今年も本代が10万円を超え、100冊以上の本を読みました。日記に書いた感想から、一部をご紹介します。
最初に、作品を次々読みたくなる作家として、2019年は恒川光太郎に注目。2018年に読んだ「夜市」から始まり、「秋の牢獄」「月夜の島渡り」「雷の季節の終わりに」「南の子供が夜いくところ」(角川ホラー文庫)と、この著者の作品はホラー小説の分野に入れられることが多いですが、どこかホッとする読後感があり、それが次の作品への牽引力になります。
けれども、街角や生活の端々にある、小さくて見逃しがちな不安は、はやりホラーならでは。いにしえの同人PCゲーム(18禁)ですが、ビジュアルノベルの名作「月姫」(TYPE-MOON)で私に最も強い印象を残したのも、弓塚さつきが遠野志貴(主人公)と学校帰りに分かれる際の、「それじゃ私、こっちだから」という何気ない挨拶でした。その直後、主人公の知らぬ間に、さつきの運命は暗転。ホラーの種は、こんなにも身近に潜んでいるのです。
そうした街角から一気に壮大なファンタジー世界へ飛ばされるのが、「スタープレイヤー」「ヘブンメイカー」(恒川光太郎/角川文庫)の2篇。願いが叶うといえば、タルコフスキーの映画「ストーカー」が忘れられませんが(原作も読了)、あちらが願いを選べない(最も切実な願望が実現される)のに対し、スタープレイヤーは一定の条件下で何でも叶います。ただし、大きすぎる力を自分のために使うと、大きな不幸を招きかねません。2作は作品世界が共通で、より良い未来を予感させる終わり方をしており、もし続篇が出たら是非読みたいです。
シリーズとしては、「星系出雲の兵站」全4巻と「星系出雲の兵站・遠征」(林譲治/ハヤカワ文庫)の既刊(第2巻まで)を読みました。戦争は敗北すればもちろん、勝利しても疲弊は免れず、どこでやめるかが死活的に重要。まして未知の文明との戦いは、対応を誤れば容易に殲滅戦へ発展します。遠い将来、人類にこんな日が来るのでしょうか。
2018年に続いて、谷甲州も幾つか読了。まず、SF小説「パンドラ」全4巻(ハヤカワ文庫)。異なる文明との接触は、場合によっては侵略と見分けが付きません。死闘の果てに、共存の拒絶という形で暗示される、明るくない未来に気が滅入ります。
「星は、昴」(ハヤカワ文庫)は、その大半が、共通と思われる世界を様々な立場や時間軸で捉えたSF短篇集。侵略者の視点は、既読の「星を創る者たち」を裏側から覗く様です。表題作は「人は死ぬと星になる」という考えをSFの観点から描いたもので、悲しみが綺麗に昇華されていました。
谷甲州のもうひとつの山脈、山岳小説から「単独行者(アラインゲンガー)」上下巻(ヤマケイ文庫)。加藤文太郎という、戦前に実在した登山家の生涯。ただ歩き続けることが楽しくて仕方がなく、兵庫県内の国道と県道を踏破していく上巻と、より高みを目指すため同行者を得るも、悲惨な結末への扉を開いてしまう下巻。山へのめり込み、他を顧みなくなっていく過程は、何であれ好きなことに打ち込んだ者なら、胸の痛みを重ねて読むところです。
「単独行者」に併せて、同じ著者の「白き嶺の男」(ヤマケイ文庫)を再読。加藤文太郎を現代に捉え直し、現実には叶わなかったヒマラヤへ向かわせています。作品としてはこちらが先に書かれていますが、「単独行者」の細部に呼応するところがあり、一層楽しめました。続きのありそうな書き方なので、出来ればもっと先が読みたいです。
加藤文太郎を描いた小説なら、「孤高の人」上下巻(新田次郎/新潮文庫)が有名ですが、仕事と私生活が多くを占め、山岳小説と呼ぶには物足りません。慣れないパーティー登山で、無謀な相方に引きずられ遭難という筋立てが名作とされるのは、そういう物語を望む人が多いということでしょうか。ある種の英雄譚です。
高山は見上げるだけですが、キャンプなら身近というわけで、「わが天幕焚き火人生」(椎名誠/わたしの旅ブックス)。「人は生まれながらの環境の有り難さを分かっていない」という暗黙の指摘。山から海まで世界中を制覇した著者だけに説得力があります。見えないものを感じ取り、嗅ぎ分ける力の大切さ。荒廃を座視するうち、危機を察知できなくなったときが、この世の終わりです。
