060818 学習会
ドイツから見た日本
〜同じ敗戦国なのに 、何が・どこが違うのか?〜
水島朝穂(早稲田大学法学部教授)
2006年8月18日(金) 18:30〜20:30
市原市民会館 大会議室 (資料代500円)
● 講師 プロフィール
1953年,東京都府中市生まれ。
83年札幌学院大学助教授,89年広島大学助教授を経て,96年より現職。法学博士。
91年ベルリン自由大学、99年〜00年ボン大学で在外研究。
全国憲法研究会運営委員 国際法律家協会理事。
単著『現代軍事法制の研究』 日本評論社 1995
『武力なき平和−日本国憲法の構想力』 岩波書店 1997
『ベルリンヒロシマ通り』 中国新聞社 1994
『この国は「国連の戦争」に参加するのか』 高文研
『同時代への直言』 高文研 2003
『憲法「私」論』 小学館 2006
編著『ヒロシマと憲法』 法律文化社 2003
『オキナワと憲法』 法律文化社 1998
『改憲論を診る』 法律文化社 2003
『世界の「有事法制」を診る』 法律文化社
『現代立憲主義の認識と実践』 日本評論社
『きみはサンダーバードを知っているか』 日本評論社 1992
『グローバル安保体制が動きだす』 日本評論社
『未来創造としての戦後補償』 現代人文社
『新六法2006』 三省堂 ほか多数。
共著『沖縄・読谷村の挑戦』 岩波書店
『暴力の連鎖を超えて』 岩波書店
『改憲は必要か』 岩波書店
『有事法制批判』 岩波書店
『司法制度改革と市民の視点』 成文堂
『基本法コンメンタール憲法』 日本評論社 ほか多数。
NHKラジオ第1放送「新聞を読んで」レギュラー
(次回は2006年9月2日(土)午前5時35分)。
バックナンバーはhttp://www.asaho.com/で読める。
● レジュメ
ドイツから診た日本
――同じ敗戦国なのに,何がどう違うのか----
市原市/2006年8月18日 水島朝穂 http://www.asaho.com/
はじめの「モノ語り」――「ベルリンの壁」崩壊から17年
T.ドイツと憲法の歴史を診る
1.ドイツ連邦共和国基本法(Grundgesetz)はどのように生まれたか
*1849年3月28日(水)――フランクフルト憲法(Vom Main …):未完の憲法的伝統
*1919年8月11日(月)――ヴァイマール憲法(ueber die Ilm…):正負の教訓から
*1949年5月8日(日)午後11時55分――ドイツ基本法採択日の秘密
*1949年5月10日(火)――4票の僅差で首都「ボン」を決定(ueber den Rhein…)
2.東西冷戦のはじまりと終わりにおけるドイツ
*1953年6月17日(水)――あの事件から半世紀。6.17事件とは何だったのか
*1961年8月13日(日)――「ベルリンの壁」の建設が始まった
*1975年8月1日(金)――ヘルシンキ宣言の歴史的意義
*1989年11月9日(木)――三つの「11月9 日」の意味深長
3.ドイツ統一はどのようにして行われたか
*1990年3月18日(日)――旧東独初の自由選挙。2 種類のマルク貨幣の「音」
*1990年4月某日(?)――旧東独市民運動による円卓会議草案。未完の憲法改革
*1990年8月31日(金)――ドイツ統一条約締結。基本法146条と基本法23条
*1990年10月3日(水)――ドイツ統一の日。「一つの国と二つの社会」の始まり
*1991年3月15日(金)――ソ連が「2+4条約」を最後に批准。完全な主権回復
*1991年6月29日(土)――東西ドイツの市民・学者による対案「ドイツ諸州連邦憲法草案」(クラトーリウム草案)。円卓会議草案も継承
4.ライン川からシュプレー川へ(Vom Rhein an die Spree)
*1991年6月20日(木)――連邦議会,337対320の17票差で首都・ベルリンを決定
*1998年9月27日(日)――社民・緑の党の連立政権誕生
*1999年3月24日(水)――ドイツ戦後初の武力行使・コソボ紛争のNATO空爆
*1999年5月23日(日)――ドイツ基本法の「40+10の50周年」
*1999年9月1日(水)――連邦議会,ベルリンへ。首都ベルリン。第三民主制?
