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■■ Japan On the Globe(493)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

   地球史探訪: 「麗しの島」作りに生涯を捧げた青年たち

                 20歳代で台湾に渡り、医療、衛生、農業に生
                涯を捧げた日本人たちを動かしたものは?
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■1.イラ・フォルモサ(麗しの島)■

     台湾は別名をフォルモサともいう。16世紀半ばに初めて台
    湾沖を航行したポルトガル船の航海士が、その美しさに感動し
    て、「イリャ フォルモーザ(麗しの島)」と呼んだことに由
    来すると言われている。

     しかし海上から眺めれば緑したたる美しい南洋の島も、上陸
    してみたら、大変な「秘境」である事を知ったろう。そこには
    3千メートル級の高山が258もそびえ、人跡未踏の渓谷や密
    林が広がっていた。

     1714年、清の第四代皇帝・康煕帝はヤソ会の伝教師マラら3
    人を台湾に派遣し、地図作成のための測量を行わせた。この時、
    台湾の水が「毒水」であるので、沸騰させた飲用水をわざわざ
    台南から現地に届けさせた。しかし、彼らが連れてきた屈強な
    護衛は、自らの強壮な体力を過信して、泉水を飲んだために、
    5日間で死んでしまったという。

     マラリアなどの風土病が蔓延し、大陸側の漢人は台湾を「瘴
    癘(しょうれい、風土病)の地」と呼んで、「十去、六死、三
    留、一回頭(10人が台湾に渡ると、6人は死に、3人は留ま
    り、一人が戻る)」と言い伝えていた。台湾を平定した際の日
    本軍の戦闘での死者は164名だったが、病死者は実に4,642
    名という有様だった。

     また原住民の高砂族は首狩りの習慣を持っていた。日本領
    有の初期まで首狩りが頻発し、特に漢人の被害が多かった。清
    国領有時代に、漢人と原住民が激しい領地争いをしていたから
    である。明治45(1912)年、日本領有から20年近く経った時
    点でも、首狩りの死者は761人と記録されている。

     台湾全島を一つの政権がまとめたのは、日本統治時代が初め
    てだったが、そこは世界有数の秘境であった。この時代に、日
    本からやってきた多くの青年たちが台湾人と力を合わせて「瘴
    癘の地」を、真の「麗しの島」に変えていったのである。

■2.後藤新平による医療確立■

     日本の台湾統治も、はじめからうまくいった訳ではない。当
    初は武力で治安をもたらそうとしたが、うまくいかず、1年半
    の間に3度も総督が替わり、行政機構もたびたび変更された。
    日本国内でも台湾を放棄せよ、とか、1億円でフランスに売却
    してしまえ、などという議論も出たほどだった。

     台湾統治が軌道に乗ったのは、第4代総督・児玉源太郎[a]
    と台湾総督府民政長官・後藤新平のコンビが、特に民生改善と
    社会インフラ整備を重視した施策をとったからである。

     後藤は台湾開発の中心的人物として原住民ゲリラの帰順、農
    業振興、都市・交通整備、アヘン患者対策など、広範な政策を
    次々と実行した。後藤の事績は[b]で述べたので、ここでは医
    療制度の確立についてのみ、補っておこう。

     後藤は、明治29(1896)年6月、まだ内務省衛生局長の職に
    あった時に、台湾に渡って、実情調査を行った。その直後に、
    台湾総督府令として「台湾公医規則」を発布した。

     これは即戦力として日本から医師を呼んで、公医として指定
    した地域に配置し、診療所を作って医療活動に従事させる制度
    である。そして受け持ち地域での衛生思想の向上、原住民居住
    地の衛生改善と治療、防疫、検査、宣撫工作などを担当した。
    公医として応募した邦人医師115名は任地に出向いて、伝染
    病や悪環境と闘い、自ら悪疫に感染して倒れたり、原住民に襲
    われて殉職するものも出た。

     そうした犠牲に怯むことなく、後藤は改革を続け、医院や診
    療所を各地に作っていった。明治30(1897)年には、官営、私
    営あわせて病院は29カ所だったが、昭和9(1934)年には合計
    217カ所にまで増えている。

     また明治38(1905)年には「大清潔法施行規則」を公布し、
    春3月と秋9月に全台湾で定期的に大掃除をすることとした。
    同時に巡査が、つねに各家庭が清潔に保たれているかを抜き打
    ち検査した。

