北紀行

転轍記・北海道篇 〜1985年(昭和60年)秋・北海道旅行記〜

DUMKA


北紀行

スハニ6の走行音


はじめに

 私は旅が好きです。特に鉄道の車窓を眺めているのが好きです。何もしないで、ただボーッとして、昼間は流れていく風景に目をやり、夜は暗い車窓に心を映してみる。そんな旅がとても好きです。

 今より若くて元気があった頃、私は休みになると、列車を乗り継いで、日本中を旅していました。私の足跡は北海道・稚内から鹿児島県・枕崎まで、沖縄県を除く全国に及び、JR全線の8割にあたる1万6000キロの区間に乗車しています。

 そうした旅の幾つかを、私は紀行文の形で記録してきました。この「北紀行」は私が初めて書いた紀行文でもあります。先日、雪深い北陸を旅した時、「こうして車窓を眺めるのも、随分久しぶりだな」と懐かしくなったので、読み返すついでにHTML化してみようと思いました。

 なにぶん13年も前のことなので、既に廃止された路線や列車が多く、今の時刻表や地図を見ても、どこにいるのか分からないかもしれません。沿線風景や街の様子も変わり、記述とは違ってきた事柄もあります。その後の変化などは補遺としてまとめます。

 それに今読み返すと、文章が下手なのは仕方がないとしても、タイトルにひねりがありませんし、若さゆえか妙に力んだ部分もあったりして、ちょっと恥ずかしい気もします。

 ところで、拙文を読んだ方が、もしその土地に興味を持って出掛けたとしても、私とは全く異なる感想を持つかもしれません。でも、旅の印象がその時、その人ごとに違ってくるのは仕方のないことです。どうか恨まないでくださいね。

 なお、駅名や地名などを表記する必要から、このページでは機種依存文字など、標準以外の文字を使用している可能性があります。予めご了承ください。

 ご意見、ご感想などありましたら、sakharov@mua.biglobe.ne.jp にてお待ちしております。

1998.02.25


急行「津軽」の夜

上野〜福島〜秋田〜東能代 (東北本線・奥羽本線)

 奥羽本線経由青森行きの急行「津軽」は、定刻に上野駅14番線を離れた。10月3日(木)、22時30分。出発である。これから一週間、北海道を駆け巡る旅に出る。

 「津軽」は上野・青森間756.8キロを13時間47分かけて走り抜く夜行急行である。普通車だけの編成だが、特急用の14系客車なので人気がある。もっとも今日は平日なので空いており、前の座席の向きを変え、足を伸ばして寛ぐことができる。

 この列車は栄光の歴史を持っている。かつての「津軽」は二等寝台車(現在のA寝台車)を連結し、東京から奥羽本線へ直通する優等列車の代表だった。秋田・青森県地方から上京した人達にとって、その二等寝台車から郷里の駅に降り立つことは、故郷に錦を飾ることを意味していた。そこから「津軽で帰ろう」が合言葉になり、「津軽」は出世列車と呼ばれるようになった。

 鉄道が陸上交通の王者として君臨していた頃、こういう列車は各地に存在していたと思う。しかし、空港や高速道路が整備される時代になると、鉄道は独占的地位を失い、乗客は離れていってしまった。今日「ブルートレイン」と呼ばれている列車群は、当時のダイヤ・列車名を受け継ぐ、言わば残照だ。

 大宮を過ぎると、街の灯も少なくなる。やがて車内は静まり、天井灯も減光されて夜行らしくなった。

 この頃になると、座席の音が気になり始める。背もたれが少し傾くのはいいが、固定しておくことができないため、身体を起こすとバタンと大きな音を立てて、元へ戻ってしまう。あっちでバタン、こっちでバタン。しまったという顔が、あちこちで見られる。

 宇都宮では仕事帰りらしい人がかなり降りた。「津軽」は7両もの自由席を連結しているので、帰宅の足としても利用されているらしい。

 10月4日(金)、0時54分。黒磯着。ここで電気機関車の付け替えがある。黒磯までは直流1500ボルトだが、ここから先は交流2万ボルトで電化されているため、別の機関車が必要になる。息が白くなる寒さの中を外へ出てみると、ここまでの青い直流機EF65は既に切り離されている。程なく赤い交流機ED75が甲高い汽笛を鳴らしながら現れ、連結完了。1時03分、発車した。

 2時55分の福島から奥羽本線に入る。

 福島・米沢間は板谷峠が行く手を阻む。標準勾配33.3パーミルにも達する、東北地方最大の連続急勾配区間である。

 「パーミル」は千分率のことで、33.3パーミルといえば、1000メートル進む毎に33.3メートル上る(下る)ことを意味する。客車1両の長さを仮に20メートルとすると、端から端までで66.6センチの高低差があることになる。こんな急坂に駅を作って列車を停めるのは危険なので、各駅に停まる普通列車は4駅連続のスイッチバックを余儀なくされている。

 「津軽」は急行なので、この区間の駅には停まらない。うつらうつらしながら時々窓の外を見ると、夜空を背景に、黒々とした山並みが影絵のように連なっている。

 山形、天童と過ぎるうち、夜が明けてきた。濃い霧が立ち込めている。新庄着、6時01分。もう太陽は出ているはずだが、まだ夜の続きのようだ。真室川を過ぎ、雄勝峠を越えると、ようやく青空が見え始めた。山ひとつ越えるだけでも、天気はコロコロ変わる。車内は秋田方面への地元客で少し賑やかになり、夜行やら昼行へと様変わりした。

 秋田着、8時56分。ここで13分の停車。ホームへ降りて背伸びをする。車内の顔ぶれも変わって、更に北上すると、左側に八郎潟の広大な干拓地が見えてきた。かつて日本で2番目に大きな湖だったが、現在は大部分が稲田である。

 10時07分、東能代に降り立つ。「津軽」の旅はここまで。ここから青森県の川部までは五能線に乗る。持っている北海道ワイド周遊券に指定されたルートからは外れるため、別に東能代・川部間の切符を窓口で購入する。

 ローカル線なので運転間隔が長く、次の列車が出るまで約2時間半もある。退屈なので待合室に荷物を置き、駅前を歩いてみる。街といっても、これが特急停車駅かと思うほど人影がない。すぐに飽きて待合室に戻り、おとなしく改札を待つ。

日本海・津軽海峡

東能代〜深浦〜川部〜青森〜函館 (五能線・奥羽本線・青函航路)

 12時50分、東能代を発車。五能線には初めて乗る。ディーゼルカーは右へ右へとカーブを切って能代へ。能代市はこちらが市の代表駅で、それらしい体裁を整えている。乗客も急に増え、秋田弁で賑やかになった。

 東八森を過ぎて、車窓に日本海が広がる。ここから鰺ヶ沢(あじがさわ)まで、列車は海岸線を嘗めるように進む。その距離は実に80キロ以上にも及ぶ。雲の切れ目からこぼれた光が海面に降り注ぎ、そこだけきらきら光っている。岬を回り込むと入り江が開け、遠くにまた岬が見える。駅に着くと腕木式信号機、通称「シグナルさん」が迎えてくれ、タブレット交換の声が交わされる。さすがは鉄道人気投票の上位常連である。

 14時24分着の深浦で39分間の大休止。この辺りは津軽国定公園・深浦海岸で、大小の岩が点在している。列車から眺めても堪能できるのだが、降りて実地に見ることができればなお良い。ホームの観光案内板によれば、駅から歩いて10分くらいのところに大岩というのがある。時間も適当にあるので、行ってみることにする。

 ゴツゴツと小さな岩が顔を出し、沖へと続いている。その上に架けられた細い橋を渡って大岩に到り、滑る岩の階段を上る。突端に立って海面を見下ろすと、海岸から眺めた時にはそれほどとも思わなかったのに、随分と高い。垂直に落ちた崖の下では、白波が岩を噛んでいる。足許には何故か花束が供えられ、吹き上げてくる風に花弁が揺れている。背筋が涼しい。

 難読駅として知られる驫木(とどとき)、風合瀬(かそせ)を過ぎ、列車は地元の高校生を乗せて走る。彼らは地方の鉄道にとって、最も大切なお得意様である。彼らに合わせて列車ダイヤは組まれ、遅れて走ってくる者があれば、動き始めた列車を停めてまで乗せるサービスぶり。ところが、彼らのマナーは概して良くない。集団で車内をのし歩き、大声で騒ぎ、ゴミを投げ捨てている。しかも、卒業すれば自動車の免許を取るから、もう列車になど乗らない。

 鰺ヶ沢を過ぎて日本海と別れ、五所川原着、17時00分。津軽鉄道と接続するこの駅では、沢山乗って立ち客も出た。

 津軽鉄道は、冬になるとストーブ列車が走ることで有名である。かつてはダブルルーフの小さな客車を小型のディーゼル機関車が牽いていたが、今は国鉄払い下げの標準型客車に替わっている。

