[トップページ] [平成12年一覧][地球史探訪][210.69 世界の中の大日本帝国][234 ドイツ・中欧][319 国際親善(欧米)]


---------------Japan On the Globe(142)  国際派日本人養成講座
        _/_/         
         _/          地球史探訪: 大和心とポーランド魂
        _/
  _/   _/    20世紀初頭、765名の孤児をシベリアから救出
   _/_/      した日本の恩をポーランド人は今も忘れない
-----------------------------------------H12.06.11  25,171部

■1.ポーランドからのメッセージ■

     平成11年8月に、ポーランドから「ジェチ・プオツク少年
    少女舞踊合唱団」が来日した。合唱団はヘンリク・サドスキさ
    ん(88)からの次のようなメッセージを携えてきた。
    
         20世紀の初め、孤児が日本政府によって救われました。
        シベリアにいたポーランドの子供は、さまざまな劣悪な条
        件にありました。その恐ろしいところから日本に連れて行
        き、その後、祖国に送り届けてくれました。親切にしてく
        れたことを忘れません。……(合唱団は)私たちの感謝に
        満ちた思いを運んでくれるでしょう。日本のみなさん、あ
        りがとう。

     サドスキさんはさらに「一番大事にしている物を皇室に渡し
    て」と救出当時の写真を託した。「孤児収容所を慰問した皇后
    陛下(貞明皇后)に抱き締めてもらったことが忘れられない」
    と話したという。[1]
    
     20世紀の初めの孤児救出とは、どのような出来事だったの
    だろうか?
    
■2.せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたい■

     シベリアは長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえ
    られたポーランド愛国者の流刑の地だった。1919年、ポーラン
    ドがロシアからようやく独立した頃、ロシア国内は革命、反革
    命勢力が争う内戦状態にあり、極東地域には政治犯の家族や、
    混乱を逃れて東に逃避した難民を含めて、十数万人のポーラン
    ド人がいたといわれる。
    
     その人々は飢餓と疫病の中で、苦しい生活を送っていた。と
    くに親を失った子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。
    せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたいとの願
    いから、1919年9月ウラジオストク在住のポーランド人によっ
    て、「ポーランド救済委員会」が組織された。
    
     しかし翌20年春にはポーランドとソビエト・ロシアとの間に
    戦争が始まり、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことは不可
    能となった。救済委員会は欧米諸国に援助を求めたが、ことご
    とく拒否され、窮余の一策として日本政府に援助を要請するこ
    とを決定した。

■3.日本赤十字社の決断■

     救済委員会会長のビエルキエヴィッチ女史は20年6月に来日
    し、外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴えて、援助を懇請
    した。
    
     女史の嘆願は外務省を通じて日本赤十字社にもたらされ、わ
    ずか17日後には、シベリア孤児救済が決定された。独立間も
    ないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない事を考え
    れば、驚くべき即断であった。
    
     日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、
    決定のわずか2週間後には、56名の孤児第一陣がウラジオス
    トクを発って、敦賀経由で東京に到着した。それから、翌21年
    7月まで5回にわたり、孤児375名が来日。さらに22年夏に
    は第2次救済事業として、3回にわけて、390名の児童が来
    日した。
    
     合計765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療
    や休養した後、第一次はアメリカ経由で、第2次は日本船によ
    り直接祖国ポーランドに送り返された。習慣や言葉が違う孤児
    たちを世話するには、ポーランド人の付添人をつけのがよいと
    考え、日赤は孤児10名に1人の割合で合計65人のポーラン
    ド人の大人を一緒に招くという手厚い配慮までしている。

■4.手厚い保護■

     日本に到着したポーランド孤児たちは、日赤の手厚い保護を
    受けた。孤児たちの回想では、特に印象に残っていることとし
    て以下を挙げている。
    
     ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯
    消毒されたこと、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷ入
    れて貰って感激したこと、特別に痩せていた女の子は、日本人
    の医者が心配して、毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤をくれ
    たが、大変おいしかったので一晩で仲間に全部食べられてしま
    って悔しかったこと、、、

