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■■ Japan On the Globe(429)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

        人物探訪: 西郷隆盛はなぜ立ち上がったのか
                         〜 岩田温『日本人の歴史哲学』から
                 必敗を覚悟して西南戦争に立ち上がった西郷は、
                何を目指していたのか。
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■1.「西郷がこの明治を境にバカになった」!?■

     西郷隆盛の後半生は、どうにもよく分からない、というのが、
    私の長年の疑問であった。前半生は、倒幕の中心人物として見
    事な成功を収め、特に江戸開城では勝海舟との絶妙のやりとり
    を通じて、江戸の町を戦火から救う。

     また新政府軍に抵抗した庄内藩の人々は西郷隆盛の寛大な措
    置に感激し、西郷への尊敬の念から前庄内藩主酒井忠篤らが
    『南洲翁遺訓』を編纂し、後の西南戦争では元庄内藩士が西郷
    軍に参加している。

     これほどの有能有徳の人物が、新政府樹立後は征韓論に組し、
    それが容れられないと鹿児島に帰ってしまい、ついには俸禄を
    取り上げられた不平士族に乗せられて西南戦争を起こした、と
    言われると、前半生とはまるで別人のようだ。「西郷が明治を
    境にバカになった」などと言う説もあるようだが、この疑問に
    対する苦し紛れの解答だろう。

     この疑問を氷解させてくれたのが、岩田温氏の『日本人の歴
    史哲学 −なぜ彼らは立ち上がったのか−』である。今回はこ
    の本の第3章「西郷隆盛と日本の近代」を参考に、西郷隆盛の
    後半生に迫ってみたい。

■2.西郷は「征韓論者」だったのか?■

     まず、征韓論について、ある高校生用の参考書には、こんな
    記述がある。

         幕末以来、朝鮮は鎖国政策を取り続け、明治政府の交渉
        態度に不満をいだき、日本の国交要求を再三拒否した。そ
        のため日本国内では、武力を背景に朝鮮に対し強硬方針を
        もってのぞむべきだとする征韓論が高まった。政府部内で
        も西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・・・らの参議がいわ
        ゆる征韓論を唱え、1873(明治6)年8月には、西郷隆盛を
        使節として朝鮮に派遣して交渉にあたらせ、国交要求が入
        れられなければ、兵力を送り、武力に訴えて朝鮮の開国を
        実現させる方針を内定した。(『詳説 日本史研究』)

     まるでアメリカが黒船による脅しをかけて日本に開国を迫っ
    たのと同様のことを、日本が朝鮮に行うつもりだったかのよう
    である[a]。西郷はそのような「征韓論者」だったのか?

     西郷が征韓論者であったという説は、次の板垣退助にあてた
    手紙を根拠としている。

         是非此の処を以て戦ひに持ち込み申さず候はでは、迚
        (とて)も出来候丈ヶに御座なく候に付き、此の温順の論
        を以てはめ込み候えば、必ず戦ふべき機会を引き起こし申
        すべく候に付き、只此の一挙に先立ち、死なせ候ては不便
        (ふびん)抔(など)と、若しや姑息の心を御起こし下さ
        れ候ては、何も相叶ひ申さず候間。

        (この機会に戦いに持ち込まないで、朝鮮との国交を回復
        するのはとても出来そうにありません。この至極もっとも
        な論を以って朝鮮との国交を考えるのであれば、(私を朝
        鮮に派遣して万一殺害されるようなことがありましたら)
        必ず戦う機会が転がり込んできます。ただ挙兵に先立ち、
        私を派遣して死なせては気の毒であると一時の憂いをお感
        じになっているのであれば、何も叶わないでしょう。)

■3.「西洋は野蛮ぢや」■

     たしかにこの部分だけ読めば、西郷は朝鮮との戦いを起こす
    ために、自分が使節として殺される事を望んでいるように見え
    る。しかし、ここで『西郷南洲遺訓』の中の次の言葉と読み比
    べてみるべきだろう。

         予嘗(かつ)て或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮ぢ
        やと云ひしかば、否な文明ぞと争ふ。否な否な野蛮ぢやと
        畳みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、実
        に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々
        説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に
        対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢやと
        申せしかば、其人口を莟(つぼ)めて言無かりきとて笑は
        れける。

        (私は、かつてある人と議論をしたことがある。私が西洋
        は野蛮であると主張すると、その人はいや文明国だと主張
        し議論になった。私が再度西洋は野蛮だと畳みかけて言っ
        たところ、その人はどうしてそれほどにまで西洋を野蛮と
        いうのかと私に尋ねてきた。私が本当の文明国であるなら
        ば、未開の国に対しては慈愛の心をもって接し、懇ろに説
        き諭して文明化に導くべきであるのに、未開蒙昧の国であ
        ればあるほど残忍な仕方で接し、己を利してきた西洋は野
        蛮であると言った。すると、その人は口をつぼめて何も言
        い返すことが出来ないと苦笑していた。)

     真の文明国とは、このような道義を行う国だ、というのが、
    西郷の考えだった。朝鮮との戦争を引き起こすために、自分が
    まず殺される、などという策略を用いるのは、西郷にして見れ
    ば「野蛮」なことだった。

