Hermann Ende
 1829年3月4日、ドイツ・ランツベルクにて本屋を営んでいる家庭に生まれたが、1837年に一家はベルリンに引っ越した。
 1859年にバウマイスターの資格を取り、翌年、エンデ&ベックマン建設事務所を設立した。
 中央官庁集中計画の実現のために、ベックマンの調査を元に完成した国会議事堂、司法省、東京裁判所とさらに警視庁、首相官邸、皇居の設計図を持って明治20年5月4日に来日し、ベックマンより広く日本中を見て回り、奈良の日本建築の源流まで調査し、特に正倉院の拝観も許された。
 既に来日しているJ.ホープレヒトにより多摩川水系の踏査と水道計画、高架鉄道の提案は済んでいたが、ベックマンの東京改造計画は財政難により大幅に規模が縮小されていた。実は財政難よりも問題であったのは、中央官庁集中計画を浪費や反国民的なものとして攻撃する反対勢力によって、井上馨の立場が揺らいでいたことにあった。
 ホープレヒト案に沿って日比谷練兵場跡地に司法省、東京裁判所、警視庁、海軍省、東京府庁などがロの字型に並ぶ再配置案を練ったが、その地盤の軟弱さを懸念していた。
 これらの調査結果を持ち、7月19日に帰国し、第二案の設計に着手した。その完成した図面は切妻、唐破風、千鳥破風などが巡り、櫓のような塔屋が建つ和洋折衷建築であった。この「和七洋三の奇図」と言われた図面を書く動機として、井上馨が国粋主義者など反対勢力の攻撃の矛先をそらすためエンデに働きかけたという推測がある。結局、井上馨は9月17日に外相と共に臨時建築局総裁を辞任させられるに到り、次期総裁山尾子爵の指示によりもとの洋風の図面に大幅な修正が加わり、司法省(河合浩蔵監督)と東京裁判所(妻木頼黄監督)とJ.コンドル設計による海軍省(渡辺譲監督)が建設されるにとどまった。
 1907(明治40)年8月10日没
 エンデの肖像 → 法務省ホームページ「法務史料展示室

主な作品:司法省[現法務省赤れんが館](明治28年)、東京裁判所(現存せず)



Wilhelm Bockmann
 1832年1月29日 ドイツ・エルバーフェルトにて生まれた。
 1859年にバウマイスターの資格を取り、翌年、エンデ&ベックマン建設事務所を設立した。
 明治19年4月24日、臨時建設局顧問として中央官庁集中計画の調査のため神戸に到着し、翌日、大阪の造幣寮を見学した。28日、東京に到着し、中央官庁集中計画の張本人・井上馨と会い、東京滞在中は鹿鳴館に宿泊していた。その設計者であるJ.コンドルとは5月11日に会っており、建設中のニコライ堂の見学、浅草見物を共にした。
 ベックマンは小菅集治監付属の煉瓦工場(ウォートルスの指導により明治5年に造られた)で作られる煉瓦の品質に満足せず、良質な粘土の採集、後に日本煉瓦製造会社(明治20年10月)設立に到る煉瓦製造技術の指導の必要性を指摘した。また建築家と職人の養成に力を注ぎ、臨時建設局技手としてベックマンの助手をしていた河合浩蔵と渡辺譲をベルリンに留学させることにした。後に妻木頼黄も加わり、さらに煉瓦、セメント、装飾、などの職人達も加わって、総勢14名がドイツに渡った。
 築地本願寺の大屋根や愛宕山などに上って描いたスケッチ、高さ15メートルもの櫓を組んで写真師に撮影させた写真をもとに都市計画を構想した。6月30日、日本政府と正式に契約し、国会議事堂、司法省、東京裁判所の設計を依頼された。この時既に警視庁の設計に着手しており、これらの図面と街路計画図を携え、帰国のため7月2日に横浜から出港した。
 この後、ベルリンにて図面が完成され、エンデの来日に到る。
 1902(明治35年)年10月22日没
 ベックマンの肖像 → 法務省ホームページ「法務史料展示室

主な作品:司法省[現法務省赤れんが館](明治28年)、東京裁判所(現存せず)



