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沖縄で考えた「日の丸」法制化


  梅雨明けの六月末に沖縄に行ってきました。
 泊まったのは読谷・知花昌一さんが経営する民宿です。
 知花さんについてはご存じの方も多いでしょうが、十数年前の沖縄国体の際に読谷村で開かれたソフトボール会場のメインポールから日の丸を引きずり下ろして火をつけて器物損壊で起訴され、その後、米軍の通信基地(通称象のオリ)の地主として使用契約を拒否することで米軍ではなく日本政府と対決した傑物です。現在は読谷村議会議員をつとめるかたわら、この六月から自宅で民宿を始めました。
 秘蔵の泡盛をいただきながら朝の四時すぎまで新ガイドラインや国旗国歌法や基地問題、そして特に十五年戦争末期に沖縄が経験したことなど興味深いお話をいただきました。

 そのうち国旗国歌、とくに日の丸に関して。
 占領地時代の沖縄では日本復帰運動の中で、日の丸は島内で積極的に振られてきました。島の圧倒的な部分を基地に占領され、島民が米兵に弄ばれ、殺されても異議申し立てがたやすく却下されてしまう、そのような関係を脱出したいとの島民の願いが「本土並の生活」を求め、「本土並」のシンボルとしての日の丸を振らせたのでした。
 それに対して強硬な反対姿勢をとったのが沖縄の自民党でした。彼らは日本復帰運動をアカの運動と宣伝し、また、日本と米国の関係を良好に進めるためにも、沖縄は捨て石として占領地のままであったほうが好都合だと判断したためです。復帰に最も反対し、日の丸を決して振らなかったのが、沖縄の自民党でした(尚、当時の沖縄は米国領とはいえ占領地であったためにたとえば大統領選などの国政とははもちろん無縁でした。政治は米国の下請け機関として設立された琉球政府が行い、日本本土の政党が政治活動をしていました)。
 それが、日米交渉が進み復帰の結果が「本土並」とはほど遠いものになることが明らかになるにつれ、沖縄での日の丸の扱いも逆転します。「民族の悲願」というスローガンや「日の丸」は影をひそめ、「即時無条件全面返還」を求める運動に変ります。十五年戦争では沖縄を本土の盾として見捨てたのみならず少なからずの住民をスパイとして殺したかつての日本軍のように、またも、日本国は返還後の沖縄を基地の島のままにおこうとする。「本土並」を要求し続けてきた沖縄内の復帰運動が裏切られたとの思いを抱いたのは当然といえるでしょう。このとき、沖縄にとって日の丸は、戦前となんら性質の変らない、民衆を制御し圧迫するシンボルとして復活したのでした。
 沖縄においての日の丸・君が代への感情は、第一に沖縄住民が戦争中に受けた悲惨な体験があり、第二に、それにもかかわらず返還後にもまた沖縄を利用し続ける日本という国への思いが複雑にしているのはむしろ自然に思えます。先の知花氏が日の丸を焼いたとき、自民党議員から
「お前は復帰運動のときに日の丸を振っていたじゃないか」と問われてこう応えたそうです。「お前は決して振らなかったくせに今更なんだ」

 現在、強力な「指導」のかいあって、沖縄の小中高校での入学式卒業式での日の丸掲揚率、君が代斉唱(実際に声を出すかは別にして)率は100%です。国旗国歌法にもめだった反対運動は起きていません。しかしそれは沖縄に日の丸・君が代が定着したからと見るのは全く誤りでしょう。愛せないもの(それは「米軍基地」もです。これは島内経済に大きく関係してさらに感情を複雑にしていますが、この件は別の機会に。)を受け入れざるをえない者の思いを少しでも感じるとき、私は国旗国歌の法制化(というのは、この国ではイコール強制化に他なりません。本来はイコールには決してならないはずなのに)には違和感を禁じ得ません。

 古いスローガンですが、「愛する心より、愛せる国を」作るのが大人の仕事のはずです。                              
                                松本 智量


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