[トップページ] [平成13年一覧][地球史探訪][210.759 大東亜戦争:和平への苦闘]

-----Japan On the Globe(196)  国際派日本人養成講座----------
          _/_/   
          _/     地球史探訪:沖縄戦〜和平への死闘
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_/ _/_/_/         勝利の望みなきまま日本軍は82日間の死闘を
_/ _/_/          戦い抜き、米国の無条件降伏要求を撤回させた。
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■1.「沖縄の日本軍の作戦はスマートだった」■

     「ユダヤ人と日本人」などで知られる山本七平氏は、フィリ
    ピンで砲兵少尉として戦ったが、敗戦後、捕虜収容所で米軍の
    将校から一兵卒に至るまで異口同音に「沖縄の日本軍の作戦は
    スマートだった。」「あれを徹底的にやられたら参る所だった。
    」と語るのを聞いた。
    
     米陸軍戦史「最後の戦い」も、「沖縄における日本軍は、ま
    ことに優秀な計画と善謀をもって、わが進攻に立ち向かった」
    と述べている。
    
     実際に日本軍守備隊の戦死者約6万5千人(後述する住民の
    犠牲者は別にして)に対して、米軍は地上戦闘での死傷者3万
    9千人、激烈な戦闘のための神経症などで2万6千人、神風特
    攻による艦船の沈没・損傷4百余隻で死傷者約1万人と、合計
    7万5千人もの死傷者を出している。
    
     沖縄戦は、米国から見れば、太平洋戦争で最も大きな損害を
    出した戦いであった。また日本側から見れば大東亜戦争終盤で
    の激戦であり、我が国土で民間を巻き込んで行われた最大の戦
    いだった。当時の日本人がこの戦いに何を思い、どう処したの
    か、その足跡を辿ってみよう。
    
■2.「エイプリル・フールではないか」■

     昭和20年4月1日は朝から抜けるような青空に断雲が浮か
    ぶ、清涼な日和だった。この日、米軍は沖縄本島中部の渡久地
    海岸への上陸を開始した。戦艦10、巡洋艦9、駆逐艦23、
    砲艦117からなる支援砲撃艦隊が、艦砲弾4万5千発、ロケ
    ット弾3万3千発、迫撃砲弾2万2千発の史上かつてない猛砲
    撃を加えた。午前8時、千数百隻の上陸用舟艇が海岸に殺到す
    る。幅11キロの海岸に4個師団もの大兵力が一度に上陸する
    のは、米軍も初めての経験だった。
    
     しかし、日本軍からは何の抵抗もない。硫黄島では上陸直後
    に日本軍の猛砲撃を受けて大損害を被った、その記憶も生々し
    いだけに、米軍は「エイプリル・フールではないか」と狐につ
    ままれたようだった。「沖縄の日本軍最高司令官は偉大なる戦
    術家であるか、そうでなければ、大馬鹿者である」と、無血上
    陸をした米軍将兵は語り合った。そのどちらかは、すぐに分か
    ることになる。

■3.異端の作戦参謀・八原博通大佐■

     日本軍の作戦は、高級参謀・八原博通大佐が立てたものだっ
    た。八原大佐は陸軍大学を優秀な成績で卒業した後、アメリカ
    に留学した経験を持つ陸軍では数少ない米国通であった。マレ
    ー進攻などで参謀将校として活躍した後、陸軍大学の教官を務
    めた。当時、ドイツ陸軍流の華麗な戦術がもてはやされる中で、
    理詰めの地味な、しかし確実に成功する戦術を重視する異端の
    教官だった。
    
     沖縄に進攻する米軍の膨大な火力にまともにぶつかっては、
    短期間に全滅するだけである。八原大佐は島の南半部が分厚い
    サンゴ礁の岩盤に覆われているのに目をつけ、その下の天然洞
    窟などを利用して地下壕陣地を作り、ここを根拠にして米軍に
    抵抗する作戦を立てた。いずれ米軍に敗れることは明白である
    が、華々しく玉砕するよりも、一日でも長く米軍を拘束して出
    血を強要して、本土決戦準備の時間を稼ぐ事が、国家のために
    なる、と考えたのである。
    
