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[トップページ] [平成13年一覧][人物探訪][210.68 日韓併合][221.06 日本統治時代][319 国際親善(アジア)]

-----Japan On the Globe(178)  国際派日本人養成講座----------
          _/_/   
          _/     人物探訪:日韓の架け橋・李方子妃
       _/_/      
_/ _/_/_/         日本皇族から、朝鮮王朝最後の皇太子妃、
_/ _/_/          そして韓国障害児の母へ。
-----H13.02.25----33,257 Copies----220,222 Homepage View----

■1.毅然たる覚悟■

     大正5(1916)年8月3日朝、大磯の別邸で夏を過ごしていた
    梨本宮方子(なしもとのみや・まさこ)妃は、いつものように
    新聞を拡げると「あっ」と声をあげて、両手をわなわなと震わ
    せた。
    
        李王世子の御慶事−梨本宮方子女王とご婚約
        
     という大見出しとともに、まぎれもなく自分の袴姿の写真が
    掲載されている。隣には、李王世子、すなわち大韓帝国皇太
    子・垠(ウン)殿下の写真が並んでいる。
    
     東京に帰った方子妃は、父守正王から正式に婚約を告げられ、
    次のようにきっぱりと答えた。
    
         よくわかりました。大変なお役だとは思いますが、ご両
        親様のお考えのように努力してみます。
        
     母・伊都子妃は、わずか15歳の娘の毅然たる態度に、言葉
    もなくただ涙された。この時から日韓の狭間で波乱の人生が始
    まるのだが、方子妃はまさにこの毅然たる覚悟通りに、日韓の
    架け橋としての役目を果たし続ける。
    
     2学期が始まると、学習院では「皇太子妃におなりになる。
    でも朝鮮のお方がお相手ではね」と学友達はささやきあってい
    た。そこに方子妃が髪を中心から分けて結う韓国式の髪型で、
    昂然と胸を張って登校してきた。みなはその覚悟の見事さに感
    心した。

■2.韓国併合■

     皇太子垠は明治40(1907)年、11歳にして日本に留学した。
    この2年前に、日露戦争に勝利した日本は、大韓帝国を保護国
    としていた。朝鮮半島の不安定が日清、日露両戦役を引き起こ
    していただけに、英米両国はこの措置を歓迎した。
    
     大韓帝国側から見れば、垠を人質に取られた格好だったが、
    わが国は朝野をあげて歓迎し、すべて日本皇太子と同等の扱い
    をした。特に明治天皇、皇后は垠を可愛がられ、よく御所に召
    されて、贈り物を与えられた。太子大師(皇太子の主任教師)
    に任命されていた伊藤博文が、「垠のためにならないから」と
    断っても、両陛下はやめられなかった。伊藤自身も孫のように
    垠を慈しみ、安重根に暗殺された後、垠はよく「伊藤公が生き
    ておられたら」と語っていた。
    
     明治42(1909)年7月6日、韓国併合が閣議決定された。ア
    メリカ政府は「むしろ米国のためにこれを歓迎す」とし、イギ
    リス、ロシア、ドイツ、フランス各国政府もこれを了承した。
    
     後の首相・原敬は「今日決行するの必要ありや否や疑はし」
    と評し、小説家・有島武郎は「この日、朝鮮民族の心情やいか
    んと涙する」と記している。

■3.旧朝鮮王妃としての責任■

     併合後も、李王家は皇族の一員として高い地位を与えられた。
    敗戦時、総理大臣の年俸が1万円だった時に、李王家の皇族費
    は120万円と皇室に次ぐ巨費である。方子妃の生家梨本宮家
    などはわずか3万8千円に過ぎない。さらに本国朝鮮に150
    万坪を越す土地や4千万円以上の預金を所有していた。
    
     垠の父、李大王は方子妃との婚儀を大変に喜んだという。方
    子妃は皇族であり、そして何よりも当時皇太子だった昭和天皇
    のお后候補の一人とされていた方である。「日本皇太子と同
    等」という扱いはここにも及んでいた。
    
     また韓国の宮廷では、王妃の一族が実権をとるために、血で
    血を洗う勢力争いが絶え間なく続いており、日本皇族の女王殿
    下をいただけば宮廷も穏やかに治まるだろうと安堵されていた。

     大正9(1920)年4月28日、東京六本木・鳥居坂の李王邸で
    結婚式が執り行われた。婚儀に反対する朝鮮人大学生が、ピス
    トルと爆弾をもって李王邸潜入を企てたが、朝鮮人刑事が検挙
    して事なきを得た。
    
