「あ、ようやくですねぇ」
先に席についてお茶を飲んでいた希亜は、二人分の朝食を前に、やって来た綾芽に声をかける。
「さぁ、朝ご飯にしましょう」
「うん」
付けっぱなしのテレビから今朝のニュースが流れてくる。
綾芽はそのいつもの光景の中、席に着き。
「いただきます」
「はい」
おみそ汁、目玉焼き、焼き子持ちししゃも、イカナゴの釘煮、そんな希亜が作るいつもの朝食。
それぞれに箸が進む。
「ねぇ、パパはまた逃げたの?」
「ええ、何でも『この俺の魂に火を付けた奴がいる』って言ってました」
「ふぅん、一昨日ママから電話があって…」
「愚痴ってましたね?」
「うん」
「でも〜、昨日チューリヒで捕まえたらしいですよ」
「そうなんだ」
それは一瞬だった、綾芽という感覚が希薄になり偏在したかと持った直後、どこか遠くにその感覚は収束していった。
箸が落ちる音が、目の前にもかかわらず遠くに聞こえる。
目の前に綾芽の姿はなかった。
相変わらずテレビからの音が広がる台所、そこに残されたのは食べかけの朝食、ただそれだけだった。
それらが真実かはともかく、希亜はそれらがどういう意味を指し示しているかを理解してしまっていた。
だから、
「この、時間軸の人だったのか…」
その言葉は紡ぎ出すのが精一杯の、今の希亜の全てだった。
綾芽という名の記憶
数週間後、九鬼神社。
「弥雨那希亜様ですか?」
「ええ」
相手を希亜だと確認したセバスチャンは、何かを言いかけるが。 直後、何を言いたかったのか忘れてしまった。
「申し訳ありません、何かお伝えするべき事があったのですが…」
「では、忘れていて下さい。 二度と思い出さぬように」
「はぁ。 この度は綾香様の為にご苦労なされて感謝に堪えません」
「気にしないで下さい、私の自己満足の為にした事ですから…」
「しかし…」
「そう言う事にしておいて下さい」
「…分かりました」
「それと、これを宴会の時に新郎に渡してください」
そう言って百年の孤独と書かれた箱をセバスチャンに渡した。
「では…」
行ってしまった希亜の背中を見ていたセバスチャンに声がかけられる。
「よろしいのですか?」
「何がだ? セリオ」
「希亜様にお伝えする事があったのではないのですか?」
「望まれない事はしない。 それに、芹香お嬢様からあの者がこの結婚に関係していう我が儘は聞いてあげてほしい、と仰せつかっている」
「そうなのですか」
「さ、セリオ。 次のお客様が上がってこられるぞ」
「はい」
上空20000m。
「はぁ〜」
深くため息をつく。
受付をすませてそのままここに来てしまった。
人間の目では希亜をとらえられない空の高みに。
「やっぱり、辛すぎます…」
でも、やっとここまでこぎ着けた…
さすがの悠朔でも綾香の「できちゃった」攻撃は効いたようで。
昨日アイガー北壁で捕獲した訳で…
全てはただ、あの人だったモノの為に…
「それがいかに惚れた弱みのなれの果てだとしても… 辛すぎますよこれは」
寂しそうに、ただそうやって大地の方へと視線を落とし、歌を歌い始めた。
昔からのお気に入りの歌を。
九鬼神社、石段。
「初めてだな、ここに来るのは」
風見日陰はそう言って階段の最後の段を上りきった。
既にひなたの人格は消滅していた、少々何かが出来ても人間の精神など魔王と称されるモノの前では無力だった。
日陰自身もひなたの存在を結局は養護していたのだが、ふとしたきっかけでひなたの精神は日陰の前に食い尽くされてしまった、一瞬で…
それから紆余曲折はあった物のダーク十三使徒は、日陰自身による「人間のように人の間に在りて時を行く」という方針の前に、空中分解を余儀なくされた。
今となってはひなたという存在は、日陰の記憶の中、ひなたの記憶を本を読むように思い出す程度でしか存在しなくなっていた。
その日陰の後から、黒ずくめの人物が境内に上がってきた。
「ふん、わざわざ式に呼ばずとも…」
汗をぬぐう。 初夏の日差しに黒ずくめの姿は、傍目にも、自分自身にも暑いと言う事を強制させる。
「良いではないかハイドラント、人の幸せという物を喜んでも」
隣にたたずむ日陰が黒ずくめの人物ハイドラントを見上げ。
「…それとも、嫉妬か?」
「何を…」
たわけた事を、と言おうとして脳裏に何かがよぎった。
確か、あの二人には娘がいたのではないかと…
表情に出ていたのだろう、日陰は怪訝な顔をして。
「ハイドラント、何か良からぬ事を考えたわけではあるまいな」
「いえ陛…、風見さん、そう言うわけではない、ただ」
「ん?」
「あの二人には娘がいたような気がすると…」
「ふむ」
日陰はそう言ってハイドラントを見上げ続ける。
視線の先の彼は、じっと何かを思い出そうとしていたが、やがて。
「だめだ、思い出せん」
「ならばたいしたことは無いのであろう」
日陰の言葉にハイドラントは頷きつつも、自身の内に広がり始めた違和感を感じていた。
「招待状は持ってきておろうな」
「ご心配なく」
そうして二人は受付の方へと足を進めて行く。
悠家、はじめの部屋。
「そろそろ始めようかな」
はじめは服装を整え一呼吸した。
「それにしても、出来ちゃった婚って… 結構多いのね」
今までの経験からそう愚痴る。
なんて言うか、その…
まぁ朔ちゃんも男の子だったという訳だ。
ひとりそんな事を考えつつ、姿見に視線を映した。
一瞬、姿見に緋袴姿の女性が映っているのが見え、その女性がいるであろう方向に振り向く。
「…あれ?」
見えはしたが、なにも感じなかったので。
「ま、いっか」
そう言って部屋を後にした。
悠家、客間。
ちょっと窮屈な着物、元々寸胴な体格向けのそれを腰にタオルを巻く事でごまかして着ている。
来栖川ツーリストの社長である立場を最大限に利用し、さらに生きる朔探知機でもある、朔の友人である希亜の手を借りて追い回す事2年…
「昨日はたしかアイガー北壁にいたって聞いたけど…」
現在は別の部屋で式の用意をしているはず、観念している今なら逃げ出す事等考えられないだろうから、一応安心はしている… はず…
「逃げたらまた追いかけるだけかな。 でも今は…」
おなかの中にあの人の子供が息づいていると、ふと意識する。
初めて私が妊娠していると気付いた姉が、その時とても寂しそうな表情をしていた事を思い出した。
どうしてそんな顔になるのか、結局教えてくれなかった。
そう言えば希亜も一時、そんな表情になっていたと思い出していた。
「綾香様、そろそろ玄関の方へどうぞ」
ふと、涙腺がゆるんでいるのを感じた。
「綾香様?」
「何でもないわ、今行くから」
そう言いつつも、取り出したハンカチで、訳も分からずにあふれ出てきた涙をぬぐうのだった。
