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[トップページ] [平成13年一覧][地球史探訪][210.68 日韓併合]

-----Japan On the Globe(204)  国際派日本人養成講座----------
          _/_/   
          _/    地球史探訪: 朝鮮殖産銀行の「一視同仁」経営
       _/_/
_/ _/_/_/         朝鮮農業の大発展をもたらしたのは、日本人と
_/ _/_/         朝鮮人の平等・融和のチームワークだった。
-----H13.08.26----35,417 Copies----305,439 Homepage View----

■1.日本統治下の発展■

         日帝(日本帝国主義)の支配下で、わが民族はとくに経
        済的な収奪によってひどい苦痛を受けるようになった。
    
    と、韓国の歴史教科書は日本統治時代を批判するが、当時の朝
    鮮経済の発展を定量的に調べてみると、そこに浮かんでくるの
    は、この文章にはそぐわない逞しい発展の姿である。
    
     朝鮮半島の人口は1906年(明治39年)の980万人から、193
    8年の2,400万人と、約30年間で2.45倍に急増した。その原因
    は、医療制度の確立と、米の大増産だった。後者については併
    合当初の生産量約1千万石が、20年後には2千万石へと倍増
    した[a]。 韓国の歴史学界でも経済史分野では、日本統治を再
    評価する研究者が3分の1を占めるというが、反日イデオロギ
    ーにとらわれない実証的研究の進展を期待したい。
    
     今回はその一端として、米大増産を誰がどのように推進した
    のか、史実を辿ってみよう。

■2.日朝融合の開発を■

     大正7年夏、京阪神、東京を中心に米騒動が勃発し、その責
    任をとって、寺内内閣が総辞職をした。投機による米価高騰が
    原因だったが、その根底には人口増による国内の生産量不足が
    あった。後継の原内閣は長期的展望に立った食糧問題解決のた
    めに、「開墾助成法」を制定し、産米の増大を図った。しかし
    この法案は日本内地だけを対象としており、朝鮮殖産銀行初代
    頭取・三島太郎は大いに憤慨して、これを朝鮮にも施行するよ
    う強く建議した。
    
         日本内地と朝鮮とは、幾多の関係に照らして考えれば、
        これを差別して母国対植民地とみなすのは妥当ではない。
        ・・・ たとえば、今回の開墾助成法に基づく米穀増収計
        画のような立法精神に照らして、最もその実効を期そうと
        すれば、むしろまず朝鮮において施行すべきである。
        
         これまでの(内地からの)移民の招致にあたっては、多
        くの場合、既成の開墾地を買い入れることを常とした。そ
        のために朝鮮人を圧迫し、その利益を剥奪するような結果
        を生じ、反感を激成した事実がある。・・・したがって、
        移民招致の方針と開墾助長の計策とを併せて行ない、もっ
        ぱら未開墾地の開墾を促進し、それをもって日本人移住者
        の安定を図れば、朝鮮人の悪感を誘起することはない。
        
         朝鮮産業の開発は、交歓をもって隣人関係を保つ日本人
        と朝鮮人融合のもとに、協同の力によってこそ、有終の効
        果を発揮できるものといわなくてはならない。
    
     三島の建議が奏効して、朝鮮殖産銀行を中心に半島における
    米増産に本格的に取り組む事となり、突貫作業で「第一次朝鮮
    産米増殖計画」が立てられ、さらに5年後に見直されて「産米
    増殖更新計画」が制定された。これは大正15年からの12年
    間で、3億25百万円を投じて、35万町歩の土地改良・農地
    造成を行い、年産816万石の増産を図り、約3百万石を半島
    内の消費増にあて、残りを内地販売に向ける、という計画であ
    った。併合当初の年産1千万石と比較すれば、この計画の壮大
    さが窺われよう。
    
■3.朝鮮農業の課題■

     増産の主要な柱として水利事業があった。半島での面積あた
    りの米収量は内地の半分以下であり、これは天水(雨水)頼み
    で、3年に一度くらいの雨の多い年でなければ、収穫の望めな
    い天水田が過半を占めていたことによる。
    
     朝鮮半島はもともと雨が少なく、それも6月から8月に集中
    する。この量と時期が少しでも狂うと米作は大きな被害を被る。
    大正8年は降雨量が平年の3割に過ぎず、中、西部において大
    干害が起こって、70万人が流民となって他地方や満洲に流出
    したほどであった。
    