         王冠をのせた瞬間、思わず身がひきしまり、同時に旧朝
        鮮王妃としての責任が、重くのしかかってきたのを感じま
        した。
        
     方子妃は自伝にこう述べている。

■4.王子晉の死■

     垠殿下と方子妃は本物の愛情を育てて行かれた。2年後、王
    子晉(チン、ただし「しん」と呼ばれていた)が産まれ、一家
    は初めて朝鮮に帰ることになった。生後8ヶ月の乳児を連れて
    帰る事に、母伊都子妃は最後まで反対されたが、ぜひ晉殿下も
    一緒にという朝鮮側の強い要望に押し切られてしまった。
    
     その心配も朝鮮側の熱烈な歓迎に吹き飛び、元気いっぱいの
    晉はかわいい若宮様と女官達にも大変な人気であった。
    
         2週間にわたる数々の行事も終わって、いよいよ明日は
        この地を去ると思えば、名残りが惜しまれてきて、なんと
        はなしに寂しさをおぼえたのは、殿下のみならず、私にと
        っても晉にとっても、この国、この地がふるさとであるこ
        とを、心でも、肌でもたしかめることができたからでしょ
        うか、、、
        
     しかし、悲劇は出発前夜、お別れの晩餐会の後にやってきた。
    二人が宴から戻ると、侍従が半狂乱になって「若宮様のご容体
    が!」と叫ぶ。無我夢中で駆けつけると、晉は青緑色のものを
    吐き続けていた。そして3日後、激しい雷雨の中を晉はわずか
    8ヶ月の生命を終えた。
    
     日本人の医師達は、急性消化不良と断定した。しかし、出発
    の前の晩、細心の警戒が最後にゆるんだのを狙っていたように
    起きただけに、方子妃はじめ多くの人は、毒殺に違いない、と
    思った。

■5.幸福の日々■

     昭和6(1931)年12月29日、2度の流産を乗り越えて、男
    子玖(ク、ただし普段は「きゅう」と呼ばれていた)誕生。垠
    殿下は方子妃の手をとられ、「ごくろうだったね」とただひと
    こと。方子妃はよろこびで涙ぐんだ。皇室典範は、男子がいな
    いときは王家廃絶をうたっており、朝鮮王統の存立がかかって
    いたからである。方子妃は次の歌を詠まれた。
    
        つもりたるととせ(十年)のなやみ今日晴れて高き産声き
        くぞ嬉しき
        
         必ずいつの日か、朝鮮王国の血を受け継いだこの子に、
        しっかりと父祖の国の大地に立てる日を迎えさせねばなら
        ない。
        
     との悲願を心の底に深く刻みつけた。
    
     昭和10(1935)年、垠殿下は宇都宮第14師団歩兵第59連
    隊連隊長として赴任、方子妃も玖とともに宇都宮に住む。農家
    の人達と気軽に話をしたり、スキーに夢中になったりと、しば
    しの幸福の日々が続いた。
    
     昭和18(1943)年、第一航空軍司令官に任命される。垠殿下
    は、部下には思いやり深く、上官にはよく尽くし、事にあたっ
    て動ずることなく、王者の風格があった。幼年学校の同期生の
    一人は「少なくともわれわれ軍人、殊に同期生にとっては、最
    も親しい敬愛する宮様であって、人質とか異国人とかいった感
    情は露ほどもなかったのが事実である」と語っている。立派な
    日本軍人、理想的な日本皇族として、ふるまわれていた。
    
     また人材育成にも心を砕き、日本留学中の朝鮮人留学生のた
    めの寮を作り、毎年10万円もの奨学金を下賜されていた。

■6.終戦後の臣籍降下■

     昭和20年8月、日本が敗戦を迎えると、占領軍司令部は各
    皇族の特権の剥奪にかかった。宮内庁から支給されていた歳費
    は停止され、高額の財産税が賦課された。李王家も、昭和天皇
    が特に行く末を案じられたが、皇族の身分を奪われ、財産の大
    半を財産税として取り上げられ、残った宅地などもペテン師に
    奪われてしまった。
    
     方子妃は、これからは私が強くなって殿下はそっと静かに、
    したいように暮らしていただこう、戦うのも私、守るのも私な
    のだ、と決心した。
    
     昭和25(1950)年には、垠殿下はマッカーサーに招かれて来
    日した大韓民国初代大統領・李承晩と会談をした。李王朝につ
    ながる血統を自慢していた大統領は、国民の同情を集める垠殿
    下にライバル意識を持ったのか、冷たく「帰国したいなら帰っ
    てきなさい」と言い、殿下は落胆して帰国をあきらめた。
    
     昭和35(1960)年、李承晩は大統領選4選に成功したが、不
    正選挙を怒る学生革命により失脚、翌年クーデターに成功した
    朴正煕が、この3年前に脳血栓で倒れた垠殿下の容態を心配し、
    生活費、療養費を韓国政府が保証するので、帰国されたいと連
    絡してきた。

