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-----Japan On the Globe(212)  国際派日本人養成講座----------
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          _/    人物探訪:無私の激突、征韓論〜西郷 対 大久保
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_/ _/_/_/         意見の純粋さだけで、かれらは国家をふたつに
_/ _/_/         割るほどの対立をしてしまったのである。
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■1.西郷の遠大な防衛構想■

         朝鮮国の暴慢無礼はもはや許し難いものがある。ただち
        に出兵すべきだ。

     明治6年6月12日の閣議で、参議・板垣退助が強硬論を吐
    いた。これが誕生したばかりの明治新政府をゆるがす征韓論の
    閣議における第一声であった。
    
     明治元年以来、新政府は朝鮮に国交回復を5年以上も呼びか
    けていたが、朝鮮政府は国書の中に「皇祖」など清国皇帝が使
    う文字があると受け取りを拒否し、さらに「日本人は西洋人と
    交わって、もはや禽獣(鳥や獣)と変わるところがない」と、
    日本公館への食糧供給も拒んで国外退去を命じた。日本国内は
    これに激高していた。特に別府晋介や桐野利秋など西郷門下の
    陸軍幹部達が強硬派だった。

     西郷隆盛は板垣の強硬論を抑えて、「先に軍事行動に出るの
    はよくない。まず特命全権大使を送り、朝鮮政府と意を尽くし
    て話し合うべきだ。それでも応じなければ、議を世界に明らか
    にして出兵すべきだ」と言った。そして自分がその大使になり、
    護衛もつけずして朝鮮に行き、道理を尽くして修交と和親を求
    めようと提案した。
    
     維新の際も、西郷は幕府代表の勝海舟と差しで話し合い、無
    事に江戸城明け渡しを実現して、江戸を戦火から守った。今回
    も西郷は朝鮮の実力者、国王の実父大院君に対して、同じ方法
    で解決を図ろうとしていた。韓国と固く手を結べば、いずれ清
    国と結ばれる日も来る。そうすれば、国内の不平派も、敵は韓
    国や清国ではなく、東アジアを狙うロシアであり、欧米諸国で
    あることが分かるだろう、、、西郷の遠大な防衛構想だった。
    そのために、西郷は朝鮮や上海、満洲にまで部下を潜入させて、
    大陸の実情を探らせていた。

     三条太政大臣は戦争につながりかねない重大事なので、1年
    9ヶ月におよぶ欧米見学[a]を終えてまもなく帰朝する右大
    臣・岩倉具視を待って熟議を尽くそう、と何とか先送りにした。
    
■2.大久保の覚悟■
    
     9月13日に帰国した岩倉は、西郷が使節に発てば、かなら
    ず殺され戦争になる、そうなれば清国、ロシア、イギリスなど
    が介入してくると読んだ。しかし、西郷を止められるのは、同
    郷の畏友・大久保利通しかいない。岩倉は9月28日夜、大久
    保を訪ねて、参議就任を懇請した。
    
     岩倉とともに欧米を見てきた大久保はもとより征韓論に反対
    だった。しかし、西郷を敵に回すということは、薩摩士族を敵
    に回すということだった。たとえ西郷を論破できても、自分は
    殺される、、、。即答を避けて、岩倉を帰した後、大久保は一
    人考えた。
    
         このまま座して征韓を通すか。帝には不忠。己には怯懦。
      
     10月10日に至って、大久保はついに三条と岩倉に参議就
    任承諾を伝えた。その夜、大久保は子供たちに遺言めいたもの
    を書いた。
    
         此難に弊(たお)れて無量の天恩に報答奉らん・・・此
        難小子(自分)にあらざれば外に其任なく・・・
        
     アメリカに留学中の次男伸顕には、こう書いた。
    
         私は実によい時代にめぐりあわせた。死すともすばらし
        いことである。自分一人としては一点の思い残すこともな
        い。・・・ただ外国で自分の変を聞いて、さぞかし驚くこ
        とであろうが・・・