Cornelis Johannes Van Doorn
 1837年1月5日 オランダ生まれ。
 明治5年2月に来日し大蔵省土木寮工師として利根川、淀川改修工事 築港、運河建設を計画・指導した。明治11年、福島県安積(あさか)疏水、仙台湾を完成させ、野蒜(のびる)築港に尽力するが工事は難航し中止せざるを得なくなった。
 明治13年6月に任期満了、帰国し、1906(明治39)年アムステルダムにて死去した。
 昭和6年10月、安積疏水の業績を頌え、その水源である猪苗代湖の湖畔に銅像が建てられたが、第二次大戦中に金属供出されるのを恐れた地域住民により地中に埋められた。戦後、掘り起こされたその銅像は現在も猪苗代湖畔に建っている。



Henry Spencer Palmer
 1838年4月30日 イギリス領マドラス島生まれ。
 1878(明治11)年1月、イギリス陸軍工兵隊の勤務として香港に赴任し、広東と香港の近代水道を設計、他にも土木事業に貢献した。1881(明治14)年7月1日、工兵少佐に昇進し、天文、磁気、気象、潮汐等の観測所を提案したが財政上の理由により縮小された。1882(明治15)年10月1日、工兵中佐に昇進し、帰国を命ぜられた。
 明治16年2月、帰国途中、東京に立ち寄った折りに横浜水道の布設設計を委嘱され、3カ月に及ぶ多摩川水源、相模川水源の実地調査のうえ報告書を提出し帰国。明治17年、日本政府は来日を申し入れ、明治18年4月に再来日し横浜水道工事の技術顧問技師を勤めた。明治18年7月1日、少将に昇進したが退任し、明治20年9月、日本初の近代水道を完成させた。並行して大阪水道、神戸水道、函館水道の工事調査を行い、兵庫県三笠村の潅漑工事も完成した。
 明治22年に横浜築港工事(明治23年にJ.コンドル設計の横浜築港事務所が竣工した。水道創設記念噴水塔の選定時のような英国人同士の交流が感じられる。)を監督、また横浜ドック会社の技師として活躍したが、工事途中の明治26年3月10日、東京にて死去し、青山外人墓地に埋葬された。
 H.S.パーマーのまとめた調査報告書は100年以上経った今でも水道関係者の手本となる緻密な物であり、水道創設だけでなく都市近代化に尽くした偉業を頌え、野毛山公園に胸像が建てられた。

主な作品:横浜近代水道、横浜港、大阪近代水道、神戸近代水道、函館近代水道、他



Richard Henry Brunton
 1841年12月26日 スコットランド生まれ。
 1868年8月、灯台技師として来日し、多くの近代灯台を建設し、技術者を育成した。
 灯台だけでなく、横浜居留地の下水・道路(マガダム舗装)整備計画を立案した(後にトーマス・デービスが実施した)。「灯台の父」だけでなく「横浜のまちづくりの父」とも呼ばれる所以である。
 1876年3月帰国、日本の灯台に関しての論文を英国で発表、後に建築家となる。
 1901年4月24日没

主な作品:尻屋崎灯台、犬吠埼灯台、御前崎灯台、他



Thomas James Walters
 1842年 アイルランド生まれ。
 明治元年、造幣工場を設立するに当たり、香港造幣局の設計監督を担当したT.J.ウォートルスがT.B.グラバーの推薦により招聘された。
 イギリスに発注していた鉄柱の納期が大幅に遅れたため、かつて自分が設計監督した香港造幣局で鉄柱を購入したり、工事途中に火災が発生するなど困難を極めたが、明治3年11月に竣工し、明治4年4月4日に創業式を挙げられるに到った。ウォートルスは、この頃既に大蔵省土木寮技師として東京に赴任していた。
 明治5年2月、和田倉門内の兵部省から出火した火災は紺屋町、銀座、尾張町、木挽町を焼き、築地付近で鎮火した。その直後、東京府は防火を理由に府下の建物を全て煉瓦造にする方針をたて、それをうけた明治政府により先ず銀座から煉瓦街を建設することになり、ウォートルスはその工事に従事した。
 銀座煉瓦街の建設工事がほぼ完了した明治8年に工部省製作所(大蔵省土木寮から内務省土木寮を経て工部省に移管)を退任し、イギリス公使舘、兵部省庁舎などを設計監督し、「ウォートルス時代」と称される明治初期の西洋建築時代を築いた。
 建築のみならず、イギリスから弟のアルバート・ウォートルスを呼び寄せ、有恒社製紙場を設立し洋紙製造にも大きく貢献したが、帰国年月日、帰国後の消息は不明である。

