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________Japan On the Globe(253)  国際派日本人養成講座_______
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          _/    人物探訪: 特攻隊員の母、鳥浜トメ〜蛍帰る
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_/ _/_/_/        明日は死に行く若き特攻隊員たちにしてやれる
_/ _/_/         事は、母親になってやる事しかない、、、
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■1.蛍帰る■

     ラジオが9時を告げて、ニュースが始まった。その時、わず
    かに開いた表戸の隙間から、一匹の大きな源氏蛍が光る尾を引
    きながら、すーと店に入ってきたのであった。娘たちはほとん
    ど同時に気がついた。
    
        お母さーん、宮川さんよ。宮川さんが帰ってきたのよ。
        
     娘たちの叫びに、奥から出てきたトメは娘たちの指さすほう
    を見た。暗い店の中央の天井。その梁にとまって明るく光を放
    っている蛍を見つけた時、トメは息が止まるかと思った。部屋
    の隅にいた兵士たちも集まって、蛍を見上げた。「歌おう」と
    だれかが言った。みな肩を組み、涙でくしゃくしゃになりなが
    ら、「同期の桜」を歌った。歌はトメの好きな第3連に進んだ。
    
        貴様と俺とは 同期の桜
        離れ離れに 散らうとも
        花の都の 靖国神社
        春の小枝で 咲いて逢うよ

■2.おれ、この蛍になって帰ってくるよ。■

     昭和20年6月6日、鹿児島県は薩摩半島の中程、知覧町に
    ある富屋食堂でのことである。知覧で出撃を待つ特攻隊員たち
    はこの食堂に出入りし、なにくれと世話をやく女主人鳥浜トメ
    を母親のように慕っていた。明日は死に行く少年たちのために
    出来ることと言ったら、母親代わりになって優しく甘えさせて
    やるしかない、そう思ったトメは私財をなげうって、特攻隊員
    たちに尽くしていた。
    
     その前日、6月6日は宮川三郎軍曹の20歳の誕生日であっ
    た。トメは心づくしの料理を作って、誕生日を祝うと同時に、
    明日に控えた出撃のはなむけとした。途中、空襲警報が鳴って、
    みなで防空壕に入る。防空壕の中で、宮川は幽霊のまねをして、
    トメの娘礼子たちを怖がらせた。
    
     防空壕を出ると、星のない暗い夜がそこにあった。街の灯り
    も灯火管制のために消されている。食堂の横には小川が流れ、
    藤棚とベンチがしつらえてある。漆黒の闇の中、小川の上を大
    きな源氏蛍が飛び交っていた。宮川の声がした。
    
         小母ちゃん、おれ、心残りのことはなんにもないけれど、
        死んだらまた小母ちゃんのところに帰ってきたい。そうだ、
        この蛍だ。おれ、この蛍になって帰ってくるよ。
        
    「ああ、帰っていらっしゃい」とトメは言った。そうよ。皆川
    さん、蛍のように光輝いて帰ってくるのよ、と心の中で言った。
    宮川は懐中電灯で自分の腕時計を照らして言った。
    
         9時だ。じゃあ明日の晩の今頃に帰ってくることにする
        よ。店の正面の引き戸を少し開けておいてくれよ。
        
    「わかった。そうしておくよ。」とトメが答えた。
        
         おれが帰ってきたら、みんなで「同期の桜」を歌ってく
        れよ。それじゃ、小母ちゃん。お元気で。
        
     トメには別れの言葉がない。死にに行く人を送る言葉なんて
    この世にあるのだろうか。宮川軍曹の後ろ姿は暗い夜道に消え
    ていった。

■3.少年兵たちのオアシス■

     昭和17年、知覧に飛行学校(大刀洗陸軍飛行学校知覧分教
    場)が出来て、富屋が軍の指定食堂となった時、女主人トメは
    数え年41歳であった。指定食堂と言っても、健全で清潔で安
    心して軍人が立ち寄れる所だと推薦してくれるだけの事だった。
    
     過酷な訓練に明け暮れ、たまの日曜日に外出しても、何の娯
    楽もない少年兵たちに、富屋はたちまち大人気のオアシスとな
    った。少年兵たちが壁にかかったメニューを見ていると、小母
    さんが中から出てきて「何か食べたいものはあるかね。」
    と聞く。
    
         食べたいものなら、何でも作ってあげるよ。そのために
        日曜日には材料を用意してみんなの来るのを待っているん
        だからね。何でも言ってごらん。
        
     少年たちがもじもじしていると、アンコロ餅はどうか、と聞
    く。少年兵たちの顔が緩むと、さっそく1個作って、この大き
    さなら何個欲しい、と聞く。「3個!」「おれも!」
    