悠家、朔の部屋。
「昨日はたしかアイガー北壁にいたはずなのに…」
呟く朔は紋付き袴姿である。
ヨーロッパはスイス中南部にあるベルナー・アルペンの主峰の一つアイガー。 前人未踏と言う訳ではないが山の姿に魅せられてからは、その氷壁をいつか踏破してやろうと、トラベラー魂に火を付けられてしまっていた。
だが、相手と選んだ北壁ルートは、アルプス屈指の難しい登山ルートである事を知り、クライミングに磨きをかける事になった。 だがなかなか時間が取れず。 ようやく結婚式前日に最難関の氷壁を昇り始めたのだが…
薄々気付いていたのだろうな、あいつにとってこの地球上で、それも空と接する場所なら、どこにいても同じ事だというのは。
それでも逃げ出すように出かけたのは、時間がない事を分かり切って踏破する事に挑んだのは、独身最後の祭りというべき行為だったのだろうか。
以前地下鉄に乗った時は結構うまくまけたと思ったんだがな。 結局あの時も地下鉄出口でしれっと待っていたな。
「綾香が生きる朔探知機というのも頷ける」
しかし、『ん〜、何となくこっち』で俺の居場所を当ててしまう奴は、そう言うにふさわしい。
が… やっぱり、嫌だな…
「むう」
とは言え、氷壁を諦めた訳ではなかったが、ひとまずの執着心は消えていた。
鈍いノックの音が部屋に広がり、ふすまの向こうから。
「朔様よろしいでしょうか」
「ああ」
ぞんざいに答えた朔の視界に、一つの封筒を持ったマルチタイプのHMが現れた。
このマルチタイプというのも今となっては既に旧機種である、だがそれだけに経験としてのデータの蓄積は多く、来栖川エレクトロニクス製としてはHMX-12以降のシリーズは一部のコンセプト的な例外は在れど、個性在るHMとして広く知られていた。
「希亜様より、式の前にお渡しするようにと」
「分かった」
朔が封筒を受け取るとそのマルチタイプのHMは静かに襖の前までもどり。
「では式の時間になりましたら、お呼びします」
そう言って部屋から出て行った。
とりあえず、この時間を指定したのだ、何か意味がある事なのだろう。
そんな考えと、そこはかとなく封筒の中から現世に出でる不安を感じつつ封筒を開けた。
入っている紙を取り出し開き書かれている文字を…
「終着駅って…」
どよ〜んと沈む朔。
彼の手にしている紙には『結婚は人生の終着駅』と書かれていた。
思わず天井を仰ぎ見る…
そこには心配そうに朔を見下ろす緋袴の女性の姿があった。
「な、何も見なかった俺は何も見なかった」
自分にそう言い聞かせた朔は、そのままこの部屋から早々に立ち去るのだった。
悠家、玄関。
ようやく階段から下りて来た足音に振り返った。
「どうしたの?」
どよ〜んとした雰囲気の朔を見て、綾香は思わずそう聞かずにはいられなかった。
少なくとも自分の事を嫌ってこうなる朔ではないと信じているからだ。
「いや、希亜からちょっと手紙をな」
「あ〜、そうなんだ」
ぞんざいに答える綾香。 自分の姉もそうだが、ああいった種類の人間の起こす事はあまり明確に分かるものではないと思っているからだ。
「でも、希亜が私たちの事を祝福しない理由は無いと思うんだけど」
「それについては疑いはしない。 だが、あいつが時折見せる寂しそうな顔がな…」
「綾香様、朔様、そろそろお願いします」
先ほど朔に手紙を届けたマルチタイプのHMが、二人の会話を制するようにそう言った。
「そうね…」
「ああ…」
思わず目を合わせる二人に、
「さぁ、一歩目を踏み出して下さい」
そう、ごく自然な笑みを浮かべてそのHMは言ったのだった。
九鬼神社、境内。
「おお、やって来たな」
そんな誰かの声に、少し離れた場所からその人だかりの中へと歩き出す。
「お嬢様、こちらの方が」
そんなセバスチャンの声を聞き、彼に示される方へとその足を向ける。
「ささ、どうぞ」
そうして私は最前列へと通されていた。
人が割れ二人が現れた。
教会の中、タキシードとウェディングドレス、その裾を持つ一人の女性…
「綾芽…」
誰かの祝福の声にその像が消えた。
境内の人の輪の中を歩く二人、紋付き袴に着物…
「希亜君、気付いているのですか?」
思わず遙か高みのその人物へと視線を上げた。
それで、彼の心が測れる訳でもなく、再び視線を戻す。
「希亜でも見えるの?」
「…………ええ」
「あいつ、何だってこんな時に」
そんな朔の言葉をよそに綾香は静かに目の前に来ると。
「姉さん…」
少し遅れて朔さんも綾香の側でこちらを見る。
私は、精一杯の笑みと共に私は言葉を贈るの。
「紡ぎなさい、あなたがたの家族の物語を。 奏でなさい、他の誰でもない、あなたがたの家族の音色を」
少しの間、キョトンとしていた綾香だが。
「ありがとう、姉さん」
朔さんは静かに深く頭を垂れる。
そうして二人は、私の前から離れて行った。
「私には、つかみ得ないだろうから」
せめて、あの子には幸せを…
日陰の視線の先では神主が三人を前になにやら行っているが、この手の知識に疎い彼女には、興味はあれど退屈な儀式だった。
「ハイドラント」
「何でしょうか陛…、風見さん」
「…まあ良い。 お前は、本当に祝福できるか?」
「何を今更。 あいつ以外に綾香を幸せに出来る奴はいない」
ハイドラントの視線が向けられているのを自覚しつつ、言葉を続ける。
「それはお前の盲信かもしれんぞ」
「それでも、だ」
自信なさげに言い切ったハイドラントに、先程から見えている、まるで赤子のように新郎新婦の側で空に手を伸ばしている緋袴の女性の事を訪ねることにした。
「一つ聞こう、あの娘が見えるか?」
「娘? なにを仰る」
ハイドラントの言葉は、あの緋袴の女性がハイドラントにも見えていないだろう事を物語っていた。
「…なれば良い、祝福してやれ素直にな」
だから敢えてそれから話題を逸らした。
「お戯れを、それに何が見えていようと… もう、私が関知するべき問題ではないのだ」
「そうか」
二人の視線は再び続けられている儀式に向けられるのだった。
「はい、とりあえずこれでおしまい」
はじめの明るい声が二人に届く。
「やっと終わったか」
「うん、後は宴会の用意がしてあるはずだから、二人とも着替え…」
不意に言葉が途切れた。
緋袴姿の女性が、まるで赤子のようにしきりに手を伸ばし、上の方を気にしている姿が映っていた。 ただ、そう言った像だけが見えていた、存在も気配も全くないままに。
「どうした?」
朔のその声に意識が引き戻される。 改めて見た視界には緋袴姿の女性は存在していなかった。
「…ううん、何でもない。 私も早くいい人見つけないとなー」
「大丈夫だ姉さんならな」
「そう言う事にしておくわ」
