しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの
    食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを
    放置しておく道を選んだ。[1,p64]

 まさに現在の金正日政権とそっくりだ。こういう次第であったか
ら、李朝時代の朝鮮では人口はほとんど増加しなかった。1753年の
730万人が、百年後の1850年でも、750万人になったに過ぎない。こ
れが当時の農業生産で養える上限だったのであろう。

■2.20年間で倍増の人口爆発■

 朝鮮半島が急激な人口増加を迎えるのは、20世紀に入ってからで
ある。1906年(明治39年)からの20年間で、980万人から、1,8
66万人と倍増した。さらに1938年には、2,400万人となった。日韓
併合時代である。[1,p29]

 この人口増加の原因としては、いくつかの要因がある。一つは第
6代宇垣一成総督による「農産漁村振興運動」などの民生向上活動
である。30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、
農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発による食料の増産が図
られた。併合当初米の生産量が約1千万石であったのが、20年後
の昭和に入ると、2千万石へと倍増した。[1,p80]

 もう一つは医療制度の確立、特に伝染病の予防である。1910年か
ら徹底的な検疫を実施し、コレラ、天然痘、ペストなどは、1918年
から20年の大流行を最後に押さえ込まれ、乳児死亡率が激減した。

 さらにインド、中国から朝鮮にかけて猛威を振るっていたハンセ
ン病退治のための救ライ事業として、世界的規模と質を誇る小鹿島
更正園を作って、6千人以上もの患者を収容している。[1,p85-86]

 農村振興は、終戦後も朴正熙大統領のセマウル運動として続けら
れる。宇垣総督の秘書役であった鎌田澤一郎氏が、その経験を買わ
れて何度も朴大統領に呼ばれ、アドバイスをしている。[2,p44]

 北朝鮮が現政権から解放された暁には、日本も援助をして、この
ような農村振興をもう一度やり直さねばならないだろう。日韓併合
時代にどのような国土開発事業を行って、朝鮮半島の民生向上に成
功したのか、今のうちに研究しておく必要がある。

■3.植林、河川・砂防工事、ダム建設、、、■

 李朝時代の飢餓の一因は、現在の北朝鮮と同様、森林破壊にあっ
た。定住しない焼き畑農民は、山林を焼き払い、一定期間耕作する
と、他へ移ってしまう。さらに、冬季の薪需要のための乱伐。そこ
に豪雨が来れば、表土は流出し、禿げ山となってしまう。

 1885年にソウルから北朝鮮を徒歩で踏破した旅行者は次のような
旅行記を残している。

     どこまでいっても禿げ山と赤土ばかりで、草も全て燃料のた
    めに刈り取られている。
     山地が痩せていて、昨年も沢山の餓死者が出た。
     ここは退屈極まりない土地で、山は禿げ山、植生はほとんど
    見られない。

 森林は緑のダムである。森林がなくなれば、降れば洪水、降らね
ば干ばつとなって、農業生産は崩壊する。治水の前に治山が必要と
いうのが、寺内初代総督の方針であった。朝鮮総督府は1911年から
の30年間で、5億9千万本の植林を行った。朝鮮全人口の一人あ
たり約25本という膨大な数である。[1,p114]

 内村鑑三の日記には、ある朝鮮人から日本人が毎年沢山の有用樹
木の苗木を植えていることを感謝する手紙をもらって非常にうれし
かったと書いている。[2,p39]

 植林事業と平行して、洪水予防と灌漑のための全国的な河川事業、
日本国内にもなかった17万キロワット級のいくつもの巨大水力発
電所建設、15万ヘクタール以上もの砂防工事等々、大規模かつ総
合的な国土開発事業が展開された。

 これらの結果、水田開発が進み、明治43年の84万町歩が、昭
和3年ごろには162万町歩と倍増した。[1,p108]

■4.きめこまかな農民保護政策■

 こうした大規模な国土開発とともに、きめこまかな民生安定化の
施策がとられた。宇垣総督時代には、当時8割を占めた小作農の生
活を安定させるため、朝鮮農地令を実施して小作権を確立し、税制
を整理して、負担を軽くした。さらに低利資金を融通して高利債務
を返還させ、多角農業主義により綿花栽培や山羊飼育を奨励した。 
[3,p414]

