オカ研、部室。
学園祭も近づいたある日の昼休み、先輩である神海からの招集で希亜はオカ研に来ていた。
学園祭の出し物について実験する。そう聞いてはいるが、具体的にどう言った事を行うのか、そこまでは知らされていなかった。
「早く済ませて、お昼ご飯に行きたいんですけど。どうかなぁ」
そうぼんやりと呟いて、呼び出した神海がいないか辺りを見渡すが、ここから見える部室内には見あたらない。
先ほど一度本棚の方を覗いたが、神海の姿は見受けられなかった。
お昼ご飯をまだ食べていないため、時間を気にしながら待っていると、いくつかある小部屋の一つから神海が出てくるのが見えた。
「こっちですよ、希亜君」
すぐに彼は希亜に気づき、そう言って手招きをする。そこでふと神海の笑顔に、希亜は嫌な予感を感じた。
よく見ると、周りの部員たちの視線に乗る色も、どこかおかしい。
さらに注意してみると、幽霊部員達も希亜の様子をうかがっている。
感じるのは、生け贄を見る色、獲物を見る色。
希亜自身があまり思い出したくない、ここ試立リーフ学園に来る遠因となった、過去のいじめられた記憶が、けたたましく警告を告げた。
無意識のうちに、ふわりとほぼ一歩の距離を下がる。
「ダメだよ、逃げたりしたら」
その声と同時に後ろから希亜を羽交い締めにする東西。よく視たら幽霊部員まで希亜にまとわり憑いている。
「って、幽霊部員までグルかぁ~~~~~~~~~~…………」
そんな叫び声が途絶えて数分後。
希亜は儀式用の部屋の中で、椅子に縛り付けられていた。ご丁寧に目隠しや猿轡、そして覆面まで被せられている。
(これは、面倒な事にならなければいいのですが~)
取りあえず辺りの様子を調べようと、精神を集中し魔法を発動させる。
(あれ?)
普段ならこのまま魔力を圧縮して行くのだが、なぜか魔力が思うように流動しない…
魔力を集中、圧縮して行くのは、彼がもっとも安定して魔法を使うための手段だ。空を飛ぶこと、またそれに関連する項目に特化した魔力の持ち主のためなの
か。それ以外の魔法を扱うのには、膨大な魔力を使用する事が必要だった。
その膨大な魔力を圧縮し爆縮させ、効果へと至らせるのが彼の普通の魔法の使い方である。ちなみにその場合の魔力対効果は、他の魔法使いなどに比べる必要
も無いくらい低いと断言できる。
(これは、封じられた?)
「あー、悪いけど魔法は封じさせてもらいましたよ」
そんな神海の、落ち着いた声が耳に入ってくる。
確かに希亜はお人好しかもしれないが。何の説明も無いのに、抵抗もしないまま身を任せる程までにはお人好しでもないし、達観もしていない。
(retry. Over limit sequence start. wake up RVR-75.)
自身にそう宣言し、強引に魔力を流動、圧縮してゆく。
魔力封じを施されているにも関わらず、ゆっくりとは言え魔力を制御できるのは、師であるグエンディーナの姉妹から指導を受けた成果であった。
「あまり抵抗しなくても、危ない事なんて無いから大丈夫だよ」
そんな東西の言葉に耳を貸さず、魔力の圧縮を続ける。
だが唐突に、それまでの物より更に強制的に、同時に複合的に魔力の圧縮が止められるのを感じた。
(複合多段階の魔力制御!? と言うことは、この行動は予測されてた訳ですかぁ…)
これ以上はどうしようもなくなった希亜は、仕方なく魔力を霧散させる。
「ようやくおとなしくなりましたか… あ、芹香先輩、準備が出来ました!」
(何とか、なるかなぁ…)
「術者は芹香さんだし、比較的簡単な物だから、安心して身を任せるといいよ」
(何とかなると、いいなぁ……)
そんな希亜の不安など関係なく、芹香が魔法陣の前で術式を始める。
儀式魔術と言われるこの手法は、古来より在る魔法で、その系統樹の中で根っこに近い種類に分類される。
一番の根っこは諸説あるので触れないが、儀式魔術というのは「魔術」と言うワードで最も想像しやすい物だと言えよう。
部屋の真ん中に描かれた魔法陣の中央で、椅子に縛り付けられ覆面までかぶせられた希亜。
暗幕により光が遮断された部屋は、魔法陣の上と周りに規則的に置かれた蝋燭によってのみ照らされ、ゆらゆらと揺らめく炎が部屋を幽玄の時へと誘ってい
た。
その傍らで本を片手に、芹香は言葉を紡ぐ。
呪文と呼ばれるそれは、世界の中心、そう呼ばれるものに必要な効果を得るために干渉する手段の一つである。儀式魔術は厳格な手順と、厳密な呪文の詠唱に
よって、それらを成し得る事を中心とした物だと言えるだろう。
蕩々と続く呪文の流れに引き寄せられるかのように、蛍のような光の粒が魔法陣の中を一つまた一つと現れ、ゆらゆらと希亜の周りを回り出す。
その小さな光の粒達はだんだん増え、いつしか部屋はその光によって照らされ、ついには希亜を包み込んでいた。
そして、芹香が呪文の詠唱を終えた直後、その終わりに呼応するように光は消え、希亜を完全に包み込んだまま闇の固まりへと変質した。
ただ蝋燭の炎だけがゆらゆらと時を刻む。そんな静寂の空間に戻った室内で、立ち会った全員が事の推移を見守る。
時を刻む音もない部屋で、ゆらゆらと揺れる蝋燭の仄かな幽玄の明かり。
再び唱え出した芹香の呪文だけが、ゆらゆらと揺れる炎のように時を刻む。
部屋の真ん中で希亜を完全に包み込んでいる闇は、ゆらゆらと揺れる仄かな明かりすら飲み込み、その様は見る者に芹香の呪文すら飲み込む様相を思わせた。
それは二度目の呪文の詠唱が終わった直後だった。卵に亀裂が入るような音と共に、中からあふれ出る真夏の陽光のような光が闇を切り裂く。
次の瞬間、ガラスを叩き割ったような音と共に、全てを真夏の陽光に染めるような、目を眩ませるばかりの光を部屋にばらまいた。
魔力の自身への干渉が終わったのを希亜は感じた。術式が終わった、少なくとも希亜はそう思った。
自身以外の魔法に自分が干渉されるのは、あまり好きではない。だがなんとなく懐かしい気がして、結局魔力の干渉に全てを任せていた。
(ん~、変わったところがあるとは思えないけど。成功したのかな?)
とは言え、希亜は椅子に縛り付けられ、目隠し猿轡に覆面、さらに魔力を強力に封じられている。その為くぐもった音以外には、辺りの様子など分かるはずは
なかった。
「みんな、終わったニャー。取りあえず成功ニャー」
エーデルハイドの声に、辺りで術式が終るのを待っていた部員達がようやく動き出す。とは言え、未だ目が眩んでいる者が大半ではあるが。
「すごい光でしたね」
サングラス片手にした神海が、暗幕を開き外からの光を取り入れる。部員達からその眩しさに悲鳴が上がるが、そんな事はお構いなしである。
椅子に縛り付けられた希亜の背中には、二対四枚の折り畳まれた小さな翼が、淡い空色の光を帯びてふよふよと浮いていた。
東西が近づいてその翼に手を伸ばすが、その手はそれに触れる事は叶わずにすり抜ける。
「実体がない。 …それにしても、ここまで分かり易いとなかなか楽しいかな?」
「そうは言っても、この力の映像化は出し物としては使えませんね」
「どうしてですか? 神海先輩」
「例えばオカ研部員の、魔法使いや魔術師にこれを使ったとしても、あまり客が寄せられるほどのインパクトにはならないと思いますよ」
「あ……」
言葉の本意に気付いた東西に頷いて、神海は言葉を続ける。
「そういう事です。ここまで分かり易い力の持ち主が、他にあまりいませんからね」
なるほど、とでも言うように芹香も神海の言葉に頷く。
確かに人型に翼があれば、それは空を飛ぶのだろうと子供でも容易に思い浮かべるだろう。
そこまで考えて、東西は一つの疑問をぶつけることにした。
「……分かっているなら、どうして実験を?」
「それはもちろん、見たかったからですよ」
「え!?」
「好奇心です。言ってみれば、術の結果が詳しく知りたかったからですよ」
東西は神海の言葉を聞いて、ある意味は納得するのだが、
「分かっているなら、先に言って欲しかったですよ先輩」
そう言ってワカメ涙を流すのだった。
「…え? 取りあえずあの子の縄を解きましょう?」
コクコク。
「そうでした、忘れるとこだった」
覆面が取り払われ、先程よりはクリアーになった聴覚が周囲の様子を脳髄に運ぶ。術を続けるには騒がしいことから、既に全てが終わったのだろうと希亜は一
安心した。
そう思っている間に猿轡や目隠し、魔力封じの枷等々と、順に外されて行く。
(両腕、全翼、両脚、動作と感覚は正常… 別に変わったところなんて無いですね。さっき力の映像化って言ってたけど何だったんでしょう)
色々と関節を曲げたりして、自身の様子を動作確認した希亜は、椅子に縛り付けていたザイルがほどけると、ふわりと立ち上がり服装を正す。
そこには、学園指定のブレザータイプの制服をきちんと着こなした、淡く空色の光を広げる、四枚の幻影の翼を持つ少年の姿があった。
「特に危害を加える魔術じゃなかったでしょう?」
「そでしたねぇ」
神海にのほほんと答えながら、希亜はふと時計を見る。そろそろお昼を取らなければ、次の授業に差し支える時刻になっていた。
「では、これで。私はお昼まだですので」
言いながら浮き上がると、希亜の背中の、外側一対の翼がゆったりと伸びる。あまりにも自然なその様子に一同が目を奪われている間に、彼はすり抜けるよう
に窓から外へと出て行った。
「ああっ! 解除せずに行ったよ…」
東西が飛び出した希亜を追いかける様に窓から外を見上げる。
その東西の背中に向かって神海は言う。
「まぁ、実害はないだろうから大丈夫ですよ」
何せこの学園では少々奇抜な格好をしていても、珍しい事ではないからだ。
学園内、部活棟廊下。
