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-----Japan On the Globe(225)  国際派日本人養成講座----------
          _/_/   
          _/     人物探訪:仰げば尊し
       _/_/           〜伊沢修二と台湾教育の創始者たち
_/ _/_/_/         新領土・台湾では教育こそ最優先にすべきだ
_/ _/_/          と、我が身を省みずに尽くした先人たち。
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■1.「国民教育発祥の地」■

     1995(平成7)年、台湾・台北市北郊にある「士林国民小
    学」の百周年記念式典が開かれた。陳水扁・台北市長(現・総
    統)も来校して祝辞を述べた。学校の展示室には歴代校長の写
    真が飾られている。初代は日本人・伊沢修二。100年前の明治
    28(1895)年、日本による台湾統治の開始と同時に伊沢修二が
    創設した芝山巌学堂をこの小学校の始まりとしているのである。
    
     芝山巌学堂の創設された翌年の正月、日本人教員6名が土着
    の匪賊に惨殺されるという痛ましい事件が起こった。この犠牲
    者を祀る「六士先生之墓」は、戦後蒋介石政権によって破壊さ
    れていたのだが、士林国民小学の校友会の手によって立派に再
    建された。この式典には「六士先生」の遺族縁者も日本から招
    かれていた。
    
     その5年後の105周年には、同じく校友会により「国民教
    育発祥の地」という石碑が校庭に建てられた。台湾の人々は、
    100年も前の日本統治時代の教育者たちの事績をなぜこれほど
    までに顕彰するのだろうか?

■2.明治教育界の先駆者、伊沢修二■

     伊沢修二は明治8(1875)年、25歳の時に師範学校制度調査
    のために米国留学を命ぜられ、マサチューセッツ州ブリッジウ
    ォーター師範学校に入学、西洋音楽などを学んだ後、ハーバー
    ド大学理学部に進んだ。明治11年、父の病没により博士課程
    を1年残して帰国。
    
     文部省に勤める傍ら、明治12年、東京師範学校校長、20
    年、東京音楽学校初代校長など、明治の教育界の先駆者的役割
    を果たした。小学唱歌を編集して、小学校に音楽教育を導入し
    た功績もある。「仰げば尊し」は伊沢の作曲と言われている。
    
     明治28年4月、台湾の初代総督に内定していた樺山資紀
    (すけのり)に会った際、新領土台湾では教育こそ最優先にす
    べきだと意見具申した所、樺山から自らその任に当たるよう勧
    められて、台湾行きを決意した。
    
     日本統治前の台湾は「三年小反五年大反(3年ごとの小規模
    反乱、5年ごとの大規模反乱)」と言われるように清国官憲に
    対する住民の反乱が繰り返されていた。また「瘴癘(しょうれ
    い、風土病)の地」とも呼ばれ、平定に向かった日本軍5万の
    約半数がマラリア、赤痢、コレラなどの病に冒されほどであっ
    た。そのような土地にまず教育を、という伊沢の覚悟は余程の
    ものであったろう。
    
     5月18日、台湾総督府の始政式の翌日に、伊沢は学務部長
    心得として、台北で仕事を開始した。台湾統治のまさに初日に
    教育行政を開始し、それも伊沢のような日本教育界の中核的人
    材が惜しみなく投入されている所に、明治政府の台湾統治への
    意気込みが伝わってくる。

■3.最初の生徒たち■

     伊沢は、6月26日、台北・北郊の士林の街にある小高い
    丘・芝山巌にある廟を借りて、学堂とした。地元の有力者を集
    めて「自分たちがここに来たのは戦争をするためでも、奸細
    (探偵)をするためでもない。日本国の良民とするための教育
    を行うためだ」と説いた。地元民たちは半信半疑ながら、10
    代後半から20代前半の子弟を6名を出してくれた。生徒の一
    人、16歳の潘光楷(ばんこうかい)は、後に次のように書い
    ている。
    
         最初の教室は芝山巌廟の後棟楼上に設置せられ、余は此
        所(ここ)に楫取道明(かとりみちあき、遭難した6人の
        教師の一人)と起居を共にしたり。・・・
        
         超えて11月16日、甲組生(第一期募集の6人)は4
        箇月の講習期間満了となり、樺山総督・水野長官・台北県
        知事、その他官紳臨場(高官名士の参加)の栄を得て修業
        証書授与の式典を挙げらる。斯(そ)の時海軍々楽隊数十
        名を以て盛んに勇壮なる軍楽を吹奏せられ、余等は驚喜将
        (まさ)に狂せん計(ばか)りなりき。
        