     到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同
    情を集めた。無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち、学生音
    楽会は慰問に訪れ、仏教婦人会や慈善協会は子供達を慰安会に
    招待。慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々は、後を
    絶たなかった。
    
     腸チフスにかかっていた子供を必死に看病していた日本の若
    い看護婦は、病の伝染から殉職している。
    
     1921(大正10)年4月6日には、赤十字活動を熱心に後援さ
    れてきた貞明皇后(大正天皇のお后)も日赤本社病院で孤児た
    ちを親しく接見され、その中で最も可憐な3歳の女の子、ギエ
    ノヴェファ・ボグダノヴィッチをお傍に召されて、その頭を幾
    度も撫でながら、健やかに育つように、と話された。

■5.「アリガトウ」と「君が代」斉唱■

     このような手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で見るも
    哀れに痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り
    戻した。
    
     日本出発前には各自に洋服が新調され、さらに航海中の寒さ
    も考慮されて毛糸のチョッキが支給された。この時も多くの人
    々が、衣類やおもちゃの贈り物をした。
    
     横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親
    身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗
    船することを泣いて嫌がった。埠頭の孤児たちは、「アリガト
    ウ」を繰り返し、「君が代」を斉唱して、幼い感謝の気持ちを
    表した。
    
     神戸港からの出発も同様で、児童一人ひとりにバナナと記念
    の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈
    りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振っていた。
    
     子どもたちを故国に送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッ
    ドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの
    頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたという。
    その手の温かさを忘れない、と一人の孤児は回想している。

■6.シベリア孤児の組織「極東青年会」■

     こうして祖国に戻った孤児たちの中に、イエジ・ストシャウ
    コフスキ少年がいた。イエジが17歳の青年となった1928年、
    シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となっ
    た。極東青年会は順調に拡大発展し、国内9都市に支部が設け
    られ、30年代後半の最盛期には会員数640余名を数えたと
    いう。
    
     極東青年会結成直後にイエジ会長が、日本公使館を表敬訪問
    した時、思いがけない人に会った。イエジ少年がシベリアの荒
    野で救い出され、ウラジオストックから敦賀港に送り出された
    時、在ウラジオストック日本領事として大変世話になった渡辺
    理恵氏であった。その渡辺氏が、ちょうどその時ポーランド駐
    在代理公使となっていたのである。
    
     これが契機となって、日本公使館と、極東宣言会との親密な
    交流が始まった。極東青年会の催しものには努めて大使以下全
    館員が出席して応援し、また資金援助もした。

■7.日本大使館が庇護したレジスタンス活動■

     1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、
    イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運
    動参加を決定した。イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ
    部隊と愛称された。
    
     そして本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤
    児たち、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加
    し、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがった。
    
     ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、
    イエジキ部隊にもナチス当局の監視の目が光り始めた。イエジ
    キ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、多数
    のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。
    
     急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院
    は日本帝国大使館が保護していることを強調し、孤児院院長を
    兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たちこのドイツ人た
    ちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼んだ。
    
     イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを
    大合唱すると、ドイツ兵たちは呆気にとられ、「大変失礼しま
    した」といって直ちに引き上げた。
    
     当時日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日
    本大使館には一目も二目も置かざるを得ない。日本大使館は、
    この三国同盟を最大限に活用して、イエジキ部隊を幾度となく
    庇護したのである。

■8.長年の感謝の気持ちをお伝えできれば■

     95年10月、兵藤長雄ポーランド大使は、8名の孤児を公邸に
    招待した。皆80歳以上の高齢で、一人のご婦人は体の衰弱が激
    しく、お孫さんに付き添われてやっとのことで公邸にたどりつ
    いた。
    
         私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢
        でした。そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。し
        かしもうそれは叶えられません。
        
         しかし、大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、
        這ってでも、伺いたいと思いました。何故って、ここは小
        さな日本の領土だって聞きましたもの。今日、日本の方に
        私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残す
        ことはありません。
        