     鹿児島出身で、西郷隆盛や大山巌と同様、万事を部下に任せ
    て責任は自分が負う古武士タイプの牛島満司令官は、笑顔でこ
    の作戦案を承認した。
    
     八原大佐は、島民の老幼婦女子のうち8万人を本土に避難さ
    せ、残りを極力、戦闘を予期しない島北部に疎開させた上で、
    青壮年男子2万人を動員して、陣地構築を進めていた。米軍の
    上陸前の猛砲撃も、すべてサンゴ礁岩盤に跳ね返されていたの
    である。
    
■4.夜襲失敗■

     しかし、戦略持久作戦に理解のない大本営は、易々と敵軍上
    陸を許した沖縄軍に対して、もっと積極的攻勢をとるよう督促
    電報を送り、その影響で、あくまで持久を説く八原大佐は沖縄
    軍内でも孤立していった。

     豪傑肌の参謀長・長勇中将は、これでは牛島司令官の面目を
    失わせると思い、壕陣地を打って出て積極的な反撃に出ること
    を主張した。八原大佐は頑強に反対したが、最後は参謀長の命
    令で、4月12日に3個大隊で夜襲をかける作戦を立案した。
    
     しかし米軍の猛砲撃で道路は寸断され、地形も変わっており、
    目標にたどり着く前に照明弾で発見されて、集中砲撃を浴びた。
    結局、1個大隊は全滅し、2個大隊は大損害を受けた。八原大
    佐の懸念通り、夜襲は失敗に終わった。
    
■5.日夜、日本軍重砲兵の猛射を浴びて、、、■

     一方、八原大佐の戦略持久作戦は、本島中部に上陸し、南下
    する米軍に対してきわめて効果的であった。洞窟陣地は米軍の
    鉄の暴風とも言うべき事前猛砲撃から、よく兵員や武器を守っ
    た。その後、米軍歩兵が近づくと、洞窟内から機関銃や小銃を
    抱えた兵が稜線や敵前斜面に配置された陣地に飛びだして的確
    な射撃を加える。反対斜面では、洞窟内から迫撃砲や臼砲を運
    び出して、集中砲火を浴びせる。アメリカの従軍記者は以下の
    ように戦況を報道している。
    
         現在少将ホッジ麾下の第24兵団の進撃速度は一日2百
        メートルにとどまり、7日頃からは、日夜日本軍重砲兵の
        猛射を浴びて苦戦の連続だ。・・・
        
         8日朝、アメリカ軍は要地赤色高地に向かって、戦車5
        台を先頭に突入、地雷原を突破前進したが、日本軍は焼夷
        弾をもって戦車を攻撃、さらに銃剣をきらめかせて突撃を
        開始した。この戦闘の結果、アメリカ軍は戦車3両を喪失、
        同高地を放棄しなければならなかった。・・・
        
         牧港と東海岸の和宇慶を結ぶ線には日本軍の一連の陣地
        がある。欧州戦の体験者はこれを評して、巧緻かつ構想豊
        かであると同時にこれまで見たいかなる陣地よりも見事に
        組織されていると慨嘆した。・・・
        
     こうした日本軍の高度な抵抗に直面した米軍は、4月いっぱ
    いかけても、わずか、2、3キロしか前進できなかった。そし
    て日本軍とのあまりに近距離での激戦により、沖縄戦全体で2
    万6千人もの兵士が戦闘神経症にかかり戦列を離れた。これは
    太平洋戦争では初めて経験であった。

■6.「よーし、これで思い残すことはない。」■

     地上での激戦が続く間、米海軍の機動部隊は上陸軍の支援と
    補給艦隊援護のために、沖縄近海に留まっていなければならな
    かった。それを襲ったのが、相次ぐ神風特攻であった。
    
     沖縄攻略戦の総指揮官ニミッツ提督は、地上軍指揮官バック
    ナー陸軍中将に「海軍は一日に1.5隻の割合で艦船を失って
    いる。5日以内に第一線が動き始めなければ、貴官を更迭す
    る」ときびしい表情で申し渡した。
    
     4月1日から6月22日まで日本軍は82日間持ちこたえた
    が、その間に約1900機の特攻機が本土から出撃し、34隻
    の艦船を沈め、空母・戦艦を含む368隻を損傷させた。米海
    軍の戦死・行方不明は約4900名、負傷者は約4800名に
    上った。
    