主な作品:大蔵省分析所、大阪造幣寮、竹橋陣営、銀座煉瓦街、他



Johannes De Rijke
 1842年12月4日 オランダ生まれ。
 明治6年に来日し、大蔵省土木寮に雇われ大阪に赴任し淀川の治水工事に従事し、功績を挙げた。他にも大阪築港、福井県三国港、広島港、長崎港、仙台湾内湾港、富山県常願寺河川改修、木曽三川治水などの工事に尽力した。
 明治13年、長工師(技師長)C.J.ファン・ドールンが帰国した後は東京に帰任し、内務本省で全国土木工事を監督するに到った。また、水道工事の改良にも多くの功績を挙げ、特に明治17年、東京神田に施工した分流式下水道の設計は、日本の近代下水道最初の物であり、現在でも東京都下水道局で「デレーケ」と呼ばれ、維持管理され立派に機能している。
 政府より勲二等瑞宝章が贈られ、明治34年に帰国した。
 後に中国政府に招かれ揚子江航路の改良工事に尽力し、明治43年オランダに帰り、1913(大正2年)年1月20日アムステルダムで死去した。
 長い間、木曽三川治水工事は日本人のみの手によるものと伝えられてきたが、最近の調査によりJ.デ・レーケによるものと認められ、木曽三川近代治水百周年を記念し昭和62年に「治水の恩人」として船頭平河川公園に銅像が建てられた。

主な作品:船頭平閘門、他


George Arnold Escher
 1843年5月10日 オランダ生まれ。
 1873年9月来日、1878年7月帰国。
 土木業界ではエッセルと発音されるが、不思議絵で有名なエッシャー(Maurice Cornelis Escher :1898/6/17-1972/3/27)は彼の五男。
 1939年6月14日没。

主な作品:三国港、龍翔小学校、他



Josiah Conder
 1852年 ロンドンに生まれる。
 明治10年1月、工部省の招聘により来日、工部大学校造家学科教授(工部省営繕局顧問兼務)となり、片山東熊辰野金吾曾禰達蔵らに建築学を教えた。上野博物館が竣工した明治14年には、画家河鍋暁斎の弟子となり日本画を学んだ。後に「暁英」の画号を贈られ、いくつかの日本画を遺している。
 明治19年2月、中央官庁集中計画により臨時建築局に移ったが、その主導権はドイツ人建築家エンデベックマンが握ることになった。この年の11月、ロンドンに帰省する際、ドイツに派遣される妻木頼黄河合浩蔵と渡辺譲らと航海を共にした。翌年帰国し、その翌21年3月、将来を案じてか設計事務所を開設した。
 中央官庁集中計画の挫折により、明治23年3月、臨時建築局は廃局となりエンデベックマンと同様に解雇されたが、内務省土木局名誉顧問となり残務である海軍省庁舎の建設工事を処理し、既に開設している事務所にて民間建築設計の依頼を受けた。この年、三菱会社の顧問にもなり、丸の内煉瓦街の計画を担当し、耐震工法や防火床構造などの技術を確立した。
 明治26年7月、花柳流の舞踊稽古をしていた師匠前波くめと正式に結婚し、明治37年5月に自邸が完成した頃から表舞台に出ることも少なくなった。
 大正3年2月、遅すぎるとも言われた、工学博士の学位が授与され、大正9年6月21日、脳軟化症で死去した。くめ夫人の亡くなった僅か11日後であった。