    と、その老婦人は感涙に咽んだ。孤児たちは70年前以上の日
    本での出来事をよく覚えていて、別の一人は、日本の絵はがき
    を貼ったアルバムと、見知らぬ日本人から送られた扇を、今ま
    で肌身離さずに持っていた、と大使に見せた。
    
     同様に離日時に送られた布地の帽子、聖母マリア像の描かれ
    たお守り札など、それぞれが大切な宝物としているものを見せ
    あった。

■9.われわれは何時までも恩を忘れない国民である■

     シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹
    介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が届けられている。
    そのひとつ、極東委員会の当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、
    「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」と題
    した礼状の中で次のように述べている。
    
         日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種であ
        る。日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に
        存在する国である。しかも、わが不運なるポーランドの児
        童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてく
        れた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘
        れることはない。・・・
        
         われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福
        な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自
        分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、
        髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとって
        ポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一
        度や二度ではない。しばしばあった。・・・
        
         ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわ
        れは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告
        げたい。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれ
        たことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られてい
        る。・・・
        
         ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、
        最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持
        っていることを伝えしたい。
        
■10.大和心とポーランド魂■

    「何時までも恩を忘れない国民である」との言葉は、阪神大震
    災の後に、実証された。96年夏に被災児30名がポーランドに
    招かれ、3週間、各地で歓待を受けた。
    
     世話をした一人のポーランド夫人が語った所では、一人の男
    の子が片時もリュックを背から離さないのを見て、理由を聞く
    と、震災で一瞬のうちに親も兄弟も亡くし、家も丸焼けになっ
    てしまったという。焼け跡から見つかった家族の遺品をリュッ
    クにつめ、片時も手放さないのだと知った時には、この婦人は
    不憫で涙が止まらなかった、という。
    
     震災孤児が帰国するお別れパーティには、4名のシベリア孤
    児が出席した。歩行もままならない高齢者ばかりであるが、
    「75年前の自分たちを思い出させる可哀想な日本の子どもた
    ちがポーランドに来たからには、是非、彼らにシベリア孤児救
    済の話を聞かせたい」と無理をおして、やってこられた。
    
     4名のシベリア孤児が涙ながらに薔薇の花を、震災孤児一人
    一人に手渡した時には、会場は万雷の拍手に包まれた。75年
    前の我々の父祖が「地球の反対側」から来たシベリア孤児たち
    を慈しんだ大和心に、恩を決して忘れないポーランド魂がお返
    しをしたのである。

■リンク■
a. JOG(102) エルトゥールル号事件のこと
 難破船救助から始まった日本とトルコの友好の歴史。

b. JOG(113) 日本・ベルギー交流史
 第一次大戦と関東大震災を機縁にした友情の歴史

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 毎日新聞、H11.08.04、大阪夕刊、8頁
2. 「善意の架け橋 ポーランド魂とやまと心」★★★、兵藤長雄
  文芸春秋、H10.3

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「大和心とポーランド魂」について
                         桜さんより

     私には、夢があります。学生時代に磨いた日本舞踊を通じて、
    世界各国を自由にまわり、様々な人々と、心と心で交流をして
    いきたいのです。それが自分にできる世界平和へのひとつの行
    動であると信じています。

     本号のようなお話を伺うたび、その想いはますます募ります。
    ポーランドの方々に、私達こそ感謝していかねばならないと感
    じます。報恩の心を形にし続けるポーランドの方々のようなひ
    とがいるからこそ、その真心に触発されて、私達も心をゆさぶ
    られるのですから。

     感謝の心を忘れず行動し続ける人間がひとりでもいるかぎり、
    かならず平和の方向へすすんでいけると確信しています。

     今、私の胸のなかに、ポーランドの方々への熱き思いが灯っ
    ています。行動で示していきます。

■編集長・伊勢雅臣より

     力強いお便りに心うたれました。80年前の恩を忘れないポ
    ーランド魂に負けないよう、日本舞踊を通じて大和心を示して
    あげて下さい。

© 平成12年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.