*2005年5月27日(金)――ドイツ連邦参議院「EU憲法条約」承認
小括――「ドイツ憲法」の過去,現在,未来
Vom Main ueber die Ilm und den Rhein an die Spree und.....
U.ドイツの戦後と日本の戦後を診る――どこが違ってしまったのか
1.ドイツの敗戦と日本の敗戦
*降伏と「占領のかたち」の違い
*東西対立の影響
*国民側の受け止め方の違い
2.「戦後補償」の違い
*「戦争責任」についての考え方の違い――天皇とヒトラー,ナチスと国防軍
*民間の対応の違い――フォルクスワーゲン(カッセル)の例から
*ドイツの立法的解決と,日本の戦後補償裁判
3.戦後の歩みがここまで違ってしまった
*「ヨーロッパのなかのドイツ」だが,「アジアのなかの日本」だったのか
*NATOと日米安保の違い
*ドイツと日本の「再軍備」の違い
*2004年から2005年にかけてドイツがやったこと――「記念日」の使い方の違い
むすび――「日本とドイツ」という言い方の問題性
● 資 料
<直言バックナンバー>
・基本法は押しつけ憲法か? http://www.asaho.com/jpn/bkno/2000/0306.html
・それぞれの「記念日」 http://www.asaho.com/jpn/bkno/2004/0906.html
・ドレスデンのねじれ http://www.asaho.com/jpn/bkno/2005/0404.html
・トルコの「90年前の現在」 http://www.asaho.com/jpn/bkno/2005/0425.html
・ベルリンの「壁」から「石碑」へhttp://www.asaho.com/jpn/bkno/2005/0523.html
・賛成の反対なのだ http://www.asaho.com/jpn/bkno/2005/0711.html
・「心に刻む」ということ http://www.asaho.com/jpn/bkno/2005/1024.html
・ベルリンの学校の「壁」 http://www.asaho.com/jpn/bkno/2006/0403.html
<論文、エッセーなど>
・法律時評「首相の靖国神社参拝問題」 『法律時報』01年10月号
・「平和主義」アエラムック『憲法がわかる』 朝日新聞社、2000年
この論文を見ると、いまでも気分が高揚するというほど思い入れの強い作品らしい。
・「ベルリンの壁−もうひとつの過去の象徴−」 『地理』92年8月号
・「日本政治の耐え難い不透明性−ガラス張りのドイツ国会議事堂から-」 『マスコミ市民』00年8月号
・「ベルリン・ヒロシマ通り」にちなむ新聞記事
中国新聞'91年5月29日 朝日新聞2000年8月23日夕刊 朝日新聞01年3月1日夕刊 朝日新聞03年5月1日
<スペシャル・グッズ>
・ナチス親衛隊本部建物の破片、親衛隊員の認識票
・ナチス国防軍兵士、公務員、労働者の身分証明書
・1989年に破壊された「ベルリンの壁」の破片と証明写真
● 水島氏からのメッセージ
(1)ドイツがよくて日本が悪いという単純な比較、先入観は止めよう。
ドイツも悪いところ、問題をたくさん抱えているが、終戦から60年経った今、大きな違いが生まれている。
(2)ドイツに学ぶこと〜「記念 日」を大事にすること〜
シュレーダー首相は、戦後60周年の2004年、6月6日のノルマンディー上陸作戦記念日、8月1日のワルシャワ蜂起記念日に、ポーラン ド、フランスの記念式典に初参加し、きちんと謝罪をしている。相手国の記念日もキチンと知ろう(例えば8月15日は日本は終戦・敗戦記念日だが韓国にとっては解放記念日)。
(3)他国の人と向き合うとき、国家を背負うことなく、ひとり一人の私として(住民として)向き合って、付き合おう。
(4)水島式平和三原則
@好きになってもらわなくても良いから、嫌われないようにす る。
A味方に出来なくても良いから、敵にはさせない。
B勝てなくてもいいから負けない。
(5)憲法改正について
「揺るぎある改憲派」と「揺るぎある護憲派」との対話、話し合いを進めていこう。
● レポート
