Page-ssfw Portrait of a family PHASE-Three 

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 練馬区の小学校が再開されて数日が経っていた。
 すでに暦は皐月から卯月へと移り変わり、それを追うように一日また一日と季節は梅雨へと向かっている。
 龍之介は再開された小学校で、無意識のうちにあの融合の混乱の中で見た一組の男の子と女の子の姿を探していた。同じ小学校にいる確率など、子供の龍之介ですら極めて少ない事は分かっていた。
 だがあの日、あの場所、あの刻に見た二人の姿が、記憶の底から浮かんで離れなかった。
 あの二人は今どこで何をしているのだろうかと。ぼんやりと、幸不幸を問わず頭の中に浮かんでは霧散していく。
「どうしたんですか? 龍之介さん」
 自室でそんな風に考え事をしていた龍之介に、ヌクヌクの声がかかる。
「えっ? あ… うん」
 彼女に返ってきたのは、そんな気の抜けた返事だった。
「考え事していたんだ… ああ、もう晩御飯?」
 外から差し込んでくる夕日が、闇へと移り変わるのに気付いた龍之介は立ち上がる。
「はい、今日の夕飯は鰯の天ぷらですよ」
「ヌクヌクが買い物に行っているんだよね?」
「はい」
「最近魚介類が続くと思ったら」
「でも、お肉やお野菜は値が上がったんですけど、お魚は安くて良いものが多いんですよ」
 時空融合、そう呼ばれる現象の為。自然の力が息を吹き返したように溢れ、魚介類の値段、とりわけ沿岸でとれる大衆魚に至っては一部で値崩れが心配されるほどに安くなっていた。
 この時期の食糧供給は、肉野菜類は御三家と呼ばれる超財閥の在庫と、融合に巻き込まれた農家からの供給が大半であり、全体的に高値で推移している。反 面、魚介類は時空融合で落ち込んだ操業能力を大幅に越えた資源が復活したこともあり、一部養殖業者が悲鳴を上げるほどに安くなっていた。
 融合で続々と確認される新種や古代魚なども、DNA解析や調理法を初めとして貪欲に研究されている。
 目立った不安要素としては、日本人に欠かせない調味料である醤油や味噌が、原材料である大豆の不足から近い将来一時的に生産不能に陥る事が予測されており、この時点でも大豆の価格は先物取引を含めて驚くほど上昇していた。
 だがそれでも供給不足や食糧難になっていないのは、御三家の努力もあるが、人口の減少も主な要因に連なっているのは不幸中の幸いと言えるだろう。
「あ…、じゃ今度はお肉でも買ってきましょうか?」
「いいよ、今は父ちゃんも晶子さんも忙しいだろうから、せめて出費は少ないようにお願いするよ」
「良いんですか?」
「うん、その代わり余裕が出てきたら、うんと上等の肉で分厚いステーキでも食べようよ」
「はい。じゃとりあえずご飯にしましょう龍之介さん」
「うん」
 夏目晶子と夏目久作の二人が会社を興してまだ一ヶ月と経っていなかった。
 会社の名は夏目技研。
 現在は練馬区の自宅から結構離れた、大田区の工業地帯の一角に社屋をもうけている。古い所有者のいない工場を久作の持っているいくつかの特許と引き替えに買い取ったものだ。
 久作も晶子も積極的に動き回っているらしく、今日の夕飯も温子と龍之介の二人での物となっていたが、今となってはそう珍しく感じるものではない。
 龍之介と温子、二人きりで囲む食卓。ふと温子の視線が、いつも久作が座っている席に向けられる。
「やっぱり、寂しいですね」
「仕方ないよ…」
 あらかじめ晶子に確認を取っているので、食事も二人分しか用意されていない。
 そんな閑散とした風景をいつまでも眺めるわけにも行かず、二人は「いただきます」と合掌した。
 箸を取るよりも早く、独特の臭みのある鰯の天ぷらにソースをかけながら、龍之介はほぼ無意識に反対側の手でリモコンのボタンを押しテレビをつけていた。
「行儀悪いですよ、龍之介さん」
「ごめん」
 素直に謝る龍之介を深く追求することもなく、温子はリモコンを受け取ると、チャンネルを変えてニュース番組を探す。
「ヌクヌク?」
「やっぱり寂しいからつけていましょうか」
 苦笑いを浮かべる温子に、龍之介は「しょうがないなぁ」と言いつつ鰯の天ぷらにかぶりつく。
 子供の舌にはまだ鰯の苦みは辛いのか、衣がソースに染まるほどについているのはご愛敬だろう。
「あ、でも食べている間中ずっと見続けるのはダメですよ」
「大丈夫だよ」
 二人はテレビから流れてくる、遣エマーン艦隊出航のニュースを聞きながら、食事を始めるのだった。
 
 
 

 ある家族の肖像 PHASE-III …その卯月の長雨の中
 
 
 

 世界がごちゃ混ぜになっても、天候には関係ないようで。やはり偏西風に乗って天気は西からやってくる。
 気象庁からの予報では梅雨が近づいているらしく、ここ数日は湿度の高いじめじめとした日々が続いていた。
 開けっ放しの窓のカーテンレールに吊している風鈴が、チリンチリンと夕方の風に揺られて、なけなしの涼しさを醸し出している。
 ここは夏目技研、東京は大田区の中小工場の集まる町、その一角の古い倉庫だった建物。
 その二階にある事務室に二人はいた。
「晶子さん」
「何ですか?」
「ヌクヌクの、あいや温子さんのメンテナンスの事なんですけど」
「そっちは久作さんに任せると言ったはずです」
「いえ、ミシマインダストリィでの試作研究用の、プロテクトの強度や方式はご存じありませんか?」
 懐かしいフレーズが晶子の耳に入った。同時に彼女は記憶の中を探し出す。
「責任者によって違うと思うけど、研究用のだったらそれぞれの秘匿レベルに応じてランク分けがされるわよ。でも、どうしてそんなことを?」
「ヌクヌクのシステムの一部に、強固なプロテクトがありまして。それに晶子さんの書類であった、ミシマインダストリィのロゴが入っていた物ですから」
「そうすると温子さんは、ミシマインダストリィによって作られたと考えられるわね」
「晶子さんは心当たりありますか?」
「無いわ。私の方の温子さんはミシマインダストリィというよりは、久作が作り上げたものだから」
「そうですか」
「久作さんの方は、何か心当たりは?」
「思いつくパスワードは全て試しました、全数検索になると、正直解読は非常に困難ですね…」
「そうよね、たしか文字数は半角で最大何文字だったかしら? 千は越えていたと思うけど…」
「そんなの、ウチのコンピューターで全数検索したら何百年かかるやら」
「そうよね。欲を言えば桶口と言う人のデータが欲しいわ、それ以外で多分ヒントになると思うものは考えつかないわ」
 二人はこの世界に出現していないだろう、ヌクヌクの制作者の事を思う。
 久作は桶口という人物がどういう経緯であのヌクヌクを作ったかを考えていた。構造強度を初めとして非常に強靱なハードウェア、その中にある幾つか使途不 明のシステム、データの深部にあるプロテクトのかかったプログラム。その3つから、まだ推測の域を出ないものの、多分軍事用の物ではないかとあたりをつけ ている。
 久作が作った形式のヌクヌクは、脳とのインターフェイスを介して、全身義体タイプの非常に強靱なハードウェアを動かす物である。部位限定の義体と異な り、その強靱さは人間で言うところの火事場の糞力、機械で言うところのリミッター解除状態を数十分間は使用し続ける事が出来る程度になっている。ただし本 来の目的が日常生活を自然に営む用途が前提であるため、ソフトウェア的に不必要に負荷をかけないようにとリミッターが設定されている。仮にリミッター解除 状態で動き続けると、最終的には動力原が爆発を起こし義体は木っ端微塵になる。
 部位限定の義体の場合は、ある程度の負荷がかかると義体が擬似的にまたは部分的に壊れる事によって、肉体の怪我を肩代わりするような設計になっている物もある。
 一方の晶子は、久作ほど彼女のシステムに詳しいわけではない。それでも彼女の型式番号がMIFX-N2-009であることから、試験機試作機等の存在を考慮して、何番目かの制式機であるところまでは仮定していた。
「特許の方だけど、明日また申請に行くわ。」
 そう言いった晶子の視線の先には、段ボール数箱分の特許申請用の書類が積まれている。
 内容はヌクヌクタイプの義体を作るのに必要な資料を中心とした物、その一部である。
 夏目技研はまだ義体のメーカーとして出発したばかりであり、現在は大量の特許を申請中である。
 主な特許の内容は晶子の勤めていたミシマインダストリイと、久作の勤めていた夏目第七研究所の技術資産。それに久作自身の個人的な特許である。
 従業員の方は、まだ募集に手が回らず、現時点ではまだ久作と晶子の二人であった。