     ためらいながら「天ぷら」と言う少年兵には、「おとといあ
    たりから海がしけていて、白身のいい魚がないから、イカとエ
    ビと野菜だけで我慢してくれる?」
    
    「でも」「でも、なあに」「おれ50銭しか持ってないんだ。
    エビって高いんだろ」「アハハ」とトメは笑う。「男はおカネ
    の事は言わないの」 着物や家財道具を売りながら、少年兵た
    ちに食べさせてやるので、トメの家は少しづつ広くなっていっ
    た。
    
     時には、「本日休業」の札を出して、少年兵たちに貸し切り
    にしてしまう。少年兵たちは畳の部屋に寝そべったり、トラン
    プや将棋に興じたり、郷里に手紙を書いたり、小母さんの手料
    理に舌鼓を打つ。風呂で背中を流して貰うこともあった。

■4.いま目の前にいるこの子が明日死んでしまうなんて■

     3月27日に娘の礼子が知覧の飛行場に動員され、木立の中
    に三角屋根の特攻隊の兵舎が作られている、という情報をもた
    らした。
    
     翌日夜、小林威夫少尉が訊ねてきた。かつて教官として知覧
    に駐在していたことがあり、その時に下宿を探してやったりし
    て、わが子同様に可愛がった青年である。「小母さん、小林で
    す。久しぶりにお目にかかれてこんなうれしい事はありませ
    ん」と言う。トメはいそいそと小林の好きなものを作ったが、
    小林は何ものどを通らない様子。
    
    「今度はどちら方面に行くの」と聞くと、「小母さん、聞かな
    いでくれよ」。トメは気がついた。もしかして、この人はあの
    特攻隊に選ばれたのだ、、、いま目の前にいるこの子が明日死
    んでしまうなんて、自分の娘たちとあまり齢のかわらぬこの子
    が明日には死んでしまうなんて、そんなことってあるのだろう
    か。
    
■5.この思い出を持ってあの世に行きます■

     できることなら、トメは小林少尉の肩を抱いて泣きたかった。
    しかしそれはできない。立ち上がって、廊下に出ると、かっぽ
    う着の裾で涙を拭いた。涙はあとからあとから途切れることな
    く流れ落ちた。
    
     翌日、小林少尉は最後のお別れに来た。昨夜より気持ちがふ
    っきれたのか、むしろ淡々として見えた。「小母さん、これま
    でのことはほんとうにありがとう。小母さんには実のおふくろ
    よりやさしくしてもらった。忘れませんよ。この思い出を持っ
    てあの世に行きます。達者で長生きしてください。」
    
     トメは必死に涙をこらえながら、手作りのおはぎを渡し、
    「部下の下士官の方へさしあげてください」と言うのがやっと
    だった。小林少尉は最後の敬礼をし、トメは黙って頭を下げた。
    少尉はゆっくり回れ右をして、飛行場の方に戻っていった。
    
     そうだ、せめて親御さんにあの方が立派に旅立っていったこ
    とをお知らせしなければならない。手は震え、文脈は乱れ、涙
    はとどめなくしたたり落ちる。「よみにくいペン字 おゆるし
    下さい ただ いそいで お知らせまで」。父親の名前は知ら
    なかったので、「小林少尉殿の父上様」と結んだ。それからは
    何度もこうした悲しい手紙を書かなければならなかった。

■6.「ぼくは朝鮮人です」■

     光山文博少尉は京都薬学専門学校を卒業し、昭和18年、特
    別操縦見習士官を志願し、知覧で6ヶ月の速成教育を受けてパ
    イロットとなった。日曜日毎に富屋にやってきたが、無口でど
    こか寂しい人柄だったので、トメはなるべく明るく接しようと
    した。
    
     彼は最初から「ぼくは朝鮮人です」と言っていた。元の名を
    卓庚鉉と言い、幼い時に父母とともに日本に渡ってきたのだっ
    た。当時の日本人の中には朝鮮人に対する差別意識を持った者
    も多かったので、トメは光山をよけい大事にしてわが子同様に
    可愛がった。
    
     半年のちに知覧を卒業して、各地の部隊を転々として、行く
    先々から「知覧の小母ちゃん、元気ですか」とはがきをよこし
    た。その光山が昭和20年5月の初め、「小母ちゃーん」と呼
    びながら、富屋に戻ってきた。トメはすぐに事情を察した。そ
    の頃に知覧に戻ってくるのは、特攻隊員になった者だ。それか
    ら光山は毎日のように入り浸った。
    