     作家の山岡荘八は、鹿児島の鹿屋基地で、特攻隊員の出撃を
    見送った際の光景を書き残している。日本大学から学徒出陣し
    た石丸進一少尉(22歳)は5月11日の出撃前に「さあ、名
    残に一丁、元気で行こうぜ」と、ミットを構えた本田耕一少尉
    (法政大学出身)に向けて投球を始めた。一球投げる毎に、
    「ストライク」という声が青空を突き抜けるように響く。これ
    ほど野球が好きだったのかと思うと、山岡は涙で目がかすんで、
    球はまるで見えなかった。10球、ストライクを続けると、
    
        「よーし、これで思い残すことはない。」躍り上がるよう
        にミットとグローブを校舎の中に投げ込んで、私(山岡)
        に笑顔を向け、手を振りながら飛行場へ駆け去った。
        [3,p109]
        
     石丸少尉はそのまま「爆装零戦」に搭乗、本田少尉もその3
    日後に出撃した。沖縄近海で多くのこのような若者が若い命を
    散らしては、米艦隊に大きな損害を与えた。

■7.過酷な運命■

     しかし物量を誇る米軍は、ゆっくりと「耕し、そして浸透す
    る」戦法をとった。無尽蔵の砲爆弾で、日本軍陣地を耕し、洪
    水のようにじりじりと全面に渡って前進する。そして日本軍の
    一角が敗れると、大河の水が堤防の小さな穴から噴き出すよう
    に突破する。
    
     大損害を受けた米2個師団は、後方の新手の2個師団と交替
    した。それに対して、日本軍は増援のないまま総勢2.5個師
    団のみで、最後まで戦わなければならない。勝利の望みもまっ
    たくないまま、一寸刻みで戦力を消耗していく。いずれ玉砕と
    なるのは「時間」の問題である。しかし、本土決戦のためにそ
    の「時間」を一日でも引き延ばし、米軍に少しでも多くの打撃
    を与えることが、沖縄軍の任務だった。将兵はその過酷な運命
    を甘受して死闘を続けた。
    
     沖縄軍は10キロほどの地帯を50余日間もじりじり後退し
    ながら激戦を続けてきたが、八原大佐は5月22日、司令部の
    ある首里まで敵が迫ると、さらに本島南端の喜屋武半島まで後
    退して、抵抗を続けることとした。
    
     那覇の南、小禄村の那覇飛行場を守っていた海軍陸戦隊約9
    千は、魚雷艇による特攻で敵艦船8隻撃沈などの戦果を上げて
    いたが、米軍の上陸強襲を受けて撤退を断念し、玉砕を覚悟し
    た。10日間の死闘を続けた後、太田実司令官は「沖縄県民カ
    ク戦へリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結
    ばれた訣別電報をうって、6月13日、自決した。

■8.秋待たで枯れ行く島の青草は■

     八原大佐は、軍の撤退に際し、住民や首里地方から逃れてき
    た難民には戦場外となる知念半島への避難を命じ、そこに残置
    した食糧、衣服の自由使用を許可しようとしたが、混乱の中で
    指示が徹底せず、また知念半島に向かった住民も殺到する米軍
    の追撃に、怖じ気づいて引き返してくる人々も多かった。
    
     かくして多くの島民が、軍とともに撤退した。沖縄戦で犠牲
    になった住民は10万人にものぼるが、その大半がこの撤退の
    最中に生じた。撤退作戦を立案した参謀として、八原大佐は
    「多くの老幼婦女子を犠牲にしたのは、実に千秋の恨事であ
    る」と述べている。

     喜屋武半島に後退した沖縄軍は、すでに精鋭の第一線戦闘員
    の8割を失い、残された3万人の大部分は未訓練の補充兵や、
    島民からの防衛召集者であった。それでもさらに1ヶ月近くの
    絶望的な戦闘を戦った後、6月18日夕、牛島司令官は大本営
    あて訣別の電報を送った。その末尾は次の和歌で結ばれていた。
    
        秋待たで枯れ行く島の青草はみ国の春によみがえらなむ
        
     秋を待たずに枯れていく島の青草とは、また戦場となった沖
    縄の土地と人々のことも暗示しているのだろうか。とすれば、
    戦後の沖縄の復興を切に願った歌である。
    