     学堂では日本人教師と台湾人生徒が同じ部屋で起居・食事を
    ともにし、日本語教育だけでなく、礼儀作法なども含めた全人
    教育の場とされていた。生徒全員がすでに漢文の素養があった
    ので、短期間の速習で日本語の習得を終えた。わずか6人の修
    了式のために数十名の軍楽隊が門出を祝ったのは、芝山巌での
    教育を見て感銘を受けた角田海軍局長の配慮であったようだ。
    
     潘光楷は、後に士林街の街長を務め、さらに州議会議員とな
    っている。卒業生は各地区に設けられる学校の教師や、公務員
    として巣立っていった。
    
■4.我れと彼れと混合融和して■

     伊沢は、海外領土での教育事例を調べるために、フランスの
    インドネシア教育局長に話を聞いたことがあった。フランスは
    インドシナを統治する際に、フランス語でフランス風の教育を
    実施したが、住民の抵抗にあって失敗したという。
    
     またあるイギリス人は伊沢に助言して、植民地の住民に教育
    の必要はない、なまじ教育を施せば、本国に反攻する者を育て
    ることになる、と語った。植民地を経済的に収奪するなら、こ
    の愚民政策がもっとも効果的・効率的なやり方であろう。
    
     伊沢は、台湾においては、フランスのように宗主国の言語・
    文化を押しつけるのではなく、またイギリスのような愚民政策
    でもなく、第三の「混和主義」を採るべきである、と主張した。
    これは「我れと彼れと混合融和して不知不識(知らず知らず)
    の間に同一国に化して往く仕方」である。台湾は日本が経済的
    な収奪を行う植民地ではなく、北海道や沖縄、樺太と同じ「新
    附の領土」であり、その人民は民族こそ違え、日本国民同胞と
    して遇するべきという考え方が根底にあった。
    
     それにはまず日本人と台湾人が相互の言語を学んで、互いを
    理解していくことから始めなければならない。また孔子廟など、
    台湾人の尊崇する文化・宗教を尊重する事を方針とした。
    
     興味深いのは伊沢がこの時点ですでに「台湾人」と呼び、
    「遼東あたりの」清国人とは区別している事である。そして台
    湾人は人種的・文化的・気風的にも日本人に近く、まだ西洋文
    明を知らないだけで、その能力は日本人と同等である事が混和
    主義を可能にする前提をなすと考えた。統治開始後10年を経
    た明治38年時点で、台湾人の日本語理解者0.38%に対し
    て、台湾在住の日本人の台湾語理解者は約11%。伊沢の混和
    主義は着実に実現されていったのである。

■5.六氏先生の遭難■

     翌明治29年正月、伊沢が講習員(教員)の募集のために帰
    国している間、留守を守る楫取道明以下、6名の日本人教師は
    台北・総督府での新年の拝賀式に出席すべく、生徒らとともに
    山を下りた。前夜から抗日ゲリラの騒ぎが伝えられており、一
    部の生徒は危険だと止めたのだが、楫取はこう答えて聞かなか
    った。
    
         この危難の時にあたり、文力では敵に抗することのでき
        ないことを知って若しこれを避ければ、臣子の道を失する
        ことになる。我等の命運は天に任せるほかはない。すべて
        を吾らの職務のために尽くし、職務と存亡を共にするのみ
        である。
      
     船着き場に着いたが、前夜来のゲリラ騒ぎで船がなかった。
    やむなく、楫取等は生徒を解散させ、一度学堂に戻った後、士
    林の警察署に合流すべく再び山を下りる途中で、百余名のゲリ
    ラに遭遇し、防戦空しく惨殺された。ゲリラ等は日本人の首で
    賞金が貰えるとの噂を信じて、6人の首級をあげ、所持品・着
    衣を奪い、さらに学堂に上って略奪に及んだ。
    
■6.故に身に寸鉄を帯びずして、土民の群中にも這入らねば■

     難を知った伊沢は悲嘆にくれたが、今日のように簡単に戻れ
    る時代ではない。やむなく日本で講習員募集の任務を続けた。
    2月11日の講演で伊沢は六氏遭難について次のように語った。
    
         さて斯く斃(たお)れた人々の為には実に悲しみに堪え
        ませんが、此から後ち台湾に行って、即ち新領土に行って
        教育をする人は、此の度斃れた人と同じ覚悟を以て貰わね
        ばならぬと信じて居ります。如何となれば、若(も)しや
        教育者と云うものが、他の官吏の如きものであるならば、
        何の危ない地に踏み込むことがござりませう。城の中に居
        れば宣(よ)い話である。
        