     少ない降雨を効果的に利用するには、灌漑施設が不可欠であ
    る。しかし朝鮮半島はこの面で大きく立ち後れていた。半島全
    体の灌漑施設数は2万4千カ所に過ぎず、日本の香川一県と同
    程度であった。また十分な補修もされずに、荒廃して用をなさ
    ない施設も多かった。これは李朝朝鮮時代に地主は都市に住ん
    で農業技術も知らず、蓄えができれば高利貸しに回して、利の
    少ない農業への投資を喜ばなかったからである。
    
■4.大規模灌漑施設で収量3倍増■

     殖産銀行の水利事業は、灌漑施設の建設により、安定した収
    穫を上げることをめざしていた。まず農民たちに水利組合を結
    成させ、その組合に対して灌漑事業用の資金を貸し付ける。資
    金は担保不要で、朝鮮総督府自体が保証人となっていた。15
    年から20年の長期返済で、各農民が支払う水利組合費から支
    払われた。
    
     灌漑工事の大規模なものを見てみると、益沃水利組合におけ
    る大雅里貯水池堰堤は、コンクリート堰堤の高さ30.9m、
    延長254mに及び、ここで堰き止めた貯水を総延長71km
    の水路で10キロ四方程度の広大な田に配分していた。
    
     乾ききった天水田に満々と灌漑水が満たされた時の朝鮮農民
    の喜びようは大変なものだったという。収穫の安定から生産意
    欲も向上したことも、大幅な収量増に貢献した。
    
     昭和11年時点では、このような水利組合が190に上り、
    実施面積20万町歩、反当たり収量は0.49石から1.49
    石へと3倍になり、総額において202万石の増収が得られた。
    反あたりの水利組合費は、益沃の場合4.35円であり、1石
    の増加は40円程度の売上げ増につながったので、朝鮮農民の
    収入は著しく増大した。
    
     水利事業以外にも、朝鮮殖産銀行は農業倉庫の建設、化学肥
    料の使用、大規模干拓事業などに融資し、朝鮮農業発展の原動
    力となった。
    
■5.困難だった内地からの資本調達■

     このように朝鮮殖産銀行は長期的な資本投下により朝鮮農業
    の近代化に大きく貢献したのだが、その資本はどこから調達し
    たのか? 現代のような開発銀行もODA(政府開発援助)も
    ない時代である。ここに殖産銀行の最大の課題があった。
    
     産米増殖計画に必要な膨大な資金を調達するには、半島の地
    場資本では到底足りず、内地の金融市場をあてにする必要があ
    る。しかし、その内地の資本はきわめて臆病で、事情のよく分
    からない半島での長期事業に投資しようとはしなかった。現在
    でも開発途上国の国債を喜んで買う人はいないのと同じである。
    
     2代目頭取有賀はその説得に多大の労力を費やした。その努
    力が稔って、殖産銀行は、所要資本の60%から多いときで8
    0%近くを殖産債権の形で内地金融市場から調達した。また配
    当を確実に行って、市場の信用を高めた。これにより大正7年
    から昭和20年までに貸付量では実に100倍もの成長を支え
    たのである。
    
■6.朝鮮の文化伝統に則り、自主自立の精神を鼓舞する■

     殖産銀行による産米増殖計画は、大きな特徴が二つある。一
    つは市場原理に基づき、金融市場から資本を調達し、朝鮮農民
    の自立心を刺激しつつ採算のとれる事業化を進めた点。現代日
    本の公共投資などよりもはるかに市場原理に則った進め方だ。
    
     もう一つは朝鮮農民の文化的伝統を尊重した進め方である。
    上述の水利事業では水利組合の結成が重要なテコとなっている
    が、朝鮮では伝統的に「契」という強力な自治組織があり、こ
    れを大いに活用したものであった。
    
     実は第一次朝鮮産米増殖計画の直前に、「朝鮮農事改良(
    株)」を設立するという政府案があり、国会にまでかけられた。
    これは朝鮮に日本の大資本と新技術を投下して、一挙に増産を
    図ろうという構想だった。三島頭取はこのようなあまりにも植
    民地主義的な開発方式では、朝鮮の民族感情を著しく傷つける
    恐れ有り、と論難して、不成立となったという経緯があった。