九鬼神社内、道場。
大きな空間と言う事から、今回披露宴兼宴会の会場に使用されている道場である。
既にセバスチャンの指揮によって宴の用意も、来賓者も集まり、後は主賓が入場するのを待つのみとなるはずだったが、二人から少しおくれる旨が伝わった直後、どこからともなく乾杯の音頭がとられ、宴に突入していた。
元々平服で起こし下さいと招待してあったので、仲間内だけの宴会という様相を見せていた。
ややおくれてきた主賓も、披露宴と言うよりは、飲み会の会場に姿を現すような服装で現れた。
「姉さんは… あ、いたいた」
ふらりとでも言うように朔の元から離れて芹香の元へと行く綾香。
「朔、こっちへ来い」
「おう」
黒服の男ハイドラントの元へと足を進める朔。
「お前、酔ってるな?」
「なにおぅ!」
「おぬしは酔っておる」
ため息混じりにハイドラントの隣に座っていた日陰は、そう言ってすっと席を立つ。
「どちらへ?」
「近くだ」
と、酔っぱらいの相手は出来ないとばかりに、彼女はぷいっとこの場から離れて行った。
「気を利かせてくれたんじゃないのか? へ・い・かは」
茶化すつもりで言った言葉だったが、
「座れ!」
帰ってきたハイドラントの言葉は重かった。
よく見たら目が据わっている。
心の中でため息を吐きながら、朔はハイドラントに向かい合うように腰を下ろすのだった。
九鬼神社、境内。
誰もいなくなった頃合いを見計らって、希亜は降りてきていた。
「だめだな…」
ため息のように呟き、空を見上げる。
「綾芽さん、私は結局、あなたを殺してしまうんですね。 …もしあなたが次に生まれてきて、このことを知って怒りに駆られるなら…」
静かに瞳を閉じたままに視線を地面に向け、
「私は殺されても良い…」
ハッキリとそう口にした。
九鬼神社内、道場。
「姉さん、隣良い?」
「はい」
そっと腰を下ろす綾香に見えるように一本のボトルを指さし。
「飲みます?」
「うん、いただくわ」
「かしこまりました」
やりとりを見ていたセリオタイプのHMは、ラベルに忘却の味覚と書かれたボトルを傾け、ワイングラスに静かに流し込む。
「では綾香様」
綾香に渡されたワイングラス、その中の琥珀色の液体がふわりとゆれる。
それを静かに口の中に含ませた。
「どうですか?」
「…まるでお茶みたいね」
「アルコール度は33度あります、私の秘蔵のお酒です」
その言葉に満足したのか綾香は満編の笑みを浮かべて。
「ありがと、姉さん」
その言葉に嬉しくなって、私も予め注いであったそのお酒を口に運ぶ。
広がる透明な味わい。
「そう言えばさぁ、昔の事なんだけど…」
綾香がまだ楽しかった頃の話をし始めた、私はそれに耳を傾けたつもりだったけど。
ふと、あの時の事を思い出していた。
あの時、お昼を過ぎて、三人の来訪者が私を訪ねてきたのでした。
「お邪魔しま〜す」
「失礼します」
「お久しぶりです〜、スフィーさんとリアンさんはご存じですよね」
「はい在学中に何度か…」
三者三様の挨拶の後、希亜は口を開き、
「今更、うち明けたりはしません」
そう断るように言った。
その希亜の言葉の意味と、指している事柄に思い当たる事はただ一つだった。
「綾芽は、行ってしまったんですね」
「はい、本来在るべき場所へ」
「そちらのお二人は?」
「丁度こちらに来ていたので、故在ってお願いしました」
「希亜君、話していただけませんか?」
「そ〜よ、訳も分からない事に手は貸せないわ」
「あ〜、そですね」
ちょっと戸惑ったような表情を見せ、一度瞳を閉じ、一呼吸してから希亜は口を開く。
「私が、ある女性を愛しているのをご存じでしょうか?」
「ああ、綾芽ちゃんの事ね」
「はい。 その女性は本来まだ生まれていません」
「「えっ!?」」
スフィーとリアンの声が重なる。
希亜は三人に背を向け話を続ける。
「今朝まであの人だったソレは、本来の器が出来たのでしょうか、そちらの方へ入って行きました」
希亜の声には色がなかった。
「…だから、次に生まれてくるあの人だった者の為に、新たなる息吹の為に、この世界から悠綾芽がいたと言う事象を消して欲しいのです」
「…さん、姉さん。 ちょっと聞いてる?」
「あ、綾香…」
「もう、どうしたのよ。 ぼうっとしちゃって」
「昔の事を思い出していただけです」
「懐かしいわよねぇ」
視線が合う、綾香の瞳は他人と幸せを共有したい、そんな想いが見て取れる。
「…姉さん、私姉さんの分も幸せになるから」
「綾香」
黙っていても伝わる物もあるのですね。
「さ、行って来なさい」
「…うん」
綾香のぎこちない返事に
「そうでないモノもありますよ、綾香…」
近すぎるから伝えられない、そんな事を頭の片隅に思いながら、離れて行く綾香の背を見ていた。
視線の先では、何人かのそれぞれの友人に囲まれて、照れる綾香は朔とのキスを強要されていた。
「朔! 男だったら男らしく行きなさいよ」
「綾香さーん!」
黄色い声も若干混じっているが…
瞳を閉じた綾香に朔の唇が重なる。
じゃれ合うように重ねられた唇は、突然ぴたりと動きを止め、すっと離れた。
「朔っ! あなた何を飲んだのよ?!」
「希亜がよく飲んでいる酒だが、それよりも綾香は何を飲んだんだ?」
「わ、私は姉さんが進めたものだけど」
お互いに口の中に残った異質な味を堪能し。
「旨いな」
「美味しいわ」
二人の言葉が重なった。
「だめだよ、そんなに飲んじゃ…」
綾香と朔二人の耳に、とても聞き慣れたような声が届いた。
反射的にその声の方へと振り向く。
いきなり二人に見つめられたはじめは思わず固まってしまった。
「ど、どうしたの二人とも」
その声は確かにはじめの声だった、同時に先程の聞き慣れた声ではなかった。
「綾香の声に似ていたな…」
「そう、ね…」
相づちを打って初めて、綾香は朔と同じ感覚を共有している事に気が付いた。
「ねぇ、もしかして聞こえたの?」
「ああ、いないはずの声が聞こえるなんてな…」
「何だろう、とても大切な物だったと思うんだけど…」
戸惑う二人を見ていた芹香の視線を遮るように、一人の女性が入って来た。
「失礼しても良いかな? 芹香さん」
その声に聞き覚えがあった、たしか魔王日陰と言う人物だったはずだ。
「…はい」
芹香の声を聞いて、日陰は安堵したように芹香の真正面に腰を下ろした。
「巫女の姿をした、残留思念に近い者がこの場にいる」
「見えるんですね」
「揺らいではいるが… 時折はっきり見えすぎて困る、力がありすぎるのも困り物だな」
そう言った日陰が視線を境内の方へと向け。
「あの者の想い人なんだろう?」
「はい。 でも、気付いていたのかもしれません」
「やがてこうなる事をか?」