ふよふよと、ちょうど歩く程度の速度で希亜は漫研へと進んでいる。
背中の翼は羽ばたくでもなく、その外側の一対二枚が、まるでそよ風になびくかのように自然に伸ばされている。時折廊下の壁や柱を透過してしているのを見
る分には、やはり翼は実態を伴っていないのだろう。
反対に小さく折り畳まれた内側の一対の翼は、伸ばされた翼の内側で、僅かに見え隠れしている。
そして希亜は漫研の戸を開く。
「戻りましたぁ~」
いつものようにのほほんとそう言って、希亜は漫研の部室に入った。
「あーーー……、オカ研で実験台にされたんスね」
入ってきた希亜を一目見るなり、哀れむような、どこか悟ったような表情で、しみじみと言う軍畑。
軍畑の言葉を不思議に思ったが、希亜はそのまま自分の机の前に降り立ち、置いてあった鞄の中から細長いパン屋の袋を取り出す。すると先ほどまで自然に伸
ばされていた翼が折りたたまれ小さくなってゆく。
「なんや? 背中の羽どないしたん?」
「かわいい羽ですのー」
新しい玩具でも見つけたような由宇と、希亜の背中の羽にそう感想を述べるすばる。
(……どうして『背中の羽どないしたん?』なんだろぅ。それに軍畑さんの言葉、背中の翼が珍しいわけでもないでしょうに……)
そう内心呟きつつ、それぞれの言葉に強い違和感を感じた希亜だが、取りあえず自分の席に着く。
足下に自分の鞄を起き、机の上のバスケットの中で眠っている、使い魔の様子をのぞき込む。
そうして、ふと視線をあげた。
「…なんか、変ですかぁ?」
そう言った希亜の背中を見る一同。そこにある翼は折り畳まれ小さくなって、希亜の背中で静かに浮かんでいるように見えた。
「結局オカ研で何があったんスか?」
「なんでも、力の映像化らしいですよ」
「あー、だから弥雨那ちゃんの背中に翼があるんスね」
「え?…」
「だから、弥雨那ちゃんの背中の羽ッスよ」
「この翼は…」
元からあった物と言おうとして、記憶をたどった。同時に希亜の背中、内側の一対の翼が広がる。
違和感を全く感じなかった背中の羽は、希亜が思い起こせる全ての記憶、そして希亜が触れられる全ての事象で該当するものはなかった。
オカ研。
「え? 暗示もかけていたのですか?」
コクコク。
「今頃、気付いているんじゃないかな」
芹香の言葉を反芻した神海に、ペットボトルの紅茶を片手にした、東西が言った。
「え? かもしれません? 元々は自分の様子に違和感を感じないようにするための暗示だったのです?」
反芻する神海に、芹香は頷いて答える。
「だったら、暗示は無い方が良いと思いますよ。だって、それまでの自分と、能力を映像化した自分の差が、楽しめないと思いますから」
神海の言葉にしゅんとなる芹香。
「それにしても、翼が四枚って、空を飛ぶ能力だけでああなる物なのか?」
「…他にも力があるのでしょう?」
芹香の言葉を反芻した東西が、指を折って知っている限りの希亜の能力を適当に挙げて行く。そして似通った力を纏めると…
「グエンディーナで系統だった魔法を使う事、こっちで系統だった魔術。そう分けると、良く目に付く空を飛ぶ事はどちらだろうか」
「それでは3つですね」
「これ以上纏めるとなると。上位の事項を持ってきて、魔法使いで一つになる」
「ただ単に、その力が4枚の翼として現れたとも考えられますよ」
神海がそう仮定を述べた所で、芹香がすっと手を挙げ意見を述べる。
「…それだと、飛び出した時に、小さくなったままの翼の意味が分からなくなります? なにより力の映像化ですから、系統で分ける物ではないと思います?」
コクコク。
芹香の言葉を反芻しながら、神海はもう一度希亜の力について考え直してみる。
「見た目で考えるなら。浮かび上がるときに大きくなった方の一対は、飛ぶ事に関係しているんだろう」
「そうすると、もう一対の翼は?」
鋭く指摘する神海。
「気になるなー」
希亜が飛び出してゆく瞬間を思い出しながら、東西はそう呟いた。
「え? …明日までには効果が解けますから、それまでに分からないと永遠に謎です?」
コクコク。
「楽しそうですね、芹香先輩」
「え? 今日は良いことがありそうです?」
「そう言えば、今日の六時限目は芹香さんも休講でしたね」
「はい? 久しぶりに大成功しましたから?」
コクコク。
「「大成功?」」
芹香の言葉をもう一度反芻した神海と、驚いてハモってしまった東西。
二人はお互いに顔を見合わせながら、思わぬ事が希亜に起こらないかと、想像せずにはいられなかった。
漫研。
「今日は、備品の買い出しは良さそうですねぇ」
取りあえず、いつものように備品の在庫を確認した希亜は、そう言ってハーフサイズのバゲットをかじる。
ちなみにこれが今日の希亜のお昼ご飯である。いつもなら綾芽と一緒にお昼を取るのだが、今日はオカ研の用事のために、漫研で遅い昼食を取っているところ
だ。
薬缶のお湯が沸くのを待ちながら、のんびりとバゲットをかじっていると、声がかけられた。
「背中の翼。スケッチしたいんですけど、よろしいですの?」
「あ、じゃあ少し待って下さいね」
そう言ってすばるの申し出を快く引き受けると、希亜はふわりと浮かび上がり、伸びをするようにゆっくりと二対の翼を広げた。
「優しい翼ですのね」
すばるの言うとおり、翼は包み込むような優しさを持って、空色の淡い光を広げていた。その姿には一片の力強さもなく、彼自身ののほほんとした様相が、そ
のまま翼に現れたようだった。
すばるに背を向けたままの希亜は、のほほんとお湯が沸くのを待ち。すばるはそんな希亜の翼を見ながらスケッチを進めて行く。
「そう言えば、トゥスクルの人たちにも羽を持った方がいましたの」
「へぇ~」
「今度、スケッチのモデルをお願いするのも良いかもしれませんの」
「ですねぇ」
希亜はモデルで、お昼ご飯のバゲットを食べながら。すばるは鉛筆を走らせながらに会話は続けられた。
五時限目直前、某講義室。
「遅いよ希亜。って、……あれ?」
隣の席に荷物をおいた希亜に気付いて振り向いた綾芽が、希亜の背中の羽に気付いた。
「なんですか?」
「背中の羽、どうしたの?」
「これが、オカ研での魔術の結果ですよぉ」
「ふーん、まるでトゥスクルの人みたいだね」
隣で授業の用意を鞄から取り出す希亜と、その背中の羽を交互に見た綾芽は、希亜が特に変わった様子を見せないのを安心して、視線を戻した。
「すばるさんもそんな事言ってましたね」
「すばるさんって?」
「漫研の部員ですよ、さっきのその人からって… そんな怖い顔しなくても~」
希亜の言葉に鋭く反応した綾芽に、希亜が説明をする。だが綾芽の視線は希亜に突き刺さっていた。
「希亜君って、女の子の知り合い多いよねー」
ジト目でそう言う綾芽。
とは言え本気で希亜を睨んでいるわけではない。綾芽とすばるとでは、格闘部に顔を出す相手同士で面識はある。ただ本人が意図するよりも、希亜に向けられ
た綾芽の視線は鋭かっただけのことである。
「ううっ、機嫌なおして下さいよぉ」
「じゃあ放課後に、商店街の笙青堂で手をうってあげる」
そう言いながら綾芽は商店街の甘所、笙青堂のメニューを脳裏に浮かべていた。
だが希亜は放課後にと言われ、今日がスフィーとリアンの姉妹に、魔法を習いに行く日である事を告げようと思った矢先、綾芽もそれに気付いたのか言葉を続
けた。
「あ、今日は行くんだよね? だったらこの土曜日にね」
「はい」
「おはぎとかもいいなぁ」
「円、あったかなぁ」
既に甘所のメニューが頭にある綾芽と、財布の中身を心配する希亜だった。
六時限目前、部室棟。
五時限目が終わり、二人は希亜の使い魔、クラムを迎えに漫研に寄ったところだった。
漫研から出てくる二人と一匹。使い魔である子猫のクラムは、希亜の肩にへばりつくように乗っている。
この後に授業がないこともあって、毎週の今日は綾芽は初等部での紙芝居に、希亜は師であるグエンディーナの姉妹に魔法を教わりにと、それぞれに放課後を
過ごすのが、いつものことになっていた。
「じゃあ、わたしは準備して、初等部に行っているから。希亜はしっかり勉学に励むんだよ」
Rising Arrowに跨った希亜に、綾芽はそう声をかけて手を振る。
「じゃあ、行って来ますね。また明日ぁ~」
「うん、また明日ー」
希亜も手を振り返し、この場から飛び立って行った。
綾芽は離れて行く希亜の背中に浮かぶ外側の一対の翼が、風を切るわけでもなく空に伸ばされているのを見ていた。
(翼で飛んでいる訳じゃあないんだよねぇ、希亜の場合は)
そんなことを考えながら、良く晴れて深く澄みわたった空の中へと、吸い込まれるように飛んで行く希亜の姿を、綾芽はしばらく見上げていた。
やがて小さく点としか認識できなくなった希亜に背を向け、
「さて、わたしも行こうかなー」
そう自分に言い聞かせる。
(さぁ、希亜もがんばっているんだから。私もはりきって行こー)
取りあえずオカ研に置かせてもらっている荷物を取りに、綾芽もこの場から歩き出すのだった。
学園の敷地から離れ、なだらかな丘に沿って広がる住宅地を越える。
希亜はいつもの箒であるRising Arrowに跨ったまま、商店街上空にさしかかっていた。
向かっている五月雨堂は、宮田健太郎が切り盛りする骨董品店である。
希亜がグエンディーナ系の魔法使いであることもあって、そこに居候しているグエンディーナ出身の姉妹を師と仰ぎ、今日も魔法を習いに向かっているところ
だった。
ふと、後ろへと視線を動かす。視界の端に淡く空色の光を放つ翼が見える。
それが自分本来の物だと認識した直後、漫研での翼に対するやりとりが思い出された。
(…… もしかして… 暗示かかってた?)