     大久保は新参議として、自分とともに征韓派の先鋒である外
    務卿の副島種臣も加えるように岩倉に頼んだ。征韓派にも閣議
    で十分発言させ、堂々と戦おう、との覚悟だった。

■3.両雄激突■

     新参議の大久保と副島を加えた閣議は10月14日に開かれ
    た。岩倉が冒頭で反対論を陳べた後、大久保が発言を求めた。
    
         わたしは韓国問題はしばらく延期して時期を待つべきだ
        と思う。・・・世界の情勢を考えれば、何よりもまず内治
        を整えて国力の充実をはかり、然る後に外征に及ぶのが順
        序であります。これは三歳の童子にも明らかな道理であり
        ます。
        
     「大久保、お前は!」と西郷が驚きの声を上げたが、大久保
    は続けた。新政府の基礎はまだ固まらず、地租改正や徴兵令を
    めぐる一揆が頻発している。財政も貿易も赤字で、戦争となれ
    ば国内産業は衰え、艦船や武器弾薬の輸入は増えて、国家財政
    は破綻する。英国には5百万両もの外債があるが、これが返済
    できなくなると、インドの二の舞になって独立を失いかねない
    、、、
    
     西郷が「誰も戦争を起こせとは言っておらぬ。俺は韓国には
    一兵もつれて行かぬのだ」と言うと、「君がどう思っていよう
    と、相手が拒絶すれば戦争になるのだ」と応える。西郷は怒鳴
    った。
    
         おれは今日まで、おまえを勇者だと信じていたが、いつ、
        どこで、腰を抜かして、薩摩一番の臆病者になってしまっ
        たのか!
        
     大久保は西郷の怒りをものともせずに、自説を続けた。
    
         政府の根本を画定するためには衆説にまどわされてはな
        らぬ。特に思い上がった陸海軍人どもが政府の命令を遵奉
        せずに、下士官兵士の末に至るまで粗暴軽率の行動に走り
        がちな現状においては、、、
        
         兵隊を暴走させぬために、いかにおれが苦心しているの
        か、おまえにはわからぬのか。
          
         暴徒に媚びていては、暴動を鎮めることはでき申さぬ!
        
■4.西郷が去れば■

     各参議も思い思いに発言し始めたので、収拾がつかなくなっ
    た。岩倉が三条の脇腹をついて、休息を宣言させた。大久保が
    立ち上がって、部屋を出ていく。西郷は三条と岩倉の前に行っ
    て、低く沈んだ声で言った。
    
         もし遣韓大使の議がつぶれるようなことがあったら、わ
        たしは政府にとどまることはできませぬ。辞職して故山に
        帰るつもりであります。
        
     三条と岩倉は顔色を変えた。西郷が去れば、陸軍や薩摩士族
    が黙っていない。
    
     午後の閣議もついに結論なしに終わった。外征の前にまず内
    政を整えよ、という原則には誰も異存がない。困ったことに、
    西郷は出兵も外征も唱えていない、ただ一人、丸腰で韓国に行
    き、腹を割って大院君と話し合うことが、日韓摩擦を解決し、
    征韓論に沸き立つ民心を鎮める道だと確信している。
    
     これに対して、大久保や岩倉は、大使派遣はそのまま戦争に
    つながり、ロシア、イギリスの干渉を招き寄せて、国がつぶれ
    ると主張してる。結局、先の読みの問題なので、双方に議論の
    決め手はなく、堂々めぐりをするだけだった。
    
■5.「右大臣はよくもふんばった」■

     決断を下すべき太政大臣・三条の唯一下した決断は、明日も
    閣議を続けるということだけだった。しかし、西郷は言うべき
    事は言い尽くしたとして、出席を断った。
    
     翌15日の会議では、参議の江藤新平が、大使派遣をとりや
    めても兵隊がおさまらず、結局出兵になるのだから、大使を出
    した方が懸命だと論じたて、三条と岩倉は別室で協議の上、
    「やむなく西郷の見込み通りに委す」と決した。
    