 翌日、朝一から特許の出願に出かけた晶子とは別に、久作は近所への挨拶回りをしていた。
 今回提出する特許は、晶子が管理していたミシマインダストリィの物だけであるという事もあり、久作は自分の仕事の息抜きにと外出しているのだった。
 近所と言ってもここは工業地帯。周りは中小の工場だらけである。
 何件目かのご挨拶に伺った先に、大日自動車、第五事業所の看板を掲げた小さな工場があった。
「ごめんくださーい」
 いつの間にか菓子折を用意している久作が呼びかける。
「はーい」
 そんな返事が聞こえ中から一人のOLが出てきた。
「私、夏目技研の夏目久作と申します。今日は近所の挨拶周りに寄らせてもらいました」
 あっけらかんと、今日何度か目の挨拶を言いながら菓子折を差し出す。
「それで、こちら名詞になります」
 実の所、研究畑一筋だった久作は、ビジネス上の作法にそれほど長けている訳ではなく。今回もほぼうろ覚えの作法で相手に名刺を渡す。
「はい、ご丁寧にありがとうございます」
「お客さんかな?」
「はい、美濃さん。夏目技研の方がご挨拶に」
 奥から技術畑の出身だろう、やや年を経た中年男性が出てきた。
「初めまして、夏目技研の夏目久作と申します」
「これはご丁寧に、大日自動車の美濃部です」
 久作の差し出した名刺を受け取り、そこに記された業務内容を読んだ美濃部は、興味を引かれたのか名詞に視線を落としたまま久作に質問を投げかけた。
「義手義足というのは分かりますが、この義体というのはどういう物になりますかな?」
「単純に言えば、手足だけでなく複合的な体の一部、という感じになります」
「しかし、それだとやはり不自由なのではないですかな?」
「その辺りは、コンピューターを介して人間とほぼ変わらない生活が可能です」
「それは、また…」
「ただ。お恥ずかしながら、全身となると、脳を入れる空間がとれなくて」
「なるほど、まだまだ改善の余地はあるという事ですな」
「そう言う事です」
「もしですが、健康な人間が体一つ動かさずに、人間でない物、たとえば車でも動かす事は出来ますかな?」
「インターフェイスの技術はありますから、車の側さえクリアできれば可能ですね」
「なるほど…」
 それからお互いの世界の話になり、一段落したところで久作は第五事業所を後にした。
 ここの所、ネジなどの基礎的な部品を作っている工場は、御三家の系列企業などからの発注があるためか、フル操業している所も多く、ゆっくりと話が出来る工場は少なかった。
 そう言う事もあり少々長話をした為か、時刻はお昼にさしかかろうとしていた。久作は腕時計でそれを見取るとお昼にするため会社へと戻るのだった。


 数日後。
 降り始めた梅雨の長雨の雨音を聞きながら、久作が一階の工作所で納入された機械の動作チェックをしていると、夏目技研に一人の人物が尋ねてきた。
「商工会の方ですか?」
 受け取った名刺を見て思わずそう聞き返す。久作の前にいる人物は、ビシッとスーツで身を固めたビジネスマンにしか見えなかったからだ。
「はい。時空融合でこの近隣地区だけでも100余りの世界から企業が出現しまして、商工会を一から立ち上げている所なのです」
「なるほど」
「今日はそのご挨拶にと参りました」
「分かりました。で、商工会って何です?」
 久作の言葉に目の前のビジネスマン風の男は一瞬呆気にとられるが、気を取り直して説明を始めようとしたが、久作も作業所ではなんですからと、二階の事務所に案内をする。
 事務所の一角に申し訳程度に置かれた、応接セットに案内をして、
「ちょっと待ってくださいね、今お茶を用意しますから」
 飄々とそう言って給湯室へ向かおうとした瞬間、事務所のドアが開き、スーツを着こなした晶子がソフトアタッシュを片手に帰ってきた。
「今帰ったわ。あら、お客様?」
「ええ、商工会の方です。晶子さん」
 久作がそのままお茶の用意を始めるのを見取ると、
「初めまして、夏目技研の社長をしております夏目晶子と申します」
 晶子はそう言って挨拶を交わす。
 やがて久作が用意したお茶が出されると、本格的な商工会の説明が始まった。
「一度、それぞれの会社の技術のお披露目をした方がいいかもしれませんね」
 説明が一段落し、周辺の工場の状況に話題が移ったところで、そう久作が呟いた。
「お披露目ですか? 確かにまだ自社の技術を生かせていない所は多いです」
「うちもですねー」
「ですが現状ではまだ特許の確認や、当面のやりくりに翻弄されている所が多いのでしばらくは無理かと」
「うちと同じ所は多いという事ですか」
「はい。商工会の方でも人手が足りないので、しばらくは身動きがとれません。今はそれぞれの特許申請のサポートもままならないのが現状です」
 結局、それぞれの紹介に止まり。それ以上の話もなく彼は夏目技研を後にした。
「そう言えば晶子さん」
「なんです?」
「うちも社員募集した方が良いと思いませんか?」
「そうなんだけど、あなたの技術に着いてくることが出来る人が最低一人は欲しいわよ?」
「機械加工の専門家と医療工学の専門家、あとは電子部品とかの専門家となりますね」
 指を折って大まかに数えた久作を、晶子はもう一度見直し、目の前の久作の多岐にわたる分野に、思わず自分の久作もここまですごい人だったのかとため息をつく。
「大丈夫ですよ。とりあえず基礎さえあれば私がばしばし鍛えます、君子に三楽ありですよ」
 晶子が気を落としたのかと勘違いした久作は、自信満々に言い、ドンと自分の胸を叩いた。
「そ、そうね… あとは事務の方の募集かしら」
 迫力に押されてそう言葉を返した晶子は、頭では必要な経費の概算をはじき出しているのだった。


