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________Japan On the Globe(271)  国際派日本人養成講座_______
          _/_/   
          _/     The Globe Now:「地上の楽園」北朝鮮への帰還
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_/ _/_/_/        「地上の楽園」とのプロパガンダに騙されて、
_/ _/_/          9万3千余の人々が北朝鮮に帰国していった。
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■1.「楽園」への到着■

     1959(昭和34)年12月、北朝鮮の清津港に、975名の日
    本からの帰国者を乗せた最初の船が到着した。その時の模様を、
    朝鮮中央通信社は「祖国同胞6万余が港に出迎う 歓迎のどよ
    めき清津をうずめる」との大見出しで、こう伝えた。
    
         市内から埠頭に致る通りの両側には、ながい歳月にわた
        るつらい異国での生活を打ち切って祖国に帰る父母や兄弟
        たちを歓迎するため5万余の歓迎群衆が長蛇の列をなして
        いた。埠頭には早朝から一万余名の歓迎群衆が立錐の余地
        なく雲集して、帰国同胞たちの到着を待ちわびていた。
        ・・・ついに東海(JOG注:日本海)の青々とした水平線
        上に帰国船があらわれた。

        ・・・「金日成将軍の歌」と革命歌の大合唱がはじまった。
        帰国同胞たちの姿が船の甲板にみえだした。かれらも甲板
        にでて、共和国国旗をうちふりながらこの合唱に合流する
        のであった。一瞬、あたり一面は歌声と万歳の声と天地を
        ゆるがさんばかりの歓声でわきたった。
        
     この船を最初に合計187便、93,339人が北朝鮮に帰
    国していった。朝鮮総連のスポークスマンとしてこの帰国運動
    を支えた張明秀は、著書「裏切られた楽土」[1]で、こう語っ
    ている。

         あれから40年近くになる今日、彼ら帰国者の安否を語
        ることは、総連では今でもタブーとされている。しかし、
        在日同胞のあいだでは、ずっと囁かれつづけてきた。彼ら
        は「地上の楽園」の主人公としての、自由で生きがいのあ
        る生活を送るどころか、日本では想像もつかないような悲
        惨な状況に追い込まれているということを。[1,p72]

■2.帰国運動のお膳立て■

     帰国運動の発端は、この年の8月11日、神奈川県川崎市の
    在日朝鮮人グループが祖国に集団帰国する事を決議し、受け入
    れを要請する手紙を金日成主席に送った所から始まる。翌日、
    この決議は東京で開かれた在日朝鮮人の中央大会で帰国実現決
    議として採択され、9月8日には金日成が平壌で開かれた共和
    国創建10周年記念慶祝大会で「共和国政府は、在日同胞が祖
    国に帰り、新しい生活がいとなめるようすべての条件を保障す
    る」と演説した。
    
     こうした矢継ぎ早の動きから、張明秀は帰国運動は北朝鮮か
    ら朝鮮総連への指示によるものと考えている。この時期、北朝
    鮮は日本以外にも帰国を呼びかけ、サハリンから約2千名、中
    国東北地方から数千名の帰国を実現させた。
    
     当時の北朝鮮では、56年からのフルシチョフによるスターリ
    ン批判が波及し、金日成の個人崇拝に対する批判が党中央委員
    会で噴き出し、中ソも介入してきた。金日成は大規模な血の粛
    清でこの危機を乗り切ったのだが、その後で起死回生を狙って
    自分の個人的名声を内外にアピールするイベントとして、この
    帰国運動を仕立て上げた、というのが張秀明の推察である。

■3.「地上の楽園」■

     帰国実現決議を採択した中央大会では、朝鮮総連議長の韓徳
    銖が、記念講演で次のように述べた。
    
         1961年度には電力、石灰、セメント、化学肥料、漁獲高
        など重要産業の人口一人当たりの生産量で、発展した日本
        を凌駕することになり、穀物生産では人口一人あたり2石、
        服地は20m以上、住宅は440平米、先進的工業・農業
        国家として発展する。
        
     総連の宣伝部が作成した「帰国者のための資料」では、次の
    ような記述がある。
    
         その昔、絹の着物を着て、白米に肉のスープを食べてく
        らしていたのは一部少数の千石君(大地主)の金持ちであ
        ったが、今日ではすべての人民が万石君に劣らない生活を
        しているので、北朝鮮を「地上の楽園」と呼ぶのも決して
        偶然ではない。
        
