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________Japan On the Globe(227)  国際派日本人養成講座_______
          _/_/   
          _/     人物探訪:松下幸之助〜七転び八起きの心意気
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_/ _/_/_/         危機、また危機を乗り越えて、企業の繁栄と
_/ _/_/          従業員の幸せを実現してきた原動力は?
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■1.人を作っている会社■

     ある日本人の経営コンサルタントが、アメリカはフロリダに
    あるジュース工場を指導した。従業員に教育を行い、設備はぴ
    かぴかに磨き、その結果、生産性、品質とも見違えるように良
    くなった。ところが、経営者はその工場を従業員とも他社に売
    却してしまった。
    
     せっかくここまで良くしたのに、と日本人コンサルタントが
    文句を言うと、だからそのお陰で高く売れたんじゃないか、心
    配するな、まだ工場はたくさんあるからお前の仕事はいくらで
    もある、と答えたそうな。
    
     従業員も設備や建物と同様に金儲けの手段だと考える、いか
    にもドライな現代アメリカ流の経営思想であるが、最近の日本
    の経営者の中にも派手な人員削減策を打ち出して、株価を上げ
    ようという手合いも見受けられるから他人事ではない。
    
     ここで思い起こされるのが松下幸之助である。「松下電器は
    何を作っている会社ですか、と聞かれたら、人を作っている会
    社です。あわせて電気製品も作っていますと答えなさい」と幸
    之助は社員に教えた。人を事業の手段だと考えるアメリカ的経
    営とはまったく異質な発想がここにある。そこには現代の日本
    人が忘れてしまった大切な教えがあるのではないか。

■2.不況下の出発■

     大正7(1918)年3月7日、幸之助は大阪の大開町(現在の阪
    神電車野田駅近く)の借家に「松下電気器具製作所」の看板を
    掲げた。幸之助の他には、妻のむめの、その弟で後の三洋電機
    創業者・井植歳男の3人だけの出発であった。
    
     おりしも第一次大戦時の大好況の反動で、諸物価の高騰が庶
    民の生活を直撃した。3年前に1升15銭だった米が、4、5
    0銭となり、この夏には41都道府県で100万人を超える民
    衆が「米よこせ」の暴動に加わった。大阪でも10数万人が米
    問屋や市役所、警察署を襲い、軍隊が出動する騒ぎだった。
    
     こんな暗い世相の中で、幸之助は前年、電灯用の改良型ソケ
    ットを開発したのだが、無名会社の新製品を買ってくれる客は
    なく、質屋通いで食いつなぐ所まで追い込まれていた。下請け
    として扇風機用の部品を作らせてもらってなんとか年を越し、
    起死回生をかけて売り出したのが、プラグと長いコードが一体
    となったアタッチメント・プラグであった。天井からぶる下が
    ったソケットにはめて、延長コードとして使う簡単な器具であ
    る。再生品のプラグ金口を使うことによって、すでに出回って
    いたものより3割も安くでき、品質も良かったので注文が殺到
    した。
    
     続いて開発した二股ソケット、電灯用と別にもう一つのプラ
    グがついていて、アイロンなどを同時に使える。これも既存品
    を改良して5割も安くできたため、売れに売れた。

■3.従業員の向上と仕合わせを■

     大正9(1920)年3月、株式市場の大暴落が起こり、企業倒産
    が続出、労働者の首切り、賃下げが広がった。労働者を保護す
    る制度もまだない。これに反発して過激な労働組合運動が急速
    に広がった。日本最初のメーデーが行われたのが、この年の5
    月である。こうした不況の中でも独自の工夫で発展してきた幸
    之助の工場には、この時、28名の従業員がいた。
    
         縁あって松下電器に働く従業員の向上と仕合わせを希
        (こ)い願い、その実現を図ることは経営主の務めである。
        また仕事をすすめて行くについては、和親一致の協力が一
        番大切なことである。
        
         何としても全員心を一に和気あいあいの内に、その従業
        員の向上発展と福祉の増進を計らねばならない。
    
     こういう考えのもとに、幸之助も従業員も同じく会員とする
    「歩一会」を発足させた。みなの心を一つにして、一歩一歩大
    地を踏みしめて進んでいこう、という趣旨である。従業員の福
    祉と向上を計ることが「経営主の務め」という幸之助の思想は、
    不況になれば首切りも勝手次第という荒々しい資本主義とも、
    また労働者が結束して資本家に対抗しようという戦闘的な社会
    主義とも違う、第3の道を目指していた。

■4.大震災後の信用確立■

     大正12(1923)年9月1日、関東大震災が起こり、死者・行
    方不明は10万人を超し、東京市の3分の2が炎上した。東京
    に営業のために駐在していた井植が命からがら帰阪すると、幸
    之助は「大事ないか、け、けがはせなんだか」と涙を流して喜
    んだ。
    
     元気な井植は10日ほど休むと、再び上京して営業活動を再
    開した。卸売りの得意先との売り掛け未収金を回収することが
    最初の仕事だったが、幸之助と打ち合わせて、その条件は未曾
    有の大災害なので、売掛金は半分だけいただき、これから納め
    る品物の値段は震災前と同じ、というものだった。
    