■7.一視同仁の銀行経営■

     朝鮮農民の文化伝統を尊重し、自主自立の精神を重んずる進
    め方は、日韓併合時に謳われた「一視同仁(すべての人を平等
    に見て仁愛を施すこと)」、「内鮮融和(内地と朝鮮との融
    和)」を初代頭取・三島が現実に朝鮮殖産銀行の経営に生かし
    て行こうとした所から生まれた。
    
     その具体的な現れとしては、日本人と朝鮮人を完全に同一
    待遇とした点がある。殖産銀行に勤務した朴承復さんの証言を
    聞いてみよう。
    
         当時の朝鮮人にとっては最も人気の高い銀行は殖産銀行
        でした。次に朝鮮銀行、次に商業銀行や朝興銀行でした。
        
         なぜ殖産銀行の人気が高かったのかと言えば、まず第一
        に給料のよさです。朝鮮に来ていた日本人は、日本にいる
        日本人より給料が高かったんです。基本給に外地手当ての
        加給が60パーセント加えられました。役所や一般の会社
        では朝鮮人には外地手当ての加給はつきませんが、殖産銀
        行では日本人と同じに朝鮮人にも60%の加給が加えられ
        るんです。[2,p160]
        
     今日でも、日系企業の海外子会社の現地社員と日本からの駐
    在員とが同待遇というのはまれである。大不況の時には、この
    点を改めて、費用削減を図るように内外から圧力がかかったと
    いうが、二代目頭取・有賀はこの平等待遇を貫き通した。

■8.人材の宝庫■

     待遇だけでなく、当時の日本人と朝鮮人がまさに一体感をも
    って仕事に取り組んでいた様子を朴承復さんは次のように語る。
    
         戦後までに支店長が三人代わりました。その一人に滝と
        いう支店長がいましたが、お酒の大好きな方でした。毎日
        清酒を一升飲むんです。日本人の独身の男性もいたのです
        が、滝さんは独身の私を奥さんを通してよく家に呼んでく
        れました。銀行の風呂に入ってから卓球をやり、それから
        お酒になるのです。・・・
        
         行員家族全員で地方の温泉地へ一泊旅行に行ったりもし
        ました。日本人も韓国人も区別なく、みんな仲よく楽しく
        遊んでいました。
        
         日帝(日本帝国主義)時代にそんなことあり得ないと言
        われるかもしれませんが、過激な人や極端な人たちの一部
        での喧嘩や衝突はあっても、一般の日本人と韓国人のぶつ
        かり合いなんか、見たこともありません。[2,p163]
        
     大東亜戦争が始まると、日本人行員は次々と赤紙で徴兵され
    ていったが、朝鮮人は炭鉱などに徴用された。朴承復さんの所
    にも徴用の赤紙が来たときに、滝支店長は「ばかやろう」と言
    葉を発するや、知事の所に行って「彼が行ってしまったら、こ
    の銀行はつぶれてしまう」と言って、徴用を撤回させた。
    
     殖産銀行が、朝鮮農民の痒い所に手の届くような事業を進め
    て大きな成果を上げ得たのも、朴承復さんのような現地人エリ
    ートに存分に活躍させたからであろう。朝鮮人で支店長になっ
    たり、課長が朝鮮人で部下が日本人ということも当然あった。
    
     このように殖産銀行は朝鮮の優秀な青年を抜群の待遇で採用
    し、大きな仕事を任せたので、後に人材の宝庫と言われるよう
    になった。戦後の国家再建委員会の20人の委員のうち、実に
    12名が殖産銀行出身者で占められていた。朴承復さん自身も
    国務総理行政調整室長などの要職を経て、世界シェア3位のセ
    ンピョ醤油の代表となっている。

■9.有賀光豊の遺徳■

     有賀の四男・敏彦氏は、新日鐵の技術者として、昭和40年
    から約10年間にわたり、浦項製鉄所の建設指導を行った。同
    氏はその時の思い出を次のように語っている。
    
         私が浦項在任中、父光豊の四男であることが知られるよ
        うになり、直接父を知る人、或いは密かに敬慕していた多
        くの韓国人から非常に親しく付き合って貰うことが出来、
        難事業であったものの極めて円滑に進捗することができた。
        [1,p465]
        
     この敏彦氏のもとに、昭和40年代にソウル在住の見知らぬ
    韓国人から手紙が届いた。李廣基というその差出人の父親は、
    かつて日本統治時代に独立運動で捕まり、死刑の判決を受けた
    のだが、有賀が助命嘆願して海外追放となり、終戦後に帰国し
    て郷里で余生を過ごしたという。
    