「はい、『哀しい愛を抱いていたのですね』と言っていましたから」
「そうか」
芹香はワインを一口、喉へと流し込み。
「あの時、綾芽が今度こそ綾芽として発生した後に、彼は私の元に訪ねてきたんです。 そして、その場で彼の二人の師と共に、綾芽がいた現実を忘れさせる事と、あからさまに綾芽がいた証拠を上塗りする形で消し去ったのです」
「…どうしてだ? どうしてそこまで出来る」
「あの子は、綾芽を愛していたのでしょう」
「しかし愛していたのならば、放しはしないだろうに」
「あの子の愛には、束縛や独占はないんです。 それに、あの子の力では抗う事は出来なかったのですから…」
「つまり… 事象に対しては、後手に回っていたと言う事か」
「…そう言う事になりますね」
「哀れだな」
見下すでもなく呟かれた日陰の言葉に、芹香は在りし日の綾芽の姿を脳裏に浮かべながらに返す。
「辛いのは、何もあの子だけではありません。 でも、あの子は結局私達の前では、泣く事はありませんでした。 泣いても誰も咎めないのに…」
「『泣くな』と言いたいのだろう」
「いえ、多分強がりです」
「強がり?」
「はい、綾芽の前では、いつも綾芽より大きな人間を装っていましたから」
「哀れに過ぎる…」
「人をのろわば穴二つ」
「ん?」
「あの子が術式の前に断った言葉です。 私も術式に荷担したのですから、呪われるのは当然ですね」
「あの者の云う、あの者の思い人に幸せを与える方法に同意したのであれば、私がどうこう言うものではないのであろう…」
「聞いてほしかったんです… こんな事、術式が効かなかったあなたぐらいにしか話せませんから」
「そうか… 愛には色々な形があるのだな」
そう呟き無意識のうちに日陰は、自分とひなた、そしてハイドラントとの関係に思いを巡らせていた。
しばしの沈黙の後。
「少し飲み過ぎたらしい」
ゆっくりと立ち上がる日陰。
「あの…」
「心配ない、少しあの者の云う幸せという物に興味があるだけだ」
そう言って日陰は悠然とこの場から離れて行く。
その足取りは芹香の目には、少しも酔っているようには見えなかった。
九鬼神社境内。
希亜は静かになった境内の一角に腰を下ろしていた。
だがそこには一人の女性が佇み、こちらに歩み寄って来た。
「何か〜?」
「宴には出んのか?」
「はい、あそこにいると願いが叶いませんから」
「そうか… もう一つ、お前には見えないのか?」
その言葉の意味が分かり、希亜も答える。
「…クラムは、感じる事が出来るようだ」
他人事のように言う希亜に、彼女は言葉を続ける。
「お前が魔法を使えば済むのではないか?」
「…前に失敗した」
「ならばもう一度行うがいい、我が前で」
「はい?」
「我が名は、魔王とも呼ばれておる」
「しかし…」
そう戸惑い答えながらも、希亜の頭には学園時代のデータが展開していた。
「どうする? どちらをとっても辛い事には変わりないだろう」
だから、この質問が来たときに、答える意思は既に決まっていた。
「やります、あなたの心はこの際忘れて」
「構わん」
直後、膨大な魔力が虚無へと弾けるような感覚を周辺の術者に感じさせ、魔法は発動した。
「綾芽ぇ」
日陰の耳に希亜の惚けた声が聞こえてくる。
緋袴の女性、綾芽の姿をしたそれが、赤子のように希亜にじゃれつくようにしている。
日陰には、まるで赤子と母親に戯れるように、二人の姿が見えていた。
やがて希亜はその緋袴の女性を愛おしく包み込み、その頭を優しくなでる。
その動作はまるで恋人同士のようで…
「残留思念が本体の影響を受けた結果だと言っておく」
日陰の声は希亜には快かった、同時に深く心を貫いていた、それが正確に的を得たものだと希亜には感じたからだ。
だから希亜は静かに優しく綾芽から離れた。
「綾芽、もしあなたがこれを望まなかった事と覚えていて、そしてその事に対して怒りに駆られるなら、私は殺されてもいい…」
悲しそうな瞳をする綾芽を、ただじっと見つめながら放った言葉。
このまま時が止まるのかと日陰に思わせたが、おもむろに希亜は手を前にかざし、
「release...」
魔法によってどこからともなく自分専用の杖、アイフリーサーを模した杖を静かに構え、言葉を紡ぐ。
全てをただ一人の綾芽の為に。
「其は願い、我が愛する者へと向ける、残酷なる願い…」
「魔法…、か」
希亜の紡ぎ出す言葉は、呪文でも何でもなく、ただ一つの思いを幾重にも重ねただけの物。
「たしかこやつのは、グエンディーナという世界の力だったな」
興味なさげに思い出した日陰だが、目の前の出来事に対する好奇心に、言葉に出していた。
「…その願いの前に、我は全てのイタミを受けよう!」
希亜の紡いだ想いが、一つの明確な方向性をもつ事が日陰にも明確に感じられた。
「二つの心に一つの願いを…」
幸せという事に最近弱くなった事を自覚しつつ、日陰はこの魔法の成功を願っていた。
その魔法が、ただ二つの対象の為に世界に干渉するものだと理解して。
「…以て、言の葉はただ一つ… アイを、このソラへ!」
魔力が爆縮し虚無へと還るような錯覚を日陰は感じた。
魔法へと昇華した想いが、風音を伴って、水滴のように世界に波紋を広げる。
見ると、それまで希亜にじゃれついていた綾芽の残留思念と呼べる物は、すでにここには感じず、それが彼の望んだあるべき所へと行ってしまったのを、彼の表情からも感じていた。
「上出来。 …っ!」
日陰は思わず、目の前でくずおれる希亜を支えていた。
「体が… 縮んで行く!?」
日陰に体を預けるように気を失っている希亜、その体がゆっくりと縮んで行くのを感じていた。
やがて、それが魔力の消費のし過ぎによる、身体の幼児化だと気付いた頃、希亜の体が縮むのが静かに止まった。
「聞いてはいたが、実際に目の当たりにするとはな…」
そうして、縮んだ希亜を観察していると。
「陛下!」
振り返ると、先ほどからの魔力を感じてか黒ずくめの人物が走ってくる。
「ハイドラントか、この者を人目に付かぬ場所へ。 良い物を見せてもらった礼だ…」
日陰の手から、ハイドラントはぐったりとしている希亜を受け取り。
「陛下しかし…」
「風見さんではないのか!? ハイドラント。 先に宴に戻っておるからな」
行ってしまった上機嫌な日陰の背を見送り、不承不承ながらもハイドラントは希亜をかかえ雑木林の中へ入って行った。
「ん?」
林の中へと入って行くハイドラントの後を、一匹のシャム猫が着いてくる。
青みがかかったグレーの毛並みは手入れされており、誰かの飼い猫だろう事は、首に付いている大きいが品の良い鈴の付いたリボンが物語っていた。
「なぁ〜っ」
「使い魔か?」
「なぁお!」