現存する全ての建築:日本ハリストス正教会東京復活大聖堂[ニコライ堂](明治24年)、岩崎家茅町邸洋館・撞球場(明治29年)、岩崎家高輪別邸洋館[現開東閣](明治41年)、岩崎家玉川廟(明治43年)、三井倶楽部(大正2年)、諸戸邸洋館(大正2年)、古川邸本館[現大谷美術館](大正6年)、島津邸本館[現清泉女学院](大正6年)
現存しない主な建築:上野博物館、鹿鳴館、訓盲院、三菱一号館・二号館、他



William Kinninmond Burton
 1855年5月11日 スコットランド、エディンバラに生まれた。
 明治17年、ロンドンで開催された万国衛生博覧会に参加した内務省衛生局長 永井久一郎(永井荷風の父)の要請により、明治20年5月来日し、工科大学の衛生工学担当講師となり、また内務省衛生局顧問技師として横浜市水道の改修、名古屋市、広島市、門司市等の各地の水道改良に尽力し、H.S.パーマーの調査・設計した大阪水道工事計画に改良のための意見を述べ、その計画が修正されるに到った。明治21年8月、東京市区改正条例が公布されるに当たって、その委員に任命され、明治21年10月、上下水道設計調査委員会が組織され、その取調主任となった。
 明治22年、日本写真会を設立し、J.コンドル設計のニコライ堂の建設風景などの貴重な写真を遺しただけでなく、欧州からの写真用品の輸入、解説本「写真術のABC」の執筆など、日本の写真技術の発展に貢献した。明治24年には濃尾地震の被害状況を視察、撮影した。明治29年5月、帝国大学を満期解任、勲四等旭日中綬章が贈られた。
 後藤新平が台湾総督府民政局長となりW.K.バートンは招かれて台湾に渡った。台北市の下水道工事もW.K.バートンの努力により進み、さらに基隆港水道工事に着手したが健康を害し日本に帰った。
 明治32年8月5日、肝臓疾患のため死去、青山霊園一般墓地に埋葬された。

主な作品:凌雲閣(現存せず)、東京近代上下水道、名古屋近代上下水道、牛田浄水場宮原浄水場、平原浄水場、三野水源池、台北水源地、他



Jan Letzel
 1880年4月9日 チェコスロバキア東北部ナホトで生まれた。
 1900年プラハ美術専門学校建築科に入学し、ヤン・コチェラ教授の下で学び、卒業後エジプト王家の代理者に雇われ3年間働いた。
 明治40年、東京にあるドイツ人建築家デ・ラランデの建築会社に就職するために来日し、明治42年には東京の京橋にヤン・レッツェル建築事務所を設立したが、第一次世界大戦の不景気により閉鎖し、一旦帰国した。
 大正7年、チェコが独立すると貿易省の随行員として再び来日したが、間もなく帰国し、1925(大正14)年12月26日、プラハにて亡くなった。

主な作品:広島県物産陳列館、聖心女学院正門、他



Charles Assheton Whatery Pownall
 生没年不詳。
 明治15年3月、工部省鉄道寮建設師長のホルサムの後任として来日した。神戸在勤の後に東京に移り、今でも「ポーナル桁」と呼ばれる英国式プレートガーダーやトラスの標準仕様を確立した。また、信越本線の横川−軽井沢間のルート選定には現地踏査を行った(実際には日本人技師のルートが採用された)。
 明治29年2月、任期満了により帰国した。奇しくも、この後に米国型の橋梁が輸入され、今も主流となっている。



曾禰達蔵 そね たつぞう
 嘉永5(1853)年11月24日、江戸の唐津藩屋敷にて殿の側近の子として生まれた。
 明治12年に工部大学校造家学科を卒業し、工部省技師、海軍兵学校建築掛となった。明治14年には工部大学校の助教授になったが、明治19年に退官と同時期に海軍技師となり、明治22年に呉鎮守府建築部長となった。
 明治23年には三菱会社に入社し、J.コンドルと共に「一丁ロンドン」と呼ばれた丸の内の煉瓦街を造った。
 明治39年に三菱会社を定年退職し顧問となる。同じ年に曾禰建築事務所を開設、明治41年には中條精一郎と曾禰中條建築事務所を開設した。
 大正7年に建築学会の会長に就任し、辰野金吾と共に臨時議院建築局顧問も務めた。
 「三大建築家」の死を見届け、はるかに長生きをした曾禰は昭和12年12月6日に亡くなった。中村達太郎が書いたその追悼文には「唯私は曾禰博士を入れて、四大建築家、と為したかったのである。」と記されている。