         生前、命の恩人である有賀様に一目でもお目に掛かって、
        お礼を申し上げたかったのだが、その機会を得ず、まこと
        に心残りである、有賀様は既に御存命でないと聞いている
        が、せめて、お前が有賀様の遺族の方を探して、お礼を申
        し上げてくれ、と言い続けておりました。
        
         私は父の遺志を果たすべく、つてを求めてご遺族を探し
        ておりましたが、ようやく今日、ご子息である貴台の住所
        を知り、御手紙を差し上げる次第です。
        
         亡父に代わって、有賀光豊様の御鴻恩に対し厚く御礼申
        し上げます。
        
     この「亡父」と有賀光豊がどういう関係にあったのか、有賀
    は一切語っていないので分からない。しかし敏彦氏はこう述べ
    ている。
    
         父は、「朝鮮は我々がお手伝いをして立派な国に育て上
        げ、そのうえで本来の持ち主に返すべきだ」と考えていた
        ことは、ほぼ間違いない事と思う。
        
     朝鮮農業の大発展の原動力となっていたのは、このような精
    神の持ち主であった。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(056) 忘れられた国土開発
b. JOG(005) 国際交渉の常識

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 藤田文吉、「朝鮮産業経済の近代化と朝鮮殖産銀行」★、
   西田書店、H5
2. 呉善花、「生活者の日本統治時代」★★★、三交社、H12
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「朝鮮殖産銀行の『一視同仁』経営」について
                                           Yosihiroさんより

     私の父は、終戦までの約20年余り、韓国で当時の韓国人のた
    めの旧制中学校の教師をしておりました。わたしも、韓国でう
    まれました。まだ幼かったころの終戦前後の日々の出来事が、
    まるで映画のシーンのように、脳裏に焼き付いております。
    自宅の庭に引き出された人が、棒でたたかれ悲鳴をあげている
    ところへ、父がはだしで飛び出ていって、間に入りとめていた
    シーン。(随分大きくなって父に聞くと、生徒の間で人気の悪
    かった若い日本人教師が報復されていたとのこと)

     トンネルの中では息もできないくらい煙の多かった引き揚げ
    の列車の中で(機関手が韓国人に代わったため、技術が未熟で
    そうなったそうです)家族でない人たちがずっと一緒だったシ
    ーン。これもずいぶん後になって父に聞いたのですが、「日本
    語をしゃべると危ないから、先生たちは日本語をしゃべらない
    で下さい」といって、麗水まで教え子達が送ってくれたそうで
    す。

     また、約7〜8年前、「私はあなたのお父さんの教え子だが、
    同窓会で近くにくることがあったので、お父さんのお墓にお参
    りをさせて下さい」という電話があり、拙宅に来られ、仏壇の
    前で頭をすりつけるように拝んで頂いたことがありました。終
    戦時には女学校を卒業していた姉がいたのですが、こられる前
    に、その姉の名前が出て、「お元気にされていますか」という
    ことで、「近くにいますよ」と答えると、是非お会いしたいと
    いわれたので姉もよんでおりました。
    
     思い出話の中で、終戦から帰国するまでの約半年間、ときど
    き早朝、玄関の木に枝に、食料品のはいった袋がぶらさがって
    いたことを姉が話しますと、「あれは実はぼくらがやったので
    す。わかると親日分子ということでまずいから、朝早くこっそ
    り判らないように木につるしたのです」ということでした。実
    はこの方は、日本の医専を卒業され、その同窓会でこちらにこ
    られていたのですが、約20年前に、教え子の世話人代表として、
    父母を韓国に招待してくださった方でした。

     父は戦後日本に引き揚げて以来、ほとんど韓国のことを語る
    ことがなく、戦前からの東京在住の教え子とは年賀状のやりと
    りがあったようですが、韓国との文通ができるようになって、
    韓国の教え子たちから年賀状や手紙がきても一切の返事を書い
    ておりませんでした。家族がどうして返事を書かないのかを聞
    いても、何も答えませんでした。それが、韓国旅行から帰って
    以来、態度が一変し、韓国時代のことを語るようになったので
    す。