ほかにも椎名誠の随筆は好きで、今年は「あやしい探検隊」シリーズの北海道篇、済州島篇、台湾編、そのほかに幾つか読みました。私の場合は星を見るためのキャンプで、さして怪しくはなかったと思いますが、多少の無茶なら出来た若い頃の大切な想い出。気の合う仲間とのキャンプ旅は、まあ色々と起きますが、本当に楽しいものです。
アウトドアといえば、足許の花に目を向けるのも一興。私には植物の知識がありませんが、「三ノ池植物園標本室」上下巻(ほしおさなえ/ちくま文庫)は主に刺繍の話なので、詳しくなくても大丈夫。「活版印刷三日月堂」(ポプラ文庫)と同じ著者の作品で、人の手から生み出されるものの心地よさという共通点があります。世の中は変わっていくものだと頭では分かっていても、自分もその中で生きていくのですから、我が身のこととして受け容れるのは簡単ではないのです。
なお、全4巻で完結したと思われた「活版印刷三日月堂」シリーズですが、12月に過去篇「空色の冊子」が出て、2019年の最後を飾りました。本篇では既に亡くなっている人々に光を当て、何があったのかが明かされます。「勇気を持って、元気に進もう」という言葉に胸を打たれました。
印刷物の代表が本、書物で、「奇譚を売る店」(芦辺拓/光文社文庫)は古書にまつわる怪異短篇集。終章に仕掛けがあります。色々な人の手を経て、古書店に集められ、幾らかの年月を過ごし、新たな読者の手に渡る。古書は新刊書と全く異なる仕組みで成り立つ世界で、本の向こうにある深淵を垣間見る思いです。
例えば、何年か前に読んだ「古書の来歴」上下巻(ジェラルディン・ブルックス/森嶋マリ(訳)/武田ランダムハウスジャパン)は、とある奇書の数百年に及ぶ旅を描いたもので、関わった人々の物語に引き込まれました。全巻読了している「ビブリア古書堂」シリーズ(川上延/メディアワークス文庫)にも、それと共通したスリリングな面白さがあります。
古書だからといって、何でも曰くがあると考えるのは偏見にせよ、古書に関する随筆「古書古書話」(荻原魚雷/本の雑誌社)を読むと、古書店は店主の蔵書を譲ってもらう特殊な場所だと理解できます。店の個性の強さも、敷居が高い理由も納得。新刊書店巡りばかりの私には、足を踏み入れるのが難しい世界です。そこへ何十年も通って本を買い集める人は、やはりいずれ古書店主になるしかない定め。しあわせ読書を少し分けてもらうのも、しあわせな読書体験なのでしょう。
個性的な店繋がりで、「水沢文具店」(安澄加奈/だいわ文庫)はペンとノートを買うと物語を書いてくれる文具店の話。読み手であるお客は、それによって迷いから抜け出し、前へ進む力が得られるといいます。けれど、店主は何も、他者の悩みに寄り添うなどと構えているわけではありません。物語の続きを綴るのも、読み手自身です。
一方、「桜風堂ものがたり」上下巻(村山早紀/PHP文芸文庫)は新刊書店の舞台裏を描いたもの。週に何度かは書店へ足を運ぶ私も、その業界がこんなに複雑な仕組みで動いているとは知りませんでした。一冊の本との出会いは、読者にとっても、本にとっても、奇跡的な幸運なのだと分かります。
同じ著者による「コンビニたそがれ堂」(ポプラ文庫)にも言えますが、お話はハートフル小説に見えて、世の理不尽への憤りがそこかしこに表れており、胸が潰れる思いです。それでも、「見えなくなっても会えなくなっても、きっとどこかにいて、魂や想いが消えてしまうわけではない」という考え方には救われます。
村山早紀の小説には、猫がたびたび重要な役どころで登場するのですが、私は動物の話、とりわけ猫の話に滅法弱くて、思いっ切り感情移入してしまいます。小説や随筆に猫が出てくる作家は多いですが、「たかが猫、されどネコ」(群ようこ/ハルキ文庫)など、群ようこ作品も代表例でしょう。猫の幸せは、人の幸せ。「行方不明になった猫は、木曾の御嶽山へ修行に行っている」という話は、私も何かで読んだか聞いたかして知っていました。外で生きる猫たちはもとより、何かに属さない者に対して冷たい、私たちの社会への批判の書でもあります。