「む~~…」
そう唸って、翼のある自分の姿を考える。
翼がある姿を街の人たちに見せるのは、あまり良くないと判断した希亜は、Rising
Arrowの舳先を五月雨堂の裏側、つまり住居側の玄関前へと舳先を向ける。
(一応、視覚的にも意識的にも分からないようには、なっているんですが…)
頭の片隅に儀式魔術による翼があることを意識しているためか、いつもの様に隠蔽効果のあるフィールドを張っているにもかかわらず、心細さを感じていた。
翼が見られると色々面倒な事になりそうだなと思いつつも、頭の何処かで「みんな慣れている事だから」との言葉が聞こえる。
確かに学園近辺の住民は事実そう言った事に慣れている。だが希亜は無い事に超した事はないと思い、出来るだけ自身の魔法使いとしての側面が人目に付くの
を避けるのだった。
アーケードの上を通り過ぎ、幾つも民家の屋根の上をゆっくりと高度を下げながら進む。そうしてゆっくりと宮田家の玄関前へと降りようとした希亜の視界
に、部屋から庭へと続く戸が開いているのが見えた。
(これは。 …入ってしまった方が見つかる可能性が低くて良いかな)
言い訳するように内心でそう呟きながら、希亜は箒の舳先を開いている戸の方へと向け、滑るように室内へと入る。
中から戸とカーテンを閉め、外からは見えないようにして、ようやく希亜は靴を脱いで、Rising Arrowから降りようとした。
「誰ですか!?」
廊下から一切の妥協のない、凛としたリアンの声が希亜の耳に届く。
一人と一匹は思わず驚いた物の、それぞれに一度深呼吸して、希亜はその問いに答える。
「故あって、静かに上がらせていただきましたぁ」
「その声は希亜君?」
「ちょっとありまして、町中をこの姿で出歩く訳には行きませんので」
両手に金属バット、頭には鍋を被ったリアンがおっかなびっくり出てくる。
左手にRising Arrow、右手に脱ぎたての靴を持った希亜は、それらを持ったまま両手をあげ降伏のポーズを取りリアンを迎えた。
リアンは希亜のそんな行動よりも、背中に見え隠れする翼に気付いて口を開いた。
「えっと。それは翼ですよね、それも魔力による」
確信を持って放たれた言葉が希亜の脳裏に到達する。
希亜はそのリアンの言葉に対し、肯定と否定のそれぞれの思考を同時に並べていた。前者は来栖川芹香の魔術の結果による翼である事を再認した記憶からの判
断。後者は無意識に自分本来の物だと言う暗示からだった。
希亜は少しの間その両者を分析し、その差に整合性を付けるのに時間を要した。
リアンからは希亜本人は迷っていたように見えていたのだが、彼の背中の翼が一対、伸びゆくように広げられる様子に、見とれてしまった。
「これは~オカ研の実験の結果なんです。ちょっと暗示がありまして、自分本来の物だと勘違いしてしまうんですよぉ」
やや戸惑いながらではあったが、希亜はそう答えた。
淡く優しく、その空色の光を辺りに広げる希亜の翼に見とれていたリアンは、希亜の言葉を理解するのにやや時間を要した。
「少し調べても良いですか?」
リアンのその申し出と、彼女の瞳を彩る好奇心を感じ、希亜はすぐに「はい」と答えた。
じっと部屋の中程でRising
Arrowを左手に、靴を右手にしたまま、ブレザータイプの学園の制服を着こなし、背中に淡く空色の光を広げる翼を持ち、宙に浮く少年。
その希亜の周りをくるくると回るようにして、リアンは食い入るように注意深く施された魔術の様子を観察する。
「あまり強力な暗示ではないようですね」
「そですか」
「希亜君もすぐに気付いたくらいですから」
「それは、一度学園で気付かされましたし、それから何度も気付く羽目になりましたから」
「そうでしたか。だとしても、暗示は強力な物ではないですね。むしろこの四枚の翼の方がすごいです」
言いながらリアンは希亜の背中にある、折り畳まれ小さくなった二対の翼をじっと観察する。
「そんなに強力なんですか?」
「強力と言うよりは、精巧というべきでしょうか。希亜君の能力を見事に表現して、さらに体の一部として認識されています」
リアンの言葉を、今の自分の状態と照らし合わせながら聞いた希亜は、改めて術者である来栖川芹香の力量に感嘆する。
「なるほど。そう言われてみると。さすが、と言うべきでしょうね」
「術者はどなたですか?」
「オカ研の、来栖川芹香さんです」
「お名前は伺ったことありますが、面識はないですから…」
「だったら、会いに行きましょうか」
「え?」
「放課後すぐになら、オカ研にいると思いますから。それなら案内できますよぉ」
「良いんですか?」
「…リアンさん、それは私の台詞ですよぉ。私は今日もあなたに魔法を教わるために来たのですから~」
リアンの期待の交じった言葉に、希亜はため息混じりにそう言った。
その言葉にリアンが我に返る。
好奇心に駆られて、同時に希亜に乗せられるままに、弟子である希亜に対しての師事を疎かにするのかと、思わず自問する。この辺り、リアンの性格が現れて
いると言えようか。
「…そうですね」
迷いの乗った言葉がリアンの口から紡がれる。
「でも、たまには好奇心を満たすのも良いと思いますよ」
希亜の言葉にリアンは頷く、どうやら今日は好奇心に身を任せることにしたようだ。
「そうですね、ではそうしましょう。希亜君、案内して下さいね」
「はいな」
笑みを浮かべてそう言うリアンに、即答したところで希亜は気付いた。彼女がまだお鍋を被ったままだと言うことに…
(つまりはこのまま始めていたとしても、今日は気になって魔法の練習どころではなかった。と言う事ですかねぇ)
そう内心呟きつつも、自分がまだ靴を手にしていることには気付いていない希亜だった。
十数分後、オカ研。
「失礼しますぅ」
「お邪魔します」
一応は部員である希亜の、のほほんとした声に続いて、オカ研では見慣れない人物であるリアンが部室に入って来た。
二人に気付いた東西が希亜に声をかける。
「希亜君、その人は?」
「私の曾祖母と同じ世界の方です」
「初めまして、リアンと呼んでください」
そう言って彼女は丁寧にお辞儀をして答えた。その上品な仕草に、つられて東西も頭を下げる。
「それより来栖川芹香さん、まだおられますかぁ?」
「ああ、そっちの部屋に来栖川さんとこの娘と一緒にいるよ」
「綾芽さんも来ていたんですか。では失礼しますね」
希亜はそう言って、軽く会釈をすると、そそくさと指された小部屋の方へと歩き出した。
「では、私も失礼します」
リアンも慌てて希亜の後を追うのだった。
「リアンさん、来ていたんだね。挨拶でも思ったけど…」
本棚から出てきた神海が、小部屋に入って行くリアンの後ろ姿に気づいてそう言った。
「知っているんですか? 先輩」
「ああ。ほら五月雨堂か、結花さんの喫茶店の方で会いますから」
『主… 前に言っていたグエンディーナの方ではないんですか?』
声と共に、空間からはじけるように妖精が姿を現した。東西に憑いている、命(みのり)という精霊だ。命はそのまま彼の頭の上にちょこんと座り込む。
「どうしてそうなる?」
『雰囲気があの希亜という子に似ているんです。たしか、彼の曾祖母はグエンディーナの出身だったと思いますが』
「そう言えばそうだ。箒乗りって言うイメージが強くて、忘れてたよ」
『しっかりして下さい』
ため息混じりに紡がれる命の言葉に、東西は苦笑いを浮かべる。
精霊が姿を現しているが、仮にここがオカ研でなくとも、この学園では特に珍しいことではない。
その奥の小部屋。
「失礼しますぅ」
「お邪魔します」
間延びした声と共に部屋に入って来た希亜の後ろから、綾芽の見たことのない人物が入って来た。
背は小柄な希亜より少し背が高いくらいだろうか、年は高校の上級生くらいに見え、眼鏡をかけ落ち着いた雰囲気のある女性だった。
「希亜君、そちらの方は?」
そう問いかけた綾芽の隣で座っていた芹香は、その相手を見て席を立ち、リアンに正対する。
芹香に釣られるように、雰囲気のにまれ立ち上がった綾芽を確認して、希亜は芹香とリアンの間で紹介を始めた。
「私が魔法を教わっている姉妹の一人で、Rian=er=Atwaria=Crierさんです」
「リアンとお呼び下さい」
そう言ってリアンは芹香に、上品な仕草でお辞儀をする。
「こちらが、来栖川芹香さん。学園では有名な魔術師です」
「…………………………」
芹香も紹介されて、やはり上品な仕草でリアンにお辞儀をした。
ただ、希亜と綾芽には芹香が何を言ったのか聞き取れたが、リアンには芹香が何を言ったのか聞き取れなかったようで、リアンはとまどい視線を希亜の方へと
移していた。
「あ。芹香さんは、声が小さいので」
「そうですか」
希亜の言葉を聞いて納得したのか、リアンは綾芽へと向き直る。
「えっと、悠綾芽です。よろしくお願いします」
慌てて挨拶をする綾芽に、リアンはやはり丁寧に挨拶を返す。
「希亜君から聞いたとおりの方ですね」
「ええーっ! 希亜っ! わたしの事なんて言ったのよぉ」
「希亜君からは、可愛い人だと。あとここから先は伏せておきますね。いずれ本人から聞くことになるでしょうから」
リアンの口から「可愛い人」と言われ、綾芽は希亜を見たまま顔を紅くしていた。
対する希亜も顔を真っ赤にさせたまま「意地悪です、リアンさぁん」と、そう言うのが精一杯だった。
芹香がその様子に仄かな笑みを浮かべつつ、リアンに席に座るように促す。
その様子に気付いた希亜は、ふわりと三人に背を向け、
「お茶菓子でも用意しましょうかぁ」
そう言ってやや足早に部屋から出て行ってしまった。
「今日は何かなー」
「え? この前はカステラとダージリンでしたから、今日は和菓子だと思います?」
コクコク。
「希亜君は良く持って来るんですか?」
「はい。たまーに、とてもすごい物を、持ってくる時もありますけれど…」
リアンに答えながら、綾芽の視線がゆっくりと外れて行く。
「すごい物?」
「よく熟れたドリアンとか…」
「あの生ゴミのような匂いがする果物のことですか?」
「え? あの時はしばらく部室にいられなくなりました?」
コクコク。
「本当にあの時はすごかったよねー」
コクコク。
「美味しかったけど。 …本当にすごかった」
しみじみと語る綾芽と頷く芹香。その様子にリアンはただ苦笑いを浮かべるしかなかった。
それから数分後、希亜がバスケットを片手に戻ってきた。
「今日は京番茶と、割れ煎ですよぉ」
そう言ってバスケットから湯飲みや急須、ポットに茶がら入れ、木製の平皿に割れ煎、それらを次々と慣れた手つきでテーブルの上に広げて行く。
「…もしかして京都まで行って来た?」
綾芽のそんな疑問に、希亜は「前に、京都の産地で買っておいた物です」と、急須から番茶を注ぎながら答えた。
「そっか、さすがにさっきの時間じゃ、京都まで往復できないよね」
「さぁ~、やった事無いので何とも言えませんね~」
「なんだろう、希亜なら出来そうな気がする…」
「必要がなければトライしませんよぉ」
「でも、やってみないと分からないでしょう?」
「そですよ。ですから色々と調べてはいるんです」
そのまま綾芽と会話しながらにお茶を注ぐ希亜。
程なく各人にお茶を差し出し、そのまま希亜はテーブルに着こうとするが、空いている席がない。仕方なく綾芽の隣に自分の場所を確保した。
一口お茶を啜り、テーブルに湯飲みを戻す。
ふと気が付くいた。
テーブルの上を行き交うのは、各人がそれぞれに割れ煎を食べる音。
会話はおろか、声一つ漏れては来ない。
その割には三人とも、コミュニケーションがとれている様に見えた。
目の前の三人が、何らかの手段でコミュニケーションをとっているのは間違いないのだろうが、やはり声は聞こえなかった。
不思議には思ったが、そう言う効果の魔法を使っているのだろうと一人納得し、特に気にすることも出来ず静かに待つことにした。
古い映像記録を見ているような気分だ。そんな感想を持って、楽しそうにしている三人を、希亜はただぼんやりと眺めていた。
会話という音の代わりに、割れ煎を食べる音が時折三重奏で部屋に広がる。
(これはこれで貴重なものかなぁー)
希亜も一つ手に取り、口にする。
ばりばり、ぼりぼり…
堅い煎餅の歯ごたえが心地良い。
割れ煎とは、本来なら不良品として廃棄するはずの割れた煎餅。それを色々な種類の割れた煎餅を詰め合わせにする事よって商品化したものだ。
一袋で色々な煎餅を楽しめると言う点においては、ちょっとお得な感じのする割れ煎を選んだのは、少なくとも間違いではなかったなと思う希亜だった。
とは言え、手持ちぶさたになった希亜は、ぼんやりと記憶をたどり、思考の海に沈んで行く。
「ところで希亜君の背中。さっきより翼が大きくなってませんか?」
綾芽の隣、一歩下がった位置で控えるように立っている希亜。その背中の内側の羽が、伸びやかに広がっていくのに気付いたリアンがそう訪ねたが、希亜から
の反応は全くなかった。
「あの… 希亜君は、魔法の効果に含まれていないのではないですか?」
魔法の効果で増幅された芹香の言葉に、リアンは気まずそうに希亜の方を見る。
リアン自身が施したこの魔法は、声の小さな芹香との円滑なコミュニケーションのためにと行った物だ。それはテーブルに着いた者に限定して、円滑な会話が
可能になる物だった。無論テーブルに着いていない希亜には、この魔法の効果は及ばない。
三人の視線が希亜に注がれるが、当の本人はのほほんとした表情で、どこか遠くを見ながら煎餅を食べており、こちらの様子を気にもかけていないように見え
た。
「世話が焼けるんだから…」
そう言って、どこかうれしそうに綾芽は席を立つ。
それに気付いた希亜の視線は、自然に綾芽に向かった。
彼女はそのまま希亜の方へと向き直り、希亜に視線を合わせた。
「どうかしました?」
口に残っていた煎餅を飲み込み、そう問いかけた希亜。その表情は綾芽の目にも、いつものように、のほほんとしているように見えていた。
「どうして、言ってくれないの?」
「…何をです?」
キョトンとして希亜が答える。
「わたし達が話しているの、聞こえなかったんでしょう?」
「ああ、そですね」