 次第に夕闇が迫り、17時45分、川部に着いた頃にはすっかり日も落ちていた。

 川部からは奥羽本線に戻り、青森を目指す。しかし、18時07分発の青森行きの列車は時間になっても動き出さない。この辺りの区間は単線で、反対方向からの列車が遅れていれば、それを待たなければこちらは発車できないのである。5分遅れて発車。車内は学校帰りの高校生で座席が埋まっており、少しの間立つ。いつの間にか遅れを取り戻し、青森には18時57分、定刻に到着した。

 青森駅は閑散としていた。小雨に濡れたレールが構内の灯で鈍く光り、桟橋の方へと延びている。

 長い通路を渡って連絡船待合室へ入る。ひとまず荷物を置いてから案内所へ出向き、乗船名簿と書かれたカードを受け取る。住所・氏名などを記入して、乗船時に提出するのである。この手続きは船ならではのもので、万が一、遭難して船と運命を共にした場合、私が乗っていた証しになるのが、この小さな紙片である。そう思って見つめると、粛然とした気持ちになる。

 待合室はとても広い。学校の体育館ほどもあり、ずらりと長椅子が並んでいる。大きな売店や軽食スタンドもあって、最盛期の賑わいを偲ばせるが、今はその広さ故に、かえって侘しくなるくらいガランとして静まっている。

 窓の向こうに、連絡船が白と青に塗り分けた舷側を見せ、横たわっている。どこからか聞こえてくる虫の声。と、いきなり大きな汽笛。それに応えるかのように、あちこちで船や機関車の汽笛が鳴り渡る。静寂が戻ると、再び虫の声が残る。

 やがて改札が始まり、乗組員に迎えられて乗船する。

 普通船室は、特急の普通車に似た紺色の座席が並ぶ部屋と、仕切りによって区分されたカーペット張りの桟敷席があり、好みで選べるようになっている。とりあえず桟敷席に場所を確保。船内を歩いてみると、ほかにも普通船室はあるが、消灯されて扉も閉まっている。乗客が少ないので、使っていないようだ。グリーン船室などは、ほとんど無人に近い。後部甲板へ行くと、雨は小止みになり、人が出ている。

 19時50分、青函連絡船・第9便「摩周丸」は汽笛一声、岸壁を離れた。甲板のスピーカーからは「蛍の光」が流れる。駅のどこからか、機関車のピィーッという汽笛が物悲しげに追いすがる。

 やはり旅は、こうでなくてはいけない。上野から夜汽車に揺られ、連絡船に乗って、一日がかりで北海道へたどり着くほうが、遠くまで来たんだという感慨が深いものである。これが飛行機だと、羽田から千歳までわずか1時間半。急ぐには便利だが、せめて北海道を初めて訪れる時くらいは、鉄道と連絡船で「遠さ」を実感したい。

 船室に戻って一眠りし、22時頃目を覚ますと、船体がローリングしている。シャワーを浴びて右舷甲板へ出てみると、真っ暗な海に灯が浮かんでいる。青森行きの上り便が数百メートル離れてすれ違うところだった。夜の海峡を風が吹き渡っていく。波は結構あり、5375トンの船体を揺らしている。

 函館の街の灯が輝き始めると港はもう近い。函館山のシルエットを右に見て回り込み、23時45分、函館桟橋に接岸した。

北夜行

函館〜長万部〜小樽〜札幌 (函館本線)

 連絡通路を足早に抜け、函館本線の夜行鈍行・第41列車に乗るべくホームへ向かう。オフシーズンとはいえ、この列車は函館と札幌を結ぶ唯一の夜行で、しかも普通車を2両しか連結していないため、気が抜けない。

 左へ緩くカーブした、長いホームの先頭付近に、荷物車の赤いテールライトが二つ光っている。続いて、懐かしい茶色塗りの旧型客車が現れた。スハフ42 2245、これが今夜のねぐらとなるハコで、昔風に言えば三等車である。

 車内に入ると、白熱電球の淡い光りが包み込むように迎えてくれる。ペンキ塗りながら温もりのある内壁。紐を編んだ網棚。濃紺のモケットを張ったボックスシート。重い窓をいっぱいに開けて身を乗り出すと、暖房用のスチームが床下や連結面からシューッと音を立ててあふれ出している。

 北海道の車両は冬の寒さから車内を守るため、窓が二重になっているのだが、この車両はそうではない。おそらく進出著しい50系客車に押されて、本州から転属してきたばかりなのだろう。

 列車の先頭に立つのは、DD51型ディーゼル機関車である。函館本線は主要幹線ながら、小樽までは電化されていない。このような幹線級の非電化路線を代表する機関車がDD51で、凸の字を両側から引っ張って伸ばしたような形が特徴である。石州瓦と同じベンガラ色の車体に白い帯を巻き、屋根は明るいグレーに塗られている。凸の字の中央部に運転室があり、両端部へ向かって鼻面のように伸びたボンネットには、それぞれ1100馬力のディーゼルエンジンが納められている。前後合わせて2200馬力というパワーは、かつて特急「つばめ」の先頭に立った蒸気機関車の雄C62をも凌駕する。

 23時58分、第41列車は函館駅を出発した。ポーッという、どこか優しいDD51の汽笛が広い構内に響き渡る。乗車率は80パーセントほどと、予想通りよく乗っている。昔日の夜汽車の雰囲気が古びた車内に満ちている。

 この列車は函館近郊への終列車としての役割も担っていて、大沼までに幾らかの下車客があった。大沼を過ぎると、主要駅以外は通過する快速運転になる。天井灯も半分消されて、暗い車内が更に暗くなった。

 10月5日(土)、2時14分。長万部着。ここで33分の大休止。ホームへ降りてみると、霧雨がしとしと降っている。屋根は短く、前の方の客車には届いていない。狭い座席は寝苦しいのか、デッキやホームには背伸びや屈伸運動をする乗客の姿が見られる。機関車を見に行くと、機関士がエンジンの入った機械室の扉を開け、手で触れたり、ハンマーで軽く叩いたりして廻っている。その姿はどことなく蒸気機関車を点検するのに似ている。

 長万部・小樽間は140.2キロ。「山線」と呼ばれ、上っては下りの山越えを5回も繰り返す、長く厳しい急勾配区間である。蒸気機関車時代はC62重連の牽く急行「ニセコ」がファンを熱狂させた。機関士も勾配に備えて、調子を見ているのだろう。2時47分、長笛一声、長万部を後にした。

 目が覚めると、既に明るくなり始めている。列車は倶知安(くっちゃん)を出て一番列車に姿を変え、駅毎に乗客を増やしていく。乗ってくるのは大きな荷物を背負った行商のおばさんたちである。小樽が近付く頃には立ち客も出てきた。窓を開けると、ひんやりとした朝の冷気が車内に流れ込み、一晩走って淀んだ夜汽車の空気を一掃する。雨は上がり、虹が出ていた。

 小樽着、5時55分。すっかり朝である。小樽から先は電化されているので、ここからは北海道仕様の赤い電気機関車ED76 506にバトンタッチ。暗く煤けたホームの壁や天井が、蒸気機関車の時代を彷彿とさせる。

 6時08分、小樽を出ると、第41列車は札幌までノンストップだ。程なく左側に荒れ模様の石狩湾が広がり、人の背丈以上もある大きな波が押し寄せては砕け散る。海岸ぎりぎりを走るので、間近に潮騒の音が聞こえ、開け放した窓からは細かい波しぶきが入ってくる。直接海に落ち込んだ断崖の縁にぴったり沿って、這うようにレールが敷かれているためである。時折、ピィーッと汽笛が叫び、急カーブに車輪がきしむ。

 銭函からは海と別れて内陸を進む。4日前に開業したばかりの星置(ほしおき)を通過。札幌の通勤圏に入ったらしく、沿線には新築の家が多い。人口150万人を数える北の都、その中心を占める札幌駅の4番線に滑り込んだのは、定刻より1分早い6時44分だった。

仮乗降場

札幌〜深川〜増毛〜留萠〜幌延〜稚内 (函館本線・留萠本線・羽幌線・宗谷本線)

 札幌で駅弁を買い、7時00分発の特急「オホーツク1号」網走行きに乗り込む。

 オホーツクとはいかにも北海道らしいネーミングだが、この特急の走る石北本線は道内有数の山岳路線で、列車からはオホーツクどころか海など全く見えない。ともあれ新鋭のキハ183系ディーゼル特急は実に快適だ。角張った無骨なご面相ではあるが、内装は落ち着いた暖色系の色調でまとめられ、座席の座り心地も良くて気分は上々である。

 直線区間に入ると、かなりの速度で飛ばす。北海道の鉄道は本州と違い、何もないところにレールを敷いて、その後から街が出来ていったので、平野部では線路も道路も地平線の果てまで真っ直ぐ延びている。それはもう感動的なまでに一直線なのである。線路と交差する道があると、思わず身を乗り出して感嘆することしきりである。