     光山の母親はその前年の暮れになくなっていたという。息子
    が日本でばかにされないようにと、必死で働いて学歴をつけさ
    せたのであろう。また息子の方も特別操縦見習士官を志願した
    のは、立派な軍人姿を母親に見せてやりたかったのだろう。

■7.今生の別れの歌アリラン■

     5月10日の夜、光山は「小母ちゃん、いよいよ明日出撃な
    んだ」とボソリと言った。「長いあいだありがとう。小母ちゃ
    んのようないい人は見たことがないよ。おれ、ここにいると朝
    鮮人ていうことを忘れそうになるんだ。でも、おれは朝鮮人な
    んだ。長いあいだ、ほんとうに親身になって世話してもらって
    ありがとう。実の親も及ばないほどだった。」
    
    「そんなことないよ。何もしてやれなかったよ」 トメはそっ
    と目頭を押さえた。「小母ちゃん、歌を歌ってもいいかな」
    「まあ、光山さん、あんたが歌うの」
    
     孤独な光山が歌を歌う姿は一度も見たことがなかった。光山
    はあぐらをかき、涙を隠すためであろう、戦闘帽のひさしをぐ
    いと下げて、びっくりするような大きな声で歌い出した。
    
        アーリラン、アーリラン、アーラーリヨ
        アーリラン峠を越えていく
        わたしを捨てて行くきみは
        一里もいけず 足いたむ
    
     トメも娘たちもこの歌を知っていたので、一緒に歌い出した
    が、途中で泣き出してしまった。光山少尉の今生の別れの歌だ
    った。それは日本では隠さなければならなかった彼のアイデン
    ティティを示す歌だった。明日は出撃し、敵艦に体当たりする。
    祖国を守るために。その祖国とは日本ではない。日本と運命を
    ともにしていた朝鮮だ。
    
     昭和18年の朝鮮での特別志願兵の応募者は30万人以上、
    採用6300人の50倍近くだった。大戦中は24万2341
    人の朝鮮人青年が軍人・軍属として戦い、2万1千余柱が靖国
    神社に祭られている。特攻隊員として出撃・散華した朝鮮人軍
    人は光山少尉を含め14名である。[2,p463]
    
■8.観音像の建立■

     戦争が終わり、年が変わって昭和21年。知覧飛行場で最後
    の特攻機が燃やされた際、トメは近くに落ちていた棒杭を地面
    に立てて、娘たちにこう言った。
    
         さ、これがきょうからあの人たちのお墓の代わりだよ。
        たった一つしかない命を投げ打って死んでいったんだよ。
        それを忘れたら罰が当たるよ。日本人なら忘れてはいけな
        いことなんだよ。
        
     特攻隊を称えるだけで「軍国主義者」のレッテルを貼られる
    時代だった。墓など作ったらすぐ壊されてしまう。こんな棒杭
    なら壊しに来る人はいないだろう。その代わりに毎日お参りに
    くるから許してくださいね、とトメと娘たちは手を合わせた。
    
     昭和25年、朝鮮戦争の特需で経済復興も始まり、特攻隊へ
    の逆風が静まっていた。トメは毎日の棒杭参りを続けながら、
    昔なじみの知覧町長のもとに通っては特攻隊員たちのための観
    音像建立の請願を続けた。自分の費用で建てれば、すぐにでも
    実現できたが、それでは慰霊が私的なものになってしまう。特
    攻隊員たちはお国のために命を捧げたのだから、その慰霊は公
    に行われなければならなかった。
    
     昭和30年9月28日、知覧飛行場の一角に観音像が完成し、
    その除幕式の日にトメは像の前の手水鉢を寄進した。それから
    トメは毎日ガムやキャンデーを持って、観音像の所へ行き、遊
    んでいる子供たちを集めては、一緒の掃除をする。それから
    「はい、それでは観音様のお下がりをいただきましょう」と言
    って、ガムやキャンデーを配る。こうすることによって、自分
    の死後も、この子供たちの中から、観音像をお守りしてくれる
    人が育つだろうと考えていたのだ。さらにトメは観音像に至る
    道に石灯籠を寄進する運動を進めていった。
    
     昭和62年2月、特攻隊の生き残りでトメに励まされた人々
    の努力によって、知覧特攻平和会館が開館した。修学旅行など
    参観者は多く、たとえば平成12年には54万人にも及んだ。

■9.4月の蛍■

     平成4年4月22日夕刻、トメは90歳直前で一生を終えた。
    「特攻の母、鳥浜トメ死す」のニュースは新聞やテレビに流れ、
    富屋は弔問客や取材陣でごった返した。通夜の夜、ようやく遺
    族が一息入れた所に、一匹の蛍が光る尾を引いてトメの柩のあ
    る部屋をスーッと横断していった。
    