「じゃあ、どうしてそう言ってくれなかったの!?」
希亜の顔があっけにとれるが、それは本気で気にしていなかった事の裏返しだった。
「…独りには慣れていますから、気にならなかったんですよぉ」
ややあってから、いつもののほほんとした答えが、あまりにも自然に帰ってきた。少なくとも希亜が本気で気にしていなかった事に、綾芽は不安になりつつ
も、自覚を促すように声をあげる。
「もー、少しは気にしなさい!」
「ごめん…」
綾芽の言葉にすっかり小さくなった希亜は、そう小さく返事をしてうつむいてしまった。
希亜にとってただ疎外されることは、全く気になることではない。
だが好意をよせ、本気で好きだと言える相手に、そう自身の欠点を指摘されれば、落ち込まない訳にはいかなかった。
希亜にとって、疎外されることを気にできないと言うのは、精神的欠陥であり。中学までに受けたいじめの数々がその欠陥を生み出していた。
綾芽はうつむいて落ち込んでしまった希亜の様子を見て思う。子供が親に怒られて俯いている、そんな感じも受けるが、そういうのとは少し違う気がしてい
た。
少なくとも、寂しさについて希亜が度を超して鈍感だと、綾芽は思っている。ただそれが希亜の精神的欠陥に関わりのある物だとまでは、この時点では気付く
事はなかった。
「えっと、そんなに怒っているわけじゃないから。でも、これからは気をつけて欲しいな」
「…分かりました」
「よろしい」
戸惑いつつも、素直に返事を返す希亜に、綾芽は笑顔で返した。
希亜の表情も戻り、二人の会話に一段落着いたのを見て、リアンが席を立ち話しかける。
「それで希亜君、その背中の翼の事なんですけど」
「はい」
「ちょっと確かめたいことがあるので、浮き上がってもらえませんか?」
「分かりました」
言うが早いか、希亜はふわりと宙に浮き上がる。同時に背中の翼のうち外側の一対が伸びるように広がった。
「そのまま。そうですね、昨日の晩御飯の事を思い出してみて下さい」
「昨日の晩御飯ですかぁ」
そう言いながら希亜は記憶をたどる。昨日の夕食は寮の食堂ではなく、実家で食べた。その夕飯のことを思い出す。
リアンも芹香も綾芽も、希亜の背中にある内側の一対の翼が、ゆっくりと伸ばされ始めるのを見逃さなかった。
「少し大きくなりましたね。では次にその様子をインスタントヴィジョンで、見せて下さい」
リアンはあまり驚くでもなく、そう希亜に言った。
希亜も特に疑問は感じなかったのか、そのままインスタントヴィジョンに移る。
(image aprooching…)
一度記憶を思い出し直し、イメージを固定する。
背中の翼は、羽根の先まで伸びきり。空色の淡い光を、優しく周囲に広げていた。
「data engage… release!」
そして、魔力が凝縮を開始する。背中の四枚の翼が一瞬揺らめいたかと思うと、魔力が爆縮し、虚無へはじけた。
爆縮課程での、周囲の魔法使いに与える影響を極力小さくした様子に、リアンは満足そうに頷く。何度試しても、希亜の通常魔法の発動は魔力の爆縮が必要な
為、爆縮課程で周囲の魔力を引きずり込む力を極力弱めるように指導していたのだった。
希亜の視界に、満足げに頷く師の姿が映る。
その直後、急激に拡散を始めた意識に、希亜は絞るような声を残して気絶してしまった。
「ああっ! 希亜ぁ」
急いで駆け寄る綾芽を視界に納めながらリアンは席に着く。
ふわふわと無軌道に宙を漂い始める希亜を捕まえる綾芽の様子を微笑ましく思い。同時に希亜が魔力を集中爆縮させる前までの、内側の一対の翼の変化を思い
出していた。
インスタントヴィジョンは個人の記憶をもとに像を構成するので、記憶が古かったり、あまりよく覚えていないと、映像は劣化する。
以前、希亜に修練の為に行ってもらった時の事。記憶情報の劣化がない、ほぼ生の映像を何度か見たことがあった。しかもそれがいつ見た物なのか、希亜自身
は良く覚えていないと言う。
良く覚えていない記憶がインスタントビジョンによって表されるという事は、グエンディーナでも特に珍しいことではない。応用的な使用になるが、今朝見た
夢や、何となく想像した物を表すという事にも使われるからだ。ただ、そう言った物の場合は、ほとんどの場合不鮮明な像であったりするため、希亜のようにい
つ見た物なのかが定かでないにも関わらず、劣化のない鮮明な映像が現れるのは、希有な事であった。
「希亜君は、特殊な記憶を持っているようですね」
「それは?」
「いつ見たかも分からない記憶を、鮮明に思い出せるようです」
リアンと芹香が希亜の記憶について談義を始める。
一方の綾芽は、ふよふよと宙に漂っている希亜を引き寄せ、ゆっくりと床に横たえさせていた。
その希亜の胸の上に、彼の使い魔がとてとて登り、そのままそこで丸くなる。
「失敗するといきなり気絶するのは、何とかしないと危ないと思うんだけどなー」
彼の使い魔の子猫クラムに、綾芽はそう語りかける。
するとクラムは、その頭と視線を綾芽に向け答えるように「なー」と一鳴きした。
「やっぱりクラムちゃんもそう思うでしょ?」
「なー」
一人と一匹は、そんな会話のような言葉と鳴き声を交わし、お互いに希亜の顔を覗き込んだ。
ややあって、ゆっくりとその瞼が開かれる。
「あ、お早う」
「う~、お早うございますぅ」
「なーお」
「む~」
「失敗したね」
「ですね~」
クラムを抱きかかえながら、希亜はゆっくりと身を起こし、そのままふわりと立ち上がる。
「この翼って、トゥスクルから来ているカミュちゃんみたいだよねー」
伸ばされる外側の翼を見て、綾芽は思い出すように言った。
「そうなんですか?」
「うん、初等部の子達に聞いたんだけどね。カミュちゃんの翼もさわることは出来ないの」
「そですか、それは興味ありますね。えっと、トゥスクルの方々でしたっけ?」
「そうだよ、見た目は動物と人を足して人側に近い感じの人たち」
「そう言われて見れば、講義室とかでも見たことがあるような気がしますねぇ。あれはそう言う仮装ではなく本物でしたかぁ。 …とすると思ったよりゲートの
出入りは多いんですね~」
思い出す希亜の脳裏に、学園の裏山にあるゲートを囲む建物から出入りする彼らの姿が克明に浮かぶ。
「希亜によく似合った羽根だね」
綾芽がそんな感想を漏らす。彼女の視線の先、そう明るくはない部屋に淡い空色の光を広げながら、希亜の背中の羽が四枚とも開かれていた。
「多分、私の性格も反映したんだと思いますよ」
「そうなんだ、だからこんなにのんびりと広がるんだね」
「なー」
「クラム、そこまで言わなくても…」
視線の先の二人と一匹が話している様子を見て、リアンは視線を芹香へと移す。
「やっぱりそのようですね。内側の翼は記憶に関係するもの、外側の翼は飛ぶことに関係するものを、それぞれに表しているようです」
リアンが納得したように芹香に言った。
「あの淡い光と色は、あの子の力の色です。それに…」
そんな芹香の言葉は、魔法の効果の及ぶリアンだけに届く。そして芹香の言葉を一通り聞いた後、リアンは席を立ち、希亜にテーブルに着くための椅子を持っ
て来るように言った。
「リアンさんの魔法はね、テーブルに着いた人限定で、会話が出来るようにする物なの」
「なるほど」
綾芽の言葉に納得した希亜は、室内にもう椅子が無いのを見取り。
「すぐ戻りますね」
そう言って部屋から出て行った。
「あ… 羽根があるのにそのまま出て行っても、大丈夫かな?」
「大丈夫だと思いますよ」
コクコク。
「ならいいんだけど」
「そう言えば、綾芽さんはカミュさんとはお知り合いなんてすか?」
「えっと… 子供達の中にアルルゥって言う、トゥスクルから来ている子がいるんです、その子を通して」
「そうですか」
「アルルゥちゃんは、少し人見知りするけどいい子ですよ」
綾芽は視線を腕時計に落としで、再び顔を上げる。
「もう少ししたら、紙芝居をしに行くんですけど、ご一緒にどうですか?」
「良いんですか?」
「そのかわり、子供達の相手をしてもらう事になりますけど。いいですか?」
「はい、よろこんで」
屈託のないリアンの返事に、綾芽は笑顔で答えるのだった。
十数分後、学園内の一角。
初等部方面へと続く、落ち葉の降り積もった照葉樹の並木道を一行は歩いていた。
紙芝居の入った鞄を持った綾芽の隣を、子猫のクラムを右肩に乗せて歩く希亜。その後ろを隣り合って歩く芹香とリアン。
「こちらの方まで来るのは、初めてですね」
辺りを見渡しながらリアンが言った。
場所的には中等部の敷地の裏を通る感じで、初等部の裏側へと並木道は続いている。また反対方向に歩くと大学の敷地に至るらしい。
そのまま一行は裏側から初等部の校舎へと入る。途中綾芽が職員室に寄って鍵をもらい、初等部と幼稚園の間にもうけられている図書館へと向かう。
初等部の図書館は、幼稚園の図書館としても使われ、同時に初等部の授業で使うことも目的とされたもので、書庫もなくあまり大きくはない。とは言え学園の
衛星図書館の役割も持っている為に、こちらからも図書検索等が出来るようになっている。
その初等部図書館の一角に多目的ルームがあり、そこで綾芽は週に一回紙芝居を披露することになっている。「授業の都合が合わないと、なかなか出来ないん
です」と綾芽はこぼす。
初等部の時間割の構成と、高等部の時間割構成が違いすぎるために、六時限目以降が開いているような日でなければいけないとの事だ。
多目的ルームの鍵を開け中に入ると、綾芽はいそいそと準備を始める。
部屋の棚の中にある紙芝居の木枠を取り出し、慣れた手つきで組み立てる様に、希亜はぼんやりと見とれている。
その様子に気付いて、綾芽が希亜に言う。
「知ってる希亜? これ単位になるんだよ」
「ええ~!?」
突然かけられた声とその内容に、希亜は驚いて声を上げる。
「そう言えば以前いただいた学園の資料にありましたよ。高校と大学の方でそういった単位認定がありますね」
リアンが綾芽にそう答えた。
「大学にもあるんだ」
「そっちの方も知りませんでしたねぇ」
「次から申し込んでみたら?」
「そですね」
「ところで、私達は何をしたら良いでしょうか?」
コクコク。
「見ての通り足下が絨毯ですから、椅子もいらないし。初等部の授業が終わって、子供達が入って来てからですが、マナーを守れない子がいたら注意する位でお
願いします。紙芝居の手伝いは打ち合わせが必要ですから、希亜も一緒に見ていてね」
「分かりました」
程なく初等部のチャイムが鳴り、校舎内のあちこちが騒ぎ出す。
それから少しして、初等部の図書館の中にも、放課後の喧噪がこぼれ落ちて来た。
ふと芹香が腕時計に目を落とす、いつもならまだ六時限目のはずの時間だった。芹香自身はたまたま休講の為に、綾芽につきあって今ここにいる。
綾芽にしても紙芝居をしていること自体は聞いていたが、正式に単位として取ろうとしている事までは知らなかった。
(子供が好きな事は、以前から知っていました。けど、一種の代償行動としてのそれだと考えていた事は、改めないといけない時期に来ている。そう考えても良
いでしょうね)
そんな事を考えながら、芹香はとても優しい眼差しで、部屋に入ってきた子供達の相手をする綾芽を見つめていた。
程々に子供達が集まったところで、紙芝居が始まる。
綾芽が紙芝居をする様を、希亜はじっと見つめていた。
(題材は山陰地方の昔話。その時の題はもう思い出せないけど、絵本を見たことがありしたねぇ。
物語の意味は、まぁ。あまり高望みはせずに、程々がよいと言う話しだったかな~。
こんな一生懸命な姿、始めて見ますね。
…それにしても、綺麗だなぁ)
目を離すことなど欠片も存在せず、希亜はただじっと綾芽の姿を見つめていた。
リアンは綾芽が話す声と仕草と紙芝居の雰囲気を感じていた。
(紙芝居という物を始めて見ました。
表には物語の一シーンが書かれ、裏側に対応するシーンのお話が書かれている物を、読み手が表現力豊かに読んで行く。本を読んで聞かせると言うよりも、こ
ちらの世界で見たテレビのような感覚に近いみたいですね。
それにしても、綾芽さん。とても上手にお話を進めていて、私も思わず見入ってしまいます)
紙芝居の雰囲気に飲まれる事を楽しむ自分と、紙芝居という物を分析する自分を感じながら、リアンは綾芽が紙芝居をする様を見続けて行いた。
「めでたし、めでたし」
そんな決まり文句で、物語は終わりを告げた。
「どうだったかなー、今日のお話は」
「典型的な教訓を残す昔話ですね。形態的にはヨーロッパのおとぎ話にも、似たような話しがあったと思います」
鋭く、身も蓋もない意見に、綾芽がジト汗を浮かべる。
(あの子はそう言う子ですねぇ)
希亜は間にスフィーとティーナの二人を挟んで知っている、マールの言葉に苦笑する。
「そ、それはしょうがないよぉ~」
「面白かったよー、綾芽ねぇちゃんが」
「はうぅー。でもでも、ちゃんと最後まで聞いてくれてありがとうねー」
「おう」
「ところで綾芽ねーちゃん。そっちのお兄ちゃんは、今日は飛ばないの?」
「はい?」
指をされて生返事を返す希亜は、その指を指した男の子が、以前箒に乗せてあげた人物だと思い出した。
「ああ、今日は紙芝居の付き添いです。だから今日は無しですよ」
「えーっ」
不満の声があがる。
「ちょっと待っててねー、次のお話しを用意するから」
そう言って綾芽は次の紙芝居を用意し始めた。その間にも数人の児童が、この多目的ルームに入って来る。
「ヴォフゥゥゥーー」
突然、そんな大型の動物の、比較的低い鳴き声が部屋の外から聞こえた。
「ん~。学園内に、あんな鳴き声をするモノっていたかな」
そう言って様子を見に、希亜は歩いて出入り口の方へと向かった。
「なんでしょう?」
「来たんですよアルルゥちゃん」
不思議に思うリアンに、綾芽はそう言って微笑む。そのまま希亜の向かった出入り口の方へと目を向けるリアン。
「なんでしょうね」
当の希亜は、のほほんとしたままに戸を開いた。
「ヴォフ?」
希亜の目の前に、何かが視界いっぱいに広がっている。
焦点が合い脳髄が認識を始める。
(ホワイトタイガー non...
