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_/ _/_/ _/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ / _/ _/ _/ Japan On the Globe (91) _/ _/ _/ _/ _/_/ 国際派日本人養成講座 _/ _/ _/ _/ _/ _/ 平成11年6月12日 10,179部発行 _/_/ _/_/ _/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ _/_/ _/_/ 地球史探訪:平和の海の江戸システム _/_/ 〜川勝平太氏の海洋史観(2)〜 _/_/ _/_/ ■ 目 次 ■ _/_/ _/_/ 1.自力で栄えるこの豊沃な大地 _/_/ 2.木綿後進国だったヨーロッパと日本 _/_/ 3.黄金の国ジパング _/_/ 4.四大国際商品の国産化に成功 _/_/ 5.余裕の守り _/_/ 6.平和の配当による高度成長 _/_/ 7.汗と知恵による勤勉革命 _/_/ 8.平和の海 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■1.自力で栄えるこの豊沃な大地■ 1850年の時点で住む場所を選ばなくてはならないなら、私が 裕福であるならばイギリスに、労働者階級であれば日本に住み たいと思う。[1] アメリカの歴史家スーザン・B・ハンレーの言葉である。海洋 アジアの物産に対抗して、ヨーロッパが暴力的収奪によって近代 世界システムを作りあげていた時に、日本はまったく別のアプロ ーチによって、もう一つの近代文明を育てていた。これを江戸シ ステムと呼ぶ事がある。それは庶民にとってみれば、近代世界シ ステムの最先端、大英帝国よりも幸福な社会であった。 その実態はどうだったのだろう? 19世紀後半に世界各地を 旅したイギリスの女流探検家イザベラ・バードは、明治初年に日 本を訪れ、いまだ江戸時代の余韻を残す米沢について、次のよう な印象記を残している。 南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の 赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したという より、鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、 煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、 ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、 アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な 大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところ のものである。・・・・・・美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な 地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。 どこを見渡しても豊かで美しい農村である。[2] ヨーロッパ人が、他の大陸の土地と人間を暴力的に収奪して、 豊かさを手に入れたのに対し、日本人は「自力で栄えるこの肥沃 な大地」を築き上げた。それはどのようなアプローチで可能だっ たのだろうか。 ■2.木綿後進国だったヨーロッパと日本■ 前90号で紹介したように、17世紀末にインド木綿がヨーロッ パで衣料革命を起こしたのだが、東アジアにおいても、それより やや早く、同様な現象が起こっていた。そこでの木綿生産は、 13世紀末の中国に始まり、14世紀末に朝鮮、15世紀末には 戦国時代の日本へと、ほぼ一世紀ずつ遅れて普及した。 室町時代以前の日本人の衣料は、麻であった。綿布は麻にくら べてやわらかく、保温性も良いので、特に冬季の衣料として、一 般民衆にも普及した。そのため15世紀前半からの約1世紀間、 日本は大量の綿布を朝鮮から輸入した。朝鮮だけではその需要に 応じきれず、16世紀半ば以降からは、中国から輸入するように なった。ヨーロッパと同様、日本も木綿生産の後進国として、輸 入に頼っていたのである。[4,p62] ■3.黄金の国ジパング■ 何も売るもののないヨーロッパは新大陸から収奪した貴金属を 支払いにあてたが、日本はどうしたのだろうか。幸いな事に、戦 国時代に鉱山開発が進んだ結果、日本は当時、世界有数の貴金属 産出国になっていた。 たとえば銀については、17世紀初頭において、日本を除く世 界の年間銀産出高が39〜49万kgだったのに対し、日本の輸出高だ けでも16〜20万kgに達していた。[4,p35] 銅についても、シナでは明の時代に貨幣原料の不足を来たし、 清代には日本への輸入依存を徐々に高め、18世紀初めには、ほ とんど全量を日本銅に依存する状態になった。地大物博の国と呼 ばれたシナも、実は貨幣経済の首根っこは日本に押さえられてい た。そして日本の銅銭は、シナのみならず、アジア域内交易に広 く用いられた。マルコポーロの「黄金の国ジパング」とは、あな がち荒唐無稽な形容ではなかったのである。[5,p262] ■4.四大国際商品の国産化に成功■ 高価な輸入品を安く自給して、生活水準を高めたいと思うのは、 当然の志向である。前号で紹介したように、ヨーロッパは、アフ リカから移送した黒人をアメリカ大陸のプランテーションで働か せて綿花を栽培し、それをイギリスの紡績機で綿布に仕上げると いう三角貿易で、綿布の自給体制を作り上げた。これが産業革命 の契機となった。 日本も綿布の自給を図ったが、肥沃な土地と温暖な気候に恵ま れ、国内栽培が可能であった。15世紀末の戦国時代から広がっ た綿花栽培は、17世紀末から18世紀初頭にかけて、多肥・労 働集約的な農法の開発などで発展を続け、停滞するシナ、朝鮮を 凌駕するに至った。 