猫とは直接関係ありませんが、「フィンランド語は猫の言葉」(稲垣美晴/角川文庫)は、40年以上前、まだ辞書すらなかった時代に、彼の地へ留学した体験記。何事にも先駆者はいますが、その苦労を面白く読めるものは稀でしょう。フィン語がなぜ猫の言葉なのかは、読んでのお楽しみです。
そんな社会の一面を観察した本として「へろへろ」(鹿子裕文/ちくま文庫)。老人ホーム開設までの苦難を、笑いとドタバタで描く実話小説。地域との垣根のない、人間本位の生活共同体は、収容や管理などという発想の対極にあります。見て見ぬふりをせず、困ったときはお互い様の気持ちを、次第に冷え固まっていくかに見える日本の将来へ残さねばなりません。
老後といえば「老後破産」(NHKスペシャル取材班/新潮文庫)。贅沢は不要、日々の暮らしの平穏を望むだけなのに、金の切れ目が命の切れ目。人生百年なんて言いながら、実は長生きが不幸だなんて、あんまりじゃないですか。
「殺されても聞く」(田原総一朗/朝日新書)は、日本の偉い人たちに色々聞き続けて半世紀、その精髄が新書1冊に込められています。問題も解決策も分かっているのに、空気が許さない。絶望先生みたいに叫びたくもなりますが、そうしないのがジャーナリストの矜持です。
中央でなく地方から社会を見つめる目として、「パイヌカジ」(羽根田治/ヤマケイ文庫)。沖縄の言葉で南風のこと。鳩間島という小さな島での生活に見る、失われつつある日本の田舎暮らしの風景。博物館でない以上、同じところへ留まってはいられないと、分かってはいるのですが。
かつての日本を記録した本としては、「森林官が見た山の彼方の棲息者たち」(加藤博二/河出書房新社)。戦前に書かれた、遠い日本の面影。それも都会から遙かに隔絶された、山里の民の日常です。今日から見れば自然はとても厳しく、生活はとても貧しく、人々は生きるのに精一杯。けれども悲哀ばかりではなく、暮らしを楽しむ姿に人間の強さが活写されています。
もうひとつ、「山棲みの記憶」(根深誠/ヤマケイ文庫)は、熊狩りの凄惨な現場にたじろいでしまいますが、これもひとつの文化。開発が山を壊し、保護が人を遠ざけるなら、後には荒廃が訪れるのみです。
日本の豊かな自然は、それ自体が神様の様なもの。「すべての神様の十月」(小路幸也/PHP文芸文庫)のように、あらゆるところに存在し、それぞれの役割をこなしている神様のほうが、全知全能の近寄りがたい神様よりも身近で、有り難く思えます。時には恐ろしいこともありますが。
そうした神様のお導きかと思う様な本との出会いが、たまにあります。「台湾、ローカル線、そして荷風」(川本三郎/平凡社)もそのひとつで、鉄道を主体とした旅日記。文学や映像作品への深い造詣に立脚し、日常や旅先でのあれこれを愛しみ、慈しむ、随筆の手本の様な一冊です。書店で偶然手に取った本で、こういう出会いがあるからこそ、書店巡りは楽しいのです。
鉄道についても色々読みました。まず「ふしぎな鉄道路線」(竹内正浩/NHK出版新書)は、戦前における鉄道の建設と変遷を軍事面から読み解いた本。鉄道が兵器だった時代、一見不可解な線路選定には、防衛や兵站のために整備されたものが少なくありません。しかし、不経済だとして押し戻されるなど、今日の私たちが思い込んでいるほどには、何もかも軍の言いなりだったわけではないのです。情勢や思惑の変化による改廃も相まって、複雑な鉄道網が出来上がっていく様が分かります。
また、「今すぐ出かけたくなる魅惑の鉄道旅」(野田隆/わたしの旅ブックス)は、観光列車からローカル線まで、鉄道旅行の魅力を綴ったもの。私も北海道や東北の鉄道旅行記をDUMKAに載せていますが、それらと同様に乗り鉄の目線で書かれていて、一緒に旅をしている様な気分になる楽しい本です。
乗り鉄にとって時刻表は究極の情報源ですが、「時刻表復刻版1964年10月号」(JTBパブリッシング)は新幹線開業当時の日本へとタイムスリップさせてくれました。時刻表の復刻版は様々な時代のものが既に出ていますが、あくまで研究資料もしくは愛蔵本であって、気軽に買える値段ではなく、手頃なムック本での発売は助かります。