     このようなパンフレットを用いて、一年たらずの間に日本各
    地で2万余の大小集会が開かれ、帰国運動の大キャンペーンが
    展開された。
    
    「楽園」幻想を広める上では、日本人も加担した。日朝協会理
    事の寺尾五郎は、北朝鮮に招かれて、賓客として大切にもてな
    した。寺尾はそれを「三十八度線の北」という訪問記として出
    版し、それを総連が「日本人が書いた客観的な本」として、帰
    国運動に最大限に利用したのである。
    
     また社会党や共産党も帰国運動を積極的に支援した。共産党
    の機関誌アカハタは「この運動を支持し、協力することは日本
    人民の義務であり、人道上の立場から速やかに解決すべき問題
    である」(58年11月29日)とぶちあげた。大江健三郎は、
    帰国者のテレビドラマを見て涙を流し、「自分には帰るべき朝
    鮮がない」と嘆いた。[a]
    
     このように金日成の指示のもと、総連を中心に、社会党・共
    産党、マスコミ、進歩的文化人が一体となって、9万3千人以
    上もの人々を帰国船に乗せたのだった。

■4.「オペラを通じて両国民の理解と友好を深めたい」■

     帰国者の中には、日本で成功して、自分の技術や財産で祖国
    の建設に尽くしたいと志す人々も少なくなかった。その中に当
    時日本一の美声と言われたテナー歌手金永吉(永田絃次郎)が
    いた。金永吉は昭和35(1960)年1月、日本人の夫人と4人の
    子供を連れて、帰国船のタラップからお別れに「オーソレミ」
    を歌って、祖国に捧げた。出発直前に、「新潟日報」の記者に
    よるインタビューでは金永吉はこう語った。
    
         妻は日本人ですが、4人の子供とともに同行してくれる
        ことになりました。一番上の子は、上野学園大のピアノ科
        3年生ですが、平壌に国立音楽大学があるから心配ありま
        せん。
        
         両国のオペラが自由に交流できる時期は1,2年後に来
        ると思います。・・・オペラを通じて両国民の理解と友好
        を深めたいと思います。
        
     金永吉の帰国は総連が直接、説得したものだったという。オ
    ペラ歌手まで帰国するという宣伝効果を狙ったのだろう。
    
■5.消えた5人家族■

     金永吉は、帰国後、平壌で高級住宅と乗用車をあてがわれ、
    「功勲俳優」の称号を与えられた。しかし、帰国の2ヶ月後、
    平壌での「金永吉帰国独唱会」で早くも一悶着が起こった。党
    から革命歌20曲を歌うことを要求され、金永吉はこれを拒絶。
    さらに生活費のために出演料を党に求めた所、「ブルジョア根
    性」と非難された。
    
     やがて金永吉は地方都市の海州市に追放され、そこで大阪か
    らの帰国者が生活苦を訴えたために、どこかに連行され、さら
    にその日本人妻が服毒自殺を遂げる、という事件を知って、党
    に抗議をする決心を固める。金永吉を先頭に約30数名の帰国
    者が平壌の党中央本部に抗議に押しかけた所、全員が逮捕され
    てしまい、金永吉はそのまま消息を絶った。
    
     続いて平壌音楽大学に在学していた長女は退学処分となり、
    しばらく平壌芸術劇場で切符売りをしていたが、やがてどこか
    に連行された。ついで、夫人、次女(18歳)、三女(13
    歳)、長男(16歳)と一人ずつ連行されて、ついには家族全
    員が姿を消した。

     90年以降、北朝鮮からの脱出者が急増して、帰国者たちの
    消息も少しずつ分かってきた。平壌市内にある勝湖里収容所で
    10年間収容されていた黄龍水が、91年に中国に脱出して、そ
    の証言から、金永吉が60年代の中頃から、同じ収容所の別の
    棟にいた事が判明した。四半世紀も、収容所暮らしを続けてい
    た事になる。
     