 数日後、日曜日。
「このパーツじゃないでしょうか、龍之介さん」
「そうだね。おじさん! これ2ケース下さい、あと領収書を夏目技研でお願いします」
「坊主お使いかい?」
「うん、父ちゃんからの頼まれ物なんだ」
「ちょっと包むから待ってな」
 少しして袋詰めにしたパーツと引き替えに代金を渡し、領収書を書いてもらってその店を後にした。
 二人が現在いるのは秋葉原。時空融合でありとあらゆる家電製品の街と、ジャンクとパーツと萌えの街という側面を持った街である。
 そして、ここには観光も含めて色々な人間が集まってきていた。
「ノエル、少し休んでいこうか」
「はいお嬢様」
 休みを利用して海鳴から出てきた月村忍は、メイドであるノエルを伴って秋葉原に出てきていた。彼女の目的は観光半分、参考になる技術の見聞半分である。
 通りに面した喫茶店に入り、店員に席へと案内してもらいアイスコーヒーを注文したところで、ふと視線の先に年の離れた仲のいい姉弟の姿が目に入った。
 それだけで、特に気になる物でもなかった。ノエルの次の言葉がなければ…
「お気づきですか?お嬢様。あの方、サイボーグのような物と思われます」
 殆ど耳打ちするような小声でそう告げられた。
 秋葉原という場所だけあって、ノエルにロボットやアンドロイド、またそれに近い物が見つけられれば報告するように言ってある。
 事実何度かそう言う報告を受けだが、今回は気づかなかった分素直に驚いた。
 ノエルのセンサーに自信を持っているのもあるが、外観やちょっとした仕草を含めて、視線の先の彼女はあまりにも人間だった。
「センサーの異常じゃないの?」
 ノエルの「のようなもの」という歯切れの悪い言葉に、忍も小声でそう確認するが、
「あの方は。その、言いづらいのですが。 …センサーでは猫と…」
「猫!?」
 思わず大声を上げてしまった忍は、慌てて姉弟から見えない位置に身を隠す。
 ノエルが大柄であることも含めて、一応完全に隠れたつもりだったのだが。
「気づかれたようです」
「あちゃー」
 思わず目を覆う。
 自分たちは怪しいと主張しているんじゃないかという、客観的事実に目をつむるが。その間に、件の姉弟はウェイトレスに席を移動する事を告げて、忍達の座っているテーブルに向かってきていた。
「相席、よろしいですか?」
 大学生だろうか、落ち着いた雰囲気の女性が忍に声をかけるが、当の忍は彼女をアンドロイドとしてその自然さに見とれていた。
 ただ、分類をするとすれば。猫の物とはいえ、コンピュータの補助を受け、脳が主体となって全身を制御するのでサイボーグに分類される。
「お嬢様」
「あ、うん。どうぞどうぞ」
 忍は諦めながら席を詰める。
「龍之介さんはそちらでお願いします」
「分かった」
 温子に促されるままに、龍之介はノエルの隣の席に着き、温子も忍の隣に座ったところでウェイトレスが温子達のティーセットを置いて行く。
「ごゆっくりどうぞ」
 そう言ってウェイトレスがテーブルから去るまで、四人は無言だった。
 温子は単純にウェイトレスが去るのを待ち、龍之介は半ば雰囲気に飲まれる形で話しかけるのを躊躇い、ノエルは龍之介達に注意を払いながら忍の行動を待ち、忍は戸惑いつつどうするべきか悩んでいた。
「突然すみません」
「いえいえ、気にしないで下さい」
 温子の言葉に、やや慌てて忍は答える。
「ヌクヌク、言いにくい事ならここで話すのは止めておいた方が…」
「大丈夫ですよ龍之介さん」
 そう龍之介に優しく答えて、温子は切り出す。
「初めまして、夏目温子と申します。そして、こちらは夏目龍之介さんです」
「初めまして、夏目龍之介です」
「そうだ、よろしければどうぞ」
 そう言って温子はゲームセンターで作ったような、かわいらしい名刺を忍に差し出す。
「うわぁー、かわいいー」
 猫の柄が淡くプリントされた名刺に見入りる忍。
「お嬢様…」
「え? あっ… 自己紹介まだだったよね。私は月村忍、こっちはノエル。ノエル自己紹介」
「初めまして、ノエル・エーアリヒカイトと申します。ノエルとお呼びください」
と、自己紹介が一段落したところで、忍の視線は再び猫の柄が淡くプリントされた名刺へと落ちた。
「私の詳しい話は出来ませんが、先ほどノエルさんがおっしゃったことは事実です」
「うそ、だってこんなに完璧に…」
 人間なのにと、そう言いかけて忍は口ごもった。
「お嬢様、お車を用意しましょうか。車内でしたら、そう聞かれることもないと思いますが」
「うん、そうだね。二人とも家まで送るよ、それならゆっくり話せると思うし」
「ありがとう。でも今はお使いの途中だから、先に会社に行かなきゃいけないんだ」
 提案した忍に、龍之介がそう言ってやんわりと断るが、
「じゃあ、会社まで送るわ。それなら問題ないでしょ?」
 忍は目の前の興味の対象を逃がすまいと食いつくのだった。

 走り出した車は帝都区を大きく迂回する道を通る。道路計画上は帝都区の景観を損ねないようにと、地下トンネルの計画があるが、諸事情により現在の所進展はしていない。
 東京の真ん中だというに、所々空き地や小さな雑木林が見受けられる。助手席に座っている龍之介は、そんな見慣れた景色から振り向いて、運転しているノエルへと視線を向ける。
 ラジオからは先日連絡の取れた杉原千畝のニュースを読み上げている。
 後部座席に座っている忍と温子の会話、というより一方的に忍の質問に答える温子の様子は、とりあえず棚の上にあげて…
 ふと、気になった事を訪ねてみる。
「ノエルさんって、運転できるんだ」
「はい。非常に便利ですから」
「なるほどねー」
 龍之介は喫茶店で席を替わるまでに、温子から彼女がロボットであることを聞かされている。だからノエルや忍はロボットでも免許を取ることができる世界から来ている物と思っている。
 そんなふうに感心している龍之介に、ノエルは龍之介が誤解をしているのだろうと思い、少し悩んだ結果、口を開いた。
「本来は、免許を取れる立場ではなかったのです」
 その言葉に龍之介のみならず、忍も温子もそれぞれに驚いた。
「免許を取るには戸籍が必要です。私の場合は偽造によって戸籍を取り、教習所に通って免許を取得いたしました」
「そうなんだ。この前ニュースで見たけど、最悪の場合は三浦半島にあるさがみの国特別自治区に引っ越したら良いよ、あそこならある程度のロボットなら人権を認めてくれる事になったから」
「そのニュースなら、確認しております。もし、どうしようもなければそうしたいと思います。ですが龍之介様、この事はくれぐれも内密にお願いいたします」
「うん、任せてよ」
 答える龍之介を一瞥して、再びノエルは運転へと意識を戻す。
 会ってまだ間もないが、不思議と龍之介の事が信じられる気がする。具体的にどうこうと言う訳ではないが不思議と信じられる気がするのだ。
 分類としてはロボットである自分がである。特にエラーは検出されない、だとすればこれが龍之介の人徳という物なのだろう。
 そんな事を思考の片隅に起きながら、ノエルは龍之介に道案内を任せて車を進めるのだった。