 8時22分、深川で下車。ここで留萠本線の急行「るもい」に乗り継ぐ。ゆらゆらと陽炎の立ち上る線路の向こうから列車が現れ、遠くで踏切の鐘が鳴って待つこと暫し。旭川発・札幌行きの急行「かむい2号」が入ってきた。その後ろに併結されているのが「るもい」である。

 急行「るもい」は下り1本だけで上りがないという変わり種で、しかも「るもい」として独立して走るのはわずか50.1キロ、54分間だけ。車両に到っては、普通列車用のディーゼルカー・キハ22の単行という徹底ぶりである。ドアを手で開けて車内へ入ると、ここが始発ではないかと思うほど空いている。

 8時47分、深川を発車。途中停車駅は石狩沼田だけである。のんびり走って紅葉見物を楽しむうち、9時41分、留萠に着いた。

 留萠駅の配線は変わっていて、Yの字型に開いた構内に、羽幌(はぼろ)線のホームと留萠本線・増毛方面のホームが、大きく離れて配置されている。間に多くの側線群があり、その先は石炭を積み出す港に直結している。長い跨線橋を渡って増毛行きに乗り継ぐと、同じ1両ながら、こちらは割りと乗客が多い。9時52分に発車し、日本海を右に見て増毛へと向かう。

 この路線の楽しみは仮乗降場である。途中、正式な駅は三つだけだが、仮乗降場は四つもあり、列車は一つ一つ丹念に停車していく。

 「仮乗降場」とは、その地方の鉄道管理局が個別に認めた、地元の人達の便宜を図るための乗降設備である。要するに「駅までは遠いから、この辺に列車を停めましょう」といったところで、正式な「駅」ではない。東京の国鉄本社では関知せず、従って全国版の時刻表には大半が載っていない。北海道の交通機関を中心に扱う「道内時刻表」には、そのほとんどが載っているが、中にはそこからさえ抜け落ちた気の毒なものもある。

 鈍行ならみんな停車するのかと思うとそうでもなく、一日一本だけとか、片道だけというのもあり、その全貌は掴みにくい。鉄道作家が書いた旅行記で新たに「発見」されたりしている。乗り降りする客がいなくなって「自然消滅」しても、誰も気付かないかもしれない。そんな影の存在である。

 北海道はそういった仮乗降場の宝庫で、ローカル線ばかりでなく、函館本線や室蘭本線などの幹線にも存在している。鈍行に乗っていると、それらをつぶさに観察できて面白い。何しろ「仮」がつくほどである。掘っ立て小屋の待合室でもあれば上等な方。扉一つ分しか幅がないタラップのようなホームに、バス停のような標柱が立っているだけというのも多い。知らなければ駅とは気付かないだろう。しかも、踏切の近くにあると、列車は踏切の真上に堂々と停車する。元々互いの通行量も少ないから、大した迷惑はかからないのだろうけれど。

 増毛着、10時21分。ここで6分間の折り返し時間に、近くの小さな港へ出てみる。エメラルドグリーンの海に釣り糸を垂れる人が何人か見える。

 たちまち発車時刻が近付く。駅舎を廻っていたのでは間に合わないので、雑草に埋もれた広い構内を突っ切り、直接ホームへ上がる。10時27分、慌ただしく発車し、元来たレールを留萠へと引き返す。

 留萠からは羽幌線で日本海沿いに北上する。羽幌線ホームには、深川から乗ってきたキハ22が、そのまま幌延行きになって出発を待っていた。深川から「るもい」の後を追ってきた普通列車が着くと、その車両を併結して11時47分に発車。黒い塊のようにうずくまる、古いラッセル車の脇をかすめて、広い構内を出る。

 右にカーブを切るうちに海岸へ出る。羽幌線も日本海に沿っているが、ゴツゴツした岩場はなく、天気が良いせいもあって、五能線のような厳しさは感じられない。長閑な昼下がりの海岸をディーゼルカーはのんびり走る。

 とある仮乗降場に停車した。駅名標のベニヤ板が剥ぎ取られていて、どこなのか分からない。

 仮乗降場は普通、正式な駅にある駅名標の隣駅欄には書かれない。隣り合ったもの同士でも、無視し合っている例があるという。それがこんな具合だから、地元以外の人が降りようとしてもお手上げである。そういえば「ホーム」と書かれた立て札が、両端に立ててあるのに気付いた。運転士も誤って通過してしまうことがあるのだろうか。

 力昼(りきびる)辺りに来ると、前方の海上に二つの小さな島、焼尻(やぎしり)島と天売(てうり)島が並んで見える。二つの島が後方へ去ると、今度は大海原にコニーデ型の立派な山が忽然と現れる。これが道北のシンボル利尻山で、海抜1719メートル。孤影を海上に浮かべた姿は凛々しく美しい。

 天塩(てしお)で日本海と別れ、河口近くでいっぱいに広がった天塩川を巨大なトラス橋で渡る。幌延には15時07分に着いた。

 幌延で宗谷本線・稚内行きに乗り継ぐ。15時23分、幌延発。

 太陽は大きく西に傾き、左窓には果てしない原野が広がっている。サロベツ原野である。草地と湖沼、その遙か彼方に利尻山。ほかには何もない。大陸を行くかのような広漠とした風景がどこまでも延々と続く。

 抜海(ばっかい)、16時33分。この抜海と次の南稚内の間で宗谷本線は最大のハイライトを迎える。

 列車はカーブを描きながら荒涼とした丘を越えていく。そしてある地点で突如視界が開け、日本海を見下ろす崖の上に出るのである。折しも利尻島と礼文島がシルエットになって浮かび上がり、その間に赤い夕日が今まさに沈もうとしている。

 両側に町並みが広がり、南稚内で天北線と合流すると、列車はラストスパートをかける。

 北緯45度24分44秒。暮れゆく北の終着駅・稚内に降り立ったのは、16時51分だった。

光る朝

稚内〜鬼志別〜音威子府〜幌延〜美深 (天北線・宗谷本線)

 10月の稚内の朝は、東京の12月のように寒い。空け行く東の空は、富士山で見る御来光のように透明で、冷気と共に目を覚ましてくれる。

 10月6日(日)、5時20分。数人の乗客を乗せた天北線・音威子府(おといねっぷ)行きのディーゼルカーは、早暁の稚内駅を後にした。空には明けの明星・金星が輝いている。南稚内から天北線に入り、宇遠内(うえんない)の辺りで左窓の宗谷湾を見ると、霧が海面を覆い尽くし、ゆらゆら動いて天国のようである。

 声問(こえとい)を過ぎると海岸を離れ、宗谷丘陵を越えに掛かる。白樺林の向こうに金色の太陽が昇り、反対側に見える利尻山は、朝日を浴びてピンク色に染まっている。山に掛かると、霧に濡れた紅葉が光る。

 6時32分、峠を越えた鬼志別(おにしべつ)で、列車交換のため7分間の小休止。屋根のないホームに出て、引き締まった冷たい空気を吸い込む。小さな駅舎の屋根を見ると、降りた霜が朝日で溶け、雫になって落ちている。

 走り出せば、また原野である。列車は猿払(さるふつ)原野をオホーツク海に沿って走っているのだが、海岸から離れているので、車窓から海は見えない。

 クッチャロ湖を右に見て浜頓別を過ぎ、内陸部へ入ったところに「寿(ことぶき)」という目出度い名前の仮乗降場がある。かの有名な広尾線の「幸福」とは違い、正式な駅ではないので、全国版の時刻表には載っておらず、残念ながらほとんど知られていない。正規の駅に昇格させてPRすれば、話題を集めること間違いなしなのだが。

 紅葉の見事な天北峠を越え、9時05分、音威子府着。「おといねっぷ」と読む。「河口の濁った川」という意味のアイヌ語「オトイネ・プ」に漢字の音を当てたという、実に北海道らしい名前の駅である。

 音威子府村は天塩川の中流域に位置する林業の村で、駅の内外には木の彫刻が多い。ホームの長椅子は丸太を半分に割って削ったものだ。駅前広場には蒸気機関車のスポーク動輪の彫刻を飾った、高さ15メートルのトーテムポールが聳えている。駅舎にかけられた大きな表札も、凝った浮き彫りである。

 音威子府には全国の鉄道ファンに知られた名物がある。駅蕎麦である。土地で採れた蕎麦粉を9割、つなぎに海草を使い、普通の蕎麦より黒みがかっている。味も香りも独特で、ほかでは味わうことができない。ホームの待合室の一角にある小さな店で、それは食べることができる。個性派駅蕎麦の代表格である。

 音威子府から9時25分の宗谷本線下り・稚内行きで、一旦幌延まで移動する。乗り込んだディーゼルカー、キハ22は、天井灯が白熱電球だった。ディーゼルカーで白熱電球は珍しい。

 11時04分、幌延着。ここで上り第324列車を捉まえ、来た道を引き返す。今度は客車列車で、ディーゼル機関車DD51を先頭に、青い郵便・荷物車、赤い普通車が各1両連結されている。客車の最後部からは暖房用のスチームがゆらゆらと立ち上り、機関車のアイドリングの音だけが聞こえている。