白虎 non...
check retry...
しろいねこで大きさが規格外 距離近接 危険度極めて大…)
と、そこまで思考したところで、ぷつりと糸が切れるように希亜は倒れ込んでしまった。
「ああぁーーっ、希亜! …ムックルの事、先に言った方が良かったかなぁ?」
驚いて、自分にごまかすように呟く綾芽。
その綾芽の視線の先。巨大な白い虎ムックルは、開かれた戸の前に倒れ込んでいる希亜に戸惑う。
「ムックル、早く入る!」
戸の向こうからそんな女の子の声が聞こえる、するとその巨体を震わせて、ムックルはやや戸惑ったものの、結局希亜を跨ぐようにして部屋の中へ入って来
た。
「危なくないんですか?」
「大丈夫ですよ。とても賢いし、飼い主もいますから」
「飼い主?」
「今入って来た、アルルゥちゃんです」
赤いランドセルを背負い、セーラータイプの制服を着た、犬のような耳を持った女の子が入って来ていた。
「いらっしゃーい」
綾芽の声に、入ってきたアルルゥは「ん」とはにかみながら答え、そのままムックルの側へ歩いて行く。
「あの子が?」
「はい、アルルゥちゃんです。じゃあ、ちょっと行って来ます」
綾芽はそう言って、気を失っている希亜の側へと歩み寄り、希亜の体を丁度お姫様だっこをするように抱きかかえた。
(いくら浮いているからって、本当に軽いよね希亜って…)
自分の体重と比べてどうなのか、という思考をキャンセルして、綾芽は部屋の隅へと希亜を運ぶ。
(それにしても…)
「あ~れ?」
不意に綾芽の腕の中で声が聞こえた。いつも聞き慣れた、のほほんとした声が。
同時に腕の中の希亜が、一気に重くなる。
「わっ!?わわわ~っ!」
落とすまいと思いっきり踏ん張った綾芽だが、気が付くと腕にかかっていた重さは消えていた。
「重かったでしょう~?」
のほほんとそう言って、希亜は空中でくるりと回り、床に降り立つ。その背中の翼はふわりと広がっていた。
「もう少し早く気が付いてよ、ビックリしたじゃない!」
「ごめん」
「あー、翼があるんだー」
「「はい?」」
部屋の入り口からかけられた声に、二人が驚いて振り向く。異常な事に耐性があるのか、初等部の誰もが言わなかった言葉が投げかけられたからだ。
「あ、いらっしゃい」
声の主を見て、綾芽はそう声をかける。
「あの子がカミュちゃんだよ、希亜」
「そうなんてすか? 見たところ普通ですけど」
アルルゥと同じくセーラータイプの制服を着ているカミュ。彼女の背中に羽は見えず、希亜の魔法使いとしての感覚にも、一目では別段不思議な点は見受けら
れなかった。
「綾芽ねーちゃん、早く次のお話やってよー」
そんな声を皮切りに、子供達から催促のコールが始まる。
「じゃあ、次のお話し始めるねー」
そう言って綾芽は紙芝居のセットしてある台へと戻り、希亜も部屋の隅へと歩いて行く。
ムックルは比較的部屋の後ろにその身を横たえ、それをソファー代わりにアルルゥとカミュが座り込んだ。
綾芽は一度辺りを見渡し「さぁ、始めるよー」と、元気良く声をかけると、子供達の視線が一気に集まった。
今度の話も昔話だった。
一生懸命に昔話を進める綾芽に、見とれる希亜。
子供達の様子と綾芽とを見つめる芹香。
お話しをゆっくりと噛み砕いて理解するリアン。
「…そうして、今もこの岩は人々を見守っているそうな」
そんなくくりで昔話しが終わった後、子供達から声はあがらなかった。
「典型的な日本のお話ですね 欧州では一神教に根付く物以外では、こういった話しの形式は少ないと思います」
ややあって、ようやくのマールの意見が綾芽の耳に届いた。
「うーん、今のお話は少し難しかったかなー」
「難しかったー」
数人からそんな声上がる。
「ごめんねー、今日はここまでなの。来週もまた来るから見に来てねー!」
子供達から不満の声もあがるが、綾芽が片づけを始めると、子供達はそれぞれのグループ事に部屋から出て行く。
「お疲れさま~。戻ってお茶にしましょうか」
「うん」
希亜の言葉に頷き、綾芽は大きな手提げ袋に紙芝居をしまい込む。
そんな綾芽にリアンが声をかける。
「結構時間がかかる物なのですね」
「あんまり早く読んじゃうと、誰も着いて来れなくなりますし。子供達に読み聞かせる物ですから」
「好きなんですね、子供が」
「はい」
自然とこぼれてくる綾芽の笑顔に、リアンはつられるように笑みを浮かべてしまう。
残っていた子供達を部屋の外に出し、部屋の片づけも手早く終え、多目的ルームに鍵をかける。
そこでふと綾芽は辺りを見回した。いつものように戸の横に置いたはずの、紙芝居の入った鞄に手を伸ばそうとして、そこに鞄がなかったからだ。
原因はすぐに分かった、希亜の手に握られているからだ。
「荷物、持つよ?」
「重くはないですよぉ」
「それはわたしが借りている物だから」
「分かりました」
答えながら紙芝居の入った鞄を渡す希亜は、じっと綾芽を見つめる。
「えっと… 何?」
「真剣な姿が、格好良かったですよぉ」
「あ、ありがと」
顔を紅くしながら答える綾芽は、すぐに背を向けて「鍵、早く返しに行かなくちゃね」と言って、やや足早に歩き出した。
「さあ、希亜君も行きましょう」
「あ~、はい」
生返事を返す希亜を置いて、リアンと芹香は歩き出す。
「まぁ、いいかなぁ」
先程のことを思い出し、のんびりとそう呟いて、希亜もこの場から歩き出した。
「先に校舎の外で待ってて下さい」
職員室が見えてくると、綾芽はそう言って職員室へと入っていった。
「じゃあ取りあえず外へ出ましょうか」
コクコク。
リアンの言葉に芹香は頷いて返し、二人は歩き出す。希亜もそれに従って歩き出した。
茜色を帯び始めた空が、ゆっくりと辺りを染めて行く。
校舎から出た三人は、誰からともなくその足を止め綾芽を待つった。
「良い季節になりましたねぇ」
夕焼けに移りゆく空を見上げて、希亜はしみじみとそう言った。
「希亜君は、なんの秋が思いつきますか?」
「そですね~、なんだと思います?」」
「芸術の秋、はちょっと違うでしょうし。食欲の秋、と言うわけでもなさそうですね」
「…………………」
「え? お月見の秋? ですか」
コクコク。
芹香の言葉を反芻した希亜は、夜の空の中で、独り静かに月を見上げながら、好みの酒を飲む姿を想像する。
「いいですねぇ」
「お月見でしたら、寮で月見会をするって結花さんから聞きましたよ」
「そうなんですか?」
「はい。まだ詳しくは聞いてないのですが、月見会をすること自体は決定だそうです」
「そですかぁ」
「その時は、ご一緒にどうですか芹香さん」
「………………………………」
「…喜んで出席させていただきます?」
コクコク。
「では、そう伝えておきますね。細かい事が決まりましたらまたお伝えします」
「……、…………………………」
「えっと、よろしくお願いします?」
コクコク。
そんな風に三人が月見会のことを話していると。唐突にガサガサと木々の揺れる音が聞こえた。
次いで「ヴォフ?」と、なぜか疑問系の獣のうなり声のような音が耳に入る。
振り返ると先程の巨大な白虎が、アルルゥを乗せてのっしのっしと歩いてきたところだった。
リアンがアルルゥに会釈をすると、ペコリとアルルゥもお辞儀で返す。
「これからお帰りですか?」
「ん、カミュちー待ってる」
「そうですか、私達も綾芽さんを待っているところなんです」
二人が校舎の入り口へと視線を移すと、丁度校舎から綾芽とカミュが一緒に出てくるのが見えた。
「お待たせー、丁度そこで一緒になったんだよ」
「えっと紹介はまだだったよね? こっちがカミュちゃんで、大きな白い虎に乗っているのがアルルゥちゃん。二人ともトゥスクルから来ているの。それからそ
の大きな白い虎がムックル」
カミュが元気良く、アルルゥがややはにかみながら、それぞれに挨拶を返し、最後にムックルが「ヴォフゥゥー」と控えめに鳴き声を上げる。
「それで、こっちの男の子が希亜君。その肩にいるのがクラムちゃん。こちらの方がリアンさん、希亜君の魔法の先生。こちらが来栖川芹香さん」
「初めまして」
「なー」
「こんにちは」
ペコリ。
と、綾芽の紹介に、こちらもそれぞれに挨拶を返した。
「確かゲートは高校の方だったよね?」
「ここからだと、そですね~」
「じゃあゲートまで一緒に行きましょうか」
リアンの言葉に、一同はゲートへと歩き始める。
その歩き始めた綾芽の側に、ムックルに乗ったアルルゥが寄ってくる。
「紙芝居のお姉ちゃん」
「なに? アルルゥちゃん」
「見てなかった方の紙芝居、して」
「うーん、どうしようかな…」
アルルゥの言葉に綾芽が戸惑う。
「時間はありますか? お家の人は心配しませんか?」
「大丈夫だと思うよ」
リアンのアルルゥに向けた問いかけに、反対側からあっけらかんと答えるカミュ。
「それに、ゲートの人に連絡してもらえば大丈夫!」
「ん」
二人の自信を持った言葉に、そう言う物なのかなと、疑問に思う綾芽。
だが綾芽も含めた希亜とリアンの三人は、アルルゥとカミュの具体的なトゥスクルでの素性に関しては、全く知らないのである。
とは言え、グエンディーナの姫がこの場にもいるのだが、本人はその事を棚に上げっぱなしであるらしい。
落ち葉と夕焼けの紅に色づく照葉樹の並木道の中を、一行は歩いて行く。
しばらくして、並木道から枝分かれしている道へと入る。分岐点にはご丁寧に日本語と英語とトゥスクルの言葉で行き先掲示板が立てられていた。
それぞれに学校の事や、世界の違いなどを話しながら、小高い丘の裾にあるゲート管理棟へと坂道を上って行く。
ふと希亜の背中の羽が、ゆっくりと空気にとけ込むように薄れ、最後にふっと淡い空色の光を放って消えた。
「え? 魔法の効果が無効化されます、気をつけて?」
芹香の声を反芻した綾芽の言葉を聞いて、希亜が振り返った。
「ゲートを中心とした球状の空間が、そう言った影響を受けますよぉ。もちろん魔法以外にも干渉することは確認済みです」
「どうしてそんな事知ってるの?」
「どこまでが危険なのか知っておかないと。うっかり上空をパスして墜落、なんてしゃれになりませんから~」
「そっか」
「そう言えば。ゲート管理棟は、ほとんど見たことは無かったですねぇ」
アスファルトで舗装された道の先、木々の間からようやく建物が見えてくる。