 夏目技研の前に一台の車が止まる。
 二階の事務所でその音を聞いていた晶子だが、お向かいの工場の物だと思い、書類との格闘を続けていた。
 下の工作所で作業している久作と、それ以外の誰かの話し声が聞こえて来たところで、ようやく手を止めて事務所を出た。
 工作所が望める場所から見下ろすと、若い女性の二人連れが久作や龍之介、温子とも談笑しているのが見えた。どうやらお客様らしい。
「お茶を差し上げないといけないわね」
 珍しいとは思いつつも、今までの作業に区切りをつけるように、晶子は自らに言い聞かせてお茶を用意を始める。
 程なくして工作所へと降りて行く。
 降りた先、そこで見た光景は信じられない物だった。若い方の女性と久作とが、技術関係でしかも冗談を飛ばしながらの議論をしている。
 彼女の見た目は高校生くらいだろうか、若く見えたとしても大学生が限度だろう。その程度の年齢で久作の技術関係の会話に着いて行けている、それがどれだけ凄い事か。晶子は身震いが出る思いでこの光景を目の当たりにしていた。
 もちろん龍之介や温子と、もう一人の女性のお客様は二人の会話の蚊帳の外である。
「あ、母ちゃん」
「…龍之介、お客様にお茶をお出しして」
「うん」
 龍之介の言葉に一瞬戸惑う晶子だが、とりあえずお盆を龍之介に渡した。
「初めまして。私、夏目技研社長を務めています夏目晶子と申します」
「初めまして、ノエル・エーアリヒカイトと申します。あちらが月村忍お嬢様でございます」
 挨拶を交わして、晶子は改めて異世界の相手だと認識する。
「つかぬ事を伺いますが、あなた方の世界では温子様のようなサイボーグは、ありふれた存在だったのでしょうか」
 融合したこの世界で人間に近いロボットという存在は、来栖川エレクトロニクスのHMシリーズに代表される。
 エーアリヒカイト型のノエルは、その方向性から強力なHMともとれるが。猫脳サイボーグに分類できる温子は、それらとは全く違う方向性で作られている。
 ノエルはその部分が不思議に感じて質問をしたのだった。
「そうね、私の方では温子さんただ一人、だったわね。龍之介は?」
「もう一人いたけど、あっちはアンドロイドだし、珍しい存在だったと思うよ。ヌクヌクの方は?」
「私は、お姉さまがいたはずなんですが、ありふれた存在では無かったです」
 晶子、龍之介、温子、三者三様の答えにノエルは戸惑う。
 久作の答えを聞けば少しはその疑問も晴れるのだろうかと考えるが、まさか「学会に復讐するために作った」とか「義体の為に作った体を流用した」等とは夢にも思うはずも無い訳で…
「ごめんなさいね。私達似たような世界からそれぞれ融合に巻き込まれたから」
「では、久作博士も」
「うん。父ちゃんはここにいるヌクヌクとは、別のヌクヌクを作った世界から巻き込まれたんだ」
「そうですか…」
「それにしても、よっぽど気が合ったのかなぁ」
 さっきから熱を帯びる一方の、忍と久作の会話に龍之介も呆れるように、その二人へと視線を向ける。
「そうですね、お嬢様は今まで独学で私のメンテナンスをしてこられましたから」
「ノエルさん」
「はい」
「もしよかったら、我が社に来ない? 勿論あちらのお嬢様と一緒にだけど」
「母ちゃん…、忍さんまだ高校生だよ?」
 ほぼ口をついて出たような晶子の言葉に、即座に龍之介が口を挟む。
「なら尚更欲しいわ」
「欲しいって…」
 有無を言わせない晶子に、呆れる龍之介。
 当の本人はと思い、龍之介が忍へと視線を向けると、久作とがっしりと握手を交わしている姿があった。どうやら意気投合したらしい。
「なんだろう、そこはかとなく心配なのは…」
 自身の心境をそう呟いた龍之介の言葉に、ただ一人ノエルが頷いていた。


 数日後、夏目家近辺。
「ばいばーい」
「またねー」
 そんなクラスメイトとの別れの挨拶を済ませ、龍之介は一人家路を急ぐ。
 融合前はあり得なかった、都内でのありふれた空き地。普段なら子供らの格好の遊び場である空間も、今日は降り続ける雨に濡れて、静けさを取り戻していた。
 その一つを近道代わりに通り抜けて、家の近所の公園の前の道に出る。
 晴れていれば、今日も近所の子供達や、井戸端会議に花を咲かせる親達で賑わっているであろう公園も、梅雨の間は一休みとばかりに、降り続ける雨にその身を任せていた。
 その公園の一角、融合後しばらくの間、色々なメモが掲げられていた掲示板がある。
 その掲示板も今は町内会の会報が掲示されて、積み上げるように張り付けられたメモは撤去されていた。代わりに区役所で問い合わせるようにと案内が掲示してある。
 その掲示板の前を通り過ぎて、角を二つ曲がり、少し進んだ所に龍之介の家はある。
 傘を畳み、ドアノブに手をかける。
「ただいっ…」
 いつものように声を上げて玄関のドアを開けようとしたが、鍵がかかっていたのかドアは開かなかった。
「ちぇ、誰も居ないのかぁ」
 渋々鍵を取り出して玄関のドアを開ける。
「ただいまー」
 既に口癖なのだろう、誰もいないはずの家にそう声をかけて龍之介は家に入り中から鍵をかけるのだった。