 11時27分、幌延を発車。列車は天塩川を遡りながら、一路南下する。柔らかな秋の日差しを浴びて、沿線には牛や馬が草を食み、サイロが点々と建つ。沢山の三日月湖を従え、気の向くままに蛇行しながら、ある時は線路に寄り添い、またある時は牧場の向こうに離れて、天塩川は悠然と流れている。

 13時01分、2分の遅れで音威子府に戻る。12分間の停車時間にまた蕎麦屋へ。今度は調子づいて2杯も食べる。停車時間の短い急行列車では、こうはいくまい。お代わりどころか、口に入るのも先着4〜5名様だろう。

 音威子府を出ると次第に混み始め、美深では中学生の団体が乗り込んできて、わずか1両の客車はたちまち満員になった。美深は日本一の赤字線として名を馳せた美幸線の起点だったところである。9月16日に廃止されたばかりなので、痕跡でもあれば一目見たいと思っていたのだが、通路いっぱいの人で何も見えない。

生命線

美深〜名寄〜朱鞠内〜深川〜札幌 (深名線・函館本線)

 日進で幌延以来連れ添ってきた天塩川と別れ、14時23分、名寄に到着。ここからは深名線の旅である。1番線の外れに切り欠きのように作られた0番線があり、そこに停車中の1両だけのディーゼルカーが深名線・朱鞠内(しゅまりない)行きである。

 深名線の運転形態は風変わりで、全線を直通する列車は一本もなく、全て途中の朱鞠内で乗り継ぐようになっている。沿線は日本一寒いといわれる極寒の地で、おまけに豪雪地帯。名寄から三つ目の北母子里(きたもしり)では、氷点下44.9度を記録したことがある。そこで冬場のダイヤの混乱を最小限に抑えるため、運転系統を朱鞠内で分割し、別の路線のような扱いにしているのである。

 14時59分、名寄を発車。天塩川を渡り、深い山中に分け入っていく。真っ盛りの紅葉の中を、時速30から40キロくらいで上る。鉄道以外には何一つ人工物がない。よくもまあ、こんなところにレールを敷いたものだと思うけれど、実はこの区間があるからこそ、深名線は廃止を免れているのである。

 国鉄の赤字線廃止計画は、基本的には「乗る人が少なければ廃止」だが、幾つかの例外が設けられている。そのひとつに「並行する道路がない」というのがあり、深名線の場合、今通っている天塩弥生・北母子里間がこれに該当する。もっとも仮に道路があったところで、降雪によって長期間通行止めになるような道なら、別の例外条項が適用されて廃線にはならない。この例は本州の只見線(福島・新潟県)、飯山線(長野・新潟県)などに見られる。鉄道は道路と比べて雪に強く、頼りになるから、廃止されれば生活に大きく響く。言わば生命線なのである。

 単に営業面だけでなく、こうした路線は苦労も多い。名寄・朱鞠内間の場合、列車は一日わずか三往復しか走っていないが、例え一往復だとしても保線の手を緩めるわけにはいかない。しかも日本有数の厳しい自然が相手である。雪に強いといっても、それは多くの人出と莫大な除雪費をかけてのことなのだ。美幸線亡き後、深名線は赤字線日本一に「昇格」したかもしれない。

 しかし、そこで生活する人がいるからには、簡単にはなくせないのが交通機関である。ユニークな廃止反対運動を繰り広げて有名になった美深町の町長が、願い叶わず美幸線が廃止になる時、テレビで「これは国土放棄だ」と肩を落としているのを見た。ローカル線を旅していると、国土を維持していくとはどういうことなのか考えさせられる。

 北母子里から、人造湖としては日本最大の朱鞠内湖をぐるりと半周する。深い森林の間から、時折湖が見え隠れする。日本離れした、北欧のような眺めである。水の少ない時期なのか、荒れた湖底が剥き出しになっているところも多い。

 白樺、蕗ノ台(ふきのだい)と、板切れだけのような駅にも律儀に停まっていく。しかし、この二駅、冬場は列車が停まらない。つまり、駅の冬眠である。付近の人口があまりに少なく、停めても仕方がないらしい。それなら最初から駅など…とは、もはや言うまい。

 湖畔という名の仮乗降場で、雨竜川を堰き止めて朱鞠内湖を作っている巨大な雨竜第一堰堤を見上げる。

 16時06分、朱鞠内に到着。小雨のホームを走って、隣に停車している深川行きに乗り継ぐ。16時09分、発車。途中の幌加内までは、これが今日の上り終列車である。

 それにしても「朱鞠内」とは、何と素敵な名前だろう。

 北海道の地名には、元々のアイヌ語の音に漢字を当てたものが多く、しかもその当て型が実に詩的である。愛別、愛冠(あいかっぷ)、美利河(ぴりか)、美唄(びばい)、美々(びび)、歌志内(うたしない)、幾春別(いくしゅんべつ)。

 深名線にも雨煙別(うえんべつ)という駅があるが、「雨に煙る別れ」とはいかにもロマンチックに聞こえる。ところが、本来のアイヌ語「ウェン・ペツ」とは「悪い川」という意味だそうで、夢を求める旅人としては、元の意味はあまり追及しない方が良いのかもしれない。

 幌加内を過ぎ、17時を回るともう暗くなってきた。鷹泊で下り列車と交換。結構乗っている。駅付近には人家もあるのだが、走り出すと1分もしないうちに暗闇である。

 暫く走ると闇の中で停車した。何かと思えば裸電球がひとつ、電柱にぽつんと灯っている。仮乗降場らしい。停まるということは乗り降りの可能性があるということなのだが、こんなところに降りて怖くないのだろうか。逆に列車が遅れたりした時、何の情報もないのに、夜一人で待つ気分というのはどんなものだろう。

 18時07分、深川着。18時22分の特急「ライラック20号」で札幌へ向かう。入線してきたのは北海道専用の新鋭・781系特急電車である。目映いばかりに輝き、まるで未来世界から来た乗り物のように見える。

雨の釧路湿原

札幌〜釧路〜標茶〜根室標津〜中標津〜厚床〜根室 (千歳線・石勝線・根室本線・標津線)

 札幌は広い。

 札幌といえば時計台である。大通公園まで歩く途中で、鐘の音が響いてきた。音はするが姿は見えない。

 とりあえずラーメン屋へ入り、味噌ラーメンなどを食べる。こってりしたスープに野菜が山ほど載っていて、これが味噌ラーメンかと思うほどのボリュームである。熱々のジャガイモにバターをつけたのがまた美味しい。

 お腹がいっぱいになり、身体も温まったところで、再び街を歩く。しかし、テレビ塔はすぐに分かったものの、時計台はどうしても見つからない。だんだんムキになって探し歩くうちに小雨が降り始め、傘なしで走り回る羽目になった。自分が今どこにいるのか分からなくなりかけた頃、やっと時計台を発見。想像していたより小さく、ライトに照らされて、ビルの谷間にひっそりと建っている。どっと疲れが出て駅へと引き揚げる。

 22時20分、急行「まりも」釧路行きは、80パーセント程の乗車率で札幌を発った。荷物車連結のため、次の苗穂で9分間停車。ところが、時刻表にそんなことは一言も書いてないし、苗穂駅の欄には通過マークがあるだけである。このような客扱いをしない、運転上の都合による停車を、鉄道用語で「運転停車」といい、夜行列車や単線区間を走る特急、急行によく見られる。

 やがて車内灯も減光され、23時46分の追分を過ぎると、いつしか眠りに落ちた。

 10月7日(月)、3時11分。未明の帯広でかなりの下車客。外は雨である。4時15分、厚内を通過すると線路は太平洋に突き当たり、左へ大きくカーブする。寂寞とした海岸を列車は坦々と走る。

 6時10分、急行「まりも」は釧路に到着。すぐに6時16分発の網走・根室標津(ねむろしべつ)行きに乗り継ぐ。暖房が効いて窓が曇っている。

 東釧路で根室本線と別れて釧網本線に入り、釧路湿原を左に見て、その東側の縁を走る。

 釧路湿原は野鳥をはじめ、動植物の楽園だという。天気が良ければ、そう見えたかもしれない。しかし雨の湿原は暗く、重苦しい。地平線も昨日までのサロベツや猿払の原野とは雰囲気が違う。広漠とした風景を背に、廃屋が朽ち果てた姿を晒している。

 真冬になると丹頂が飛来することで全国的に有名になった駅、茅沼を過ぎる。7時25分、標茶(しべちゃ)着。ここで網走行きの車両と別れて標津線に入る。計根別(けねべつ)、中標津でだいぶ降り、閑散とした列車は9時39分、根室海峡を隔てて国後島を望む根室標津に着いた。

