DUMKA

能登線 (2005.04.02)

 3月31日付で、のと鉄道の穴水・蛸島間と、日立電鉄の全線が廃止されました。鉄道ファンとして廃線は残念でならず、乗ったときの想い出があると一層寂しく感じられます。幸い、どちらも旅程を記したメモが残っているので、それを元に、記憶の扉を開いてみようと思います。
 今回は21年前の夏に、南東北、北陸、中部地方を2泊3日で周ったときの記録です。特急乗車の一部区間を除き、切符は「青春18きっぷ」を使用。路線も車両もバラエティに富み、好天にも恵まれた楽しい旅でした。

1984年夏・能登旅行 1984年8月12日(日)〜8月14日(火)
川崎 0447(京浜東北線)0521 上野 0540(東北本線523M)0826 黒磯 0831(東北本線125列車)1018 郡山 1026(磐越西線/信越本線1229列車)1536 新潟 1645(信越本線1344M)1950 直江津 2052(北陸本線242列車)2307 富山 2310(北陸本線376M)0012 金沢 0349(七尾線321D)0522 七尾 0608(七尾線/能登線323D〜423D)0838 松波(徒歩)恋路 1008(能登線425D)1034 蛸島 1045(能登線/七尾線430D)1336 七尾 1346(七尾線348D)1524 金沢 1542(北陸本線353M)1645 富山 1907(北陸本線368M)2307 敦賀 2312 (北陸本線・快速3377M)2357 福井 0518(北陸本線・快速3320M)0647 米原 0701(東海道本線/中央西線426M〜633M)0854 神領 0903(中央西線635M)0920 多治見 0937(太多線429D)0952 姫 1009(太多線432D)1022 多治見 1041(中央西線・快速3735M)1125 中津川 1138(中央西線829M)1337 塩尻 1424(特急・あずさ14号)1441 上諏訪 1500(中央東線・臨時快速9622M)1741 立川(南武線)川崎

 川崎を早朝の京浜東北線で発ち、上野発5時40分の東北本線・黒磯行きに乗車。黒磯で旧型客車9両を連ねた125列車に乗り継ぎました。牽引機は福島機関区のED75 63で、乗車したのは外装が茶色、内装がニス塗りのスハ42 2122(仙セン)。若い鉄道ファンの皆さんには夢のような光景でしょうけれど、当時はこのような旧型客車の長大編成がまだ残っていたのです。もちろん冷房などありませんが、窓を開け放して風に吹かれるのは汽車旅の醍醐味でした。

 郡山で10時26分の磐越西線1229列車・新潟行きに乗り換え。こちらは50系客車の4両編成で、牽引機は会津若松までEF77の重連、その先はDD51だったと思います。混雑のため座れず、郡山から会津若松までデッキで立ち詰めでした。初めて乗る路線で座れないと、あまり良い印象が残らないものですが、中山宿のスイッチバックや、次第に姿を変えていく磐梯山が面白かったのを覚えています。喜多方から新津までの非電化区間も阿賀川(新潟県では阿賀野川)沿いの景色が良く、後日、蒸気暖房を効かせた冬の客車列車を求めて再訪しました。

 新潟からは信越本線で直江津へ向かい、広大な田んぼと日本海の眺めを満喫。直江津では20時52分の北陸本線242列車・富山行きに乗り換え、親不知の険を長大トンネルで抜けます。牽引機は富山第二機関区のEF81 41で、乗車したのは青色のオハフ33 2349(新ナオ)。さらに23時過ぎの富山で3分接続の金沢行きを掴まえ、深夜の倶利伽羅峠を越えていきます。

 鈍行で地方を旅をしていると、県境へ近付くにつれて乗客が減り、過ぎればまた増えていく様が面白いものですが、それも昼間の列車でのこと。夜の10時、11時ともなると真夜中も同然で、乗客は自分一人という状況も珍しくありません。走ればジョイント音が坦々と続き、停まれば無音の闇に沈む、銀河鉄道のような時空が過ぎていくばかりです。このときは離れた席に若い女性が一人いたのですが、どこかの駅で降りたのでしょう、いつの間にか姿が消えていて、真夏だというのに薄ら寒い思いをしました。

 金沢に着いたのは日が変わった8月13日(月)の0時12分で、コンコースの一角で3時間半ほど待ち、3時49分発の七尾線・輪島行きに乗車。こんなに早い一番列車にもかかわらず、意外なほど多くの人が乗り込みます。当初はこの列車で輪島まで行き、穴水へ戻って能登線という予定でしたが、気が変わって早朝の七尾で途中下車。朝日を浴びて身体を伸ばし、まだ人気の少ない駅前を散歩したりして、6時08分の列車で能登線へ入りました。