こうして、ユーラシア大陸の両端、木綿生産の最後進国であっ たイギリスと日本は、19世紀を迎える頃には、綿業の最先進国 になっていた。[4,p62] 海洋アジアのその他の物産についても、我が国は次々と国産化 に成功した。ペリーが日本に通商を迫ったときには、近代世界シ ステムにおける4大国際商品、すなわち木綿、砂糖、生糸、茶は、 すべて自給していたのである。単なる偶然ではなく、これらの商 品を自給しようという所から、近代世界システムも江戸システム も発展してきたからである。ただそのアプローチは、あまりにも 対照的であった。 ■5.余裕の守り■ 江戸時代初期、東南アジア各地には日本町や日本人居留地が作 られ、幕府から許可を与えられた朱印船が、さかんに往来してい た。1604年からの約30年間に365隻が渡航したという。このま ま海洋アジアとの交易が発展すれば、我が国は江戸時代には海洋 アジアの一大勢力として、国際化していたであろう。 しかし、暴力的収奪を常とするヨーロッパ人の割り込みが、そ の発展を大きく阻害した。フィリピンのようなすぐ隣の土地がス ペイン人の植民地となり、キリスト教布教を名目とした侵略性は 隠しようもなかった。 徳川幕府は、キリシタンを禁制とし、海外発展よりも、内政充 実を選ぶ。一般にこれを「鎖国」というが、実際には、上述のよ うに中国・朝鮮などとは活発な交易を続けており、またオランダ を通じて、近代世界システムの動きに対する情報収集も怠りなか った。 それらの事象が意味するものは目本の、"守り"であると同時 に"余裕"である。外国の怪しげな諸勢力が侵入するのを拒絶す る自由独立の意志の表現であると同時に、十七―十八世紀にか けて主権国家体制をとり始めた西欧各国と歩調を合わせ、日本 が統一国家としての体制を確立せんとしていた証拠である。 [6,p13] ■6.平和の配当による高度成長■ 徳川幕府は、当初、豊臣政権の「七公三民(収入の7割を税徴 収)」の税率を踏襲したのだが、それらは城下町の建設、陸路・ 海路の交通網整備、河川堤防の建設、新田の造成など、大規模な 社会インフラ整備に使われた。そしてそれらが終わるとただちに、 大減税を敢行した。四代将軍家綱の元禄の頃には、「三公七民」 と逆転していた。[6,p168] いわば、戦国時代の後の「平和の配当」である。上述した四大 商品の国産化成功ともあいまって、我が国は空前の高度成長期に 突入した。江戸幕府創設の直前、1600年の日本の人口は12百万 人だったのが、1721年には31百万人と2.6倍にもなった。生 活水準も向上し、平均寿命が延びた。[6,p92] この間の耕地は、225万ヘクタールから296万ヘクタールへと、 1.3倍となっている。1.3倍の土地で、2.6倍の人口を養 っていたのだから、土地生産性は2倍となったと言える。生活水 準の向上を加味すれば、それ以上だ。新大陸など他人の土地を欲 しいままに占有・収奪した近代世界システムに対して、江戸シス テムは限られた国内の土地を最高度に活用したのである。 歴史の教科書には、江戸時代に飢饉ばかりが続いたかのように 記述しているが、それは江戸時代の後半、人口が3千万を超えて 列島の収容能力限界に達し、また米作が北限の東北地方まで普及 していた所に、気候寒冷化が襲ったためである。飢饉を階級的搾 取の結果とするマルクス主義史観では、前期の高度成長も、庶民 の豊かな暮らしぶりも説明できない。 ■7.汗と知恵による勤勉革命■ 江戸システムで土地生産性が大幅に向上したのは、より多くの 汗と知恵の投入の結果である。飼料のために広い土地を必要とす る牛馬を減らし、人力で代替した。そのために土地や作業にあっ た鍬などの農具が開発された。また都市部の糞尿や生ゴミが農村 に貫流されて、肥料として利用されるというリサイクルシステム を確立した。これにより衛生的な都市生活と、農業生産性向上を 両立させる事ができた。[7] さまざまな創意工夫は多くの農書にまとめられ、各地に広めら れた。それを読むために、一般民衆の就学率、識字率はヨーロッ パ諸国に比べても段違いに高い水準となった。[8]。 勤勉と教育を尊び、ものを大切にする我が国の文化特性は、江 戸システムの発展を通じて、形成されたのである。ヨーロッパの 産業革命(Industrial revolution)に対して、日本は勤勉革命 (Industrious revolution)を行ったと称されている。 ■8.平和の海■ 春の海ひねもすのたりのたりかな 高麗(こま)船のよらで過ぎゆく霞かな 蕪村の句である。のどかな霞の海を朝鮮の船が行く。こちらに 立ち寄ってくれたら、退屈もしのげるのに、そのままどこかに行 ってしまう。日本は、朝鮮やシナ、オランダと盛んに交易はして いたが、それぞれが互いに干渉もせずに、平和裡に棲み分けてい た。 1637-8年の島原の乱から、1867年の大政奉還までの230年間、 我が国は静謐な平和に包まれていた。しかし、ペリーの砲艦外交 で近代世界システムに巻き込まれた途端、日本は日清、日露、大 東亜戦争と過酷な戦争の世界に身を投じなければならなかった。 230年間一度も戦争をしなかった江戸システムと、15世紀 以来の500年間に、約1年8ヶ月に1回の割合で戦争をしてい た近代世界システムと、両文明の本質的な違いをここに見る事が できる。 ■ 参考 ■ 1. 「江戸時代の遣産−−庶民の生活文化」、スーザン・B・ハンレー、 中公叢書、1990([3,p230]より再引) 2. 「日本奥地紀行」、イザベラ・バード、平凡社東洋文庫、 1973 ([3,p11]より再引) 3. 「文明の海洋史観」、川勝平太、中公叢書、H9.11 4. 「日本文明と近代西洋」、川勝平太、NHKブックス、H3.6 5. 「地球日本史1」、西尾幹二編集、産経新聞社、H10.9 6. 「地球日本史2」、西尾幹二編集、産経新聞社、H10.11 7. JOG(24) 平和と環境保全のモデル社会:江戸 8. JOG(30) 花のお江戸はボランティアで持つ
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