 雨の駅前に人の姿はない。折り返しまで1時間以上あるので、近くの北方領土館へ行ってみたが、扉が閉まっている。ところが案内板を見ると、9時開館と書いてある。もう10時近くになる。近くの書店で待つこと数分、もう一度行ってみると、まだ閉まっている。どうしても見たいというわけではないが、せっかく雨の中を歩いてきたのに、諦めるのも癪だ。などと思っていると、車が一台走ってきて建物の前で停まり、降りてきた職員らしい人が大急ぎで鍵を開けてくれた。その直後、隣の駐車場に観光バスが乗り付け、どっと客が押しかけて館内はいっぱいになった。

 根室標津を10時50分に発って中標津まで戻り、ここで約2時間待つ。

 通常、接続列車の案内で、もうその日の列車がないと「本日の運転は終了しました」と言う。ところが北海道では「○時○○分発、○○行き、明朝の連絡です」と言っている。そういうところなので、2時間くらいはものの数ではない。

 外は雨が降りしきっている。中標津はこの地区の中心地なので、駅前には街並みが広がっているが、雨の中を歩くのも億劫である。特にすることもないので、待合室のキオスクで新聞を求め、ぼんやりと眺める。するとたちまちのうちに時間が過ぎていく。どうも東京とは流れている時間の速度が違うようである。

 13時23分、一日四往復しかない厚床(あっとこ)行きに乗り継ぐ。

 標津線は地図上では直線的だが、根釧台地という丘陵地を行くので線路の起伏が大きく、地面に沿ってアップダウンを繰り返している。現代の鉄道なら高架橋や切り通しで一気に貫くところだが、この区間の開業は1934年(昭和9年)。輸送量も少ないので、建設費を安く上げるため、線路の規格を低く抑えたのである。沿線にはパイロットファームと呼ばれる大農場が広がり、風景はおよそ日本離れしている。

 厚床着、14時30分。更に14時47分の急行「ノサップ3号」に乗り継ぎ、東の終着駅・根室に着いたのは、15時30分だった。

鈍色のオホーツク

根室〜釧路〜斜里〜網走〜湧別〜中湧別〜遠軽〜興部〜名寄 (根室本線・釧網本線・湧網線・名寄本線)

 10月8日(火)、早朝。雨はまだ降り続いている。根室駅の待合室に入ると、学校の教室でお馴染みに石油ストーブに火が入っていた。改札を待ちながら、数人が暖をとっている。

 車両を入れ替える音が構内に響き、新旧取り混ぜたディーゼルカーの5両編成が入線してくる。「北辺のローカル線に5両も?」と思ったが、よく見ると、前2両だけが釧路行き。次の1両が厚床で別れる中標津行き。後2両は厚床までの回送車となっている。つまり厚床に着いた途端、ばらばらに分割されてしまうのだった。

 根室の隣に東根室という駅がある。根室駅は根室本線の終点なので、日本最東端だと思うのが自然だ。ところが、実は東根室の方がその名の通り東にあり、最東端なのである。根室本線は花咲(はなさき)と根室の間で東から北へ、更に西へと進路を変える。開通当時はこの区間に駅がなく、根室は東の終着駅であり最東端だった。その後、市街の拡大に合わせて東根室駅が設けられ、最東端の地位を譲ることになったのである。

 5時27分、根室を発車し、3分ほどで東根室に着く。何の変哲もない無人駅である。国鉄の東西南北のうち、東西南まではいずれもこうした途中駅で、一般には知名度も低い。名実共に終着駅と言えるのは、北の稚内だけである。東根室の狭いホームには、最東端であることを示す標柱が申し訳なさそうに立っている。

 落石(おちいし)付近の高台から太平洋を見下ろす。天気のせいもあってか、迫力がある。「ムツゴロウの動物王国」がある浜中を過ぎると、糸魚沢・厚岸間では大小の沼や小川が点在し、幻想的な風景の中を走って行く。

 8時52分、釧路着。9時30分発の急行「しれとこ2号」に乗り継ぎ、昨日通った釧網本線を再び北上する。12時02分、斜里で列車交換のため12分間の停車。雨は小降りになった。斜里は知床半島を控えた観光の町である。旅の想い出やメッセージを書き込んだ帆立貝の貝殻が、駅前の小さな植え込みに沢山残されていた。

 斜里を出るとオホーツク海が広がる。「オホーツク」という、その寒々とした響きがそっくり絵になったような、鈍色(にびいろ)の海である。心なしか、波も荒く見える。

 浜小清水を過ぎると左側に湖が見える。涛沸(とうふつ)湖である。海と湖を隔てて細い陸地があり、ここを釧網本線と国道244号線が、約7キロにわたって並行する。この辺りは浜小清水原生花園といい、春になると一斉に花が咲く。今は何もないが、ここ一面に花が咲き乱れたら、どんなに素晴らしいだろう。やがて街並みを見て海岸から離れ、12時57分、網走に着いた。

 網走の駅舎は最近建て直されたらしい。真新しい煉瓦造りの壁には、人間の背丈ほどもある一枚板の表札が掛けられ、縦書きで「網走駅」と大書してある。男性的な力強い筆勢で、言いしれぬ気迫が伝わってくる。

 北海道の駅には、こうした立派な表札が数多く見られる。改築されて開業当時の駅舎ではなくなっても、表札だけはどこかに飾ってあるところが多い。競い合うかのように力作が揃っている。

 14時46分、湧網線・湧別行きの列車は、網走駅0番線ホームをひっそりと発車した。0番線とは不思議な番号だが、湧網線の立場をよく表している。

 ホームの番線は駅本屋、つまり駅長室のある建物の側から数えていく。駅が大きくなってホームを増やす場合は、数字の大きくなる方へ向かって増設していく。しかし構内の配線や運転上の都合などで、1番線の手前に新たなホームが必要になることもある。

 思い切って新ホームを1番線にし、以下、在来ホームを繰り下げていけばすっきりするのだが、既に巨大化してしまった駅では、ホームの改番や案内、信号などの再整備に多額の費用がかかってしまう。また、地方の中規模の駅では、改札口のすぐ前の1番線に特急・急行が発着する。1番線とは線路の側から見れば駅の表玄関であり、栄えある番号を新参のローカル線に明け渡すことには抵抗もあろう。そんなとき0番線というのを設定するのである。

 石北本線と別れると左側に網走湖、続いて右側に能取(のとろ)湖が現れる。列車は湖岸に沿って半周した後、左へカーブを切りながら勾配を上っていく。すると突如、オホーツク海を見下ろす崖の上に躍り出る。海が流氷に埋め尽くされる厳冬期になると、都会から来た若者が寒さも忘れて窓を開け放ち、一心に見入るという。

 冬の流氷と対照的なのが、春の花園である。もう10年も前、まだ小学生だった頃だが、北海道の自然と消えゆく蒸気機関車を題材に、人間の心の傷痕を描いた「鉄の伝説」というラジオドラマがあった。立ち込める夜霧の中、2両の客車を牽いて坦々と走る蒸気機関車。乗客はわずか3人。主人公の年老いた元機関士が、オホーツクの花畑をこう表現している。

 黄色や赤、紫に咲き乱れた花畑の向こうに海があり、ひばりが上がる。子供の時分、歌で歌ったりクレヨンで描いたりした景色が、そのままの姿でそこにあるんだ。そこに行けば気が休まる。肩肘を張って生きてる自分が急に優しくなって、地面に生えた一本の草花みたいになってしまうんだ。 (NHK-FM ステレオドラマ「鉄の伝説」より)

 計呂地(けろち)で列車交換の間、入場券を買いに出る。ここの入場券は観光用にスタンプ・駅長印を押した台紙と、鈴つき・手書き絵入りの帆立貝の飾りを付けてくれる。駅職員のアイデアで、いつかテレビ番組で紹介されたのを見て、是非欲しいと思っていた。「テレビで見ました」と水を向けると、「おかげで随分売れました」と笑顔が返ってきた。

 計呂地を出るとサロマ湖の湖岸ぎりぎりを走る。湖面面積は琵琶湖、霞ヶ浦に次いで日本第3位。鈍色の湖面に波が立ち、海のように見える。

 17時07分、中湧別着。ここで進行方向を変え、湧別へ向かう。この中湧別・湧別間は旅客列車の本数が国鉄で最も少なく、一日2往復しか走っていない。途中には四号線(しごうせん)というバス停のような名前の仮乗降場がある。タラップ状のホームに錆びたパイプが1本立ち、小さな駅名標と、上下合わせて4本の列車時刻表が掲げられている。

 湧別着、17時21分。もう日も暮れた。レールはオホーツク海に向かってなおも伸び、草に呑まれて消えていた。

 湧別17時29分発の折り返し列車で中湧別に戻る。湧別でも計呂地と同様、入場券のおまけに帆立貝の飾りを貰った。「日本一列車の来ない駅」なんて書いてある。開き直っているわけでもないだろうけれど、何だか悲しい。

 中湧別から名寄本線で一旦遠軽(えんがる)へ出る。車内は地元高校生の巣窟で、ゴミと落書きに閉口する。真っ暗な窓の外に、国道沿いのガソリンスタンドが浮かび上がっている。