主な作品:三菱会社諸施設、慶應義塾大学諸施設、海軍兵学校諸施設、他



片山東熊 かたやま とうくま
 嘉永6(1854)年12月19日、長州藩(山口県)萩にて生まれ、慶応3(1867)年には奇兵隊に入隊し戊辰戦争に参加した。
 明治5年、長州閥の山県有朋の庇護による官費生として工部大学校造家学科に入学し、明治12年に卒業と同時に工部省技手となった。明治15年からの欧州各国視察を終え、明治17年工部省御用掛兼外務相御用掛となる。
 明治19年、皇居造営のためドイツに派遣され、明治30年、東宮御所造営のため欧州各国に出張し、翌年、東宮御所造営局技監となった。翌32年、再び欧州各国に出張し、明治35年帰国、明治37年には宮内省内匠頭を兼任した。
 明治42年、東宮御所の竣工を明治天皇に伝えたが「贅沢だ」と一言漏らしたのみであり、片山は大いに落胆し体調を崩したと言われる。結局、皇太子夫妻がこの宮殿に住むことなく明治45年の明治天皇崩御を迎えることになり、大正元年、明治天皇大喪使工営部長となり、翌年、大礼使参与官となった。
 第二次大戦までに東宮御所が使われたのは大正6年夏の天皇と李王殿下との会食の一回のみであったが、片山は奇しくもこの年の10月24日に亡くなった。

主な作品:東宮御所[現迎賓館赤坂離宮]、表慶館、帝国京都博物館、帝国奈良博物館御所水道ポンプ室、他



辰野金吾 たつの きんご
 嘉永7(1855)年8月22日、唐津藩(佐賀県)の足軽の家に生まれた。
 明治12年、工部大学校造家学科を卒業し、欧州に留学した。翌年、ロンドン大学、W.バージェス事務所で学び、明治15年、フランス・イタリアを視察した。翌年、帰国し、工部省営繕課に勤める。
 明治17年、J.コンドルの後任として工部大学校造家学科の教授となりイギリス流の建築学を教え、太政官も兼任した。明治19年、工部大学校は帝国大学工科大学と組織変更されたが、この年に建築事務所を設立し、造家学会の創立委員となった。
 明治31年、改称した東京帝国大学工科大学の学長となり、前年に造家学会から改称した建築学会の会長にもなり、翌年に議院建築調査会の委員となった。明治35年、学長を退官し、翌年、名誉教授となったが、辰野葛西建築事務所を設立し、さらに明治38年には辰野片岡建築事務所をも設立した。 大正7年、臨時議院建築局常務顧問となったが、翌年の3月25日に亡くなった。

主な作品:中央停車場、日本銀行本店・大阪・京都・小樽・各支店、浜寺公園駅、韓国銀行本店、他



河合浩蔵 かわい こうぞう
 安政3(1856)年1月24日、武州東葛飾郡(埼玉県)に生まれ、明治15年に工部大学校造家学科を卒業し、工部省営繕局、皇居造営局御用掛となった。
 明治19年、中央官庁集中計画のため臨時建築局に移り、ベックマンの指導によりドイツに留学し、エンデベックマン建設事務所に勤務した。また、この年には造家学会の創立委員となり、その設立に尽力していた。
 明治21年に帰国し、挫折した中央官庁集中計画の残務とも言える司法省の建築を監督した。明治23年、内務省技師となり、明治27年には外務省震災営繕事務嘱託となった。
 明治30年、内務省技師を退官し、明治32年には議院建築調査委員となった。
 明治38年、神戸に河合浩蔵建築事務所を開設し、造幣局営繕工事を監督する傍らで、小寺家厩舎、三井物産神戸支店などを設計した。
 昭和9年10月6日、逝去。
 河合浩蔵の肖像 → 法務省ホームページ「法務史料展示室