コミュニケーションが取れているんだかいないんだか分からないやりとりのまま、ハイドラントは茂みの中で立ち止まり。
「この辺りで降ろす、後は好きにしろ」
「なぁ〜」
「口数の多い奴だな」
そう言いつつハイドラントは希亜を降ろした。
立ち上がり、膨大な魔力の消費により気絶したのだろうと思いつつ、横になっている希亜を見直して急に違和感を感じた。
「縮んでおると言うのか?」
「なぁお!」
「…マジですか!?」
「なぁお!」
それは、端から見ると黒ずくめの男と、青みがかかったグレーの猫との間抜けなやりとりだった。
九鬼神社内、道場。
どこかに行っていたのか、戻ってきたハイドラントと結局道場の外でしばらく語り合って…、実際には愚痴につき合わされただけだが、戻ってきてみると、綾香が芹香の膝枕の上でぐったりとしていた。
ただ、一目しては酔っぱらいがぶっ倒れているように見えたが、朔は急いで二人の元に駆け寄る。
「大丈夫です、お酒を飲み過ぎて気絶しているだけですから」
何となく、少なくとも本人はそう思いつつ、膝枕を芹香と変わる朔。
「ありがとう、芹香さ…」
朔が視線を、落ち着いて呼吸をしている綾香から、先ほどまで綾香を介抱していた芹香に向け言葉に詰まった。
「ごめんなさい、綾香を頼みます」
逃げ出すようにこの場から離れて行く芹香の表情は、隠しきれない悲しさが見えていた。
「芹香さん?」
朔には芹香が何故そんな顔になるのか分からなかった、もしかすれば希亜辺りなら知ってはるのかもしれない、そう思わずにはいられなかった。
膝の上の綾香に視線を向けた、不自然な場所に水滴が着いていた。
「…涙? 芹香さん泣いていたのか?」
しばらく思考にふけっていた朔だが、もそもそと動き始めた綾香に気付き、再び膝の上に綾香に視線を向ける。
「うーん」
「気が付いたか?」
視界には見慣れた人物の上半身があった。
「朔。 あたし、どうしたの?」
「酔っぱらって急に倒れたんだよ、美味しいからって42度もある酒をがばがば飲むからだ」
やや呆れながら朔はそう言った。
ふーん、と思った直後。 綾香はようやくにして、自分が朔の膝枕の上に頭をのせている事に気が付いた。
「膝枕?」
「ああ」
平然と答える朔に、気兼ねなく年老いてゆける相手を選んだんだなと、そう思った。
視線を上げると、朔はこちらの視線から逃げるように視線をそらす。
可愛いところあるんだ、そう心の中に呟く綾香だが。 当の朔は、あいつ近くにいるのか? 等と別の事を考えていた。
こぼれる笑みを浮かべたままの綾香が身を起こす。
「あれ? ずいぶんと減ったわね」
元々質素に挙げた式なのだが、今の道場にはちらほらとしか残っていない。
「ああ、結構時間も経ったし、皆忙しいらしくてな。 …お前は良いのか?」
「当たり前よ! 明日からハネムーンに直行するんだから、しっかり愛してもらうわよ、だ・ん・な・さ・ま!」
「…こんな所で何をしているの? 希亜君」
夕焼けに空が染まり始めた頃、はじめは物置にほど近い雑木林の中で横になっている希亜を見つけた。
頭には鍔広の帽子が被さっており、起きているのかどうかは分からなかった。
「な〜ぉ」
希亜の側でちょこんと佇む、一匹のグレーの毛並みの子猫が、自己主張でもするように鳴いた。
はじめは何度か見た事のあるこの子猫を覚えていた。
「あら、クラムちゃんだったわね、あなたのご主人様はどうしたの?」
「なぁ〜おぉ」
子猫の言葉が分かる訳でもなく。
「ま、さすがに分からないか。 …でも、希亜君ってこんなに可愛かったけ?」
まるで昔の希亜を見るような感覚にとらわれていた。
実際希亜自身の体が、魔力の過剰使用により幼くなっていたのだから無理もないが。
「クラム、誰かいるのぉ?」
「…希亜君、こんな所で寝ていると風邪を引くよ?」
「え? はじめさん!?」
がばっと希亜の体が跳ねるように、希亜は上体を起こした。
「希亜、君?」
思わず驚いたままに、相手の名を訪ねてしまうはじめ。
「あ〜、ええ…」
あまり緊張感のないのんびりした声が返るが、その声は聞いた事のない子供の声だった。
「希亜君、だよね?」
不思議に思うはじめに、希亜はようやく自分の今の状態を把握して口を開く。
「はい… この声とぉ姿ですか?」
「うん」
「ちょっと〜魔力を使いすぎまして、体が幼くなっているのはぁそのせいですぅ。 魔力が回復次第、元に戻りますから〜、心配しなくて良いですよぉ」
その場に座り直した希亜の姿は、はじめの目にはちょこんと佇んでいる少年の物だった。
「…あ、うん」
「私はしばらくここにいますから〜、お構いなくぅ」
「分かったわ」
歩き出そうとしたはじめが振り返る。
「どうしました?」
「うん、朔ちゃんにちゃんと挨拶してね? 希亜君」
「大丈夫ですよぉ、それだけはね」
希亜の返事を聞くと、はじめはそのままこの場から去って行った。
「しかしぃ、どうして?」
独りになって辺りを見渡す。
「なんだ、物置の裏か。 誰かが運んでくれたんだな」
ようやく希亜は、自分が九鬼神社の物置の裏手にほど近い場所にいたのに気付いたのだった。
一度立ち上がり、手近な座りやすい木の根本に腰を下ろす。
「アイして、いたのかな…」
ぼんやりと呟きながら瞳を閉じ、記憶の中に残る彼女を思い出すのだった。
寒い冬につないだあの人の手の冷たさを…
「希亜君の手って暖かいね」
「良く言うじゃないですか〜、手の冷たい人は心が温かいって」
「希亜君、それ用法間違ってるよぉ」
初めて重ねた唇のぬくもりを…
「…とろけそうです、心が…」
「…もっと、とろけちゃっても良いよ」
「はぁうぅ」
そして、私があの人を葬る決意をした後を…
「いいんですか希亜君? 本当に綾芽さんがいたという記憶を消してしまっても…」
背後からリアンの声が聞こえる。
自分が今どんな表情をしているのか分かるだけに、彼女たちに背を向けたまま希亜は答える。
「あの人が言った言葉にこうのがあります『子供が生まれたら、普通の幸せを与えたい』と。 だからでしょうか、私はやっと生まれてくる事になったあの人に、普通のありふれた幸せを手にしてほしいと願うからです。 だって、もう私の手の届かないところに行ってしまいましたから」
「まだ今なら、引き戻せるのではないですか?」
「危険が大きすぎます、不完全に戻ってきてしまえばそれは悲劇でしかありませんから」
始められた儀式、私は三人の魔力に重ね合わせるように、グエンディーナの二人の魔力と、芹香さんの魔力の微妙な質の差を埋めるように、魔力を自立暴走させた…
「これで… 良かったの?」
「さようなら、綾芽。 さようなら、あの人を好きだった私よ…」