         然るに教育と云ふものは、人の心の底に這入らねばなら
        ぬものですから、決して役所の中で人民を呼び付ける様に
        して、教育を仕やうと思つて出来るものではない。故に身
        に寸鉄を帯びずして、土民の群中にも這入らねば、教育の
        仕事と云ふものは出来ませぬ。此の如くして、始めて人の
        心の底に立入る事が出来やうと思います。
        
     この事件の前から、伊沢は次のような発言をしていた。
    
         台湾の教化は武力の及ぶ所ではなく、教育者が万斛(ば
        んこく、甚だ多い)の精神を費やし、数千の骨を埋めて始
        めてその実効を奏することができる。
        
     この言葉に示された教育者の在り方を、台湾では「芝山巌精
    神」と呼ぶようになった。後に芝山巌神社が創設され、台湾教
    育に殉じた日本人と台湾人教育者が祀られた。昭和8年時点で
    は330人が祀られ、そのうち24人が台湾人教育者であった。
    
■7.母との今生の別れ■

     伊沢が台湾での教員募集の計画を新聞で発表すると、大きな
    反響があり、800名もの応募があった。しかし芝山巌事件の
    悲報に朝野は大きな衝撃を受けて、500人もの辞退者が出た。
    一次試験は各県の郡役所で行われ、その合格者を東京で伊沢自
    身が面接して、45名を採用した。
    
     その一人に京都府舞鶴近くで小学校校長をしていた坂根十二
    郎がいた。坂根は22日午後10時に二次試験の知らせを電報
    で受け取ったが、京都駅まで25里を歩き、そこから汽車で上
    京する。試験日の25日に着くには翌朝には出発しなければな
    らないので、学校関係者には書き置きをし、郡長を深夜に訪れ
    て許可を得、それから家に帰って母に許しを乞うた。母は神棚
    から守り札を出し、これを肌身につけて「神明の加護によりて
    息災延命なれ」と言った。七十を過ぎた母とは今生の別れにな
    ると思うと、涙が止まらなかった。
    
     親戚一同とも別れの杯を交わして23日未明に出発、夜11
    時に京都駅に着いて夜行汽車で上京、24日午前11時に新橋
    駅に着いた。25日に2次試験があり、その翌日、合格発表が
    あった。伊沢は芝山巌事件を詳しく説明して、心配な者は取り
    やめても差し支えない、それでもなお進んで行くことを希望す
    る者は申し出るようにと言うと、合格者45名全員が台湾行き
    を希望して、伊沢を感激させた。
    
     坂根はすでに小学校長の身で、生活のためなら、わざわざ母
    親と永久の別れをしてまで危険な任地に行く必要はなかったは
    ずである。その動機として、学校関係者に残した書き置きには
    次のように述べている。
    
         台湾島新附民を教育すべく、之が教員を募集せらるるに
        会す、せめてはその末席に加り以て奉公の万一を尽くさん
        事を期せんとす
        
     新領土・台湾の地に近代教育を広めて、その「新附の民」を
    等しく日本国民として迎え入れようとすることは、当時の国家
    的大事業であった。その一端を担おうという「奉公」の精神が
    坂根らを動かしていた。
    
■8.美しい師弟愛■

     伊沢に連れられた第一回講習員45名は、4月11日に芝山
    巌に着いた。2ヶ月半あまり、伊沢の教えた台湾人生徒らにつ
    いて台湾語を習い、ほぼ日常会話が出来る程度に上達した。7
    月1日、卒業式の後、講習員は台湾各地に設立される14カ所
    の国語伝習所に発っていった。ここで日本語をまったく知らな
    い台湾人の子弟を台湾語で教えるのである。
    
     坂根十二郎は台南国語伝習所の教諭となった。10月7日、
    開所式。甲科生50名は年齢20歳以上で、通訳、公官吏を養
    成する目的で毎日25銭を支給した。乙科生60名は7歳以上、
    今日の公学校教育と同様だが、毎日10銭を支給することで定
    員を満たした。当時1銭で大きな餅が3個も買えたという。
    一方、教員・職員たちは8畳間に5人で生活するという節約ぶ
    りであった。限られた予算を生徒の手当てに回してまで教育を
    広めようとしたのである。
    
     このような各地の国語伝習所が公学校に発展していった。今
    日の台湾の伝統校の初代校長は、坂根のような講習員が多いと
    いう。伊沢や坂根らの熱誠あふれる教育者精神は、師に対する
    礼に厚い台湾人の伝統と相俟って、各地で美しい師弟愛を咲か
    せた。
    
