19世紀ドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェはその遺稿集「権力への意志」の序言において、
「私が物語るのは、次の2世紀の歴史である。私は来るべきものを、もはや別様には来たりえないものを、すなわちニヒリズムの到来を書きしるす。(略)いったい、なぜニヒリズムの到来はいまこそ必然的であるのか? それは、私たちのこれまでの諸価値自身がニヒリズムのうちでその最後的帰結に達するからであり、云々」と述べて来るべき20世紀、21世紀をニヒリズムの到来の時代と位置づけています。
ニヒリズムとはニーチェにとって、直接的に言えば、ヨーロッパにおいて長い間人々の精神的支柱であったキリスト教的価値観が「神の死」によって崩壊することを意味するものでしたが、一般的に言えばこの世の中の価値基準、特に「よい、悪い」などの道徳的規範なども、全く無根拠と考えられ相対化されている状況をいうのです。
ニーチェにとっては、この「ニヒリズムの到来」はあるべき姿でも、望ましき状況なのでもなくて、絶対的に避けることのできない必然的なものだったのです。その「ニヒリズムの到来」に本当に人類が耐え得るのかどうかという問題を提起したのです。
ひるがえって、20世紀の最後の年、21世紀を迎えようとしている私たちにには、ニーチェの予言の恐ろしい程の的中性に驚かざるを得ません。
20世紀は経済活動の劇的な発展、科学技術の画期的な進展を見ましたが、一方では、以前には見られなかったような戦争による大量殺戮が行われたのも、昔、ニーチェ的にいえばニヒリズムの現われに他なりません。
わが国でも、文字通りこの世紀末にあって異常な事件の続発を始めとする、色々な社会的問題が噴出してきています。
あるテレビ番組で「どうして人を殺してはいけないのですか」という一高校生の質問は大きな波紋をなげかけましたが、この質問は現代社会にニヒリズム的状況がいかに浸透しているかを端的に示していると思います。
このような状況において、わが国の総理大臣が発した「神の国」発言なるものも、このニヒリズム的状況を過去の規範に対するノスタルジック的意識で解決しようとしたものといえましょう。
ニーチェはキリスト教嫌いで仏教には好意的だったのですが、仏教がこのニヒリズム的状況に対して、これを克服して行くことができるかどうかは、私たちに与えられた課題だと思います。 |
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