     元日本人教師の来訪と、各地での教え子の歓待振りを載せた
    写真入りの新聞の切抜きを持って帰り、また会った教え子の名
    前を全員一人残らず言えたと非常に喜んでおりました。そして、
    教え子達が卒業年次ごとに、木曜会とか水曜会と名づけて、頻
    回に同窓会を持っていること、そして皆が指導的地位にあるこ
    となどを誇らしげに語っておりました。そして、お土産にもら
    った韓国の置物とか、掛け軸とかが、それまでの床の間のもの
    に取って代わるようになったのです。父のそれまでの韓国への
    わだかまりが、この旅行でとけたからのようです。引揚げ時に、
    命の次に大事だと思っていた蔵書一切を預けて帰った、一番信
    頼していた教え子から、日韓の文通ができるようになって、ま
    ず手紙がくると期待していたそうですが、それがこなかったた
    めに、韓国での自分の教師生活の大部分が否定されたと思って
    いたそうです。

     戦後、引揚者の私達の生活は必ずしも安泰なものではありま
    せんでした。引揚げてきて以来、もう教師はしないと父はいっ
    ていましたが、手を出す事業にことごとく失敗し、家族を食わ
    せるために仕方なく教師に逆戻りしました。しかし、韓国時代
    に比べて生徒の熱意と質が違うと怒り、特に試験の時などの父
    の機嫌の悪さは私達家族には大変なものでした。韓国の教師時
    代を懐かしむ反面、内心のどこかで、何か韓国に関してひっか
    かりがあったのです。韓国でその教え子と会ったとき、朝鮮戦
    争で全てを焼かれ、父への申し訳なさに真相を話せなかったこ
    とを聞いて、それまでのわだかまりが氷解したそうです。

     私は、このような父を通じてずっと韓国が好きでした。そし
    て父の教え子の方々を通じても韓国が好きでした。植民地であ
    ってみれば、必ずしも日本に好感を持っていないことは致し方
    がありません。お前の韓国好きは、お前の個人的な体験を通じ
    ての勝手な思い込みであって、韓国にしてみれば迷惑な話だと
    怒られるかも知れません。また日本統治時代の良かった面を押
    し付けようなどという気持ちなどは更々ありません。日本統治
    時代の悪い面も充分承知しているつもりです。しかし、庶民の
    レベルでは、人間と人間として、信頼しあった関係もあったこ
    とは紛れもない事実です。父は亡くなり、また教え子達も、も
    う殆どが高齢か亡くなっております。だんだん風化してゆき、
    このようなことが全く無かったかのごとく、反日にあふれる情
    報のみを今の若い韓国の人々が持っているとすれば、今でもま
    だ韓国ファンである私にとって悲しいことです。教科書問題、
    靖国問題から、こじれつつある両国の関係に少なからず胸をい
    ためております。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     朝鮮でも、台湾でも日本人教師と生徒たちの師弟愛が戦後も
    続いています。Yosihiroさんのお父さんのような立派な教師が
    たくさんいらっしゃったことを有り難く、また誇らしく思いま
    す。

■菅沼さんより

     Yosihiro様の文章に感動し、筆を執らせていただきます。
    
     私は今25才ですが、昨今の教科書問題、靖国問題などでの韓
    国の行動・言動を見ておりますと、その不条理さに憤りを感じ
    るのを押さえられませんでした。ネット上では彼の国に対する
    もっと過激な言動も多く、それらを見ているうちに、私の中に
    も嫌韓感情なるものができあがりつつあったようです。

     しかし、今回のYosihiro様の投稿されたお話、戦前、戦中、
    戦後に、人間同士として先人の方々の間で交わされた、人間味
    と矜持にあふれるお話を拝読し、そんな自分が恥ずかしくなり
    ました。

     国と国との間では、火花を散らすような国益の追求合戦があ
    ってしかるべきです。その上で、なお不条理な要求には非難の
    声を上げればよいのであって、ひとまとめに、そのような国は
    嫌いだ、などと考え始めていた自分の不明に気づかせてくたの
    です。

     どんな教科書よりも、どんなプロバガンダよりも、どんなニ
    ュースよりも、こうした私たちの父母、祖父母ら先人の実話は、
    胸にグサリとくるものがあります。諸先輩方がお持ちになって
    いるそれぞれの物語をもっと聞けたらばと願って止みません。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     Yasuhiro様のようなお話しを、国民同士で共有すれば、もっ
    と相互の理解と敬愛が進むのでしょう。

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