 しばらくしてその鍵が外から開けられた。
「ただいま帰りました」
 買い物から帰ってきた温子は、玄関にある靴と傘立てを見て、龍之介が帰宅しているのに気づいた。
 温子は、いるのだろう龍之介にもう一度声をかける。
「龍之介さん、ただいま帰りました」
「…ヌクヌク、お帰りー」
 やや遅れてリビングから聞こえてくる、龍之介の返事を快く感じながら、温子は買ってきた物を冷蔵庫に入れるべくキッチンへ向かう。
 宿題をしているのだろう龍之介の後ろ姿が見えた、学校が始まってからという物、彼は帰宅するなりすぐにここで宿題を済ませていた。
 真面目な性格なのかと。温子はそう思っていたが、ふと思い返すと、彼は宿題が終わっても外に遊びに行く事が少なかったように思える。
 ここ数日は久作の書斎の本を読んでいたりもしている。
 今日は雨が降っているが、晴れていれば買い物帰りによく見かける、公園や空き地で遊ぶ近所の子供達の姿とくらべて、今の龍之介の姿は温子には少し異質に感じた。
「龍之介さん?」
「なあに?ヌクヌク」
「いぇ、お夕飯はどうします? 今日は鰹を買ってきたんですよ」
 振り返った龍之介の視線を受けて、温子は思わず答えた。本当はもっと別のことを聞こうと考えていたのに。
「鰹かぁ、この調子で行くと海産物を全部レパートリーに出来そうだね」
「そうですね、そうしてみましょうか」
「あー、でも名前も調理方法も分からない魚は勘弁して…」
 龍之介のその言葉に、口調に、いつもの龍之介と何ら変わらない事を感じた温子は、思い切って尋ねてみる事にした。
「龍之介さん、最近ずっと勉強ばかりしていますよね?」
「ずっとでもないけど」
「…お友達はいないのですか?」
「心配してくれるんだ」
 コクンと頷く温子に龍之介は答える。
「それがねー、聞いてよヌクヌク…」
 龍之介は楽しそうにクラスメイトの事を話し始める。
 友達の殆どは商店街の子で、親の手伝いをするのが当たり前の時代から来ているらしく、帰ったら店の手伝いをしている事。
 週一回の商店街が休みの日には、公園で遊ぼうと決めている事。
 学校での出来事や、先生の事。
 そして最後に龍之介は言った。
「僕はヌクヌクの飼い主なんだ。だから父ちゃんがいなくなっても、ヌクヌクが怪我をしたら、治してあげられるようになりたいんだ」
 真っ直ぐなその言葉に、温子は柔らかい笑みを浮かべ、
「はい、その時はお願いします」
 そう答えた。


 数日後の日曜日、夏目家。
 ボン! と何かが弾ける音、そして焦げ臭い匂いが辺りを覆う。
 そんな事はお構いなく、天気予報を告げるテレビから、九州の梅雨明け宣言がニュースから聞こえる。
 たが龍之介はそんなニュースを耳に留めることなく。手で顔を覆い、久しぶりに晴れた天を仰いでいた。
「ごめんねー」
 拝むようにして龍之介に謝るのは、ノエルと同じく月村家のメイドをしているイレインだった。
 なんでも、家の方の用件でノエルの代わりに来たらしい。
 彼女は大柄で沈着冷静なイメージのノエルとは対照的で、楽天家で快活なメイドという印象を龍之介は受けていた。
「あははは… 気にしないで良いよ、こんなのはしょっちゅうだったし…」
「そうなの?」
「それに。父ちゃんも理解者がいてうれしいんじゃないかな」
 龍之介の懐かしさが混じった言葉に、やや好奇心を乗せて聞き返すイレインだが、遠い目をして久作を見つめる龍之介に何も言えなくなってしまった。
 龍之介の視線の先には、庭の中程で全身すすだらけで白衣も真っ黒になった久作と、壊れた怪しい物体を手にしたまま、久作に謝る忍の姿があった。
「げほっ、ごほっ… とまぁ、こんなふうに失敗を繰り返して学習して行く物です」
 そう言って笑い始める久作に一同が呆れるが、久作はそれすらもおかしいのか、笑い続けていた。
 さすがに徹夜三日目である…
 付けっぱなしのテレビから、使徒侵攻事件のその後や、川崎沖のGGGアイランドの惨状と復興状況を伝えてくるが、それらは彼らの耳に入ることなく拡散して行くのだった。

「お昼出来ましたよー」
 落ち着いた温子の声がキッチンから聞こえてくる。
「父ちゃん、忍さん、お昼出来たってー」
「分かりました、ちょっと顔を洗ってから行きます」
「イレインさんも行こう?」
「あはは、気づいてたらごめんなさいだけど。あたしはご飯は食べられないのよ」
「えーっ、そうなんだ」
「味見くらいなら出来るんだけどねー」
「そうなんですかぁ? イレインさんの分もご飯作っちゃいました…」
 特に気にした風もなく、あっさりとそう言いきるイレインに、温子が驚く。
「ごめんね、先に言っておくべきだったねー」
 そう言いながら、リビングのテーブルに並べられた料理へと視線を走らせるイレイン。
「あれ?」
「どうしたの?」
 龍之介の問いかけに、イレインは彼女にしては珍しく、わざわざ指を指してテーブルの上に用意された食器の数を数える。
 二回ほど数えなおした後、すぐそばにいる龍之介へと視線を落とし、
「もしかして… 温子さんって、ご飯食べることが出来るの?」
「そうだよ」
「そうなんだ。すごいねー、ご飯が食べられるって事は。ねぇご主人様?」
 イレインがしきりに感心して、丁度手を洗ってリビングにやってきた忍に気づいて振り向く。
 いきなり話題をふられてきょとんとした忍は、
「何がすごいのイレイン?」
 そんなふうに聞き返す。イレインは温子が食事が出来ること忍に告げると、リビングは一瞬、忍の驚愕の声で覆い尽くされた。
「別に驚くことではありませんよ」
 忍の後ろから 顔を洗ってやってきた久作は言葉を続ける。
「食欲、性欲、睡眠欲。人間の三大欲求が満たせなくては、人間の体の代わりをつとめる義体としての意味を成しませんからね」
「…そうなんだ」
 忍は改めて人体の一部として作られた義体の能力に感心すると共に、ノエルやイレインのような人型の機械との相違点をひしひしと感じるのだった。


 お昼を過ぎて、再び久作と忍がそれぞれの技術談義に没頭し始めた。
「それにしても、久作様も忍お嬢様も、好奇心刺激されっぱなしですねー」
 二人の技術談義を少し離れて見ている晶子に、手持ちぶさたになったイレインは呟く。
「久作にも、良い刺激になるでしょう」
「でも良いんですか? うら若き女性とあんなに親しくなって」
 いたずら心半分で、イレインは晶子に返す。
「…イレインさんは、この家の全員が、それぞれ別々の世界から融合にあったっていうのは知ってる?」
「まぁ、メイド長から聞いてますから。 …あ、メイド長というのは先日晶子様もお会いしたと思いますが、ノエルの事です」
「だから、久作が私でない別の人を選ぶことがあっても、それは仕方のない事だと思ってるわ」
「あ、晶子様?」
「でも、あの人と同じようにとは言わないけれど、私を選んでくれると嬉しいかな。 …なんてね」
「はぁ…」
 稼働開始して3ヶ月が経過しようとしているイレインにとって、ごく自然な笑みを浮かべる晶子の表情は形容しがたい物があり、その心の様相を見取ることは出来なかった。
 ここでは割愛するがイレインにしても、融合後に一悶着あって現在に至っており。月村家のメイドとしては、一応一番下っ端という事になっている。
 イレインが何とも言い難い表情を浮かべていると、キッチンから龍之介が晶子の側へと歩いてきた。
「母ちゃん、これから食材の買い出しに行くんだけど、ヌクヌクにお金渡してあげて」
 流石に龍之介に「母ちゃん」と呼ばれるのも慣れた晶子は、龍之介に返事を返し、イレインに「失礼するわね」と告げてリビングから出て行った。
「龍之介様も買い物に出かけられるのですか?」
「うん、そうだよ。 …それと様はいいよ、くすぐったいから」
「ご一緒してもよろしいですか?」
「良いけど、夕飯の買い出しだよ?」
「はい。忍お嬢様に許可を取ってきますね」