 この旅では格別の印象を残さなかった七尾ですが、きっと縁があったのでしょう。後年「痕(きずあと)」というPCゲームの舞台を探しに、七尾・和倉へは季節を変えて3回訪れています。もう一つついでに、現在使っているPCディスプレイもナナオ(EIZO)です。

 ところで、鉄道は輸送量によって建設等級が異なり、能登線は簡易線という、国鉄の最低ランクに属します。見たところ30kgレール(1mあたりの重さが30kgの細いレール)のようであり、タブレットはもちろん腕木式信号機も現役でした。急カーブと短いトンネルが連続し、合間に海も見えたはずなのですが、疲労と睡眠不足による睡魔が波状攻撃をかけてきたため、あまり覚えていません。

 8時38分の松波で下車し、ひとつ先の臨時乗降場・恋路までの切符を記念に購入。恋路とは近くの恋路海岸から取った駅名で、土地に伝わる悲恋の物語に因むそうです。次の列車で通り過ぎるのも惜しいので、海岸を望みつつ、徒歩で恋路へ。無人の片面ホームから10時08分の蛸島(たこじま)行きに乗り込みました。10時34分、終点の蛸島着。能登半島の突端に近い終着駅ですが、観光はせず、折り返し10時45分の七尾行きで来た線路を戻ります。

 七尾で金沢行きに乗り継ぎ、さらに北陸本線で富山着16時45分。いよいよ貧乏鉄道旅行の本領発揮、夜の時間潰しの始まりです。まず、19時07分の北陸本線・上り普通列車に乗り、丸々4時間をかけて23時07分に敦賀着。5分後の下り最終で福井へ引き返し、この夜は福井駅の待合室で一番列車を待ちました。深夜帯に夜行列車が止まる駅は朝まで待合室を開放しているので、旅費を節約するため、若い頃はこのような駅泊(駅寝などとも言う)をよくしたものです。昨今は夜行列車が次々消えていく上、世間が喧しくなってきましたから、こうした長閑(?)な風景もいずれ昔語りになるでしょう。

 8月14日(火)、福井を5時18分の北陸本線・米原行き快速で発ち、帰途に就きました。と言っても川崎へ直帰するわけではなく、名古屋から木曽路へ分け入るというノンビリ帰り道。途中で見た北陸本線の長距離鈍行221列車が、旧型客車の最後尾にワキ8000(30t積みの有蓋貨車)などを連結していて、客貨混合列車みたいで珍しかったのを覚えています。

 米原から7時01分の東海道本線(中央西線直通)神領行きに乗り、名古屋をスルー。神領でさらに乗り継ぎ、多治見に9時20分着。ここでちょっと寄り道し、太多線のディーゼルカーに乗り換えて姫という駅へ向かいました。能登線の恋路も素敵ですが、太多線の姫も魅力的な駅名です。列車交換(単線区間での上下列車のすれ違い)が可能な駅だから入場券があるかもと期待したものの、降りてみると駅員の配置がない無人駅でした。上り列車で多治見へ戻り、中津川で11時38分の松本行き(?)に乗り継いで、中央西線を北上します。

 中央本線は東京から甲府、上諏訪、塩尻、中津川を経て名古屋に至る主要幹線ですが、運転系統は国鉄時代から塩尻で二分され、東京方が中央東線、名古屋方が中央西線と呼び分けられてきました。どちらも山あり谷ありの風光明媚な路線ですが、より良い条件で景色を眺めるには、地図をはじめ各種資料による下調べが欠かせません。中央西線の場合、木曽路の中核を成す南木曾から薮原にかけては木曽川の左岸を通ります。そこで、塩尻方面なら進行左側のボックスが良いと当たりを付け、寝覚ノ床などの景勝を堪能しました。時々刻々、天候や季節にも応じて変化する車窓は、今は亡き鉄道紀行作家・宮脇俊三氏の言葉通り、テレビより面白いのです。

 標高970mを越えるサミットの鳥居トンネルを抜け、13時37分に塩尻着。あとは通い慣れた中央東線を辿るだけですが、強行軍が続いたためか、お腹の具合が怪しい感じです。私は生まれつき消化器系が弱く、旅先での一番の不安要因なのですが、この旅では終盤に至って足止めを余儀なくされることに。ここまで普通列車で乗り通してきたのに残念ですが、塩尻・上諏訪間は別途切符を購入し、特急でバイパスすることにしました。

 そんなわけで、塩尻14時24分発の特急「あずさ14号」に乗車し、前年の1983年に開通した塩嶺トンネル経由の新線を通って上諏訪へ。15時00分発の臨時快速に乗り換え、17時41分に立川着。1時間ほど南武線の電車に揺られて川崎へ帰着しました。

※当時の時刻表を押し入れの奥から発掘するのは大変なので、一部の列車の行き先を(?)としてあります。ご了承ください。(2005.04.02)

サハロフ(佐藤純一)