口の中に血の味がする、体が縮む等という事態に加えて、自分の体が傷ついているのが分かった。
でも、今は立ち止まる訳には行かない、悠朔君にトドメを刺しに行かないといけないから、綾香さんの背をもう一押ししないといけないから。
そしてその日夢を見た。
「希亜君… あたしを忘れるの?」
「ええ」
「どうして?」
「あなたは夢を見ていたのですよ、おそらくは幸せな、そしていつか覚める夢を」
「希亜君?」
「今度は現世で幸せになって下さい、もう夢は終わりました」
そして、唐突に私は目が覚めていた…
全てはただ過去の出来事。
「時だけは過ぎゆくものと気付かずに、か…」
呟き、思考を過去から引き戻す。
立ち上がり、乗ってきた箒"天津丸Mark-2P"を展開し、鞄があるのをチェックして。
「クラムぅ、行こうか? 新郎に挨拶しないと」
箒に腰掛け、クラムがいつもの通りに鞄の上に乗るのを見てから、箒は静かにこの場から飛んでいった。
瞳からあふれたソレの跡にも気づけずに…
夕刻、悠家朔の自室。
朔は希亜からの嫌がらせの手紙を捨てようと手に取る。
「ん?」
その手紙の紙がさらに折り込まれている事に気が付き、それを広げてみる事にした。
「あいつは…」
その紙をさらに広げた先に『だからこそ、それは始発駅でもある』と書かれていた。
「まぁ、そうだな」
初めから分かってはいた事だ、希亜がこの結婚に反対する理由が何一つ無い事。 そして、希亜が心からそれを祝福する事など。
同時に心に引っかかる物もあった。
「なぜ、出席しなかったのだ」
「辛いからですよ」
振り返った視線の先、窓の外には普通の箒に腰掛け、濃紺のマントを羽織った希亜の姿があった、その肩に子猫だろうシャム猫も乗っている。
その顔は赤くなった目にくまを作った、まるで徹夜明けの魔法使いと形容すべきものだった。
ある程度見慣れた姿だったが、希亜の姿が幼い事に気付き訪ねようとした矢先に、希亜の声が届いた。
「理由だけは話せませんがね」
「お前は…」
「幸せになるんですよ、新たなる道を行くのですから。 あなたの妻と娘と共にね」
思わず朔は疑問をぶつけた。
「女の子なのか?」
「ええ」
間髪入れずに答えた希亜の顔に隠しきれない寂しさと悲しさが見えた。
そしてその頬に涙の後を見つけ、希亜の目が赤いのが泣いていた事だと気付く。
その仕草が宴の途中で泣き出した芹香の姿と重なった。
「お前は…」
そう言った朔の前に、希亜が持つハンマーを模した杖がこちらに向けられた。
「忘れなさい、永久に」
その希亜の声が届いた直後、朔の意識に霞がかかる。
その薄れ行く意識の中、希亜の声と、子猫の鳴き声を聞いた気がした。
「ちょっと朔!」
宴会で汚れていたので、着替えて朔の部屋へと入って来た綾香は、倒れていた朔の姿を見て思わず叫んでいた。
揺すり起こされて気が付く朔。
「ああ、大丈夫だ」
「どうして倒れてたの?」
それに答えようとして、朔の思考が止まった。
記憶には、子猫の鳴き声を最後に聞いて倒れた、だがそれはあまりにも不自然すぎた。
「分からん、突然気を失ったらしい。 最後に猫とあいつの鳴き声が聞こえた」
「もう、心配させないでよ。 この年で未亡人なんて嫌なんだから」
「安心しろ、そんな事になったら。 希亜が許しはしないだろう、あいつの怒りは地獄に堕ちるより怖いからな」
「そうなの?」
「ああ、心にヤスリをかけられる。 未だ誰も感じた事の無いような狂気とともにな」
そう言った朔の顔が笑っていた事に綾香は安堵を覚え。
「お義姉さんが、夕食の準備できたって」
「分かった」
二人は部屋から出て行く、部屋には希亜の手紙が残されていた。
九鬼神社付近の国道。
「なぁ〜」
「心配してくれるの〜クラム?」
「なぁぉ」
「悪いねぇ。 でもぉ、決して届かない想いを持ってしまった主人を、わざわざ哀れむ必要はないんだよ?」
「なぁ!」
「分かった、好意は素直に受けるよ」
鞄に乗せたクラムとそんな会話を交わしながら、紅く染まった夕焼けの道を歩く。
元々ガス欠に近かったところで、無理をして魔法を使いすぎた為に体がさらに幼くなっていた。
さすがにそんな状態で神戸まで飛んで帰る訳にも行かず、そして九鬼神社で宿を取る訳にも行かず今に至っていた。
見上げれば何処までも鮮やかな空。
「次に会った時は他人ですかぁ。 まぁ、これで一段落…」
そこまで言って、また自分はこの事を話に描くのだなと自然と確信した。
「これだから、私には救いがない」
そうして一人くぐもった笑いをこぼす希亜。 ゆれる鞄の上で、クラムはそんな主人の様子を寂しそう見つめていた。
何台かの自動車が車道を走って行く。
ガードレールなど無い道の歩道をトコトコと進んで行く。
「ねぇ、忘れられるかな?」
自分に向けて言葉を放つ。
「時が忘れさせてくれるかな? それとも遠く離れていれば忘れられるかな?」
クラムはただじっと揺れる鞄の上で、尽きる事のない、主の呪詛を聞いていた。
十数年後、六甲山の上にある希亜の家。
「今日も静かだね、クラム」
傍らにおり、先ほどから紅茶をちびちびとすすっている少女、使い魔のクラムにそう言った。
「調子良いみたいね」
興味なさげに返事をした彼女は、再びちびちびと紅茶をすする。
そんな彼女に、
「ああ」
と、返事をし。 再びカリカリとペンを走らせる。
彼女は、あの時に飼っていた猫と曾祖母の魂のかけらと高密度魔力結晶アズレグラスを原材料にした使い魔、今は人の形をとっている。
と言っても、人間にしては耳はとがっているし、なんとなく習性も猫っぽい、風呂好きではあるが…
結構無口なのだが、私もあまりしゃべる方ではないのでそれはそれで良い事にしている。
まぁ、漫画描きのアシスタントも出来る使い魔なんて、そうそういないだろうけど…
もう一人、我が家には住人がいる。
彼女は静かに戸を開け、部屋の中に入り。
「希亜様、昼食の準備が出来ました」
「ああ、分かったよ。 行こうかクラム」
「はい」
私の返事を聞いて、彼女は部屋から静かに出て行った。
先ほど私を呼びに来たのはセリオタイプのHMだったもの、学園で廃棄処分になるところを安価で引き取ったのだ。
だったものというのは、私の作り出したアズレグラスの作用で、既に全パーツがある種の魔法になっており、本人が望む限り生き続ける事が出来るようになっている。
だから既にHM等という代物ではない、強いて言えば自動人形とでも言うのだろうか…。
呼び方は…、彼女が「セリオとお呼び下さい」と、言ったからそのままにしてある。
ただ、最近は和服がマイブームらしく、今日も着物に割烹着で仕事をしている。
良く、似合ってはいるのだが… ハマりすぎて怖い。
私? 私の事か?