 商店街、某魚屋の軒先。
「ごんべえさん?」
 いぶかしげに値札に書かれた名前を読み上げる龍之介に、若い魚屋の主が親しげに声をかける。
「いらっしゃい」
「太助さん、また妙な物仕入れたね」
「妙な物はないだろう、鎌倉葉山沖で今朝あがった。新鮮なシーラカンスだぜ!」
「シーラカンスって、何でそんな物置いてあるんだよ!!」
 親指を立てて宣言する太助に、速攻で突っ込みを入れる龍之介。
 鎌倉近辺では権兵衛さんと呼ばれるゴンベッサ、いわゆるシーラカンスは本来比較的深いところに生息しており、普段葉山沖などではとれないのだが、融合後は以前よりもちょくちょく網に掛かったりしている。
 ただ、この権兵衛さんが現代まで生きてきたゴンベッサなのか、融合によって出現した古代魚シーラカンスなのかは分かっていない。
「お知り合いなんですか?」
 太助と龍之介の会話が続けられる中、イレインは温子に尋ねた。
「うん、いつも贔屓にしている魚屋さんなんです」
 納得して品揃えを見渡すイレイン。
「なるほどさすが東京だね、江戸前の幸はきっちり押さえてあるねー」
「時空融合で海は豊かになったからね、後は人間がこれをけがさなければいいんだけどね…」
 どこか他人事のように呟いた太助に素直に同意するイレイン、彼女が注意を太助に向けた瞬間気づいた。彼が普通の人間ではない事に……。
 だからと言って、すぐに戦闘態勢をとる必要など微塵も無く、彼女は流石に東京だねー、と内心で呟くのだった。
「そうそう、権兵衛さんのレシピも付けるから、どうだい?」
「…もしかして買わせたい?」
「みんなで幸せになろうよ…」
 まるで某13号埋立地の昼行灯隊長のように言う太助だが、彼は元が精悍な青年なので似合わない事この上ない。
「んー、太助さんにそんなキャラは似合わないよ…」
「残念、意表を突けると思ったんだがなー」
 話が一段落付いたところで、お互いに笑いあう。
「あれ、買わないんだ。興味あったんだけどなぁ」
「私は買うつもりなんですけど…」
「ヌ、ヌクヌク!?」
「目指せ魚介類全制覇です、龍之介さん」
 驚いた龍之介に、温子は楽しそうにそう返す。
「…んまぁ、料理するのはヌクヌクに任せているし、いいかなぁー」
「じゃあこれも下さい」
「はい、毎度あり」
 太助が温子の注文した物を包んでいる間、イレインがそっと龍之介に耳打ちをする。
「太助様も普通の方、じゃないですよね?」
「うん。でもそんな事別に良いじゃない」
 表裏無く無邪気に答える龍之介に、
「龍之介様は良い方ですねぇ」
 しみじみとそう言うのだった。

 その日の晶子の日記より抜粋。
 権兵衛さんという魚を食べた。珍味らしいが、正直おいしい物ではなかった。
 味付けして、あの歯ごたえを生かせるおつまみにでもしたほうが正解だろう。


 数日後。
 学校からの帰り、文房具屋に寄っていた龍之介が、買い物を済ませて店から出る。
 他に用事もなく、傘を片手に家に帰ろうと歩き出す。
「せやな、今日はハンバーグでも作ろうかぁ」
 ふと耳に入った、聞き慣れない流暢な関西弁のイントネーションに龍之介は振り返る。
 かっかっか、と笑いながら空の手提げ袋を下げた母親につれられて、男の子と女の子の同じ年頃の兄妹が、買い物に来たのだろう、仲良く龍之介の横をすれ違って行く。
「えー、晴子さんのハンバーグ大きいよー」
 あの掲示板の前にいた、一組の男の子と女の子、その姿が鮮明に脳裏に甦った龍之介は慌てて振り返る。
「黒こげハンバーグステーキにするでー」
 そして通り過ぎた二人が、あの時掲示板の前にいた二人だと気づいた。
「中身は真っ赤ー」
 会話の中身はともかくとして… 楽しそうに歩いて行く家族の姿がそこにあった。
 離れて行くその後ろ姿に、龍之介は心から安堵していた。
「帰ろう」
 龍之介の口から呟かれた言葉はそれだけだった。
 自分を愛してくれる家族がいる。それがどれだけ幸福な事か、龍之介は分かっているから。
 あの二人の幸せを願いつつ、傘をさしてアーケードから出た。

「お帰りなさい、龍之介さん」
 玄関前で温子にそう声をかけられる。
「ただいまヌクヌク」
「何か良いことでもあったのですか?」
「うん!」
 龍之介は話し始める、今日商店街で出会ったあの二人の事を。
 世の中のどんな動きよりも気になっていた事を。
 窓の外の雨は上がり、雲の間からのぞく空は、もう夏の様相をかいま見せていた。











登場人物

ノエル・綺堂・エーアリヒカイト -とらいあんぐるハート3
イレイン -とらいあんぐるハート3
太助 -改造町人シュビビンマン
晴子 -AIR








おまけ 「しむ たうん」t≦4month

元年四月
「参ったわね、お金がないわ」
 それがさがみの国特別自治区の、初代自治区長初瀬野の就任の第一声だった。
 三浦半島の大半を占めるさがみの国特別自治区は、首都圏で最も人口密度が低い地区の一つである。
 元々主立った街といえる物もなく、もっとも栄えている辺りでも店が集まってはいるが市場すらない所だ。
 そんな黄昏の時代の辺鄙な地域の融合であっただけに、昭和や平成時代の一般的な役所の機能を果たす物が無かった。
 村の寄り合い所帯。そうイメージするのがぴったりの、廃屋を多少修理して設けられた、自治区の役所はまさにその象徴であった。場所は外の人に三浦市と呼ばれる辺り、地元の人には南町と呼ばれる集落の中にある。
 ここが他の自治区と変わっているところと言えば、ある一定水準を満たした自立したロボットが人権を有したり、それよりは水準が落ちるが運転免許を取得できるとした点ぐらいだろうか。
 既得権益を侵さざるべからず、という考え方から発生した物である。後に幾つかのロボット研究所の進出を招く結果になるが、それはもう少し先の事になる。