 また従来、朝鮮農民が見捨てていたような不毛の地に入植して、
開墾する日系移民も約3,800戸あった。これらの移住農民が、米の
改良品種、新農法を持ち込み、養豚、養鶏、養蚕などの多角経営を
図り、また厳冬にも家族ぐるみで副業に励む姿を見せた。日系農家
の自力更正が、朝鮮農民の意識改革に大きな役割を果たしたのであ
る。[1,p153]

 興味深い事に、米作保護のために、現在の日本と同様の逆ざや価
格政策がとられた。昭和18年の生産者の手取り価格は生産奨励金
なども含めると一石62円50銭、消費者価格は43円、この逆ざ
やは政府が負担していた。

 農業生産が軌道に乗ると、日本への輸出が急成長した。併合当時
わずか11万石だったのが、昭和3年には760万石までになった。 
これは日本の農家を圧迫し、日本政府は朝鮮米の輸入制限を図ろう
とするが、総督府は徹底的にこれに反対して、朝鮮農民を守った。 
[3,p414]

 朝鮮経済の保護育成政策は、関税制度にも明らかである。朝鮮か
ら日本に輸出されるものは免税だが、輸入は移入税を課した。後進
国が自国の産業育成を図るときに、輸入関税で保護するというのは、
常套手段だが、日本は朝鮮経済に対して、これを適用したのである。

 ちなみに当時の日本人の土地所有は1割程度なので、総督府の農
業保護の恩恵の9割は、朝鮮農民が受けたと言える。また治山治水
事業での労働に対しては、作業者に日当が支払われている。これは
李朝時代には無かった事である。

■5.開発をささえた資金源は■

 こうした膨大な開発投資、産業保護を可能にした資本はどこから
出てきたのだろうか。

 宇垣総督時代の総督府予算は昭和5年で、約2億円の規模であっ
た。それに対し、朝鮮内部の税収は5千万円程度。日本の政府予算
(すなわち日本国民の税金)から、毎年千数百万円から2千万円の
規模の補填がなされた。この予算獲得のため、総督府の関係者が帝
国議会や大蔵省の説得に奔走したというから、官僚の世界は今も昔
も変わりない。それでも足りない分は、日本の金融市場から集めた
公債によってまかなわれた。[1,p142]

 ちなみに大英帝国支配下のインドでは、その予算の1/3を国防
費の名目で、イギリスに納めていた。それにも関わらず、第2次大
戦で徴集した264万人のインド兵の費用は、イギリス人将校の給
料も含めて、インド自身に負担させていたという。[1,p179]

 朝鮮総督府の事業は、その他にも教育の普及、工業発展など多く
の面にわたる。その投資は、結果的に見れば、すべて日本からの持
ち出しで、我が国の経済に大きな負担となった。

 しかし戦後の韓国は、このインフラを踏み台に、自由民主主義国
として発展した。外交面での摩擦は続いているが、台湾とともに、
ある程度豊かな自由民主主義国家が近隣にあるということは、我が
国の現在の国益からみても、計り知れない価値を持つ。

■6.食料危機対応のモデルケース■

 北朝鮮が金日成政権から解放されたら、飢餓地獄から北朝鮮国民
を救うべく、朝鮮総督府が行った国土開発事業をもう一度、始めか
らやり直さねばならないだろう。費用の問題は別として、そのモデ
ルは、朝鮮総督府によって示されたと言って良いであろう。

 実はこの国土開発の方法は、朝鮮総督府の独創ではなく、我が国
江戸時代に、上杉鷹山公(米沢藩藩主)、恩田木工(信州松代藩)、
二宮尊徳などが行った農村振興を発展させたものだ。それは西洋的
な自然征服ではなく、治山治水を通じて、自然と共生しつつ、農業
生産の向上を図るという、優れたエコロジー的発想なのである。