私は魔女の系譜の魔法使いとして独り立ちする為に、曾祖母の家に住み込んだ。
その曾祖母も既に亡くなっている。 式には源之助さんも見えた。
今は… もうすぐヨメナシミソジーズの仲間入りをしようとしている…
それはまぁいい。
あと1ヶ月で…
って、もういいんだって…。
六甲山。
その山の上を一台のリムジンが走っていた。
その中では自然と目的地の家の持ち主である希亜の話題が上がっていた。
「誕生の日には、銀のスプーンをいただいたのよ」
綾香がその時の出来事を思い出しながら言った。
「確か、小さなベルの付いた物だったな、芹香さん」
その当時に開けた小箱の中を思い出す朔。
「はい、きれいな音色のスプーンです」
小箱を渡しに来た時の希亜の姿を、思い出しながら答える芹香。
「…そんなの覚えてないよぉ」
ちょっと悔しそうにすねる少女、その姿は母親似か父親似か…
「ご安心を、しっかりと保管してございますぞ綾芽様」
運転席からのセバスチャンの声、
「良かったわね、綾芽」
「うん!」
はしゃぐ綾芽の側で、ふと窓の外に目を向けた朔。
お前は、どうして綾芽に…
思考は、言葉にはならなかった。
少なくとも朔の知っている希亜は、姿だけは必ず綾芽の前には現さずに綾芽の事を想っている、親の目から見ても行きすぎるでもなく…
無論、誕生日には毎年欠かさずプレゼントを届けに来ていた、やはり決して綾芽の前に姿だけは見せずに…
一度力ずくに及ぼうとしたが、その時の希亜の逃げ方はなりふり構わない物だった…
決して、恥ずかしい等という生ぬるい感情からの行為ではなかった。
「パパっ、パパは弥雨那おじさんとは良く会うんでしょ?」
「ああ」
「弥雨那おじさんって、どんな人?」
「どんな人って… なぁ?」
思わず綾香に視線を送り訪ねてしまう朔。
「そうね綾芽。 パパがもっとも苦手にしていて、同時に深く信用できて、なおかつ魔法使いな人物。 …かしら?」
「…間違ってはいないが、正確という訳でもないなそれは」
「あら残念」
「到着しましたぞ」
そんな事を言いながら、セバスチャンはリムジンを希亜の家の前に、ゆっくりと滑らせるように止めた。
希亜の家。
お昼を食べ終え、裏庭にあるいすに座りぼんやりと空を眺める。
休日の昼という物は、ゆっくり過ごすに限る。
そんな風に思いながら、気が付けば歌を歌っていた。
あの頃から変わらずに好きな歌、その詩が哀しみに満ちているから、私はこの歌を忘れない。
ふと、セリオが何か隠しきれない笑みを振りまきながらこちらにやって来た。
「希亜様、お客様が来られました」
「セリオ、なんだか嬉しそうだな」
「はい、だってお客様は悠様ご家族ですから」
「家族連れで来たか。 なれば逃げるわけにもいくまいて…」
一瞬、見上げた空に自我が吸い込まれそうになる。
「希亜様?」
セリオの声に意識を引き戻された。
「ああ… ありがとうセリオ」
「? はい…」
「行こう、応接間か?」
「はい、先ほどよりお待ちいただいております」
「いい?」
立ち上がった私に気付いたのか、クラムが私に聞いてきた、この子はいつもこういう感じだ。
「ああ、かまわないよ〜」
希亜の家、応接間。
「ねえパパ、本物の魔法使いなの? 芹香おばさんみたいな」
「ああ」
「そうよ、姉さんとは少し違うけどね」
「………………………」
「ふうん」
そんな話し声を感じ、扉を開ける。
それは、視界入って来た。
「あなたは、ひどい人だ」
思考がごっちゃになってぐるぐると回る中、私は視界の端に在る芹香さんにそう言っていた。
「貴方ほどではありません」
そう返事を感じ、ゆっくりと視線を朔と綾香の間にたたずむ少女に向ける。
「うり二つだな。 私は弥雨那希亜、少女よ名は何という」
吸い込まれるように、視線がその少女の瞳の奥に向く。
「綾芽といいます、弥雨那おじさん。 それと、いつも誕生日プレゼントありがとう」
「…そうか、私も年を取った訳だ。 それから少女よ、私の事はせめて希亜、希亜おじさんとでも呼んでくれ」
複雑な表情のままに言い切ると、視線を朔に向ける。
「どうした?」
「いや…」
言いよどんで、視線を綾芽に向け希亜は問う。
「少女よ、幸せか?」
「…多分、幸せだと思うよ」
少し悩んだとはいえ、その表情を見取り希亜は満足そうに視線を上げ。
「少し独りになる、セリオ、クラム、しばらく頼む」
「そう」
「希亜様…」
無関心のようなクラムの声と、明らかな動揺が混じるセリオの声を聞き希亜は部屋から出て行った。
「…では、お茶の用意をしますので庭へおいで下さい、クラム頼みます」
こくりとクラムが頷くのを確認してセリオも応接間から出て行った。
「この子…」
「ああ、希亜の使い魔だ」
「そっか、朔はちょくちょく会っているのよね」
「ああ、綾芽も初めてだったな」
「よろしくクラムちゃん」
クラムは静かに会釈をし、
「マスターは芹香さんにお話があるようです」
そう、芹香の方を見上げて言った。
「姉さん? 行ってきます、って」
するりと部屋から抜け出して行く芹香。
「クラムちゃんは、何が出来るの?」
綾芽の質問にクラムの無関心だった顔が、何か考えている顔になり、次いで少し困ったような顔になり、僅かな沈黙の後。
「いろいろ」
そう答えた。
希亜の書斎。
「すみません、こんな所で」
「…………、……………………?」
「いえ、あの少女が私のよく知るあの子の事を知る必要はないですよ」
「………………………?」
「まぁ思い出は、逃げ込む場所ではありませんから。 …それに、私にとっては今も鮮明に思い出されるあの子の笑顔が、一番の刃物ですから」
そう言って希亜は笑っていた。
一片の曇りもなく、楽しそうに、懐かしそうに。
「……………………?」
「まさか! 辛くないはずはない。 今だって心が軋んでどうしようもないんですから… だから、だから今まで、あの少女がいない時だけを見計らって…」
「…………」
「止めましょう、この話は。 今となっては詮無い事です」
「……………。 …………、…………………………………」
「そうですね、現実とは向かい合わないと…」
話が一段落したのか、芹香がふと本棚に並ぶ本に目をやった。
ハードカバーの背表紙には"ある魔法使いの話"と書かれた本が、第1集から第4集まで並んでいた。
希亜が芹香の視線に気づき。
「私達のサークルの同人誌の愛蔵版です。 もっとも同人誌と言うよりは自費出版に近いんですけどねその本は」
「…………………………?」
「はい、よろしければ差し上げます。 在庫はまだありますから。 …それとその第4集に"箒乗りの想い人"という話が載っています」
庭。
「しかし… 辛そうだったなあいつ」
クラムという希亜の使い魔に戯れている綾芽を見ながら、朔は呟いた。
「そう?」
傍らにいる綾香が答える。
「ああ、あいつあれでも結構綾芽の事気にかけているからな」
「え?」
「信じられない、か?」
「だって彼に関しては私よりあなたの方がよく知っているから」
「まぁ…」
昔の希亜を思い出そうとして、なぜか脳裏には空から見下ろした、いつともしれないどこかの景色が見えていた。
朔は思い出せないことを良いことに口を開く。
「まぁ、ここから先は推測なんだが。 綾芽が希亜の昔の彼女によく似ているんじゃないかなって思ってな、それでその面影を綾芽に見つけてしまって気になっていると、そう言う感じなんじゃないかと、俺は思うんだが」
「そう言えば…」
当時の希亜を思い起こそうとしたが、脳裏には夕焼けに彩られる鮮やかな雲の峰々が浮かぶ。
不思議に思いつつも、思い出せないままに彼女も言葉を続ける。
「んー、でも彼女っていた?」
「ああ、たしか大学時代に分かれたとか聞いたが」
「ふうん」
「しかし…、高校からのつきあいのはずだから、顔を覚えているはずなんだがな…」
「じゃあ、アルバムを探せば出てくるんじゃない?」
「…アルバムは処分したってさ」