■6.「全財産を没収し、家族を移住させる」■

     92年8月、中国経由で韓国に脱出した姜哲煥(当時24才)
    は、帰国者の孫だった。祖父は京都市と福知山市でパチンコ店
    を3軒経営し、京都府商工会長でもあった。祖母は戦前から日
    本で共産党に加わっており、「祖国ではいい地位が準備されて
    いる」との総連議長・韓徳銖の勧めで、一家を挙げての帰国に
    踏み切った。
    
     当初は、平壌の中心街の高級幹部用住宅を割り当てられ、日
    本での財産のお陰で、自家用車やテレビ、ピアノまで持ってい
    た。金正日の銅像建設の際には、5千万円もの寄付を行った。
    
     帰国して16年後の77年7月、平壌市経済委員会の副委員長
    をしていた祖父が、仕事に出かけたまま帰らなくなった。職場
    に問い合わせると「出張に行っている」という。近隣では帰国
    者3世帯が次々に行方不明になっていたが、「うちは莫大な献
    金もしているから、大丈夫だろう」と話し合っていた。
    
     翌8月、拳銃を持った国家保衛部員8人が土足のまま家に上
    がり込んで、祖母に「お前の夫は祖国と民族に対し、死に値す
    る罪を犯した。全財産を没収し、家族を移住させる」と言い渡
    した。保衛部員たちは、腕時計などをポケットに入れ始めたの
    で、事情の分からない8才の妹の美湖が「どうして家のものを
    持っていくの」と聞くと、殴られた。翌朝、一家はわずかな衣
    類と炊事道具だけを持って、ソ連製のトラックに乗せられた。
         
■7.帰国者5千数百人の強制収容所■

     一家が運ばれたのは、平壌の東北100キロの地点にある政
    治犯強制収容所だった。67平方キロもの広大な土地が電気鉄
    条網で囲まれ、1キロ間隔で機銃を備えた監視塔がある。ここ
    では約5万人の政治犯が収容されているという。
    
     一家を乗せたトラックは、高さ3mもの鉄の門をくぐってか
    ら、さらに3,40分も走って「十班」と名付けられた集落に
    着いた。住まいは土と石灰で作ったブロックを重ね、板葺きに
    した長屋。一家5人が横になったら一杯になってしまう一部屋
    と、かまどのある土間の二間しかなかった。
    
     十班には1棟に5世帯ほどが入居したこのような長屋が、5,
    6百棟あり、日本からの帰国者ばかり5千数百人が住んでいた。
    この収容所だけで9万3千余人の帰国者のうち、二十分の一以
    上が収容されている計算となる。北朝鮮にはこのような政治犯
    収容所が15カ所ある。
    
     十班では、祖母の日本での顔見知りもかなりいた。互いに抱
    き合い、「どうして来たのか」と言いながら泣いた。自分がな
    ぜ収容所に入れられたのか分からない人がほとんどだった。
    
     一家は翌日から農作業、山菜採取、金鉱山発掘などの作業に
    従事させられた。朝6時の人員点呼から夜8時まで、途中30
    分の休みを2回とるだけで、ぶっつづけに働かされる。午後
    10時から一時間「金日成の徳性談」について思想教育があり、
    午後11時にようやく眠るという生活だった。

■8.食事は一日トウモロコシ550グラム■

     食事は成人で一日当たり550グラムのトウモロコシを1ヶ
    月分まとめて支給される。副食はドングリで作った味噌をスプ
    ーン1杯分。週に一度だけ塩がついた。いつも腹を空かせてい
    て、カエル、ヘビ、ネズミ、雑草など手当たり次第食べる。姜
    哲煥は13歳の時に、トウモロコシ畑でネズミの巣穴を見つけ
    た時の嬉しさが忘れられない。掘り進むと4匹もネズミが見つ
    かり、焼いて食べた。
    
     他の収容者からも「半チョッパリ(半日本人)」と蔑まれ、
    厳しい生活に適応できずに早死にする人も多かった。77年から
    79年までに、日本人妻だけで新たに14人が入所したが、その
    うち12人は肺病や飢えなどで死亡、無事に出所できたのは2
    人だけだった。
    
     飢えと重労働から逃れるために、逃亡を図る人も少なくない。
    しかし、栄養不足で体力のない収容者は、険しい山間にある外
    壁にたどりつくことすら難しかった。逃亡を図って捕まったり、
    保衛部員を殴るなどして者は、毎月の「公開処刑」で銃殺され
    た。
    