鉄道ではありませんが、風変わりな旅としては、「いい感じの石ころを拾いに」(宮田珠己/中公文庫)。河原や海岸で綺麗な石を探す楽しさに、誰しも子供の頃、夢中になったことがあるはず。マーフィーの法則に「自然は言い訳しない」というのがありますが、本当に、自然の造形の妙は人知の及ぶところではありません。
旅というか、江戸時代の単身赴任から時代を考察した本として、「下級武士の食日記」(青木直己/ちくま文庫)。和歌山から江戸へやってきた武士の日記を元に、当時の庶民の生活、中でも食事について調査分析されています。世界でも稀な巨大消費社会だった江戸。その様子が生きた言葉で綴られ、日記を書いた当人や、周りの人々との関わり、物価の高さや付き合いの煩雑さなど、ドラマや小説では描かれない生活の実態がよく分かります。
以前読んだ「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵/阿部孝嗣(訳)/講談社学芸文庫)も、武士による江戸近郊の散歩日記として楽しい本で、我が川崎のお大師様にも参詣していました。それにしても、当時の人々の筆まめなことには驚かされます。
そして、時代は江戸から一気に平安へ。数年前から続いてきた「謹訳 源氏物語」文庫版全10巻(紫式部/林望(訳)/祥伝社文庫)が11月に堂々完結し、全巻読了しました。古文には歯が立たない私にも、現代語訳なら何とかと思いきや、源氏物語は呼び名(役職名など)が大長編を通して変わっていき、うっかりすると誰が誰なのか分からなくなります。途中で投げ出してしまったものも、過去にはありました。
その点、林望源氏は配慮が行き届いていて安心で、私が全篇を通読できた源氏物語は、瀬戸内源氏に続いて2例目となります。数多い和歌については全て本文中に訳が入れられ、作中で部分的に口ずさむところも引用元を載せた親切設計。大変な労作で、今後、別の訳を読む際に辞書的な役割を果たすでしょう。強いて難点を挙げるとするなら、場面ごとに付けられた小さな題名が、続く本文のネタバレになってしまっていることです。読む際の区切りになって良いのですが、初めての源氏物語としてはお勧めしにくいかと。
その後は「私本・源氏物語」(田辺聖子/文春文庫)に度肝を抜かれ、現在「新源氏物語」(田辺聖子(訳)/新潮文庫)を読んでいるところです。私本は源氏物語から「明石」の辺りまでを題材にしたパロディーで、何と光源氏が大阪弁で話します。登場する姫君たちの人となりも面白おかしく書き換えられ、進行役の少々皮肉を込めた語り口と相まって、大いに楽しませてもらいました。
一方の新源氏(田辺源氏)は本編3巻、宇治十帖2巻の全5巻から成り、ほかの現代語訳と比べて半分ほどの文章量なのに、登場人物の心情はひときわ細やかに描かれています。おかげで大変分かりやすく、現代小説と変わりなく読むことができるので、源氏入門として一番ではないでしょうか。
とはいえ、源氏物語を読むのは長い旅をする様なものなので、読み手が視点を定めるために、ガイドブックがあると良いかもしれません。今回、林望源氏の完読を機に読んだのが「光源氏と女君たち」(石村きみ子/国書刊行会)で、副題に「十人十色の終活」とあり、登場人物たちの生き方と、人生の仕舞い方が考察されています。人物ごとにあらすじがまとめてあり、長大な物語に散在するエピソードを概観するのに便利で、あんちょこに頼ってしまった様な後ろめたさすら感じました。
こうした「源氏物語」に私を引き合わせてくれたのが、「ドナルド・キーンの東京下町日記」(ドナルド・キーン/東京新聞)。新聞のコラムとして2012年から連載されていたもので、紙面で一部を読んでいましたが、書籍化を機に通読しました。ウェーリー英訳の「The
Tale of
Genji」に出会い、当時アメリカと敵対しつつあった日本に関心を持ち、晩年は帰化して、日本人として生涯を閉じたドナルド・キーン。それほどの力を持つ源氏物語とは、一体どんな小説なのか。この人のお陰で、私は源氏の大海へ漕ぎ出すことができたのです。
サハロフ(佐藤純一)