「なんか、ちょっと…… かなり昔の砦みたいですね」
周囲を板塀で囲った中に幾つかの建物がある。全体としては戦国時代の城を、それも天守閣など無い初期の砦とも言える城を模した建物だった。
「わたし達はどこまで入れるのかな?」
「あの建物の中に、待合室があるの。こっちの人たちはそこまでは入れるよ」
カミュが正面の大きな建物を指して言う。
「ちょっと、行って来る」
そう言ってアルルゥはムックルを走らせ、建物の中に入って行ってしまった。
「それにしても、思ったより出入りする人は多いよね」
先程からちらほらと、いろいろな身体的特徴を持つトゥスクルの人々が、ゲート管理棟へと入って行く。
その中にはカミュを見かけると、丁寧に一礼をして行く人もいた。
「えっと、カミュちゃんって偉い人なの?」
とても知り合いに挨拶するような仕草ではなかったのを見た綾芽が、不思議に思い問いかける。
「全然偉くないよ、偉いのは姉さまだし」
「でも、何人かはカミュちゃんを敬っているような感じに見えたよ」
「そうかなー …あ、出てきたよ!」
ごまかすように言ったカミュは、ゲート管理棟から出てきたムックルに乗るアルルゥへ向かって、足早に離れて行く。
「ちょっとー」
カミュを追いかけて綾芽が、その綾芽を追うように希亜もこの場から離れて行く。
その様子に芹香は、仄かに笑みを浮かべていた。そんな芹香の様子に気付いたリアンがそっと訪ねる。
「何か知っているんですか?」
芹香は微笑みでそれに答え、リアンに耳打ちする。それはアルルゥが首長の娘的な存在である事と、カミュが国教の大僧上の補佐役としてトゥスクルに来てい
るという事だった。
「それは、大変ですね」
二人はまるでいたずらっ子のような笑みを浮かべ合い、希亜と綾芽の様子を見ているのだった。
やはりリアンはグエンディーナの姫である事を、しっかりと棚の上の奥の隅に置いておくつもりらしい。
オカ研奥の小部屋。
「さぁ、始めるよぉー」
たった二人と一匹の観客を前に、アルルゥ達が見損なった物語を、綾芽はそう言いきって始めた。
途中で興味を持ったオカ研部員が何人か入ってきたが、綾芽は何一つ滞らせることなく紙芝居を続けて行く。
あまりにも自然に物語が流れる。
その様子に誰もが心を奪われて行く。
ただの昔話の紙芝居であるにも関わらずに。
そして物語が「めでたしめでたし」というお決まりの余韻を残して終わると、雨だれのように拍手が沸き起こった。
決して広くない小部屋の中に入った、十人に満たない人全ての拍手。
「あ、ありがとう」
綾芽は赤面しながら深々と頭を下げる。そうして頭を上げると頬に流れる物があった。
「は~い」
緊張感も何もない声で、紺と茶色のチェック柄のハンカチが渡される。
「うん …うれしくて涙なんて初めてだよー」
照れ笑いをうかべながらに受け取り、涙を拭う綾芽。少し恥ずかしいのか、ほんのりと顔を赤くしていた。
静かに伸ばされた芹香の手が、ぽんと綾芽の頭の上に手が乗り、優しく頭を撫でる。
「せ、芹香さん」
一瞬驚く綾芽だが、そのまま芹香に撫でられるに任せていた。
「本当に可愛い人ですね、希亜君」
「でしょう」
リアンの言葉に希亜は自慢げに答えた。
ふと気付いてポケットから大きな懐中時計を取り出し時間を確認すると、そのままアルルゥとカミュの方へふわりと向きを変えた。
「さあ、そろそろ帰りましょうか。こっちの下校時刻も近いですからぁ」
「もうそんな時間!?」
「まぁ、そろそろ外は暗くなりますからねぇ」
そう言って希亜は、ふわりと小部屋の窓を指さした。
綾芽は窓の向こうに見える暗い夜空に驚く。
「わぁっ! 真っ暗じゃない」
「そりゃあ、これ以上無いくらい集中してましたからねぇ~」
「ううっ、時間危なかったら言ってくれれば良かったのにー」
そう言いつつも綾芽はテキパキと紙芝居を片づけて行く。
「では、帰り支度をしましょう」
と、そんなリアンの声に同意して、一同が帰り支度を始めた矢先。
「こちらです」
そんな部員の声と共に、小部屋の入り口が開かれた。
「御免!」
凛とした声と共に、一目でトゥスクルの人だと分かる独特の服装と、人ではない耳を持った人物、トウカが入って来る。そのまま部屋の中にアルルゥとカ
ミュ、そして綾芽の姿を見つけると、安堵の表情を浮かべた。
「二人とも遅いので、お迎えにあがりました」
「ありがとう」
「なあに、これも務めでござるよ」
トウカがアルルゥと視線の高さを合わせて、笑みを持って返す。
「ごめんねトウカさん、わざわざこっちまで」
「綾芽殿がご一緒ならば、某も一安心でござる」
「お知り合いですか?」
「はい、トゥスクルのトウカさん。よくアルルゥちゃんが遅くなったら迎えに来るの」
「初めまして、リアンと申します。こちらの希亜君に魔法を教えています」
「リアンさんに魔法を教わっている、弥雨那希亜です。希亜と呼んで下さいね~」
「それで、こっちが来栖川芹香さん」
ペコリ。
リアンの唐突な挨拶に、一同はつられるようにして、それぞれに挨拶を交わす。
「ご丁寧に痛み入ります。某、エヴェンクルガの剣士、トウカと申します」
とても簡潔にそう挨拶を交わしたトウカは、希亜の方へと視線を走らせていた。
「貴殿が希亜殿でござるか」
「は~い」
「綾芽殿がとても良くは「わわわぁー!!」むぐ、んんんーー…」
慌ててトウカの口をふさいだ綾芽が、トウカの耳元で何かをささやく。トウカは綾芽から希亜へと視線を移し、再び綾芽へと視線を戻したところで、首を縦に
振った。
「もう、油断も隙もないんだから。ねぇ希亜」
ほっとしてそう言った綾芽が、希亜へと視線を向ける。
そこには困ったまま微笑みを浮かべ「そですねぇ」と、答える希亜の姿があった。
「では出ましょうか」
リアンがそう呼びかける。それぞれに荷物を持って出て行き、明かりが落とされ、小部屋に鍵がかけられた。
一行が部室棟から出ると、夜空にはいくつもの星々が瞬いていた。
「こっちの世界は星の数が少ないでござるな」
「そうなの?」
「拙者達の世界では、星明かりで夜道を歩くことも出来るでござるよ」
「ふーん。こっちでも空の高い所なら、いっぱい星が見えるんだけどね…」
「こっちの世界では、夜も明るいところが多いですから~、星が見えづらくなっているんですよぉ」
「そういえば、グエンディーナではそう言った事はないんですか? リアンさん」
「グエンディーナでも、ここほど夜は明るくありませんから」
一同が歩き始める。
その中で、綾芽の隣をふよふよとついて行く希亜。
その後ろのカミュが、希亜の背中にある翼に手を伸ばす。
「本当に触ることが出来ないんだね」
希亜の背中の、優しく伸ばされた外側の一対の羽に、自分の手を重ねながらに言った。
「その翼は、ちょっとした魔術の実験によって、私の力を表した物なので。本来は私、翼は無いんですよぉ」
「そうなんだ」
「全部伸ばしてみますね~」
そう言って希亜は、内側の翼も伸びゆくように広げた。
四枚の翼全てが、慈しむような優しさをもって、空色の淡い光を広げる。
羽ばたく事無く優しく伸ばされた翼は、カミュの目の前でゆらゆらと揺れている。
「なんだろう。…こんなにも優しいのに、こんなにも悲しいなんて」
しばらくその翼に見とれていたカミュは、唐突にそう呟いていた。
気になった希亜は振り返り、そのまま彼女の隣へと近寄る。綾芽もつられるようにして、希亜の隣で二人の会話に耳を傾けている。
「この翼ですか?」
「うん…」
「ある意味において、私は人々が見上げる空なんですよ。それは、色々な物を包み込む事は出来ても、決して受け入れる事はできませんから。だから悲しく見え
たんでしょう」
「そうなんだ」
「そう言えば、この事は綾芽さんにも話してなかったですね」
「うん。詳しく聞かせてくれるよね?」
「必ず、話しますよ」
そう希亜が言った直後、彼の背中の翼がゆっくりと薄れ始めた。
「だいぶ近づいてきましたねぇ」
そう言って希亜は飛ぶのをやめ、降りて歩き始める。その間にも希亜の背中の羽が次第に空気にとけ込むように薄くなり、仄かに明滅したのを最後に消えさっ
た。
「消えちゃった」
「ゲートに近づくと、いろんな力が無効化されますからねぇ」
希亜とカミュの隣で、綾芽はいつの間にかトウカと武術の話しを始めていた。
お互いの世界の武器と技の名称が飛び交っているあたり、かなり広範囲に話題が及んでいるようだ。
そして希亜がふと後ろを振り返ると、ムックルの上にアルルゥとリアンと芹香が乗っていた。
「ところで、希亜さんは綾芽さんのこと好きなの?」
「はい」
カミュの旺盛な好奇心から放たれた質問に、希亜は曇りのない笑顔で答えた。
同時に少し離れた綾芽の注意が、希亜とカミュに向けられる。
「…ふーん。じゃあ綾芽さんは希亜さんのこと好きなのかな?」
「それは、あなたも好きな人が出来れば、分かるようになりますよ」
のほほんとした答えに、カミュはやや離れた綾芽の横顔を見つめる。
「ねぇ…」
「なんでしょ」
「もし、その思いが届かなかったら?」
「…そですね」
寂しそうに短く答え、そのまま希亜は歩き続ける。
「変な質問しちゃったかな?」
「いいえ~。届かなかったというのは、思いの届け方が悪かったんでしょう。でも思いが届いていて、無視されるなりするよりは、良いかもしれないですね」
「じゃあ。振られたら、とか考えたこと無い?」
「無いと言えば嘘になりますねぇ。でも、それは思い自体は届いている訳ですから、相手の迷惑にならないよう身を引くべきなんでしょうね」
「怖くない?」
「怖くもありますよ、でもそれ以上にドキドキしてます。まったく、落ちるとはよく言った物ですねぇ」
「ふーん」
カミュはどことなく釈然としない様子だったが、街灯に照らされた希亜の顔を見て、少し離れて前を歩く綾芽の隣へと行ってしまった。
「あらあら」
行ってしまったカミュの後ろ姿にそう呟き、希亜は見えてきたゲート管理棟へと視線を向ける。
いつの間にか前を歩く三人は、真ん中に綾芽を挟んで質問責めにでもしているのだろうか…
一人で歩く希亜を後ろから眺めている。自分の教え子でもある彼は、綾芽に心底惚れ込んでいるという。
それを微笑ましく思いながら、一方で彼が言った言葉を反芻する。
綾芽と希亜の込み入った話になった時に、彼の口からこぼれた「いつまでも待ちます」という言葉を。