 遠軽は石北本線と名寄本線の分岐点である。旭川から網走を目指す石北本線は遠軽で方向を逆転し、難工事だった常紋峠を越えて、北見、美幌へと大回りしている。一方、名寄本線・湧網線経由なら方向転換や山越えはなく、距離も短い。

 しかし、北見市の人口は約10万人。オホーツク海側では最大の商業都市である。石北本線が北見まで伸びてくる前に、太平洋側の池田から既に線路が通じ、街ができていた。無理をしてでも通らないわけにはいかなかったのだ。石北本線は優等列車のメインルートとなったが、湧網線沿線には大きな街がなく、それが二つの路線の明暗を分けた。

 遠軽発、19時53分。名寄行きのディーゼルカーは、函館からの特急「おおとり」が遅れたため、接続を図って2分遅れの発車となった。車窓に何も見えないせいか、時間はまだ早いのにとても眠い。空いているのを幸い、前の席に足を投げ出し、身体を「くの字」に横たえて眠り込んでしまった。

 随分眠ったような気がして、ふと目を覚ますと、名寄到着のアナウンスが聞こえる。ワープでもしたような気分である。23時41分、名寄駅のホームに降り立つ。

老プリマドンナの歌声

名寄〜旭川〜岩見沢〜追分〜新夕張〜清水沢〜南大夕張〜清水沢〜夕張〜新夕張 (宗谷本線・函館本線・室蘭本線・石勝線・三菱石炭鉱業)

 10月9日(水)、1時05分。名寄から宗谷本線の夜行急行「利尻」で一路南下する。「利尻」は稚内始発で、名寄は途中駅である。夜行列車で座れなかったら大変だと思っていたが、席は無事確保できた。

 汽車旅では夜行列車を使うことが多い。時間と費用を節約するためだが、そうでなくても夜汽車には独特の魅力がある。目が覚めて窓の外を見た時の新鮮な驚き。自分が眠っている間に何百キロも運ばれていたんだという不思議な気分。目的地に着いてホームに降り立ち、朝の空気を胸一杯に吸い込む爽快感。昔日の地位からは退いたものの、やはり夜汽車は旅を演出する必須アイテムである。

 4時51分、岩見沢着。早朝の駅前広場に出ると、空け始めた東の空に金星が輝いている。頭上には下弦を過ぎた月が、冷たく澄んだ高い空から見下ろしている。

 6時07分の室蘭本線・苫小牧行きに乗り、追分へ向かう。

 室蘭本線は長万部・岩見沢間の幹線だが、ユニークな二面性を持っている。函館本線に接続する起点の長万部から、千歳線が分岐する沼ノ端までは、函館と札幌を結ぶ道南のメインルートで、大半が電化されている。特急の運転本数が多く、青函連絡船を介して本州に直通するコンテナ列車など、物流の動脈としての使命を帯びている。

 これらの列車は沼ノ端から千歳線で札幌へ向かってしまい、沼ノ端・岩見沢間は旅客列車が一日10往復程度のローカル線へと転落する。ところが、この区間もほとんど複線化されているのである。

 この贅沢な複線は、北海道の歴史と深い関わりがある。かつて、石炭が北海道の基幹産業だった頃、道内の主要幹線は炭鉱へ向かって支線を伸ばしていた。その小枝を伝って集まった石炭は、本流となって幹を流れ、室蘭や苫小牧などへ送り込まれていった。最盛期には総重量2400トンもの列車が運転されていたそうである。現在、東海道本線などで運転されている最も重いコンテナ列車が1000トンだから、いかに大きな輸送力が求められていたかが分かる。岩見沢や追分にはD51などの蒸気機関車が沢山いて、それらの牽引にあたっていた。大型の転車台も、立派な複線のレールも、全て往時の名残である。

 追分着、6時56分。石勝線の列車を待つ。鳥の声が聞こえ、広い構内に石炭車の長い列が並ぶ。しかし、乗るはずの列車は出発時刻の6時59分を過ぎても入線してこない。ホームには通勤通学客もいて、一様にきょろきょろしている、暫くしてディーゼルカーの4両編成が入線し、客を乗せてすぐ発車。4分の遅れを詫びる車内放送が流れた。

 亜寒帯に属する北海道では、鉄道車両の多くが二重窓になっている。少しでも寒さを防ぐための工夫である。それでも厳冬期になると寒気が侵入し、窓側に座っていると身体が冷える。まだ10月だからそれほどでもないはずだが、何だか薄ら寒い。それに、ホームには結構人がいたのに、この車両には数人しか乗っていない。不審に思って車端部にある温度計を見に行くと、11.2度を指している。暖房が入っていなかったのだ。隣の車両へ行ってみると21.6度。早速引っ越す。

 石勝線は道央と道東を結ぶ短絡ルートとして建設された、北海道最新の近代鉄道である。開業と同時に追分・夕張間の夕張線を吸収し、一部は新線に切り替えられた。全線が単線なので、特急同士がすれ違えるように、各駅の複線部分は長くなっている。普通列車だけが客扱いをする途中の駅では、その中ほどに短いホームがぽつんとある。

 駅の前後には蒲鉾形のシェルターがかかっている。ライトグレーの大きなシェルターで、飛行機の格納庫のようである。

 鉄道は雪に強いが、弱点もある。転轍機、つまりポイントである。ポイントが雪で凍り付いて動かなくなれば、列車の運行ができない。そこで、初めから雪が積もらないように、シェルターで覆ってしまったのである。

 現代的でドライな印象の石勝線だが、夕張川の渓谷は紅葉で埋め尽くされ、朝霧に包まれて、錦秋の景色を展開している。

 7時38分、新夕張着。夕張線時代は紅葉山(もみじやま)という美しい駅名だったが、石勝線開業時に改称されてしまった。駅自体も高架上に移転し、昔日の面影はない。かつては紅葉山から登川へ行く支線があり、途中に楓という、これも素敵な名前の駅があった。こちらはルート変更に際して石勝線の本線に移され、名前だけ残っている。その楓から来た車両を連結し、旧線時代のままの夕張方面、現在の夕張支線へ向かう。

 沼ノ沢の少し手前で、凄い廃屋を見る。商家か工場のような、木造の大きな建物が、怪獣に踏みつぶされたかのように、半ば倒壊したまま放置されている。北海道では、使わなくなった建物はそのまま朽ちるに任せているのか、あちこちで沢山の廃屋を見てきたが、これほど迫力のあるものは初めてである。

 駅間距離が短くなり、車内も混雑してきた。8時03分、清水沢に降り立つ。

 三菱石炭鉱業の列車は、客車2両に国鉄のDD13そっくりのディーゼル機関車を連結して、出発を待っていた。数人の地元客と共に乗り込んだのは、お目当てのスハニ6。一般客が乗れるものとしては、今やこれだけになってしまった三軸ボギー客車である。

 鉄道の車両は普通、台車の上に車体を載せる構造になっているのだが、その台車にも幾つかの方式がある。現在主流の二軸ボギー台車は車軸数が二つだが、三軸ボギー客車はそれが三つあるのが特徴である。乗り心地が良いとされ、戦前の優等列車に多く見られた。しかし、構造が複雑なために嫌われ、戦後は二軸ボギーの改良が進んだこともあって、今ではほとんど見られなくなってしまった。このスハニ6以外には、大阪の交通科学館に保存されているマイテ49 2と、お召し列車に連結される供奉(ぐぶ)車くらいしか現存しない。

 スハニ6も、元を正せば国鉄の客車である。データによると、1913年(大正2年)、当時の鉄道院大宮工場でオロシ9216(二等・食堂車)として誕生。後にスハニ19114(三等・荷物車)となり、1951年(昭和26年)、三菱美唄に払い下げられた。その後も幾多の改造を受け、1967年にこの路線の前身、三菱大夕張に入り、現在に至っている。実に70年以上にもわたって、鉄路をたどり続けてきたのである。

 車内はニス塗りで、ビニール張りの座席に、背もたれは薄い木の板。天井灯は白熱電球。荷物室と書かれた扉の向こうを覗くと、木製の長椅子が置かれ、何故か吊革が一つだけぶら下がっていた。冬場は車内の一角にダルマストーブを設置するので、定員は夏と冬で4人分異なる。坑内作業員の募集ポスターに、炭坑鉄道であることを実感する。

 8時20分、発車時刻となり、汽笛を鳴らして列車は動き出した。車体のあちこちからミシミシッ、ギューッと軋む音が聞こえてくる。いかにも「よっこらしょ」という感じだ。床下からはゴゴゴン、ゴゴゴンと響いてくる重厚な走行音。速度は時速30から40キロくらいで、それ以上加速する様子はない。並行する道をどんどん車が追い抜いていくが、列車はそんなことにはお構いなく、超然と我が道を行く。

 沿線の紅葉は真っ盛り。踏切の度に、汽笛が山間にこだまし、トンネルに入ると、ディーゼルの排煙が鼻をくすぐる。全てがバックコーラスを奏で、列車は老いたプリマドンナの如く歌う。