     こうした衛生・医療の改善に伴い、台湾人の平均寿命は30
    歳前後から、終戦時には60歳へと伸び、当時の世界では希に
    見る成功例となった。

■3.伝染病と闘った堀内次郎■

     堀内次郎は明治6(1873)年兵庫県に生まれ、明治27(1894)
    年に仙台にあった第2高等学校医学部を卒業して、翌年陸軍三
    等軍医となった。

     ちょうど日清戦争の結果、清朝から割譲された台湾に日本軍
    が派遣され、清国軍隊が略奪放火した後の台北に無血入城を果
    たした。堀内はこの征討軍に8ヶ月ほど従事した。現地で「瘴
    癘の地」を目の当たりにした堀内は、台湾こそ医師が必要な土
    地であると考え、除隊して細菌学を正式に学んだ。

     その後、後藤新平[a]の知遇を得て、台北病院の医院に採用
    され、明治29(1896)年10月に軍の輸送船で台湾に渡った。

     ちょうどこの年、中国のアモイからやってきた船舶からペス
    ト(黒死病)が伝わり、台湾で大流行した。堀内はすぐにペス
    ト検出の仕事に従事した。当時、台湾に派遣された医師の中で、
    細菌学を勉強し、顕微鏡操作のできる唯一の医師として、周囲
    の期待を担った。

     堀内は検疫に力を入れようとしたが、台湾人から抵抗を受け
    た。彼らにとって薬水で患者を消毒することは冷水で人を害す
    ことであり、死亡者を火葬することは死者を冒涜することだっ
    た。

     堀内はそうした抵抗を抑えつつ検疫に努めたが、なかなか流
    行を抑えることはできず、その後の約20年間での死者は2万
    4千人にも達した。ペストはネズミを介して伝染するため、総
    督府はネズミ退治に力を入れ、5400万匹ものネズミを捕獲
    した。

     こうした努力により、ようやくペスト撲滅に成功したの
    は、約20年後の大正6(1917)年頃である。住民達は「ペスト
    絶滅祝賀会」を開いて、これを喜んだ。

■4.「台湾の医学史の中で終始主役を続けていた」■

     堀内は、その実直さ、勤勉さを後藤新平に認められ、台湾総
    督府医学校の第3代校長に任命された。医学校は明治31
    (1898)年、後藤により台湾での医師育成を目的として設立され
    たもので、第一期は70名の学生が募集され、修学年限は4年
    間であった。現在の台湾大学医学院の前身である。

     堀内はこの医学校長を21年間も務め、多くの台湾人や日本
    人の医師を育てて、台湾社会に送り出した。終戦後、同校が台
    湾大学の医学院に改変された後も、留まって公共衛生学を講義
    した。台北大学教授を務めた森下薫は、「台湾の医学史の中で
    終始主役を続けていた堀内先生をとりあげなければ、台湾医学
    史の記述は成り立たない」と評している。

     堀内は仕事熱心で東奔西走しているにもかかわらず、貧乏暮
    らしをしていた。それを見かねた卒業生たちは、恩師のために
    金を出し合い、住宅一軒を贈与した。しかし、それも戦後にな
    ると進駐してきた国民党政府に「敵産(敵の資産)」という名
    目で没収されてしまう。

     定年退職の際には、教え子の台湾人開業医たちが中心となっ
    て餞別を募った結果、30万円もの金額が集まった。現在の貨
    幣価値では数億円に相当する高額な餞別である。堀内が故郷で
    他界した昭和30(1955)年には、高雄医学院で教え子たちが追
    悼会を開いている。

■5.上下水道の整備は衛生面の急務■

     上下水道の整備は、台湾のみならず朝鮮半島や中国大陸の生
    活環境で大きな問題だった。水道がないために、少しでも清潔
    な井戸は富豪が独占し、民衆は不衛生な雨水か河川の水に頼る
    しかなかった。また一方で、街では糞尿や汚水も垂れ流しとなっ
    ていた。いざ台風や豪雨となると、洪水となり、汚水や汚物が
    一緒に流れてくる。そこに伝染病が蔓延する。

     そこで台湾総督府は豪族の水独占を禁止し、上下水道の建
    設に乗り出した。そのために招聘されたのが、東京帝大のイギ
    リス人講師バルトンである。

     バルトンは明治20(1887)年から東京帝大の衛生工学講師、
    および内務省衛生局顧問技師となり、東京の下水道設計の責任
    者として活躍した。その任務を終えてイギリスに帰国しようと
    した矢先に、後藤新平に要請されて、明治29(1896)年、台湾
    総督府の衛生土木技師として赴任したのである。この時に、同
    行したのが、教え子として卒業したばかりの浜野弥四郎だった。

     台湾総督府はこの年、土木部を設立し、上下水道建設を含む
    都市改造、交通網整備などに乗り出した。この部は41人の技
    師と83人の技師助手を含む合計180人という大組織であり、
    浜野弥四郎はその首席技師に任命された。