     桶谷秀昭は『草花の匂ふ国家』の中で、「これは板垣の征韓
    論と自分のそれとがちがふことを知つたうへでの西郷の計算で
    あらう」と断じている。すなわち、武力行使を前提とした征韓
    論者の板垣に、自らを全権大使として派遣させることを納得さ
    せるための、西郷の方便だったと言うのである。

■4.「征韓以上の堂々たる成果をあげうるかもしれない」■

     それでは、西郷は大使として朝鮮に行ってどうするつもりだっ
    たのか。

     この手紙で西郷が「死ぬ」とはっきり書いたために、板垣は
    驚いて「死に急がないでくれ」との返事を出した。これに対し
    て、西郷は「死に急ぐということはない。ただ、自らの死後の
    軍事は頼んだ」と返信している。これを葦津珍彦は『永遠の維
    新者』の中で、こう解釈している。

         西郷が「死に急ぎはしない」といっているところが大切
        ではあるまいか。もとより西郷は死を決しているし板垣を
        欺くつもりはない。しかし西郷は、心中ひそかに、死力を
        つくしての外交によって、あるいは征韓以上の堂々たる成
        果をあげうるかもしれないと思っていたのではあるまいか。

     あたかも勝海舟との談判により江戸城の無血開城を成し遂げ
    たように、道義に基づいた外交により、朝鮮を教え諭し、開国
    を成し遂げられる、との自負心があった、というのが葦津の解
    釈である。

     このような形で日朝両国が提携できれば、その先に清国との
    提携の道も見えてこよう。極東3国の道義ある同盟は、西洋の
    「野蛮」な砲艦外交に対する有効な防御となる。これが国家の
    独立維持を図るための明治維新に続く次のステップとして西郷
    の胸の中にあったのかもしれない。

■5.道義ある外交を目指す■

     西郷が朝鮮との道義ある国交を目指したことを裏付ける証左
    が二つある。

     ひとつは明治9年の江華島事件に対する西郷の激怒である。
    日本の軍艦が朝鮮沿岸で測量をする示威行動をとった所、朝鮮
    が砲撃をしてきた。日本軍は反撃して、砲台を破壊し、永宋城
    を占領した。これを機に、日本政府は朝鮮に圧力をかけ、日朝
    修好条規を締結させた。

     鹿児島に下野していた西郷は日本政府の行動に怒り、和平へ
    の国際手続きを十分に踏むことなく発砲するという武力行使は
    「天理に恥ずべき行為」であったと書いている。

     もう一つの証拠は、太政大臣・三條實実に「朝鮮御交際の儀」
    と題して送った文書である。この中で西郷は、朝鮮へ送る使節
    に護兵一大隊をつけるという方針に反対して、「護兵をつける
    ことによって、朝鮮と戦争になっては、国交回復という最初の
    趣旨に反する。ぜひとも交誼を結ぶという趣旨を貫徹していた
    だきたい」と主張している。

     これらの言動を通して見れば、西郷はあくまで道義ある文明
    国どうしとしての国交回復を目指していた事が分かる。

■6.なぜ西郷は立ち上がったのか?■

     しかし朝鮮との提携という志はならず、西郷は失意のうちに
    郷里・鹿児島に戻る。そこでも西郷は江華島事件に激怒したよ
    うに、国政の行方を憂い続けた。その果てに起こしたのが、西
    南戦争である。なぜ西郷は立ち上がったのか?

     ひとつの説は政府が薩摩に密偵を送り込んでいたという偶発
    的な出来事をきっかけに暴発した弟子たちを西郷が抑えきれず
    に、必敗の戦争が起こったという説である。

     これについて、岩田温氏は次のような鮮やかな反論をしてい
    る。

         しかしながら、この説は重大な点を見落としてしまって
        いる。それは、もしも必敗で不要の戦争であれば、数多く
        の門弟、そして将来の日本を担う官軍を大々的に激突させ
        なくとも、西郷が極少数の部下を率いて官軍に斬り込めば
        よい。だが、後に詳述するように西郷は官軍に対して徹底
        的に抗戦し、部下にも敢闘を命じている。この理由が説明
        出来ないのである。部下を愛し、日本を愛した西郷が自ら
        の道連れのためにあたら若い有能な命を犠牲にしたとは考
        えにくい。[1,p147]

■7.「無道の国への道」を拒絶しなければならない■

     それでは、西郷は何のために立ち上がったのか。岩田氏は、
    江藤淳の『南洲残影』を引きつつ、こう述べる。

         明治維新の目的とは無道の国から派遣された黒船を撃ち
        攘(はら)い、国を守ることにあったのではなかったか。
        ところが天子をいただく明治政府は何を為したか。彼らは
        自ら進んで国を西洋化し無道の国への道を歩むに至った。
        ・・・