     大久保は翌朝、三条に辞表を出した。絶句する三条に追い打
    ちをかけるように、岩倉の辞表も届いた。岩倉は西郷の影に怯
    えて大使派遣に屈した自分が許せなかった。決議通り天皇への
    上奏を迫る西郷と、辞職を申し立てる岩倉・大久保の板挟みと
    なった三条は、17日深夜に昏倒して人事不省に陥った。
    
     太政大臣の代行を天皇から命ぜられた岩倉のもとに、西郷、
    板垣、副島、江藤の四参議が、桐野利秋や別府晋介など血相を
    変えた軍人を連れて押しかけた。四人の参議は、大使派遣の閣
    議決定を奏上して、勅許を得るように迫ったが、岩倉は頑とし
    て承知しなかった。「もう良い。わしはこれで御免こうむる」
    と西郷は出ていった。岩倉は見送ろうともしない。完全な決裂
    だった。岩倉邸を出るとき、西郷は「右大臣はよくもふんばっ
    た」といかにも西郷らしい冗談を言った。

■6.西郷、動かず■

     薩摩に帰ろうとする西郷に、板垣が手を握りたいと提案した。
    西郷は「ほっておいてくれ」と断った。この時点で兵を動かせ
    るのは、薩摩の外には板垣の土佐だけであった。薩摩と土佐が
    組めば、政府は明日にもひっくりかえる。そんな事をすれば、
    イギリスやロシアを喜ばせるだけだ、というのが、西郷の考え
    だった。
    
     西郷は桐野利秋ら強硬派の軍人たちと鹿児島に帰ったが、実
    弟・従道、従兄弟の大山巌はじめ、多くの薩摩出身の人材は東
    京に残った。強硬派のみを鹿児島に連れ帰って、東京を沈静化
    させたかのようである。そして鹿児島では私財を投じて私学校
    を設立し、来るべきロシアとの戦争に備えて、青年の教育にあ
    たった。
    
     翌明治7年2月、江藤新平が佐賀で反乱を起こした。江藤は
    薩摩の呼応に期待したが、西郷は立たなかった。政府軍に鎮圧
    された後、江藤は鹿児島に逃れたが、西郷に保護を断られ、逮
    捕されて、死刑に処せられた。
    
     明治9年10月熊本での神風連の乱、同月福岡での秋月の乱、
    萩の乱と、士族の反乱が相継ぐが、西郷はじっと動かず、大久
    保は一つ一つ鎮圧していった。
    
■7.「わいの体をおはんらに預け申そう」■

     明治10年1月、陸軍省が鹿児島の兵器・弾薬庫から夜陰に
    まぎれて武器や火薬を運び出すと、それをかぎつけた私学校生
    徒らが憤激し、武器弾薬を奪い取った。西郷は「しもた」と叫
    んだが、燃え上がった火はもう収まらなかった。桐野らに挙兵
    の決断を求められると、西郷は言った。「わいの体をおはんら
    に預け申そう。」
    
     2月15日、西郷軍1万5千は鹿児島を出発。「政府に尋ね
    たき儀これあり」という素っ気ない理由で、勇ましい政府批判
    の声はなかった。一挙に船で、東京、大阪に上陸すべしという
    主張も出たが、奇策として退けられた。西郷軍は愚直に熊本城
    を攻めたが、城攻めの大砲もなく、また関門海峡を渡る船の用
    意もなかった。西郷は勝利を狙っていたのだろうか?
    