■6.浜野弥四郎、23年間の上下水道建設■

     バルトンと浜野の師弟コンビは、明治29年末から約3年間、
    台湾各地の山野を探索して、水源地調査と上下水道工事の設計
    に奔走した。高山密林に入っても原住民の襲撃を受けなかった
    のは奇跡的な幸運であったが、バルトンはマラリアに感染し、
    東京に戻った後、43歳の若さで急逝してしまう。

     バルトンが台湾で完成したのは基隆の水道のみであり、その
    後の工事は浜野が受け継いだ。それから浜野は大正8(1919)年
    までの23年間をかけて、台湾の主要都市の上下水道をほとん
    ど完成させた。特に台北の鉄筋コンクリートの上下水道系統は
    東京や名古屋よりも早く建設されている。この後、浜野は神戸
    市の技師長に転出する。

     その後も上下水道工事は続けられ、昭和15(1940)年までに
    133カ所が完成し、156万人の台湾人がその恩恵を受けた。
    ボルトンと浜野の赴任から44年後である。この不屈の努力に
    より、清潔な飲み水の提供と下水排出が実現され、衛生環境が
    飛躍的に改善された。

     ちなみに浜野の指導下で台南市などの上下水道の設計と監督
    を行ったのが、八田與一である。八田は後に台南に東洋最大の
    ダムを作り、100万人の農民の生活向上に貢献した[c]。
    
■7.食糧不足だった台湾■

     日本領有前の18世紀末の台湾は、新田開墾の余地はほとん
    どないと思われていた一方で、大陸からの密航者による人口増
    で、年々飢餓が深刻になり、清国から食料を輸入していた。

     日本領有当初の台湾における米作の単位面積あたりの収穫量
    は日本の約3分の1に過ぎなかった。また江戸時代初期から各
    藩が競って米作の研究を続けてきた日本米の品質に敵うべくも
    なかった。こうした状況を改善するため、総督府は品種改良、
    施肥の普及、灌漑の充実、土地の改良などにより、台湾でも米
    収穫増大に努めた。

     品種改良を担当したのは、磯栄吉と末永仁(めぐむ)である。
    磯栄吉は明治19(1886)年、広島に生まれ、東北帝大農科を卒
    業後、明治44(1911)年に台湾総督府農業試験場に技師として
    赴任した。末永仁は磯と同じ年に福岡県に生まれ、明治43
    (1910)年に台湾に渡り、嘉義庁試験農場で技師として日本米の
    改良に努めていた。

     二人は大正元(1912)年に出会い、おそらく台湾での米の品種
    改良の必要性について、意気投合したのであろう。一緒に台中
    に赴任して、磯は米改良農業技師、州内の農業監督として指導
    にあたり、末永はその下で台中州試験所の主任として、品種改
    良に取り組んだ。二人ともまだ二十代の若者である。

■8.米の大幅増産と「蓬莱米」輸出■

     末永は、この地で品種改良に打ち込んだ。明け方に官舎を出
    て、1.5キロ離れた試験田で、品種の交配と試験栽培を行う。
    日が暮れると帰宅し、夕食後は机に向かって研究に打ち込むか、
    3キロ離れた磯の官舎に自転車で行って、報告と相談をする。
    こうした生活が10年も続いた。

     この間、千余の品種を交配して、2百数十品種が試作された。
    ようやく大正10(1921)年に完成した品種は、伊沢多喜男総督
    により、台湾の古称「蓬莱仙島」にちなんで「蓬莱米」と命名
    された。磯は農業監督として、この蓬莱米の普及、指導に尽力
    した。

     八田ダムに代表されるような灌漑の充実も相俟って、台湾の
    米作は飛躍的に拡大し、明治33(1900)年から昭和13(1938)
    年の40年足らずの間に、産出量は4.6倍にもなった。その
    3分の1が蓬莱米であり、そのうちの3分の2は対日輸出に当
    てられた。清国時代には米の輸入をしていた台湾が、逆に味の
    良い蓬莱米を日本に輸出できるまでになったのである。それに
    よる現金収入が台湾農民をさらに豊かにした。
    
     その後、末永はボルネオに渡って稲作指導に従事するが、結
    核で53歳の若さで亡くなった。磯は台北帝大教授となり、終
    戦後も台湾政府の農林庁技術顧問として農業指導に尽力した。
    帰国したのは昭和32(1957)年であり、実に明治43(1910)年
    の渡台以来、47年間を台湾の農業振興に捧げた事になる。
    
■9.「麗しの島」作りの志■

     こうして医療、衛生、農業など、多方面の努力により、「瘴
    癘の地」は「麗しの島」に変貌していったのである。

     ここで名を挙げた人物以外にも、無数の無名の日本人たちが、
    「麗しの島」作りに参加した。彼らの多くは20代に台湾に渡っ
    て数十年もの年月、台湾のために尽くした。彼らを突き動かし
    たのは、何だったのだろうか。