少なく見ても仲の良い姉弟、そんなふうに見える二人だ。彼は綾芽に対して言葉どおりに、一体何を待つのか。
思い続けると言う事は、生半可なものではない、そうリアンは考える。大抵は時と距離によって思いが磨滅してしまうから。
それでも、彼ならばその時まで待ち続けるのではないか、と考える。たとえ結果がどうなろうと…
一人で前を歩く希亜の背中を見ながら、リアンはぼんやりとそんなことを考えていた。
「ん」
「どうかしました? アルルゥちゃん」
「お姉ちゃん、いる。 あそこ…」
「あの方ですか? 確かエルルゥさんでしたね」
先程芹香から教えられた内容を、リアンはアルルゥに確認する。
「ん」
二人の視線の先、トゥスクルの民族衣装だろう白っぽい服を着た、アルルゥと同じ耳を持った女性が、こちらを見つめている。
だいぶ距離があるが、目が合ったところでリアンはペコリと頭を下げる。するとエルルゥもつられるように頭を下げた。
「だいぶ遅くなったんでしたら、ちゃんと謝らないとダメだと思いますよ」
「ん、分かってる」
ゆっくり歩いているとは言え、その巨体のため、動作の割にムックルは以外と速い。
上に乗っているこの子の為なのか、この白い巨虎は人と何ら変わらぬ速さで優しく歩いている。その事にリアンは感心しつつ、目前に迫った到着までの短い
間、もう少しムックルの背に揺られているのだった。
「ただ今戻りました」
「ただいまー」
「お姉ちゃん、ただいま」
トウカ、カミュとアルルゥの声に、エルルゥはため息を一つつき。
「もう、ご飯が冷めちゃうじゃない」
特に怒った訳ではなく、エルルゥはそう言った。まるで母親が子供に言うように、それは慈愛に満ちたものだった。
「すみません遅くなってしまって、ご迷惑ではなかったでしょうか」
すっと前に出たリアンが、エルルゥに頭を下げた。
「えっ!? いえいえ大丈夫ですよ、トウカさんもいますし」
エルルゥが慌てて繕うように返事を返す。
「お姉ちゃんに、紙芝居してもらった」
「あそこの綾芽さんに、紙芝居してもらってたんだ」
カミュに指さされ、エルルゥの視線を受けた綾芽がペコリと頭を下げると、エルルゥも同じように頭を下げた。
「自己紹介がまだでしたね。私、リアンと申します、大学生をしています。あちらの男の子が希亜君、高校一年生です。隣の和装の女の子が綾芽さん、希亜君と
同じ高校一年生です。その隣の制服を着ている女の子が芹香さん、こちらは高校三年生になります」
「はい、ご丁寧にありがとうございます。アルルゥの姉のエルルゥと申します」
手短に紹介を済ませたリアンに、エルルゥが慌てて自己紹介をする。
「今日はもう遅いでしょうから、これで失礼します。またの機会に、ゆっくりとお話でもしましょう」
「では」と、リアンが優雅に振り返り歩き出す。
芹香もエルルゥにペコリと頭を下げると、リアンの隣について歩き出した。
トウカとエルルゥに頭を下げて、綾芽は「またね」とアルルゥとカミュに手を振り、リアンの後を追って行く。
希亜も四人にペコリと頭を下げて、綾芽の後を追って歩き出した。
「行っちゃったね」
離れて行くリアン達の背中を見ながらカミュが呟く。
「もう遅いから、気を使ってもらったのかな」
そう答えるエルルゥの視線もリアン達の背中に向けられていた。
きゅるるるーー。
唐突にお腹の鳴る音がアルルゥから聞こえた。
「…お腹空いた」
「早く帰りましょう」
「うん」
と、三人ともがそう言って、ゲート管理棟へと向かおうとしていた。
だが、ただ一人トウカは「可愛い音でござったな~」と、普段の精悍な様子とは異なり、うっとりとしながらそう言った。
「お姉ちゃんカミュちー、乗る」
顔を紅くして頬を膨らませたアルルゥが、二人に呼びかける。
「はいはい」
ぞれぞれに苦笑しながら、背を低くしたムックルの背に乗ると、三人を乗せたムックルは駆け出し、ゲート管理棟の中へと飛び込んで行く。
晩餐には今日の話題がのぼるのだろうか。
それからしばらくして、トリップしていたトウカが、ふと正気に戻って辺りを見渡す。
既にアルルゥ達の姿はなく、夜の闇の中に電気という明かりで照らされたゲート管理棟が鎮座しているのみだった。
「某としたことが…… 置いていかれたでござるか?」
そのトウカの問いに答えるのは、ただ静寂と秋風だけだった。
ゲート管理棟から離れて行くなかで、綾芽は希亜の隣を歩いていた。
「ねぇ、希亜」
「なんでしょう」
「少し悪い事しちゃったかな… わたしのせいで、あの子達が帰るの遅れて迷惑かけたから」
「次に及ばないのでしたら、あまり気にしなくて良いと思いますよ~」
「そうかな?」
「綾芽さんは、少なくともトウカさんの信頼を得ていますから」
「えっと?」
「あの様子だと、トウカさんは二人の姉の様な物でしょう。部屋に入ってきた時のあの人の安堵は、トゥスクルの二人とあなたを見てからの物でしたから」
「そう?」
「そうだと思いますよ。ですからぁ、少々遅れても大丈夫、そう思わせるぐらいの信頼はあると思いますよ。私の勝手な妄想だとしても」
「もう! せっかく信じちゃうとこだったのに、どうしてそう言う風に言うかなぁー…」
最後に余計な一言を付ける希亜に、綾芽は呆れながらそう言った。たとえそれが、いつもの事だと分かっていても、そう言わずにはいられないのだった。
「自分で考えることが大切ですし。何より綾芽さんは三人ともに好感を抱いているでしょうから…」
希亜の言葉も理解できる。確かに自分で考えることは大切だし、綾芽自身アルルゥ、カミュ、トウカの三人に好感を抱いているのも事実だ。
「…それに、子供は少々親に心配かけるくらいでないと」
いつもの事とは言え、希亜の言い方はちょっと変だと綾芽は思う。
折角真面目なことを言っているのに、最後で台無しにしている。全てにおいてそう言う訳ではないのだが、希亜は彼自身の事に対して、もう少し自信を持つべ
きなのかなと思う。
「えっとぉ、希亜君? あの子達女の子だよ、分かってる?」
「もちろんですよぉ」
「本当かなぁ」
「まぁ。悪い子ではないと思いますよ」
「悪い子じゃないのは分かるよぉ、希亜と違うし」
「そ~んなぁ~」
情けなく答えた希亜の背中に、淡く光る小さな二対の翼が次第に姿を現す。
「この辺から影響受けるんだね」
「ですねぇ、案外広いですから」
「間違って上飛んじゃうと、やっぱり落ちちゃう?」
「一瞬で魔力が切れる訳じゃないですけど、加速をかけて脱出するか、着陸するかを迷わずに選ばないと落ちますねぇ」
希亜の言い方に、何となく生々しさを感じた綾芽は、内心まさかと思いつつ尋ねることにした。
「…もしかして落ちたことある?」
「ええまぁ」
返ってきたのは、恥ずかしげに笑いながら帰ってきた肯定の言葉だった。
「だ、大丈夫だったの?」
「あらかじめ落ちることを予測していましたから。その時はかすり傷ぐらいで済みましたよぉ」
平然と、というよりはいつものように希亜はのほほんと答える。
「危ないなぁーもぉー」
ため息のように紡がれる綾芽の言葉。
「少し危ないくらいで、将来の不測の事態を避けられるならやすい物ですよぉ」
そんな希亜の言葉も綾芽には理解は出来る。理解は出来るが、もう少し希亜には自分を大事にして欲しいと綾芽は思う。
「わたし、少しくらいなら治療できるから」
隣を歩く希亜の顔がこちらに向けられるのを感じ、彼はそのまま、
「その時は、お願いしますぅ」
いつものように、そう言った。
「うん… じゃなくて! あんまり心配かけないで」
あまりにも自然な希亜の言葉に、つられて返事を返してしまった綾芽だが、すぐに言い直していた。
「はい」
と、返ってきたのは素直な返事が一つ。少なくとも綾芽の知る限り希亜は素直な部類に入る。幾つか思考や言動がずれている事はあっても、行動自体は良識派に
属すると感じている。
だとしても、あまりにも素直な返事に。
「本当に分かっているのかなー」
と、綾芽はため息混じりに言うのだった。
隣を歩く希亜が前を向くのを感じた。
「綾芽に心配かけたくないのは、私の本心ですよ」
いつもののほほんとした物ではなく、ハッキリとした言葉が綾芽の耳に届いた。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。そして何が欠落しているのか理解した瞬間「えっ?」と、振り向いて聞き返していた。
「どうしました~?」
「今、呼び捨てにしたよね?」
のほほんと返ってきた言葉に、綾芽は聞き返す。
「しましたけど… ダメ、ですか?」
おずおずと聞き返してくる希亜と視線が合った。それは何かを見透かすような視線ではなく、ただじっと答えを待っている物だった。
「ううん、そうじゃなくて。今までほとんど呼び捨てにしなかったから、希亜君にとってわたしってどういう存在なのかなーって思ったりもして」
答えながら、自分の心臓がバクバクいい始めるのを綾芽は感じていた。
今まで自分に対して、好きという気持ちを隠すことがない希亜。だが、少なくとも自分は、普段彼の事を名前で呼ぶようにしている。そういうのもあって、呼
び捨てにしてくれないのには、少しばかり不満を感じていた。
だが、そんな不満は今、綺麗さっぱりと吹き飛んでしまっていた。
「どういう存在って… 私は「ストップ!! その先は言わなくて言いから」
答えようとした希亜の言葉を、綾芽は顔を紅くして制止する。こう言うときの希亜の言葉を聞いてしまったら、嬉しくて恥ずかしくて、どうしようもなくなる
ような言葉を言うに決まっている。
「ダメですよ、こう言うのはちゃんと言葉にしないと」
希亜はそう言って、綾芽の耳元でささやいた。
直後、紅くなった顔をさらに紅くする綾芽と、今まで我慢していたのか、ボンという音がするくらいに顔を紅くした希亜の姿があった。
普通なら見ている側も赤面するような二人のやりとりだが、なぜか微笑ましく見えてくるのは、二人が子供っぽく見えるからだろうか。
「可愛いくて良いですね、ああいうのも」
コクコク。
前を歩く二人が、そんな意見の一致を見い出している間。綾芽と希亜はお互いに自分を落ち着かせようと必死だった。ここは学内であり、それぞれに親しい人
物が前を歩いていおり、その二人に全てを聞かれていたからだ。