■9.つはものの血をもて染めし喜屋武岬■

     21日、戦線視察中の米地上軍司令官バックナー中将が、日
    本軍の砲撃で戦死したとの報が入り、摩文仁の洞窟内の司令部
    は歓呼の声に包まれた。しかし、牛島司令官は敵将の死を悼む
    かのように、皆の歓喜の様を当惑げに眺めている。八原は、あ
    あ、牛島将軍は人間として何と偉大なのだろうと、思わず襟を
    正した。
    
     この日、司令部地下壕にまで、敵の攻撃が及んだ。23日夜
    明け、司令官と長参謀長はしばらく談笑した後、司令部将兵で
    摩文仁山頂を奪還し、両将軍はそこで古式に則って見事な割腹
    を遂げた。

     自決の前に長参謀長は各参謀に、大本営に戦訓を報告する為
    に、この地を脱出して、本土に帰還するよう命じていた。八原
    大佐は幾万の戦友を見捨てて脱出するのは情において偲びがた
    く、また万一本土に帰還できても冷たい目を向けられるだろう、
    と思ったが、弱い死を選んではならぬ、と自分に言い聞かせて、
    島民に化けて脱出した。
    
     大佐は海岸沿いの洞窟に多数の難民とともに潜んでいる所を
    米軍に発見され、米軍に難民の保護を願い出た。その後、収容
    所に入れられているうちに、高級参謀の身分を見破られて逮捕
    され、そのまま敗戦を迎えた。
    
     米軍は先に徒歩半日で一周できるほどの硫黄島を奪うのに2
    万6千の死傷者を出し[a]、いままた沖縄を占領するのに7万
    5千人の死傷者を出した。本土決戦を敢行したら100万人規
    模の死傷者が出るだろうと米国が恐れたのも、あながち誇張で
    はない。この恐れが米政府をして無条件降伏要求を緩和させ、
    日本政府の形態は日本国国民の選択に任されるという条件を引
    き出させた。そこに終戦への一筋の道が開けたのである[b,c]。
    
     昭和21年1月3日、本土に帰る船上で八原大佐は、再び摩
    文仁の丘を眺めつつ、即興の和歌を詠んだ。
    
        つはものの血をもて染めし喜屋武岬緑に和むときぞ悲しき
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(191) 人物探訪:栗林忠道中将〜精根を込め戦ひし人
b. JOG(101) 鈴木貫太郎(下)
c. JOG(151) 阿南惟幾 〜軍を失うも国を失わず

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 稲垣武、「沖縄 悲遇の作戦」★★★、光人社NF文庫、H10
2. 上地一史、「沖縄戦史」、時事通信社、S34
3. 靖国神社編、「いざさらば 我はみくにの山桜」★★★、H6
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「沖縄戦〜和平への死闘」について 
                                      ゴジラズワイフさんより

     毎年のことですが6月23日の沖縄玉砕の日には、政府やマ
    スコミは「国内最後の地上戦」の表現を使いますが、これは歴
    史的事実と相違しています。

     当時の「国内最後の地上戦」は、昭和20年4月1日からの
    沖縄戦ではなく、同年8月9日からの23日までの南樺太での
    戦いです。南樺太は、1905年(明治38年)9月5日にポー
    ツマス条約により、日本に割譲され、1945年(昭和20年)
    9月2日に降伏文書に調印するまでは、正当な日本の領土であ
    した。

     昭和20年8月9日にソ連軍が翌年の4月まで有効であった
    中立条約を一方的に破って南樺太に侵攻した時に、南樺太を守
    備していた峯木中将の第88師団及び配属部隊は、特に北部の
    国境では激戦を行い、圧倒的に優勢なソ連軍を食い止めました。

     ソ連軍は南樺太で予定外の時間を費やさざるを得なくなり、
    それが大局的には、ソ連軍の北海道への侵攻を出来なくさせ、
    終戦となり、北海道分割の悲劇が避けられたのです。

     現在の日本の領土でないからといって、南樺太を無視するの
    は、当時の日本の国土を守るために、勇戦奮闘してその地に眠
    ったままの英霊に対して申し訳ないと思います。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     終戦前後の南樺太、および、北千島での戦いはまた本誌で取
    り上げたいと思います。「最後の戦い」という副題は訂正させ
    ていただきました。ご指摘ありがとうございました。

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