■7.反日感情渦巻く韓国へ■

     昭和38(1963)年11月22日、垠殿下と方子妃は大韓民国
    に帰った。皇太子として11歳で故国を後にして実に56年が
    経っていた。ベッドに寝たままの殿下は、そのまま病院車に乗
    せられ、ソウルの聖母病院に直行した。ちぎれるように手をふ
    る出迎えの人並みも、目には入らなかった。たとえ一歩でも半
    歩でもいい、殿下の足で故国の土を踏ませたかった、と方子妃
    は切ない思いをした。

     当時の韓国では、李承晩大統領の12年間におよぶ排日政策
    の結果、反日感情が横溢していた。小学校から、中学、高校と
    反日教育が施され、「電信柱が高いのも、ポストが赤いのも、
    みんな日本が悪いとされる」と揶揄されるほどであった。
    
     方子妃が勝手が分からずに、使用人にまで丁寧に頭を下げる
    と、たちまち非難の的になった。「チョッパリ女出て行け」な
    どと罵倒されたこともあった。チョッパリとは豚足のことで、
    足袋で草履を履いた足はブタのひづめと同じだというのである。
    
■8.障害児の教育を始める■

     そんな中で、方子妃は精神薄弱児の教育を始める。ポリオな
    どで麻痺した子どもたちは、家族の恥として家の中に閉じこめ
    られていた。方子妃はその子供らの自立能力を引き出し、育て
    上げることを目指した。
    
     新聞に心身障害児募集の公告を出すと、たった一人8歳の精
    神薄弱の女の子の応募があった。交通費程度で来てくれる優秀
    な若い先生を見つけ、また場所も延世大学の一隅を間借りでき
    た。机などは古道具屋を廻って調達した。あの家にポリオの子
    供がいる、と聞くと方子妃は訪ねていく。おびえた眼で迎えら
    れた事もたびたびだった。それでも1年して、聾唖や小児麻痺
    の子どもが10人ほども集まった。
    
     政府から支給される生活費は、垠の入院費と生活費でほとん
    ど消えてしまう。方子妃は資金を稼ぐために、趣味で作ってい
    た七宝焼を売ることを始めた。足踏みバーナーで長時間火を起
    こしていると、足が腫れ上がった。夏の暑い日には窯の熱気を
    浴びて、汗だくだくになる。すでに60代半ばの方子妃には重
    労働であった。
    
■9.韓国障害児の母■

     生徒数が多くなると、新しい土地を探し、建物を建て、「慈
    恵学校」が正式に発足した。より多くの資金を集めるために方
    子妃は王朝衣装ショーを始め、自らも宮中衣装を着て海外を廻
    られた。これには、旧朝鮮王朝の権威と誇りを大事にしてもら
    いたい、と非難が集中した。しかし、妃殿下はそんな非難をよ
    そに80歳を過ぎても海外でのショーを続けられた。
    
     このような方子妃の努力で慈恵学校は形を整え、児童数15
    0名、校地4千坪、教室や寄宿舎以外に、豚舎、鶏小屋、農場
    まで備える規模に成長していった。

     方子妃が日本への募金旅行から帰った時の帰った時のことで
    ある。風呂場をのぞくと、せっけんの泡をつけた子どもと、お
    湯のしずくをしたたらせた子どもが抱きついてくる。方子妃は
    よそゆきの洋服が泡だらけになるのもかまわず、子どもたちを
    抱き寄せ、「ただいま」と一人一人の顔をのぞき込む。一緒に
    訪れた在日韓国人の権炳裕は、この光景を見て胸がつまり、こ
    の方の為ならどんな応援もしようと心に誓ったという。権はそ
    の後の在日大韓民国婦人会中央本部会長である。
    
     平成元(1989)年、方子妃は87歳で逝去された。5月8日、
    古式に則って千人の従者を伴った葬礼の行列が、旧朝鮮王朝王
    宮から王家の墓までの2キロの道を進んだ。墓にはすでに19
    年前に亡くなられた垠殿下が待っている。韓国からは姜英勲首
    相、日本からは三笠宮同妃両殿下が参列され、多くの韓国国民
    が見送った。[2]
    
     日本の皇族として生まれ、朝鮮王朝最後の皇太子妃となり、
    さらに「韓国障害児の母」と数奇な運命を辿られた方子妃は、
    「一人の女性として、妻として、私は決して不幸ではなかっ
    た」と述べられている。日韓の架け橋になろうとの15歳の時
    の決意のままに、その後の72年間を生き抜かれたのである。

                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(005) 国際交渉の常識
   日本の朝鮮統治の悪しき遺産?! 
b. JOG(056) 忘れられた国土開発
   日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追い
  つく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発に
  よる食料の増産が図られた。 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 「朝鮮王朝最後の皇太子妃」★★、本田節子、文春文庫、H9.7
2. 「日韓2000年の真実」★★★、名越二荒之助、国際企画、H9.7
   
    
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