    「ええっ」と、得意先の主人たちは目を輝かせた。復興し始め
    た東京では極端な品不足のために、電気器具などは災害前の数
    倍の高値となっていたが、それを前と同じ値段で、いくらでも
    供給しようというのだ。
    
    「売掛金は半額で結構」と言ったのに、結局は全額回収できた。
    中には、自分から支払いを届けてくれる得意先もあった。この
    一件で「松下」に対する東京での信用は一気に確立した。
    
■5.世界大恐慌の試練■

     昭和4(1929)年3月、幸之助は松下電気器具製作所を「松下
    電器製作所」と改称し、創業10年間の歩みを振り返って企業
    使命を述べた綱領と、全従業員の進むべき道を説いた信条を制
    定した。(原文はカタカナ書き)
    
          綱領
        営利と社会正義の調和に念慮し
        国家産業の発展を図り
        社会生活の改善と向上を期す
        
         信条
        向上発展は各員の和親協力を得るにあらされは難し
        各員自我を捨て互譲の精神を以て
        一致協力店務に服すること
        
     すぐに、この綱領と信条を試される試練がやってきた。この
    年の10月24日のニューヨーク株式市場の大暴落に端を発し
    た世界大恐慌は、日本経済も痛撃し、巷には首切り、人員整理
    の嵐が吹き荒れ、失業者が街にあふれた。次々と新工場を設立
    していた松下の売り上げもぴたりととまった。12月の半ばに
    は出荷がほとんどなくなり、連日生産される製品で倉庫は充満
    し、工場の土間一杯に積み上げられた。井植は療養中の幸之助
    に情況を説明し、ひとまず従業員を半減して窮状を打開するし
    かない、と訴えた。
    
■6.「大将、おおきに、おおきに」■

     幸之助も思案に暮れたが、腹をくくってみると打開策が閃い
    た。
    
         明日から工場は半日勤務にして生産は半減、しかし、従
        業員には日給の全額を支給する。そのかわり店員は休日を
        返上し、ストックの販売に全力を傾注すること。・・・半
        日分の工賃の損失ぐらい、長い目ぇでみれば一時的の損失
        で大した問題やない。それよりも採用して仕事に馴染んだ
        従業員を解雇して、松下工場への信頼にヒビが入る方が辛
        いのや。
        
     翌日、井植が工員や店員を集めて幸之助の決断を伝えた。い
    よいよ首切りかと覚悟していた所に、思いも寄らぬ話で皆「う
    わっ」と躍り上がった。店員たちは鞄に商品見本を詰め込んで、
    「さあ、売りまくりじゃあ!」と市中に飛びだしていった。販
    売は心意気である。2ヶ月後には在庫の山がきれいに消え、半
    日待機をしていた工員たちもふたたびフル操業を開始した。
    
     半年ほどして、療養していた幸之助が各工場を見回りにくる
    と、その姿を見つけた工員が「ひゃあ、大将!」と声をあげた。
    「大将、おおきに、おおきに」と涙を流す女工、「お帰りやす、
    大将!」と拍手で迎える従業員。幸之助は思った。
        
         やっと病癒えて出勤し、新たに建設された第5工場、第
        6工場を見に行き、元気で張り切ってやっているさまをみ
        て、かつて味わったことのない感激にひたったことであっ
        た。そして産業報国という信念が湧然と感謝のうちに生ま
        れたのであった。
        
■7.工場はまた建てたらええがな■

     昭和9(1934)年9月21日朝、室戸台風が大阪を直撃した。
    風速60メートルと世界観測史上最大の超大型台風に死者行方
    不明3千、負傷者1万5千、家屋被害47万5千戸と甚大な被
    害が出た。
    
     おりしも松下電器は従業員1800人、門真村2万坪の土地
    を買って、次々と新工場を完成させた所であった。最新鋭の第
    12工場長・後藤清一が叩きつけるような風の中を這うように
    して自分の工場に近づくと、その大屋根は北海の激浪さながら
    に波打っている。後藤は「みな、作業止めぇ! 全員、となり
    の鉄骨造りの工場へ逃げ込め、グズグズしていると押しつぶさ
    れるぞ!」
    
     最後の従業員と後藤が飛び出した途端、大きな響きをあげて
    第12工場が倒壊した。後藤は台風が通過した後の工場の残骸
    を見て茫然とした。そこへ幸之助が姿を現した。「あっ、大将、
    えらいことになりましたがな」と後藤は言うと、幸之助の心中
    を思って絶句した。巨費を投じた新工場群がほとんど一瞬にた
    たきつぶされたのである。
    
         後藤君、従業員は大事ないか。
    
         はぁ、幸い怪我人はありまへんが、かんじんの工場のほ
        うが、、、
    
         工場はまた建てたらええがな、人間さえ無事やったら。
        
     そういうと幸之助は工場の被害など目もくれず、すぐに引き
    返していった。工場群を見回った後、半壊した本店事務所に幹
    部たちを集めて言った。「松下も苦しいが、松下の大事な得意
    先もまたあの暴風雨下、無事やったとは思えん。得意先といえ
    ば松下と行動をともにしてくれてる人びとや。そこで『お互い
    に頑張(きば)ろうやないか』という意味で見舞金を届けたい
    のや」
    