■9.10年目の出所■

     収容所は、いずれは外に出られる「革命化区域」と、終身刑
    に相当する「完全統制化区域」に分かれていた。姜哲煥の一家
    が収容されていた革命化区域では、毎年2月16日金正日の誕
    生日に、入所者を集めて、釈放される人の名簿が発表される。
    
     入所10年目の1987年、ついに姜哲煥の一家の名前が呼ばれ
    た。皆で喜びと悔しさが入り交じった涙を流す。全員で金日成、
    金正日万歳を叫んだ後、所長が「お前たちの未来は燦然と開け
    ている」と述べたが、これはまったくの嘘だった。一度政治犯
    収容所に入ったものは、一生、そのレッテルを貼られ、国家保
    衛部の監視のもとで暮らす。
    
     一家は、収容所からそう遠くない地域に家を持ち、農業をし
    ながら暮らし始めた。しかし、10年の苦労がたたったのか、
    父親は89年12月胃潰瘍で死ぬ。その半年後には祖母も病死し
    た。祖母は20数年前の党大会で、金日成と並んで写真をとっ
    たことがあるほどの信奉者だった。その祖母は亡くなる前にこ
    う言った。
    
         死ぬ前に一度、済州島に帰りたい。お前たちを死なせる
        ために、ここに連れてきたようなものだ。金日成、金正日
        に騙された。韓徳銖をこの手で殺してやりたい。
        
     祖父と生き別れ、今また父や祖母を失って、姜哲煥の心に自
    由になりたいという思いが芽生えていった。ある日、韓国のラ
    ジオ放送で録音したヒット曲「釜山港に帰れ」を聞いているこ
    とを密告され、国家保衛部から呼び出しを受けた。残された道
    はただ一つ、中国から韓国に脱出することだけだった。
    
     無事脱出できた姜哲煥は、ソウルで[1]の著者・張明秀の取
    材に「日本には今でも総連はありますか?」と尋ねて、あると
    張が答えると、「あるのなら、手榴弾を投げつけ、絶対、復讐
    してやる」と怒りをあらわにした。姜哲煥は語る。
    
         この私が犯した罪はあまりにも大きく、計り知れない。
        これは私の今後の生を貫いて贖わなければならないものと
        考えている。
        
     しかし張明秀のように自己の責任を追及する人はごく例外で
    しかない。朝鮮総連ばかりでなく、「楽園」への帰還事業を翼
    賛した日本の共産党・社会党も、マスコミも、進歩的文化人ら
    も、自己の責任を頬被りし続けている。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(008) Intellectual Honesty
   大江健三郎と北朝鮮 
b. JOG(233) 闇の国からあやつり人形
   日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮に亡命した赤軍派
   学生たちを待っていた数奇な人生。 
c. JOG(235) 朝銀〜金正日の集金マシン
   在日朝鮮人同胞をも食い物にして北朝鮮に違法送金していた
   朝銀に1兆円もの公的資金投入!? 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 張明秀、「北朝鮮 裏切られた楽土」★★、講談社+α文庫、H10
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「『地上の楽園』北朝鮮への帰還」について
                                                  sinsinさん
     社会党、共産党、マスコミの犯罪的行為に激しい怒りを覚え
    ます。

     大阪の阿倍野高校の教師の南口氏が人権学習の授業で北朝鮮
    の問題を取り上げようと職員会議で提案した所、金正日が謝罪
    したから解決済みなどという信じられない反論で、却下されて
    しまいました。それに日本は植民地支配で悪い事をしたから一
    方的に北朝鮮の事は言えないとか。この人達は日本人なのか?
    心が痛まないのかと思いました。日教組の教育で今の学校がこ
    こまで腐っているとは情けないです。

     ここまで来ると、やはり教育の自由化しか道はないのかなと
    思ってしまいます。結婚して将来子供が出来たときにどんな学
    校に通わせたらよいのか考えてしまいますね。本当に日本はこ
    んな調子で大丈夫なのかと思います。
    
■ 編集長・伊勢雅臣より

     北朝鮮を「地上の楽園」と騙して、9万3千余の人々を帰国
    させた事こそ、巨大な人権問題ですね。

© 平成14年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.