 南大夕張駅は坑内爆発事故で知られる三菱南大夕張炭坑に隣接し、現在も石炭の積み出しが行われている。列車が着いた時も、石炭を満載した貨物列車が出発を待っていた。夕張炭は良質だがガスが多く、採掘は危険度が高いそうである。秋の日差しを浴びて、貨車に山積みされた石炭から陽炎が立ち上っている。

 線路を渡って、古びた駅舎の待合室に入る。入場券を求めると、窓口氏は当方を鉄道ファンと見抜き、記念乗車券や古切符を次々に勧める。仕舞いには記念スタンプまで出てきた。記念乗車券には未使用の回数券まで含まれていて、思わず苦笑する。古切符のセットは大夕張時代のものが主で、収集家には貴重な資料なのだろう。何と女子高校生の通学定期券まで入っていた。

 旅客列車の運転は朝夕のみで、日中は全く走っていない。今乗ってきた列車の折り返しも夕方までない。仕方がないので路線バスに乗り、清水沢まで戻る。

 バスは本数こそ多いが、運賃は比較にならない。鉄道なら清水沢から南大夕張まで、わずか60円である。途中に遠幌という駅があるが、そこまでなら40円。件の定期券を見ても、6ヶ月で5840円という信じがたい数字が記されている。それもそのはずで、この鉄道は本来、石炭列車専用とするところを、ヤマに住み込んだ社員の家族のために、サービスとして旅客列車を運転しているのである。

 11時17分、清水沢から再び石勝線の列車に乗る。閑散としてだだっ広い鹿ノ谷を過ぎ、谷間に混雑した街並みが現れると終点夕張である。

 一見、よくある地方都市といった眺めだが、注意して見ると、他の都市とは全く雰囲気が異なっているのに気付く。半ば廃屋と化した平屋の炭住、壁面に無数のひび割れが走るコンクリートの団地。とても人が住んでいるとは思えない荒れようである。それらが新しいビルに混じって、渾然とした街並みをなしている。

 明治以来、日本の工業化を推進する力となってきたのは、国内でまかなえる石炭と労働力だった。人々は自分の住む街の環境にも目をつぶり、時には生命の危険にさらされながら、黙々と働き続けてきた。それが今、エネルギー転換の中で置き去りにされ、捨てられようとしている。

 窓の外を潰れかかった炭住が過ぎていく。それは日本がまた一枚脱ぎ捨てた抜け殻である。しかし耳を澄ませば、「俺たちを忘れるな」という声が聞こえてくるようだ。

 列車は市街地を通り過ぎ、炭鉱に程近い夕張駅に着いた。広い構内はかつて沢山あったであろう側線も全て剥がされ、1面のホームと木造の小さな駅舎が残っているだけである。この駅も3日後の10月12日限りで廃止され、街の中心部に近い1.3キロ鹿ノ谷寄りに移転することになっている。

 夕張はこれから、メロンを基幹産業に育てるという。11時44分の折り返し列車で、もう通ることのないレールをたどり、夕張を後にした。

狩勝峠

新夕張〜新得〜富良野〜滝川〜札幌 (石勝線・根室本線・函館本線)

 新夕張で12時14分の特急「おおぞら5号」に乗り換え、夕張川を渡って新得へ向かう。キハ183系のディーゼル特急は、連続する長大トンネルを高速で駆け抜けていく。気圧の変化で耳が痛い。

 占冠(しむかっぷ)を過ぎると、ようやく地下鉄状態から解放される。沿線にはほとんど人家がない。山一面の紅葉を横目に、列車は快調に飛ばす。突如、剥き出しの山肌が現れた。スキー場である。石勝高原に停まると、駅からスキー場まで、跨線橋のような通路が延びているのが見える。この辺りは北海道有数のリゾート地で、石勝線もアクセス機関としての役割を担っているのである。しかし、無残に緑が剥ぎ取られた山を見るのは胸が痛む。

 石勝高原を出たところが石勝線の最高地点で、標高543メートル。やがて左側の山が途切れ、隣の谷筋から貧弱なレールが現れたと思うと、それぞれトンネルに入る。すぐに暗闇の中でガチャガチャとポイントを渡る音がして、根室本線と合流する。上落合信号場である。この新狩勝トンネルを抜けると、列車は名勝・狩勝峠を下りにかかる。緩やかに起伏する下界を眺めながら、大きなカーブを何度も切って、坂道を駆け下りていくのである。

 狩勝峠は信州・篠ノ井線の姨捨(おばすて)付近から見下ろす善光寺平、九州・肥薩線の矢岳の大観と並び、日本鉄道三大展望の一つとして名高い。もっとも現在通っているのは1966年(昭和41年)に完成した新線で、昔に比べると勾配は緩和され、スケールも小さくなっている。

 旧線時代の狩勝峠は「白い悪魔の道」と呼ばれる難所だった。C57やD51などの蒸気機関車が繰り広げる死闘と、十勝平野を一望する雄大な眺めが、多くの旅人を惹き付けて止まなかったという。

 新得が近付くと、国道と共に旧線の線路跡が寄り添ってくる。保存展示されたD51が後輩を迎えてくれた。

 13時23分、新得着。すぐに13時30分発の根室本線上り滝川行きに乗り換える。今下ってきた狩勝峠を、今度は窓の開く普通列車で上り、峠越えの雰囲気を堪能しようという趣向である。

 列車は新得駅の構内を出てもあまり速度を上げず、ゆっくりと峠に挑む。床下からは重苦しいエンジンの音が聞こえ続けている。沿線には牧草地が広がり、牛が群れる長閑な風景が広がっている。列車に驚いたのか、小走りに牛が逃げた。

 右へ左へとカーブを切り、幾つものトンネルを抜けて広内信号場に停車。この列車の14分後に新得を発ち、追いかけてくる特急「おおぞら6号」に道を譲るための通過待ちである。カランカランというアイドリングの音が、いかにものんびりと辺りに響いている。

 やがて遠くから列車の走行音が聞こえてきたが、大きな逆S字カーブを廻っているのでなかなか近付かず、また聞こえなくなったりする。

 待つこと暫し。特急が木々の間から姿を現し、静寂を破って轟然と駆け抜けた。再び静けさが戻ると、後にはアイドリングの音が残るばかり。思い出したように警笛を一つ鳴らして、列車は再び坂を上り始める。

 新狩勝信号場でも少し停車し、新狩勝トンネルに入る。トンネル内の冷気とディーゼルの排煙が車内に流れ込む。ポイントを渡り、石勝線を分ける上落合信号場に停車した。窓から顔を出してみると、紫色の煙がもうもうと立ち込めている。

 列車交換でもないのに、こうして客扱いをしない信号場に停まるのは、点検・保守のために保線係の人が乗り降りするためである。こんな人里離れた山奥でも、安全と定時運行が確保されているのは、こうした人々による、地道な努力のおかげだ。

 トンネル中に響けとばかり、警笛を鳴らして発車。暗闇を抜けた瞬間、列車に押し出された煙がトンネルからワッと噴き出した。

 峠を越えて惰行運転となり、次第に速度を増して坂を下る。峠下の落合に着くと、ホッと一息つくように数分間停車した。

 幾寅を過ぎると、右側の谷間に細長い湖が現れる。空知川を堰き止めて造った金山湖である。東鹿越で列車交換のため暫く停車したので、駅前の道を渡って眺める。湖岸の水草が不思議な色を見せ、人気のない湖が山を背景に横たわっている。

 山辺付近から学生が乗り始め、人家も増えてきて、15時44分、富良野着。自称「北海道のへそ」という地理的中心で、北の美瑛にかけての一帯はラベンダーの花咲く丘として有名だ。季節になると幾重にも連なった丘が紫色に染まるという。富良野からは大雪山系を遠望しながら北上し、旭川に至る富良野線が出ている。滝川・富良野間が開通するまでは、富良野線の方が根室本線を名乗っていた。

 島ノ下、滝里、野花南(のかなん)と、空知川が造った峡谷に列車は身をくねらせる。「星の降る里」と銘打った芦別を過ぎると、山間に太陽が沈んでいく。

 16時59分、滝川着。17時17分の急行「狩勝2号」で函館本線を岩見沢へ向かう。そのまま札幌まで乗っていればいいものをわざわざ降りるのは、岩見沢の名物駅弁「イクラ弁当」を賞味したいためである。特急・急行は停車時間が短く、ホームでぼやぼやしていると乗り遅れかねない。そこで下車して買うことにしたのだが、売り子さんを見つけていって見ると、とっくに売り切れていた。

 「幻の駅弁」は各地に存在しており、それらを食べるのは汽車旅派のステータスだが、実際には一日数個しか造らないサービス駅弁が多く、それ故に幻という訳なのである。代わりに350円の「とりめし」を求め、18時04分の普通列車でしおしおと札幌へ向かう。負け惜しみではないが、とりめしだって美味しい。