後ろめたい感情は微塵もないが、それを補ってあまりあるほどの恥ずかしさにようやく気付いた二人でもあった。
お互いに目を合わせられず、自分のバクバクいう心音と、一定のテンポを刻む足音だけが耳に入る。
嬉しくて恥ずかしくて、顔が火照っているにも関わらず。希亜がストレートに自分の事を好きでいてくれる。その事に幾分か慣れたとも言えるが、それを受け
入れてしまった綾芽の心は、比較的落ち着いていた。
一方の希亜は、パニックに陥っていた。色々な事を一度に考えてしまう癖なのか、拒絶される恐怖がどうしても頭から離れない。それに加えて耳元で囁いたと
は言え、あの台詞を普通なら素面で述べられるはずもなく、その気恥ずかしさにすぐにでも逃げ出したい、けど逃げ出してしまえば、言葉は意味を失ってしま
う。そんな二つの感情がぐるぐると思考を揺さぶる。
しばらくして、ようやく思考を整理もしくは棚上げすることに成功した希亜が、言葉を紡ぐ。
「さん付けで呼ぶのはあまり深い考えはないです。ただ、改まった言葉にしたかったから、さんを省いたんです」
「…そうなんだ。じゃあ、わたしが君をつけるのと同じなんだね」
「そう言えばそですねぇ」
「わたしの事、呼び捨てで良いからね。その方が希亜を身近に感じられるから」
「えっと…」
綾芽の目の前で、再び希亜の顔が紅くなって行く。
「うん! 紅くなっている希亜も可愛いよ」
「はうぅ~」
恥ずかしくてそんな声を上げる希亜だが、同時にうれしさも半分入り交じっているのが、綾芽にも分かった。
ほっとしてようやく自分のペースに戻った綾芽の脳裏に、土曜日の約束が浮かぶ。
「土曜日の笙青堂、楽しみだなー」
「そろそろ、晩秋のセットメニューが出る頃じゃないですかねぇ」
まだ少し顔が紅いまま、希亜は笙青堂の季節のセットメニューを頭に浮かべる。
「でも、あそこのセットメニューはちょっと高いよ」
「私は京風のお汁粉が好きなんですよねぇ」
「そうなんだ。関東風も悪くはないんだけど、あの小豆のお汁の中に沈んでいるのも良いよねぇ」
「何の話しですか?」
前を歩いていたリアンと芹香が、そんな質問と共に希亜と綾芽の両隣にやって来た。
「土曜、商店街の笙青堂で奢ってもらう事になっているんです」
「あの甘所の笙青堂ですね?」
「はい、知ってるんですか?」
「何度か入ったことがありますが、色々とおいしい物が多いですよね」
「ですよねー、入る度に迷ってますー」
綾芽とリアンがそのまま話し込む。その話の内容を芹香と希亜は聞いているのだった。
話題が笙青堂のメニューから学校の話題へと移った所に、セバスチャンのリムジンの出迎えを受けた。
「お嬢様、綾芽様お迎えにあがりました」
「こんばんわ~」
「初めまして」
「これはご丁寧に痛み入ります。さあお嬢様、綾芽様、お乗り下さい」
セバスチャンはリアンに丁寧に挨拶を返し、後部シートのドアを開いて二人を促す。
「………………………」
「え? またお話ししましょう?」
コクコク。
「はい、喜んで」
リアンの返事を聞いてぺこりとお辞儀をし、リムジンに乗り込もうとした所で、芹香が振り返った。
「……………………………」
「え? 忘れていたことがありました?」
コクコク。
「何ですか?」
「……………………………………」
「えっと、術の効果は今夜中には切れます。希亜君にですね?」
コクコク。
「分かりました、後で伝えておきます」
リアンは芹香にそう言いながら、綾芽と話している希亜に視線を向ける。
「そうそう希亜君。ちゃんとリアンさんを送っていかないとダメだよー」
「はい、任せて下さい」
「大丈夫かなぁ、お姉さんとしてはチョット心配だよ」
「大丈夫ですよ、綾芽さん。希亜君は紳士さんですから」
にこやかにそう言うリアンに安心した綾芽は、
「じゃあ大丈夫だね。希亜、また明日ね」
そう言ってリムジンに先に乗り込んだ。
「お嬢様、そろそろ」
セバスチャンの言葉に芹香は頷き、リアンに再びぺこりと頭を下げてリムジンへと乗り込む。
程なくドアはセバスチャンの手によって閉められた。
「では失礼します」
セバスチャンは簡潔に挨拶を済ませると、運転席に乗り込む。
「芹香さん、本当にお嬢様なんですね」
リアンがそんな感想を述べ、思わず本日何度目かのツッコミを入れそうになった希亜。そんな二人の目の前をリムジンは滑るように走り出して行く。
離れて行くリムジンに手を振る希亜は、
「たまには、忘れてみるのも良いかもしれませんね」
とのリアンの言葉を聞いて、もう一度どうツッコミを入れるべきかどうか悩むのだった。
来栖川邸へと向かうリムジンの中、二人は今日のことについて話していた。
「………、……………………………………………」
「今日はいろんな事が一度にあった気がします?」
コクコク。
「そうだよね、希亜君の背中に翼があったり、希亜君の師匠のリアンさんに会ったり、部室で紙芝居したり、アルルゥちゃんのお姉さんにもあったり。本当にま
るで寄せ鍋みたいな一日でしたよねー」
綾芽が言い終える前に、芹香は笑っていた。無論比較的一緒にいる時間が長い綾芽だからこそ、その仄かな笑みに気付いたのである。
「……………………………」
「え? 寄せ鍋はおかしいです?」
コクコク。
「そうかなー、色々な具材が重なり合って味わいを深くするから、ぴったりだと思ったのに」
「…………、…………………………………、………………………………」
「えっと… 私も今日は魔術も大成功しましたし、本当に充実した一日でした?」
コクコク。
「そういえば、希亜君の背中の羽根はずっと付きっぱなしなのですか?」
フルフル。
「……………………………、……………………………………」
「え? 今夜には効果が消えるはずなんですか?」
コクコク。
「じゃあ明日はいつもの希亜君なんだ」
コクコク。
「………………………」
「えっと、大丈夫だと思います?」
コクコク。
「本当に、大丈夫なの?」
…、コクコク。
「えっと、今の間は? ねぇ! 本当に大丈夫なんですか1?」
夜の帳が降りきった闇の中、希亜はRising Arrowにリアンを乗せ、ゆったりとした速度で、風を受けながら商店街の方へと飛んでいた。
「可愛い人でしたね綾芽さん」
「はい」
即座に返される希亜の返事に、リアンはため息を一つ、
「希亜君は、からかいがいがありませんね」
そう呟く。
「昔、色々ありましたからぁ」
「昔?」
「秘密ですよ~」
のほほんとそう言いきった希亜の過去に関して、リアンが知っていることは少ない。
「好きな子でもいたのですか?」
孤独を気にできないほどの、精神外傷を残すようないじめにあってましたなんて… 言えないよぉ~。と思いつつも、希亜はさらりと「秘密です」と答える。
「土曜日の笙青堂でしったけ?」
「はい」
「ご一緒しちゃおうかなー」
「よろしければどうぞ」
「ほら、それじゃあダメですよ。短くてもデートなんですから」
「あ…」
希亜の顔がボンと音がするくらいに紅くなる。
「あうあう」
「もう、やっと自覚したんですか?」
呆れ顔のリアンは、希亜の耳まで紅くなっているのを見て、彼も年頃の男の子なんだなと、ようやく安心した。
深呼吸して、何とか自身を落ち着かせようとする希亜。
そんな間に、眼下の景色は五月雨堂付近の商店街を映していた。
「そろそろ着きますね」
「え~と。お店側にします?」
このまま向かうと住居側の玄関に到着するため、希亜が訪ねた。
「このままでいいですよ」
「は~い」
のほほんとそう答えた希亜は、静かに高度を落として、門の前にRising Arrowを止めた。
リアンがRising Arrowから降り、希亜に振り返る。
「今日は楽しかったです。希亜君のおかげですね」
「たまにはこんな事もありますよ。では、失礼しますね~」
そう言って希亜はゆっくりと上昇し、この場から離れようとする。
「希亜君、芹香さんの魔術は今夜には消えるそうです」
「そですか、ちょっと名残惜しいかもしれませんね」
リアンの言葉に制止した希亜は、そう答えながら舳先を空へと向ける。
「土曜日のデート、がんばって下さいね」
別れ際にリアンはそう言って希亜に手を振り、門の中へと入って行った。
「…これは、自覚した方がいいのかなぁ」
自身に問いかけるように呟き、希亜も寮へ戻るべく、この場から風切り音だけを残して飛び出すのだった。
その後、羽が生えたままの希亜は、寮の食堂で結花にまた根ほり葉ほり聞かれた訳だが、アルルゥの身の安全のために、その容姿の事については触れることは
なかった。
なにせ無類の可愛い物好きの結花の事である。遭遇したら最後、アルルゥの命が危険に陥る可能性が飛び出す程に抱きしめる。と、ありありと想像できたから
だ。
翌朝、寮、食堂。
「お早うございますぅ」
「お早う希亜」
そう朝の挨拶を交わし、寮の食堂のおさんどん結花が、希亜のトレイにおかずを乗せる。
朝食を受け取り、カウンターから離れて行く希亜の背中に結花の視線が向けられる。
「あれ? 昨日で消えるんじゃなかったっけ…」
ともかくも、今日もまた一日が始まるのだった。
キャスト(登場順)
神海
来栖川 芹香
東西
戦畑 鋼
猪名川 由宇
御影 すばる
悠 綾芽
リアン
アルルゥ
ムックル
カミュ
トウカ
エルルゥ
セバスチャン
江藤 結花
おあとに…
「え~と?」
いつものように ある一日の切り取りかな
「そうじゃなくて」
何?
「うたわれるもののキャラクターの設定って…… これでいいの?」
さぁ?
(ヲイヲイ…)
基本的には 原作からあまり改変しないようにしているつもりだけど?
「そう」
他に無ければこの辺りで
「は~い(あんまり聞くとやぶ蛇になりそうだからいいか)」
あ ぱっちぃーど てきすとにならないように気をつけてはいるけど どうかなぁ(汗)
(継ぎ接ぎだらけの 文章かぁ…)
うたわれキャストに関しては 前に出回った文章から設定をうろ覚えで使用しています
「外に出た設定が少なかったから、その分はしまぷ(う)の想像によるわけですねぇ」
いぇす
「他には?」
特にない と思う…
「そう言えばこれって『息抜き』なんだよね?」
確かに元々は[悠朔さんには家族もいない]の息抜きに書いた物ですが…
「予測以上に時間がかかった訳ですか…」
…さぁ、この話の次の話しは問いつめかなぁ
(なんですと!?)