         では何故に国家を守らんとするものが、国家を代表する
        政府に反旗を翻すのか。

         それは国家とは現に存する国民の専有物ではありえない
        からに他ならない。過去、現在、未来と連綿と続く垂直的
        なるもの、それこそが西郷の守らんとした国家であったか
        らである。現在の政府は垂直的共同体としての国家を断ち
        切り、これを滅ぼさんとする革命勢力ではないか。これを
        断固として拒絶せねばならない。これが西郷の思いではな
        かったろうか。[1,p153]

■8.「一統安堵し此の城を枕にして決戦致すべき候」■

     西南戦争の末期、西郷が城山に立て籠もった際、山県有朋は
    西郷に自刃を勧告する書簡を送った。両軍の死傷者は毎日数百
    人に達し、薩摩軍の勝機がないことは明らかであるのに、徒に
    守戦の戦闘をして何が望みなのか、と問いつめる。

     西郷が単に弟子たちの暴発に乗って心ならずも立ち上がった
    というなら、西郷はこの勧告を受け入れたであろう。しかし、
    西郷はそうしなかった。西郷は二人の使いを敵陣に送って、挙
    兵の大義を説明させ、自分たちは最後の決戦に臨む。以下は、
    西郷の絶筆である。

         今般河野主一郎・山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、
        全く味方の決死を知らしめ且(か)つ義挙の趣意を以て大
        義名分を貫徹し、法廷において斃れ候賦(つもり)に候間、
        一統安堵し此の城を枕にして決戦致すべき候に付き、今一
        層奮発し、後世に恥辱を残さざる様に覚悟肝要にこれある
        べく候也。

         今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に派遣した
        件、味方の決死の覚悟を敵陣に伝えるとともに、この挙兵
        の意義を以て、大義名分を貫徹し、理がどちらかにあるの
        かを明らかにして斃れるつもりなので、諸君らは安堵して、
        この城を枕にして決戦するに際し、今一層奮発して、後世
        に恥辱を残さないよう覚悟して戦うように。

    「安堵」という言葉が印象的だ。彼らが恐れたのは、「義挙の
    趣旨」と「大義名分」が世に伝わらず、後世の人間から単なる
    「不平氏族の叛乱」であるかのように見なされる事だったのだ
    ろう。その心配はもうないから、「一統安堵し」て「城を枕に
    して決戦」しようと西郷は呼びかけたのである。

■9.未来の国民のための「記憶」■

     この一文について、岩田氏はこう述べている。

         ここで西郷が「後世に恥辱を残さざる様に覚悟肝要にこ
        れあるべく候(後世に恥辱を残さないよう覚悟して戦うよ
        うに)」と文章を遺している事実が何とも感慨深い。西郷
        はあくまで最後まで戦い抜くことによって後世の国民へと
        敢闘の記憶と無言のメッセージを遺したと考えられよう。
        [1,p158]

     その「敢闘の記憶」は何のためか。「無言のメッセージ」と
    は何か。岩田氏の解答はこうである。

         後世の国民に敢闘の記憶を残すことによって垂直的共同
        体としての国家を守り抜く。歴史の中で自らを犠牲にして
        も国家という垂直的共同体を守らんとすること、これこそ
        が西郷の思想であり、日本人の歴史哲学であったのではな
        いか。

         それゆえ西郷は最後に至るまで戦い抜く道を選ぶ。何故
        ならこの徹底抗戦である姿こそが肝要であるからである。
        拙くとも徹底して西洋、近代に対峙し戦い抜いた記憶をも
        つ国民と持たざる国民とでは自ずからその未来の差はあき
        らかであろう。そのためにこそ必敗の戦いを選んだのだ。
        [1,p155]

     事の成否を問わず、ある崇高な理想のために命を捧げた人々
    が、我が国の歴史にはたびたび登場する。楠木正成あり、吉田
    松陰あり、そして大東亜戦争での特攻隊員たちがいる。西郷と
    その弟子たちもその系譜に連なっているのである。[b,c,d]

     こう考えてくると、「彼らが命を懸けてまで守ろうとした未
    来に、私たちは生きている」という前号で紹介した映画『男た
    ちの大和』のコピーがしきりに心に浮かぶ。しかし、その未来
    に生きる私たちは、今度は私たちの子孫のために、どのような
    「記憶」を残そうとしているのだろうか。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(149) 黒船と白旗
    ペリーの黒船から手渡された白旗は、弱肉強食の近代世界シ
   ステムへの屈服を要求していた
b. JOG(264) 楠木正成 〜 花は桜木、人は武士
    その純粋な生き様は、武士の理想像として、長く日本人の心
   に生きつづけた。
c. JOG(038)  欧米から見た日本の開国−吉田松陰
    ペリーの船に乗り込んで海外渡航を目指した吉田松陰の事件
   は、スティーヴンソンをして「英雄的な一国民」と感嘆させた。
d. JOG(153) 海ゆかば〜慰霊が開く思いやりの心
    慰霊とは、死者のなした自己犠牲という最高の思いやりを生
   者が受け止め、継承する儀式である。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
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1. 岩田温『日本人の歴史哲学 -なぜ彼らは立ち上がったのか-』★★★
   展転社、H17

■ 編集長・伊勢雅臣より

     未来のために命を捧げた人たちへの残された人々の思いが、
    未来を作るのですね。

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