 さてお金の問題であるが、この時点では殆ど解決する手段がなかった。
 企業を誘致するにしても、住宅地を誘致するにしても、こんな三浦半島の辺鄙な所まで来なくても、もっと都心に近い所に空き地がごろごろしているのである。
 交通の便では、横須賀線も久美浜線も横須賀から南に向かうトンネルの途中、さがみの国特別自治区に入る辺りでぷっつりと途切れており、陸上のくたびれた道以外には選択の余地はなかったのである。
 コンビニもない、スーパーもない、お巡りもいない。他の近隣地区と比べれば生活系インフラが無い場所である。人が来るはずも無かった。
 自治区役所に仕立て上げた廃屋を修理するのにしても、出来るだけ使える廃屋を選び、まるで村民が寄り合うようにして、探してきた廃材で修理したので、お金など一銭もかかっていない。
 商業施設からの税金を合計しても、近代的な自治体を運営するにはほど遠かった。
 ここの所忙しいガソリンスタンドでさえ、人一人養うほどの税金には達していないのが現状だった。
「みんな、この自治区に入る前に満タンにしてくるからよー」
 とは、そのガソリンスタンドのおじさんの話である。


「暇人の寄り合い所よ」
 鎌倉自治区から出向いてもらった面々に、初瀬野自身がそ言うように、誰一人としてこの時点では給与をもらってはいない。無い袖は振れないのである。もしかしたら腕自体無いかもしれない…
 今日鎌倉自治区から来ていただいたのは、警察それ自体を鎌倉自治区に依存する為の話し合いだった。
 本来神奈川県警の者が来る予定だったのだが、なぜか来たのは葉山署の所長と車を運転してきた若い警官が一人だった。
 田舎の家の応接間を彷彿とさせる部屋に、年季が入った木の机が鎮座している。そこに初瀬野と、葉山署の所長海苔巻が正座して向かい合う。
「神奈川県警から話は伺っていますが、流石に自治区全部となると、我が署の職員ではまかないきれません。鎌倉署や横須賀署にも応援を頼む必要があります。ですがまずは駐在所をお作りになられてはどうですかな?」
「駐在所?」
「住み込みの交番のような物です」
「そうね、まずはそれで行きましょうか」
「分かりました。それともう一つですが」
「何かしら」
「これは鎌倉から頼まれたのですが、鎌倉の自治区内からこちらの方へ移住希望者がおるんですわ」
「こんな辺鄙な所へ?」
「元々生活に自然環境という、人間とは別のインフラが必要な物達ですからな」
「…それって、鎌倉に出るっていう妖怪。なんて言わないわよね?」
「実は、そのまさかなのです」
「す…、少し考えさせてちょうだい」
 まさかと思った質問を、即答でしかも真面目に返答され、さすがに初瀬野も戸惑う。彼女の知っている狐狸妖怪の類といえば、昔話の中と、ミサゴというのがいるらしいのを知っているぐらいだ。
 ふと、たばこに手を伸ばそうとして、気づいた事を訪ねてみる。
「ちょっと待って、移住希望者というからには、私たちと同じようにも生活出来るっていう事かしら?」
「れっきとした鎌倉市民ですからな、全員がとまでは行きませんが、その辺りは問題ありません」
「なるほどね… 少しお願いがあるんだけど良いかしら」
 結局駐在所を設ける事については話を詰めてゆく事になったが、海苔巻きは鎌倉に初瀬野の要望を伝えることになった。
 要望とは、移住の自由と引き替えに鎌倉でも、さがみの国と同じようにロボットが免許を取得できるようにして欲しいという物だった。
 後日、鎌倉の魔物の頭領との会見で、予定より大幅に広大な地域の要求と、賃貸料と税金の代わりとしてかなりの金額の提供を提示されたが、初瀬野は税金の代わりに希望者、もしくは代表者数名に自然保護監察官の役目を負わせる事とし、金額に関しても半分ほど断った。
 実の所魔物の頭領からすれば、あまりにも異端な自分たちが安住できる地を、鎌倉近辺に求めていたという実状があり。海苔巻がさがみの国に出向いたのも、その件が理由であった。
 初瀬野にしてみれば、自治区にお金が入り、この自然環境を守る人員をただで雇えたのだから、少なくとも悪くはないと思っている。
「あの子らにも生活があるし、買い物にも行けやしないんじゃ、生活が窮屈すぎるだろう?」
 とは、後日初瀬野自身が、ガソリンスタンドの店主に語った言葉である。
 あの子らとはアルファとココネの事で、連合の纏まりつつある法の下では、ロボットである彼女らは物として扱われ人権は存在しない。
 今まで認めてきたものを急に失う。少なくとも初瀬野はそんな危機感を抱き、連合にさがみの国特別自治区を認めさせ。さらに連合に彼女らの人権を認めさせようとしたが、それ自体は成功しなかった。
 その報を受けた時の彼女は、事務室の窓辺から空をじっと眺めつづけ、その様子にしばらく誰も近づけなかったという。
 結局元年第一四半期末の時点で、ロボットに対する人権及び付随する権利は、鎌倉とさがみの国の二つの自治区でのみ認められている。少なくともこの自治区内では、ある程度の制限はあるがほぼ人間と同等の義務を負い権利を行使できるのである。




「ドモドモ、鈴木建設っス。遅れて申し訳ありません」
 辺鄙な田舎の平屋の大きな一軒家。としか言い様のない、さがみの国特別自治区の自治区役所、その土間の一角を年季の入り過ぎた屏風で区切っただけの会議室にそんな声が広がる。
 予定時間にはまだ余裕があるのだが、入ってきた男は何食わぬ顔でそう言って、空いている席に座った。少し空気が魚臭くなるのも気にしないようである。
「これで全て揃いました」
「じゃあ、少し早いけれど始めましょうか。みなさん準備はよろしいですか?」
 初瀬野の問いかけに特に異議を唱える者も無かったので、彼女は説明を始めた。

 改訂国籍法制定及び関連法の施行の影響を受けたのだろう、来栖川エレクトロニクスが研究施設建設の打診に来たのがそもそもの始まりだった。
 せっかくこんな辺鄙な田舎に来るのだから邪険にするつもりもない。
 そう言う方向性ではあるが、いつものように自治区にはお金がない。鎌倉の魔物の頭領からもらったお金は、資金運用しつつ、職員の給料に消える事が既に決定している。
 電気やガスはかろうじてある物の、生活インフラの乏しいさがみの国特別自治区である。誘致するにも受け皿と、その土台が脆弱なので、一通り作ってしまう必要があった。
 都市計画そのものが無いわけではないが、全区域が景観・自然保護地域で、自治区の北部を開発対象とし、中部と南部は農耕地とする。
 という方向になっているだけで、詳細についてはまだ決めていなかったのである…
 今回大手から中堅までの建設業に声をかけて、色好い返事を聞かせてくれた数社に対し、工業地区を制定して、このインフラ整備を主体とした開発を行う。というプランになっている。
 今説明がされているのは次のとおりである。
 開発地域別に葉山側の開発地域案と横須賀側の開発地域案の二つがあり、最終的にはどちらかに統一されて開発が行われる。
 補足としては、自治区の中央にある大楠山周辺と、自治区の北部にある双子山周辺が、鎌倉から移住を希望した魔物達が住んでいる地区であり、この周辺は開発予定案の対象地域からは外されている。
「現時点で決まっているのはこれだけです」
 30分ほどの説明が締めくくられる。
「アララ、ほとんど何も決まってないんじゃん」
「開発なんて、この地区ではするのも聞くのも初めてですから」
 隣に聞こえる程度につぶやいた声に、今まで説明をしていたココネが答えると、その魚臭い建設業者の社員はばつが悪そうに頭をかく。
「そんな訳で、こちらの方も分かっている事が少ないから、いろいろ説明してくれると助かるわ」
 特に悲観する訳でもなく、初瀬野は建設業者達に返した。