     西郷軍は熊本から敗退して、鹿児島に戻り、城山に立て籠も
    った。9月24日、政府軍の一斉射撃で2発の銃弾を浴びると、
    西郷は「晋どん、もうここでよか」と別府晋介に介錯を命じた。
    享年51歳。

■8.生も死も天命■

     隆盛挙兵の報を聞いた時、大久保は座敷内をぐるぐる廻りな
    がら、「馬鹿なことを」とつぶやき、そして絶句した。目から
    ポロポロ涙を流しながら。
    
     その大久保も、翌明治11年5月14日、馬車で出勤する途
    上を士族6人の刺客に襲われ、惨殺された。生も死も天命とい
    う信念から護衛をつけていなかった。享年49歳。
    
     大久保の死後、親族が遺産を確かめたら、わずかな現金しか
    なく、逆に8千円もの借金が発見された。公共事業の予算が足
    りない分を、大久保が個人で借り受けたものであった。土地や
    建物も抵当に入っていたため、遺族は住む家さえなくなってし
    まう。政府は大久保が生前鹿児島県庁に「学校費」として寄付
    した8千円を回収し、さらに8千円を加えて計1万6千円を遺
    族に贈った。

■9.無私の激突■

     韓国近代史の第一人者・李セン(王ヘンに宣)根博士は、次
    のように語ったと伝えられる。[3,p152]
    
         これまで自分は、西郷隆盛を征韓論の親玉のように誤解
        していた。もしあの時西郷の遣韓が実現して、大院君と二
        人で腹を割って話していたら、その後の日韓関係は違った
        ものになっていたであろう。惜しいことをした。
        
     西郷の夢見た日韓中連合による欧米諸国への対抗が実現して
    いたか、あるいは、大久保の読み通り、韓国との戦争からロシ
    アやイギリスの干渉を招いて亡国に至ったか、知るよしもない。
    しかし、この点で西郷と大久保は意見を異にしていても、その
    生き様は共通だった。司馬遼太郎は次のように語ったそうであ
    る。[2,p341]
    
         征韓・内治両派の巨魁は、それぞれの意見を通すために
        死を賭していた。がこれほど小説になりにくい事件もなか
        ろう、小説になるために必要な人間現象−たとえば私利や
        私権の追求といったふうなものが、奇跡といっていいほど
        に双方の巨魁になかった。意見の純粋さだけで、かれらは
        国家をふたつに割るほどの対立をしてしまったのである。

                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(208) 地球史探訪:岩倉使節団〜サムライ達の地球一周

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 中村晃、「大久保利通」★★、PHP文庫、H9
2. 林房雄、「西郷隆盛 10」★★★、徳間文庫、S61
3. 名越二荒之助他、「日韓2000年の真実」★★★、国際企画、
   H9
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「無私の激突、征韓論」について 森本さんより

     留学当時、また日本の大学に在学していた頃、身近にいた韓
    国人留学生と歴史認識についてよく議論したものでした。中に
    は、日本人に対して感情的な敵対心を持っていた人もおりまし
    たが、当時の東アジアのパワーバランス、特にアヘン戦争後の
    欧米によるアジアの植民地化競争とロシアの南下の脅威に対し
    て、日本国内においては朝鮮と手を組んでロシアの南下を阻も
    うとする勢力と、朝鮮に進出することによってロシアの南下を
    阻もうとする勢力があったことを話してきました。
    
     韓国人の留学生も、日本が朝鮮に進出していなければ、朝鮮
    半島全体がロシアに蹂躙されていた可能性が極めて高かったこ
    とを理解すると、初めて冷静に議論することができ、その後良
    い友人になった人も少なくはありません。国際交流というと、
    大げさな感がありますが、個人と個人の人間関係・信頼関係の
    総和がより良い国家関係の礎となると思います。その意味では、
    歴史の結果・事象だけ見るのではなく、その背景まで理解する
    ことは極めて重要なことだと思います。
    
     今回のJOGでは、征韓派としての西郷隆盛が、武力ではな
    く、自ら単身韓国に乗り込み平和的な解決を目指していたこと
    を知り、より正確な歴史認識が必要だと再度考えさせられまし
    た。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     森本さんのような歴史対話をどしどし展開して欲しいですね。

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