 環境破壊による食糧危機は、北朝鮮だけではない。中国の最近の
洪水被害も国土破壊の結果であり、いよいよ食料自給が困難になっ
てきている。中国が食料輸入国に転落すれば、現在の国際食料価格
が急騰し、アジア、アフリカ、南米などにも飢餓が広まろう。そう
した視点から見れば、朝鮮総督府による国土開発事業の世界史的な
成功は、貴重なモデルケースとなるはずである。

[参考]
1. 歪められた朝鮮総督府、黄文雄、光文社、H10
2. 「韓国併合」とは何だったのか、中村粲、日本政策研究センタ
  ー,H8
3. 日韓2000年の真実、名越二荒之助、国際企画、H9

■ おたより: Keiichi SATさん より

興味深く拝読させて頂きました。あまりにも自分が知らないことが
多いことを痛感するしだいです。旧満洲でも同じく、日本が開発しながら
盲目的に忘れられているのでは、とも思いましたが、大日本帝国のやり方
を評価することはできないでしょう。もちろん植民地を全世界に作った
ヨーロッパ各国の現在の無神経な対応にもあきれますが、現在の日本
を見る限り、日本も評価することは難しいのではないでしょうか。

  日本が満洲・朝鮮半島・台湾でどんなによい社会を作っても、
日本人の政策であるかぎり、評価はされない訳です。旧ソ連の
政策を見てください。コーカサス・中央アジア、東ヨーロッパで
搾取であったかもしれませんが、それなりの社会保障のある社会
(民主的かどうかは知りませんが)を作っても、「ソ連に感謝している。
攻めてきてくれてありがとう」という話は聞いたことがありません。
その辺の理解も必要とおもいますが・・・・

  確かに、日本の援助政策はアジア重視ではありますが、ODA等は
戦後の賠償金的な意味合いもあり、積極的な外交手段として生かしきっては
いないような気がします。日本企業の進出先としてだけではなく、
アジア援助の経験で世界をリードするようなことがない限り、
世界の評価は得られないでしょう。

 経済援助や企業の進出は経済的繁栄を各国にもたらしますが、
過去に日本が経験した問題も各国にもたらしています。今後は、
特許などの技術移転も含め、社会・治安等のシステムごと各国に
広めていくぐらいの心意気が必要と思われますが・・・

 日本の文化・社会経済の発展は、優れた漢文学者や、海外で学んだ
人間が海外で働いてしまうということ(brain drain)が少なく、
日本人に日本語にかみ砕いて紹介し直したということです
(逆にいうと海外で通用しないから日本に戻ったと皮肉れますが。)

 ということは、日本のすぐれた歴史的人物の思想や社会・技術を
各国の言葉で逆に輸出してあげるということが必要だと思うのです。
各国が日本をステレオタイプに「ゲイシャ、フジヤマ 、トーキョ、キモノ」
等の単なる文化理解でなく、真に日本人の精神的内面を理解させるには、
以心伝心は不可能です。 はっきり言うと、イギリス人は日本人は「
いやらしくて、性的に開放的だ」と思っている人もいます。
「日本人の男性は皆、女子高校生のパンツを自動販売機で買ってるって
本当か?」と真顔で聞いてくるイギリス人もいます。

 今こそ、日本人として、何をすべきか真剣に考える時ではないでしょうか?

■編集長より

 長文のご意見ありがとうございました。余談ですが、我々日本人は、
他国からどう思われているか、というのを気にしすぎているのでは、と
最近感じています。

 聖人君子でないからと反省過剰にならなくとも良いのでは、とヒネク
レタ意見を持っています。アイデンティティとは、他国の目にどう映るか、
ということより、自分自身がどういう姿になりたいのか、という所から、
考えては、と思ったりもします。

 本号も、これだけ良いことをしたのだから、評価すべきだ、という趣旨
ではなく、今後、環境問題などで、日本の伝統的なエコロジカルな発想
が貢献できるという機会を指摘したものです。

 もちろん、国益を守るためのPRは大切ですが。


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