     幹部たちは見舞金をもって、泥の海と化した大阪市内や近郊
    に向かった。自ら最大の被害を受けながら、従業員を気遣い、
    得意先を励ます幸之助の行動に、従業員は奮い立ち、工場再建
    は大車輪で進んだ。

■8.1万5千通もの嘆願書■

     昭和20(1945)年8月16日、敗戦の翌日、幸之助は幹部社
    員を集めて言った。
    
         松下電器のとる道は、日本の復興再建の道でなければな
        らない。生活必需品の生産に全力を集中しよう。これがわ
        れわれに課せられた使命だ。従業員はひとりも退職させて
        はならない。いや、街の失業している人々の協力を求めて
        も、なお足らぬくらいだろう。お互いに手をとりあって増
        産に邁進しよう。
        
     10月には生産と販売を軌道に乗せたが、インフレのために
    資材、人件費が高騰し、売り上げは月100万円にもならない
    のに、借人金は2億円、その利息負担だけで月80万円と、経
    営は火の車だった。
    
     翌年11月、占領軍総司令部から幸之助以下、役員すべての
    公職追放が命ぜられた。ところが、この時、追放解除を叫んで
    立ち上がったのが、結成されたばかりの松下電器労働組合であ
    った。時あたかも総司令部の指導で過激な労働運動が燃え盛り、
    赤旗を振り回して、経営者の追放を要求していた時代である。
    
    「社主幸之助は、全従業員の中心となる大黒柱であり、会社を
    盛り返し、従業員の生活の安定を保つためには、どうしても追
    放解除が必要だ」として、全従業員の93%が追放解除嘆願書
    に署名、さらに1万5千通もの嘆願書が総司令部に送られた。
    この熱意が司令部を動かし、わずか半年で幸之助の追放は解除
    された。
    
     戦後の激しいインフレを「せめて従業員の給料だけは」と膨
    大な借金をしながら堪え忍んだ松下は、昭和25年の朝鮮戦争
    特需で息を吹き返し、その後高度成長期に世界的な大企業に成
    長していく。

■9.「和親一致の協力」■

     松下が発展した大正から昭和前期の日本は不況、震災、恐慌、
    台風、敗戦と、危機また危機の連続であった。それらの危機を
    乗り越え、そのたびに松下は大きく発展していった。結局、製
    品や設備を開発したり、問題を解決するという創造性は、人間
    のみが持ちうる能力である。幸之助の「人を作り、人を大切に
    する」という経営は従業員や得意先との「和親一致の協力」を
    引き出し、そこから生まれた想像力と心意気で度重なる危機を
    乗り越えてきたのであった。
    
     現在のわが国もバブル以降、10年に及ぶ不況の底に沈んで
    いるが、危機の大きさからすれば幸之助の時代とは比べものに
    ならない。それなのに一向に危機を乗り越えられないのは、多
    くの企業で「人を作り、人を大切にする」という理念を忘れ、
    「和親一致」の精神を見失ってしまったからではないだろうか。
    それでは企業が繁栄できないだけでなく、従業員を仕合わせに
    することもできない。幸之助が生涯をかけて示した繁栄と幸せ
    への道筋をもう一度、思い起こすべき時だろう。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(111) 盛田昭夫の "Made in JAPAN"
b. JOG(205) 国際特許戦争の罠

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 神坂次郎、「天馬の歌 松下幸之助」★★★、PHP文庫、H13
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「松下幸之助〜繁栄と幸せへの道筋」について
                                             sinsinさんより

     松下氏がすごいのは今回紹介された会社の経営方法もあると
    思いますが、やはり天才だったのではないかと思います。その
    昔コンピューターの時代が来るという事で、日本のメーカーも
    参入しないと乗り遅れてしまうと言われていたときに巨人IBM
    を相手に勝算がないと見込んで参入しない事にしたそうです。
    
     マスコミも松下電器も焼きが回ったと叩いていたそうです。
    なぜならコンピューターは日進月歩で乗り遅れると取り返しが
    つかないからと言うのがその理由です。その頃はまだパソコン
    は無く、メインフレームのばかでかいコンピューター全盛の時
    代でIBMの一人勝ちの時代です。

     ところがその後、パソコンが普及して、PDAや携帯電話など
    のモバイル機器も発達しIBMの影も薄くなってしまいました。
    もしあのとき松下電器がメインフレームに手を出していたらそ
    れほど儲からず、膨大な設備投資が重荷になっていたでしょう。
    他社が参入する中で、家電で着実に儲けていった事で松下氏の
    判断が正しかった事が証明されました。この辺の判断が今の凡
    庸なトップでは出来ないのかも知れませんねえ。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     この不況下でも元気のいい企業はたくさんあります。景気や
    政府頼みではなく、松下幸之助の「七転び八起きの心意気」で
    頑張って欲しいものです。

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