「外国が日本をどうみているか」シリーズの第二弾。
第一弾:中国編のように、ドイツ人を招くのが一貫性のあるやり方だ。しかし市民連絡会には「敗戦の日」に近い日時に大規模な集会を市原で開きたいという野望?があった。そのためには…。
お盆の真っ最中の集会に人が集まらないことは、昨年で体験済み。だから日時はズラす。そして知名度の高い講師を招く。でも赤字を抱える当会としては講師料は安くあげたい! これらのムシのよい条件を満たして、なおかつシリーズから外れずに「ドイツからみた日本」を話してもらえるのは、水島氏をおいては考えられなかった。
わたしの水島氏との出会いは、学部三年の憲法ゼミであった。三菱樹脂事件を担当したわたしは、東大社研『基本的人権』(1)所収の芦部論文を参照しながら報告を展開した。「ここまで調べる学生はいないだろう」と考えていたところ、机上でこの本をひろげ、しかも脚注に基づいた質問をしてきた。それが水島氏だった。
近年は氏のウェブ・サイト『平和憲法のメッセージ』を通じてメール交換をしていた。市民連絡会の講演会のたびに招請を続けてきた。だが、各地を飛び歩いて多忙な彼とは日程があわない。それが今回、やっと実現した。氏によれば、「講演予定が詰まっていたが、テーマが変わっていたので食指が動いた」そうな。
メディアにも進んで登場する数少ない護憲派研究者であり、問題のとらえ方、知識の広さ・深さにおいて間違いなく当代超一流の研究者である。そんな彼に市価の「何十分の一」の「薄謝」で引き受けてもらうことが出来て、ただただ感謝である。
(1)どうしたら人を集めることが出来るの?
市民連絡会としては、「早稲田の教授が来るんだから」と力を入れた。「この会議室でよいのか?もっと広い会場を用意しよう」という声もあった。しかし、この会議室より広い会場となると「500名か350名」となる。これを三分の二以上埋めるとなると、かなりむずかしい。だから「定員80名の会議室を満杯にしよう! 立ち見も入れて100名を集めよう!!」ということにして、学習会としては異例のキャラバンを組んだ。ビラまきもした。さまざまな団体にも案内を送った。
あれだけ努力したのに? それともあれだけやったその甲斐があってか? 集まったのは64名。開場してみて、客の出足から100名に届かないことはすぐにわかった。立ち客が出たら、他の部屋から椅子を運ぶ算段までしていたのだが、取らぬ狸のなんとやらだった。目標には届かなかったが、数だけでみれば小規模集会では最多の人数が集まったことになる。上は80代から下は高校二年生だ。千葉市や文京区からもやって来た。
しかし、これだけの出し物でも、この程度しか集まらないのか!とガッカリする。今後は休日の日中に催すなどの変化も必要と思われる。
会場をほどよく埋めたみなさん。水島節に引き込まれていた。
(2)まことに申し訳のないことに
レジュメ資料編は、それなりにレイアウトしてシッカリと印刷することが出来たのだが、肝心のレジュメ「本文」の印刷をすっかり忘れてしまっていた。水島氏からわたしのもとへ送信されていたのだが、わたしが添付ファイルをものの見事に見落としていた。わたしは「送られてきていない」と思いこんでいたために、彼が「送り忘れた」と責任を負い、聴衆に謝罪してくれた。会終了後、帰宅して、届いてないことを確認するためにPCを開いたところ、添付ファイルを発見したのだった。主催者として、とんでもない失態を演じてしまったのだ。
翌日彼からは、怒りを抑えたねぎらいのメールが届いたのだが…。
ところで、わたしのPCから取り出されていなかった「レジュメ本文」が、閉会時には、みなさんに配られたのでした。これはミステリーです。
レジュメ本文がなければ、わたしならば平静ではいられず、しどろもどろになっていたことでしょう。しかし水島氏は余裕綽々。ときに『クレヨンしんちゃん』を引き合いに出し、ジョークを交えて聴衆を話に引き込んでゆきました。
戦後補償の問題など時間の関係で触れられなかったテーマもあるけれど、上記メッセージと彼のすごさは、みなさんにシッカリと伝わったことでしょう。膨大な量のレジュメ資料編、彼の語り口を思い起こしながら読んで、理解を深めてください。 (06.08.26記)