 揺り戻し、そう呼ばれている現象がある。時空融合から後で、規模を問わず思い出したかのように建物や人、物等が現れる現象である。
 元年七月、川崎沖の宇宙開発公団の所有する埋め立て地の復興が始まった頃に、珍しい相手GGGから連絡が入った。
 揺り戻し発生の兆候があり、かなり高い確率で発生する。
 そんな内容を、とりあえず用意してある無線機で受け、警察と自衛隊の協力を得て、該当地区の避難が完了したその翌日の朝に、揺り戻しは起こった。
 揺り戻し現象の終了をGGGから受け、あらかじめ指示通りに役所の周辺を見渡す。
「どう? 何か見える!?」
 屋根に登って双眼鏡を構える職員に初瀬野は尋ねる。
「アルファさんの家の方に変な物が見えます」
「変な物?」
 オウム返しに呟いて、初瀬野も梯子を登り、双眼鏡を受け取ってその方向を覗き込む。
「確かに変な物だわ、多分レーダーか何かでしょう」
 東京の方で何度か似たような物を見ていた彼女は、それだけを確認して双眼鏡を返す。
「他に何も見えなければ降りてきて、何か見えたらまとめて報告をお願い」
 そう指示して初瀬野は梯子を下りた。

 その日、揺り戻しで新たに融合したのは、時空融合に遭遇した殆どの世界で三浦半島に存在する自衛隊各種施設がインフラ毎と、それに通ずる一般道、国鉄時代の横須賀線の途切れていた路線及び関係するインフラ全てだった。
 とりわけ御幸浜と久美浜は、海没した地域が陸地に変わった程の変わりようで、突如出現した光景にあきれ果てる有様だった。
 さらに久里浜駅周辺は、早急に護岸工事をしなければ再び海没の危険にさらされる所であったが、既に横須賀線を買い取っていた日本中川鉄道の迅速な対応で事なきを得た。さがみの国特別自治区でレイバーを見かけたのもこれが始めての事であった。
 融合での被害は、きた周辺、分かり易く言えば久美浜周辺の廃屋と納屋の消滅、及び西瓜畑が20%ほど消滅、人的被害は無い。
「世の中って、本当にうまく行かないわね」
 無線機を見つめながら、初瀬野はため息混じりに呟いて、たばこに火を付ける。
 みなみと呼ばれるこの地区には電気も水道もガスもない。無線機はバッテリー式の物である。
「応援を呼ばないとだめね…」
 住民税をとれば何とかなるかしら。と、そう考えるよりも早く、出現した人々の住民登録に人手や機器がいるとの結論に達し、灰皿に半分ほど吸ったたばこを押し消した。

 一週間ほどして、職員の募集と共に、近隣の自治体から応援という形で、経験豊富な人員を割いてもらい、近代的な役所としての指導を受ける事になった。
 同時に新たに役所としての建物が必要になり、利便性を考慮して人口密度の高い地域、久美浜駅の近くに用意されることになった。
 耐震構造を第一にとった無骨な平屋の建物が計画されているが、計画から一ヶ月後にはその計画予定地の、さらに駐車場予定地にもうけられた、簡素な平屋のプレハブに自治区役所は移った。なお、今までの役所は出張所として扱われる。


 駅の横にもうけられたコンビニが一つ、夜の闇に明かりを捨て、これでもかとばかりに大量の虫を集めている。
 そんな光景を見下ろすことが出来る、簡素なプレハブの役所もまた夜の闇に明かりを捨て、やはりこれでもかとばかりにに虫を集めている。
 中から「おのれ緑虫め」などという恨み声や、人の倒れる音などが聞こえるが、これは先日の揺り返しによって出現した、各種自衛隊施設の関係者の登録作業に忙殺されるが故の修羅場、というか地獄行進曲真っ直中の断末魔である。
 因みに緑虫とは陸上自衛隊の蔑称である。
 辺境のサービス業的な公務員規定が定まっていた自治区では、朝九時から午後五時まで窓口業務を開けっ放しで行い、さらに給料が自治区持ちという事を良いことに、その日の仕事は翌日に持ち越さないをモットーに残業制になっている。
 元々は人のいない自治区の、のんびりした人も少ない役所だったので、職員も許容していたのだが…
 揺り戻し後も頭の固い上司の命によって、そのモットーを貫き通され、そのしわ寄せによって現在二週間目の地獄行進曲真っ最中…
 防衛大学校を初めとした自衛隊関係の多数の施設、およびそれらの施設本体と関係者数の数は、それまでさがみの国特別自治区に住んでいた人口の十倍を優に越える。
 この為、既存の住民と鎌倉からの移住組で保たれていた人口バランスは一瞬で崩れ去り、さがみの国特別自治区では完全に役所の処理能力を超える問題であった。
 一つの案として、人口が特に集中し特別自治区の境界に接する久美浜周辺を、特別自治区から放棄する考えすら、真剣に検討されたくらいだ。
 だがその話が真剣に検討され始めた頃に、主に自衛隊でのHMシリーズの評価が上がった。他の地区と比べて格段に、それこそ人権を平然と認めるくらいにロ ボットの自由度が高い、そんな特別自治区独特の法の都合により、主にHM等の人サイズの人型ロボットのメーカー等から、他にも自衛隊などからの正式ではな い物の要請と取れる物もあり、その案は放棄された。
 だがそんな事は職員にはあまり関係なく、その日も職員全員遅くまで残業する事になる。
 ただこの件で一つ得る点があったとすれば、この忙しさの中で職員が機器の使用方法をマスターしたという点だろう。
 なお、この融合で久美浜周辺のインフラが現れた事により、久美浜方面で纏まりかけていた工場等誘致の計画は、変更を余儀なくされた。
「まぁ、これで少しは工事費も安く済むかもしれませんよ」
とは、この時期初瀬野の秘書をしているココネの言葉だ。


 他にはこの時期、鎌倉から廻ってきた話で、GSによる一般住民への殺人未遂という案件がある。
 鎌倉在住の土木会社社長の種族が鬼であったのが災いして、付近を通りがかった東京在住のGSの主観では退治しかけた、といもうのだ。
 結局、執行猶予の付いた判決ではあったが。結論が出るまで関係者の間で悶着があったのは言うまでもない。
 この話が回ってきた頃には、既にGS等の各協会へ向けて鎌倉より話が通っていたので、さがみの国では住民に対して、一連の情報公開を行う程度に止まった。



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Ende