    「見たか」「見た」「蛍だったよな」「そうだったよな」
    
     4月の下旬に蛍が飛ぶはずがない。それも部屋を横切ってい
    くなんて。しかし、居合わせた人々は確かに見たのである。
    
     それは蛍になった宮川軍曹が「小母ちゃん」を迎えにきた姿
    なのだろうか。それともトメ自身が蛍となって、息子のように
    可愛がっていた大勢の特攻隊員たちのもとに飛んでいったのだ
    ろうか。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(214) ジャネット・デルポートと関行男大尉
   オランダ人女性ジャネットは不思議な体験から特攻隊員の心の
  軌跡を辿っていった。
b. JOG(153) 海ゆかば〜慰霊が開く思いやりの心
   慰霊とは、死者のなした自己犠牲という最高の思いやりを生者
  が受け止め、継承する儀式である。
c. JOG(080) ミラー大尉の残したもの
    話題作「プライベート・ライアン」などに見る自己犠牲の精神。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 赤羽礼子他「ホタル帰る」★★★、草思社、H13
2. 名越二荒之助、「日韓2000年の真実」★★★、国際企画、H9
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「蛍帰る」について

■ 小森さん(高3)より 
     読んでいるうちにトメさんの世界にぐいぐい引き込まれて、
    涙があふれ出しました。心が震えるといった感じでした。教科
    書にするとわずか数行のことが、こんなにも切ないのかと思い
    ました。いや、教科書と比べること自体がナンセンスですね。
     
     靖国神社で戦犯も祀られているから参拝するべきでない、と
    か言う前に、戦争の犠牲になった人たちに対して素直に手を合
    わせよう、と思いました。

     私は高校生3年生ですが、高校の三年間で一度も日本史の授
    業を受けていません。私の学校は公立ですが、社会は選択制な
    ので、地理や世界史を選択した場合は日本史を勉強しなくても
    いいのです。それはおかしいのでは、と思っていましたが、さ
    らにその思いが強くなりました。これからも、本を読むなどし
    て、歴史にふれていこうと思います。

■ わんわんさんより
     それは、ちょうど一年程前に私が韓国へ留学していた頃の話
    です。私が一番仲良く付き合っていた韓国人の学生がイギリス
    に留学するというので、最期の日としていつもと同じようにふ
    ざけあっておりました。

     そのうちに、今までこのようなことは口に出すのをはばかっ
    ていたのか、どうかよく分かりませんが、ふざけた口調で「日
    本の特攻隊はヒロポン(麻薬)うってたんだろ?」と聞きまし
    た。私は猛然と切り返しました。

    「おい、お前自分の言った事が分かっているのか? 特攻隊の
    中には10人以上の韓国人隊員がいたんだ。彼らも日本人と同
    じく特攻隊として敵艦にぶつかり死んでいったんだ。誰のため
    にか? 日本人? 天皇? 違うだろ!? 自分の国が少しでも有
    利に独立できるように、自分の故郷の人が救われるように、自
    分の命を犠牲にして死んでいったんだぞ。お前が侮辱している
    のは自分の先祖だぞ。誰が何を言おうと、オレは特攻隊員を見
    下すような事は絶対にゆるさん。」

     韓国語で一気に言い切りました。彼は少し済まなさそうな様
    子となり、私たちが一緒にいるのも最後の日だったので別の話
    題に話を転向しましたが…。

     別に私はこのようなことは彼だけに言っていたわけではあり
    ません。言うべき事は言う、それを忠実に実行してきたのみで
    す。それで日本のマスゴミが言うように友情が壊れたか?否、
    むしろ逆でした。もちろん分かりあえない人間もいましたが、
    自分の知っている範囲では左翼かぶれした在日韓国人の方々よ
    りは韓国人と親しく付き合っておりました。

     また、その前には、酔っぱらうたびに歴史問題でもめる友人
    とこんなやりとりもありました。「お前の考えは、絶対に納得
    できん! だがな、お前は一人だ。ここにこれだけ韓国人がい
    てお前は一人だ。それをものともせず、お前は一人で闘ってい
    る。 お前は男だ! 真の愛国者だ! だからお前は良いん
    だ!」と。別に私は自慢したくてこの話を出しているのではあ
    りません。単に、考え方の相違が友情になんの影響を及ぼすの
    でしょうかと言いたいのです。本当に通じ合える人間は通じ合
    えると言うことをお伝えしたいと思います。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     歴史は自分自身の心で受けとめなければなりませんね。

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