     堀内次郎のように満足な家さえも持たなかった人物がいた事
    を考えれば、立身出世や財産のため、とは考えにくい。もとも
    と帝大出などの超エリートであり、日本国内に留まっていれば、
    もっと安楽な出世もできたはずだ。

     後藤新平は台湾を「植民地」ではなく、「新領土」だと主張
    していた。そこに住む住民は、経済的搾取の対象ではなく、
    同じ「日本国民」なのだ。後藤に招聘されて台湾に渡った若き
    日本人たちを動かしたのは、その「瘴癘の地」に苦しむ同胞の
    生活をなんとか向上させたい、という一途な「同胞愛」だった
    のだろう。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(108) 台湾につくした日本人列伝
    これらの人々はある種の同胞感を抱いて、心血を注い で台湾
   の民生向上と発展のために尽くした。
b. JOG(145) 台湾の「育ての親」、後藤新平
    医学者・後藤新平は「生物学の法則」によって台湾の健全な
   成長を図った 
b. JOG(216) 八田與一〜戦前の台湾で東洋一のダムを作った男
    台湾南部の15万ヘクタールの土地を灌漑して、百万人の農
   民を豊かにした烏山頭ダムの建設者。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 黄文雄『命がけの夢に生きた日本人』★★★、青春出版社、H18

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「『麗しの島』作りに生涯を捧げた青年たち」に寄せられたおた
  より

                                             美智子さんより
     麗しの島、台湾。
    
     最近、台北の故宮博物院が改装となって、素晴らしい展示品、
    北宋時代の青磁が、今後このように沢山集まる事はないという
    目玉でした。芸術新潮でも、取り上げられていましたので、早
    速、行きました。大阪からの、時差は1時間のみ・・

     台北で感動したのは、空港でも日本語で話しかけられたので
    す。70歳代なら、日本語教育を受けておられます。過去のこ
    のような、日本の先人の実績のおかげだと良く分かりました。
    また日本人に対して、憧れや尊敬があるし、何よりもフレンド
    リーなのです。私は団塊の世代で、退職後外国にロングステイ
    しようかと・・その候補地に台湾をしたいと思うほどでした。

     気候もよいし、果物も年中あります。回転寿司も100円で
    食べれます。海鮮も勿論、中華も安くて美味しい。庶民が暮ら
    しやすい物価や商店街なのです。外食が産業化されていないの
    です。町並みが息づいているといいましょうか・・

     夜市が台北のあちこちであって、夜更けまで町をぶらぶらと
    食べたり、飲んだり買い物したりと、散策できます。大阪人と
    は、良く似た気性です。屋台で仲良く食事をして話が弾んでい
    ます。庶民なりに、人生の楽しみ方を、知った人々です。

                                           大悟ママさんより
     493号に関してというより、台湾に尽くした日本人につい
    ての記事全般関しての質問です。数回、夫の出張について台湾
    に行った際に、日本、日本人が大変な好意も持って迎えられて
    いるのに大変驚きました。他のアジアの国々が日本が経済大国
    だからという理由で一目置いてはいるけど、反日であるのに比
    べ、台湾では真に「熱烈歓迎」で、すべての世代から折につけ
    日本に感謝しているという話しを聞きました。

     台湾人の私達に対する好意をもちろんうれしく思いながらも、
    でも、と私はいつも思うのです。なぜ日本は中国や韓国に比べ、
    台湾にはこれほど好意的で大規模な投資をしたのでしょうか。
    そして、なぜ他の国に同様にしなかったのでしょうか。もし同
    様に投資していたのなら、なぜ、中国、韓国ではその事実を誰
    も語らないのでしょうか。日本でも優秀な人々をわざわざ台湾
    に派遣するのはそれなりの理由があるはずです。たとえば、日
    本の食糧庫として設備投資をしていたなど。是非、一度この点
    についてお話ししていただけないでしょうか。よろしくお願い
    いたします。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     もちろん朝鮮半島にも日本は大規模な人的経済的投資をして
    いました。たとえば以下をご覧下さい。

    JOG(056) 忘れられた国土開発
     日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追
    いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開
    発が図られた。

     しかし、韓国政府も北朝鮮政府も「大日本帝国の支配を打倒
    した」というイデオロギーが、それぞれの政府の正統性の唯一
    の根拠なのです。

    JOG(190) 「お家の事情」の歴史観
    「抗日史観」を国家の「背骨」にせざるをえない韓国の「お家
    の事情」。 

     台湾のように真の民主選挙で成り立つ政府なら、そのような
    必要もなく、客観的に歴史を振り返ることができるでしょう。

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