     ある台湾人生徒は、公学校で教わった日本の恩師の事が忘れ
    られず、戦後、日本への渡航が許されるや訪ねていった。しか
    し手がかりは恩師の出身だと聞いた鹿児島のある町の名だけで
    ある。その生徒は竿の先に恩師の名前を大書して、その町の駅
    で誰彼なしに「この先生を知らないか」と聞いてまわった。
    たまたま地方新聞の記者が通りかかって、その心根に感動し、
    恩師を探し出してくれたという。
    
     台湾の老人たちが日本統治時代を懐かしく思うのは、このよ
    うな師弟愛が随所に咲いていたからである。そしてそれが語り
    継がれて若い世代でも親日感情を抱いている人が多い。台湾の
    ような豊かで自由な隣国が親日感情を持ってくれている事の意
    義は計り知れない。伊沢や坂根のような我が先人たちの恩は、
    まことに「仰げば尊し」と言うべきである。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(108) 台湾につくした日本人列伝
b. JOG(145) 台湾の「育ての親」、後藤新平
c. JOG(189) 蔡焜燦〜元日本人の歩んだ道

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 篠原正巳、「芝山巌事件の真相」★★、和鳴会、H13
2. 名越二荒之助他、「台湾と日本・交流秘話」★★★、展転社、H8
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「仰げば尊し〜伊沢修二と台湾教育の創始者たち」について
                               匿名希望(大学教師)の方より

     私にとって台湾は全くの専門外ですが,李登輝氏が総統にな
    られてから急速に民主化が進んだ台湾に大いに興味をそそられ
    ていました.その病が高じて,昨年の秋に,ゼミの学生たちと,
    とうとう台湾合宿を実施いたしました.

     現地では,八田與一による烏山頭水庫など,日本統治下の台
    湾で建設された施設を見て回りましたが,もちろん芝山巌も訪
    ねました.参考文献にも挙げられている『芝山巌事件の真相』
    を読んだところ,「士林小学には立派な校史室があって...」
    という文面がありましたので,「せっかく行くのだから,校史
    室は見なければいけない」と考え,著者の篠原政巳氏に連絡し
    てみました.すると,篠原氏は誠にご親切にも,士林小学のご
    卒業生の方々に連絡を取ってくださり,現地での案内の算段を
    してくださったのです.

     芝山巌訪問の当日は,士林小学交友会の幹部のメンバーの方
    々が,ご丁寧にも案内をしてくださいました.今から百年ほど
    前に,6人の先生たちをおそった悲劇の現場に立ち,使命感に
    燃えた日本人教師と,文明を学ぼうとする向学心に燃えた台湾
    人学生に思いをはせると,万感がこみ上げて参りました.案内
    してくださった皆さんは,当然,70歳過ぎの年輩の方々でし
    たが,本当にご親切でしたね.日本語もお上手で,学生たちは,
    「何か,うちのおじいさんと話しているみたいだ.懐かしい感
    じがした」と言っておりました.

     交友会のメンバーのお一人,陳絢暉氏は「友愛グループ」の
    会長でいらして,私どもの芝山巌訪問の前日に,この「友愛グ
    ループ」との会合を組んでくださいました.このグループは,
    「なんとかして正しく美しい日本語をわがフォルモサに存続さ
    せたいとの思い切なるものがある」との趣旨から結成された会
    で,正会員は八十余名と聞いています.当日の懇談会には,台
    湾の会員の方々十名ほどがご参加いただき,ご参加メンバーの
    中には,あの有名な『台湾人と日本精神』の著者の蔡焜燦氏も
    いらっしゃいました(お忙しい中,駆けつけてくださったので
    すが,蔡氏は,さすがに迫力がありましたね).

     懇談会では,先生方のお話が非常に活発で,私どもには,誠
    に衝撃的な体験となりました.台湾の先生方のお話を一言で要
    約すると,「日本というすばらしい国に生まれた幸せを感じな
    さい.日本を愛しなさい.日本人であることに誇りを持ちなさ
    い」というものでした.このようなお話に対して,学生たちは,
    たじたじになりながらも,会の最後に,「日本という国が好き
    になりました」と感想を述べて,台湾の先生方から,「よし,
    よし.よく言った」とほめられ,激励されていました. 

     いやはや,台湾合宿は短い滞在でしたが,感動のあまり,何
    度も泣かされました.そのような体験は,ここ数十年なかった
    ことです.

■ 編集長・伊勢雅臣より

    「日本を愛しなさい」と言う台湾の老先生方の声は、伊沢修二
    ら日本人教師の志を今に伝える言葉でしょう。
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