帰路

札幌〜苫小牧〜函館〜青森〜弘前〜秋田〜山形〜福島〜郡山〜上野 (千歳線・室蘭本線・函館本線・青函航路・奥羽本線・東北本線・東北新幹線)

 札幌では混むことを予想して早くから並び、函館行きの特急「北斗10号」を待つ。同じ函館行きの特急「北海4号」の混み様を見ると、札幌始発でも安心はできない。入線する頃には長い行列ができた。乗り込むと案の定、自由席は埋まり、立ち客まで出る始末である。

 20時12分、札幌を発つ。連日の強行軍のためか、苫小牧を過ぎると函館までぐっすり眠ってしまい、後で慌てることになった。

 連絡船に接続する特急・急行では、車内で乗船名簿を配る。対岸の接続列車の指定券を持っていれば、連絡船には最優先で乗れる。逆に連絡列車の指定券がなく、定員になってしまえば乗せてはもらえない。船というのは定員を厳しく守る乗り物なので、そういう制度ができている。

 10月10日(木)、0時25分。函館に着くとホームにどっと人が出て、みんな連絡船を目指して小走りになっている。車内では眠っていたため、乗船名簿など貰っていない。ここまで来てようやく我が身の迂闊に気付き、蒼くなった。函館桟橋の案内所に駆けつけ、大急ぎで手続きを済ませる。

 ところが乗船はできたものの、後れを取ったためにどの船室も満員で、ロビーにまで人があふれている。夜行便なので寝場所がないと往生する。船内を駆け回るうち、娯楽室と書かれた部屋の上がり框に隙間が見つかった。すぐに荷物を置き、横になって「領有」を宣言しないと、たちまちほかの乗客に取られてしまう。

 旅情などあったものではない。しかし考えてみれば、往時は年中こういう状態だったのではないか。船はいつしか岸壁を離れ、北の大地を後にしていた。

 4時30分、青森に着くと、これまた沢山の人が走る。こちらも負けじと走り、大阪行き特急「白鳥」に席を確保する。

 青森発、4時50分。「白鳥」は大阪まで1000キロ以上を走る、昼間の特急としては最長距離ランナーだが、今回乗るのは最初の停車駅、弘前までの37.4キロだけである。

 明け始めた弘前で5時40分発の普通列車に乗り換える。東北地方で広く見られる、赤い50系の客車列車である。寝ぼけた目を車窓に凝らしていると、人家の出現頻度が高いことに気付いた。成る程本州だ、などとおかしなことに感心する。

 一眠りして秋田に近付くと、車内が混んできた。窓を開けて風に吹かれていると、頭がすっきりして気持ちが良い。

 9時00分、秋田着。次に乗る10時04分発の特急「つばさ10号」は、発車までかなりあるのに扉を開けて客待ちしていた。出発時の乗車率は10パーセント程度で、このまま増えも減りもせずに奥羽本線を南下する。雄勝峠の辺りは紅葉が始まったらしく、見上げる絶壁を赤や黄色が彩っている。刈り取られた田んぼを見ながら、13時16分、山形に着いた。

 13時22分、普通列車に乗り換えて山形を発つ。昨年も東北を旅しているが、今年は何処も50系ばかりになってしまった。古い客車群は駅や車両基地の片隅に追いやられ、廃車待ちの状態にある。木製・ニス塗りの旧型客車は使い込むほどに渋みが増して温もりがあるが、アルミとプラスチックを内装に使った現代の客車は汚れると惨めなものである。それでも電車やディーゼルカーとは違った味わいが客車列車にはある。

 米沢で後5両が切り離される。3両だけの身軽な編成になり、列車はいよいよ奥羽本線最大の難所、板谷峠に挑む。

 旧型客車ではないので、走行音はやや軽い。それでも機関車の汽笛は細く高く、悲しげにこだまして、以前と変わりがない。

 やがてポイントを渡り、引き上げ線に入って一旦停止。本線上をバックで横切り、そろりそろりと大沢駅のホームに進入する。30秒ほど停車して再び本線上に戻り、33.3パーミルと連続急勾配を上っていく。こうしたスイッチバックの駅が、板谷峠には4つも続くのである。いずれも停車するのは普通列車だけなので、本線上を通過する特急・急行の乗客はスイッチバックの存在にすら気付かないだろう。

 次の峠駅はトンネルの中に引き上げ線があり、列車はひとまずトンネルに頭を突っ込んで一旦停止。それからバックしてホームに入る。「チカラー、チカラー」と売り子の声。時刻表には乗っていない「隠れ駅弁」として知られる「峠の力餅」である。

 板谷峠の力餅の歴史は古く、1901年(明治34年)創業と聞く。中身は小ぶりな大福餅が12個。鈍行でこの峠を越える時の楽しみの一つである。

 峠は文字通りの峠で、標高622メートル。ここを出ると列車は惰行運転になる。次の板谷では先にホームに着き、バックで引き上げ線に入ってから本線に戻る。昨年来た時はいずれの駅にも職員が配置されていたが、今では全て無人化され、板谷駅の風格ある木造駅舎にも人影はない。

 最後の赤岩でもホームに先に着く。耳を澄ませば鳥が鳴き、虫の声が列車を包む。谷の向こうの山々に、汽笛が幾重にもこだまする。列車は更に下っていき、庭坂の手前で福島盆地を一望して、峠越えを締めくくった。

 福島着、15時57分。16時35分発の東北本線・黒磯行きに乗り継ぐ。東北新幹線ができたため、在来線からは昼行の特急・急行がほとんど消えた。びっしりとスジが書き込まれて真っ黒だったダイヤグラムも、随分と風通しが良くなってしまい、すれ違う列車は普通か貨物ばかりである。

 郡山着、17時30分。ここで10分間停車する。後は帰るだけだと思うと、鈍行の乗り継ぎにも疲れてきた。

 新幹線の高架橋が誘惑する。時刻表によれば、今度の新幹線に乗ると、当初の予定より2時間以上も早く上野に着ける。そこでついふらふらと「衝動乗り」してしまった。

 決心が遅れたため17時40分の「やまびこ22号」には乗れず、次の17時45分発「あおば220号」に乗ることになった。席を確保して車窓に目をやると、先程まで乗っていた列車が走っている。まだ郡山を出たばかりなのに、もう追い抜いてしまうとは。

 一息ついてからビュフェまで車内見物に出掛ける。カウンターの壁に取り付けられた速度計は、時速205キロを示している。グリーン車は床に絨毯が敷かれ、静かな高級感が漂う…かと思っていたのだが、団体のおっさん連が車内販売のワゴンを停め、何やらわいわいと買い込んでいる。

 停車駅に近付くと、各駅毎に決められたテーマ曲のチャイムが鳴り、案内放送が日本語と英語で流れる。よく聞くと、英語でも「トーホクシンカンセン」といっている。「シンカンセン」は今や単なる固有名詞ではなく、高速列車の代名詞として世界に通用する言葉である。

 日が暮れて大宮が近付き、街の灯が賑やかに広がる。左側には同じ高架橋の上を埼京線が平行し、満員電車と時折すれ違う。

 「春のうららの隅田川」で始まる「花」のチャイムが鳴り、終着駅・上野を知らせるアナウンスが流れる。乗客はそれぞれに降り支度を始め、列車は次第に速度を落として、巨大な上野駅地下ホームへと進入していく。

 「あおば220号」の上野到着は19時22分である。全行程5317.8キロ、所要時間164時間52分の旅も、間もなく終わる。

(終)


補遺


あとがき

 まず、拙文をここまで読んでくださった貴方に、心より感謝いたします。

 この「北紀行」は、1985年(昭和60年)10月の北海道旅行から帰った後、すぐに書き始め、2〜3週間で書き上げました。当初は「北海道旅行記」というタイトルでしたが、その後「北紀行」に改めました。補遺はHTML化に際して書き足したものです。

 「北紀行」は元々公開を目的としたものではなく、旅の記憶を留めておくために書いた旅日記のようなもので、私の友人たち数人に読んでもらったほかは、応募や持ち込みも含め、何処にも発表していません。ここに掲載するのが、多くの(?)方の目に触れる機会としては初めてのことです。

 旅行から四半世紀が過ぎ、いろいろなことが変わりました。多くの路線や列車が廃止され、残った鉄道の沿線も様変わりしていることでしょう。私も歳を取って旅のスタイルが変化し、この十数年は旅そのものの機会がなくなりました。

 「北紀行」の掲載後、「読みました」という反響のメールを幾人かの方からいただきました。文章を書く者として、これほど嬉しいことはほかにありません。お礼を申し上げます。

※本篇の誤字を修正し、補遺のうち古くなった項目を改廃しました。

1998.03.20(記) / 2013.11.14(改)

制作・著作 佐藤純一(サハロフ) 1998, 2000, 2013年
Produced and Written by Jun'ichi Sato (Sakharov) 1998, 2000, 2013.

記事の著作権は、佐藤純一(サハロフ)が保有しています。無断転載を禁止します。
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