「え? よっぽど辛い事があったのかな」
二人とも、もう一度思い出そうとするが、二人の脳裏にはそれぞれに全く別の、空の記憶が映し出されるのだった。
「…どうも思い出せないな」
「うんアタシも…」
希亜の書斎。
あれからいくつか語り、時間も経った事で芹香が立ち上がるのを見、希亜も立ち上がりながら。
「行きましょうか」
「……」
部屋を出て廊下にさしあたった時、先を歩いていた希亜の足が止まり、芹香へと振り向き。
「あ、そうだ。 一つだけお願いがあります」
「………、…………………………………?」
「ええ、あの少女に、綾芽という枷を付ける事だけはしないでいただきたい」
「………………………?」
「私の望みです、あなたの言うとおりにね」
ただ静かにこくりと頷いた芹香の表情を感じてか、希亜は向きを変え再び歩き出す、希亜の言う少女のいるであろう庭へ。
庭に出てきた希亜と芹香に気付いたセリオが二人分のお茶を入れる。
二人がテラスから降りてテーブルまでやってくると、朔は座ったまま希亜に視線を向け。
「なぁ希亜」
「なに?」
「このセリオはHMXか?」
「知らないよ私は、学園の機種交換に伴って本人の希望で引き取ってきたんだから」
「本人の希望?」
「ああ、『黄昏を過ごす代償に、心を持ちたいか?』ってね」
「…悪魔め」
「魔女の系譜の魔法使いですから」
綾香も芹香も、もちろん朔も全く動じない、いつものやりとりだからだ。
結局こういう点では二人のあり方は変わらなかったと言えるだろう。
そんなお約束を見て、綾香は疑問をぶつける事にしてみた。
「そう言えば高校の時からつき合ってた子がいたでしょ」
「ええ」
「どういう人物だった? どーも夫婦そろって思い出せなくて」
「忘れました」
「え?」
一瞬自身を疑う綾香に希亜の言葉が続く。
「と、言う事にして下さい」
「…言いたくないのか?」
目を点にしてしまった綾香に変わり朔が質問を続けた。
ため息を一つ吐き。
「忘れられるはずはなかったんですよ。 それにあの人は死んではいません。 なれど、いかに私の箒とて、たどり着けない場所はありますからね〜」
目を閉じて希亜は静かに答えた。
場が一瞬静かになる。
「あー、希亜は結婚はしないのか?」
朔自身、何を言ってるのか分からなかったと言えるが、その質問に希亜は、
「私の隣にいる事の出来る人間がまだいるとは、もう思えませんから」
そう言った希亜の瞳はただ、寂しそうに笑っていた。
後日、芹香の元に届けられた"ある魔法使いの話"その第4集を綾芽が読む機会があったのだが、"箒乗りの想い人"を読んでも、消された過去に気付くはずもなく…
綾芽という名の記憶:或る幸せなend
来栖川 綾香
来栖川ツーリストの社長の座を「追いかけるのに便利だからと」射止めた…
何でも卒業式前に朔と一悶着在ったのが原因だと後に娘に語っている。
悠 朔
結局綾香のハートを射止めた人物、逃亡癖があるが結婚を機に諦めたらしい。
「終着駅だったよ、若い俺にはな」
職業はトラベラーで、来栖川ツーリストの新たな旅行プランのプランナーをしている。
ハイドラント
風見ひなたの人格消滅事件を発端に、現在では十三使徒が同窓会代わりになってしまっている。
「ここまで来た責任は、取らなければな」
と、言ってしまった言葉を実行し続けている。
風見日陰
ある日、不意に風見ひなたの人格を食らってしまった(人間側の見解)為に
「人間のように人の間に在りて時を行く」という方針に変換した
ハイドラントとの関係を付かず離れずに保っており、またそれを気に入っている。
綾芽がいた記憶を持ってはいる。
来栖川 芹香
詳細未定
いや、深く考えなかっただけだってば…
希亜 弥雨那
使い魔とHMを従えた職業不定の人物、職業不定の理由は(作者が考えなかった)だけである(笑)
基本的に方向性は変わらずクラムを従える事自体は決定事項だったりする。
この話の場合、また生まれてくる綾芽の為に尽くしているといえる。
まぁ、方法に多々問題もあるが(汗)
同人活動は現在も継続中。
因みに神戸を中心とする魔術師のギルドに在籍して広報を担当をしている、理由は推して知るべし(笑)
魔法使いであり魔術師ではないので異端扱いされてはいる。
クラム
クラム・ユーナの魂のかけらと、希亜の飼い猫と、高密度魔力結晶を掛け合わせた希亜の使い魔。
相変わらず暴走魔法の使い手である希亜の魔力をソースとして、代わりに色々な魔法を使える。
猫の時は空色の瞳に青みがかったグレーの毛並みのシャム猫だったりする。
人型の時の容姿は人間にしては耳はとがっているとか空色の体毛とかあるが、おおよそ中学生ぐらいの少女であり、青みがかったグレーのドレスを着ている。
本人は結構無口でなんとなく習性も猫っぽい、風呂好きではあるが。
既にクラム・ユーナとしての記憶は存在しておらず、希亜のアニムス的な存在になっている。
因みにべらぼうに酒に強い(笑)
セリオ
本人は覚えているだろうが、正式な型式番号やロット番号は希亜は気にしてはいない。
希亜の作り出した高密度魔力結晶を内包し、魔法による自己修復機能と元々のシステムと融合した心を有する。
最近の普段着は着物だったりする…
百年の孤独(ひゃくねんのこどく)
店ではまず買えません(笑)
アルコールは42度。
焼酎でありながら、味わい深くしつこさはなく、香りも極上である。
しまぷ(う)もお気に入りの逸品。
天津丸Mark-2P(あまつまるまーくつーぴー)
二代目天津丸の改造版で、中距離(5500Km)航行用の箒である。
元々の外観は天津丸と同様に通常の箒であった。
パワーアップに伴ってアズレグラスの移植を行い、余圧を始め生存能力を飛躍的に高め、超高空も飛行可能になっている。
普段はペンダントである。
その二
「女の子なのか?」
「ええ」
間髪入れずに答えた希亜の顔に隠しきれない寂しさが見えた。
そして涙の後を見つけ、希亜の目が赤いのが泣いていた事だと気付く。
その仕草が宴の途中で泣き出した芹香の姿と重なった。
「お前は…」
そう言った朔の前に、希亜がハンマーを模した杖を持ってこちらに向け振りかぶっていた。
「忘れなさい」
その希亜の声が届いた直後、頭に重く鈍い衝撃が…。
その薄れ行く意識の中、驚くような子猫の鳴き声を聞いた気がした。
没理由:これじゃあ魔女っぽくないじゃん
その他…
数日後。
「君は、案山子の上に止まっている燕だね」
そう言われてふと足を止めた。
何となくそばが食べたくなって、出石の町中を散策している途中だった。
「忘却の畑を、ただ一人守る案山子の上に居着いた燕さん」
希亜にそう言った人物は、バス停のベンチに座ったまま、刀でも入っているのだろうか、長い袋を大事そうに抱えていた。
年は希亜よりも一回りほど若く見えたが、格好が違わなければ、視覚的には自分に結構似ていると思えた。
「…私は弥雨那希亜という魔法使いだ、君は?」
「そうだね。 朝霧健夫、副業は剣術をしている」
「なるほど」
魔法使いという自己紹介に、副業で返す辺りに希亜はこの朝霧という人物に好感を覚えていた。
「朝霧さんは、魔法使いの素質はあるのかもね。 少なくとも心を見抜く力はあるようだ」
「そうでもないですよ。 あっ」
唐突に朝霧は道の方に視線を向ける。
「バスですか?」
「次のバス2時間後なんで」
「それは残念」
立ち上がった朝霧に、希亜はそう言った。
「また、会いたいですね」
「時が在れば」
バスに乗りながらの会話。
希亜にはなんとなくだが、もう会う事はないんだろうなと考えていた。
走り出すバス、そのバスの最後尾から朝霧が姿を見せた、口が動く。
「案山子はわたしだから」
と。
「そうか… なら、綾芽の事、見届けてみるか、時が尽きるまで…」
心に深く刻むように呟いた希亜は、静かに空を見上げるのだった。
十数年後。
「今日も静かだね、クラム」
没理由:健夫を出しても説得力無いから