主な作品:造幣局火力発電所、神戸地方裁判所、小寺家厩舎<重文>、奥平野浄水場急速濾過池上屋、他



中島鋭治 なかじま えいじ
 安政5(1858)年10月12日、仙台市支倉通りにて生まれた。
 明治16年、東京大学理学部土木工学科を首席で卒業、同学部の助教授となり、明治17年、京阪、大和、伊勢地方の古代建築物取調を命ぜられた。明治19年、私費でアメリカに留学し、衛生工学研究中に文部省留学を命ぜられドイツに渡り、衛生工学、水道工事、橋梁学を修め、明治21年、イギリス上下水道、欧州各国の土木工事、ローマ給水法を調査した。
 内務省土木局長で東京市水道改良の工事長を兼務した古市公威の推薦により、主任技師になるため予定を早めて明治23年11月に帰国した。既にH.S.パーマーW.K.バートンなどによる設計案から原設計として千駄ヶ谷に浄水工場を創設することが決まっていたが、緻密な調査の結果、千駄ヶ谷に沈殿池や濾過池を建設するのは不適であると判断し、淀橋に変更するに到った。
 明治29年、帝国大学の教授になり、明治32年、工学博士の学位を授与された。
 明治31年から明治39年まで東京市技師長を務めると共に、内務省技師、中央衛生会委員、都市計画調査会委員を務め、片山東熊設計の東宮御所の水道施設を始め日本や満州の多くの近代水道施設を造った。
 後に東京帝国大学名誉教授となり、大正13年5月、正三位勲二等旭日章授与、大正14年1月、土木学会長も務め、「近代衛生工学の父」と言われた中島は、その年の2月17日に亡くなった。

主な作品:東宮御所水道、駒沢給水所野方配水塔大谷口配水塔片田貯水池、他



妻木頼黄 つまき よりなか
 安政6(1860)年12月10日、江戸の赤坂にて旗本の家に生まれた。
 明治7年、工部省電信寮で電信技術を学び、明治8年に慶應義塾に入塾し、明治9年には渡米し、翌年帰国した。明治11年、工部大学校造家学科に入学するが、明治15年にコーネル大学に留学するために退学した。明治17年、コーネル大学を卒業し、R.H.ロバートソン建築事務所に勤務した。
 明治19年、中央官庁集中計画により臨時建築局の技師となり、留学する河合浩蔵と渡辺譲と共にドイツに派遣された。ロンドンに帰省するJ.コンドルも乗船しており、ドイツまで航海を共にした。翌年、諸官庁の工事着手が議決し急遽帰国が命ぜられたが、妻木は病床にあったため河合浩蔵と渡辺譲らに遅れて帰国した。東京裁判所は既に渡辺譲の監督により工事が始まっていたが、妻木が監督を引き継ぎ完成させた。
 明治32年、辰野金吾と共に議院建築調査会の委員となり、翌年、臨時税関工事部建築課長となった。明治34年、欧米出張の後、総務局営繕課長、明治37年、臨時煙草製造局建築部長、翌年、大蔵省臨時建築部部長を歴任した。その一方で、明治21年に設立された工手学校(工学院大学の前身)の会計主任になるなど、その運営に尽力し技術者を養成した。
 明治43年、議院建築準備委員会となったが、明治45年頃から再び病状が現れ療養に専念した。大正2年に大蔵省を退官したが、大仏殿修復工事顧問などを務めた。大正4年、持病が再発し入院することになり、大正5年10月1日に勲二等正四位瑞宝章を授与されたが、その十日後に亡くなった。
 妻木頼黄の肖像 → 半田市のホームページ

主な作品:東京府庁舎(現存せず)、横浜正金銀行本店<重文>、新港埠頭煉瓦第二倉庫大阪麦酒吹田醸造所丸三麦酒半田工場、他



田辺朔郎 たなべ さくろう
 文久元(1861)年、幕臣の洋式砲術家田辺孫次郎(蓮舟)の長男として江戸に生まれた。
 明治16年、工部大学校土木課卒業と同時にその卒業論文に魅せられた第三代京都府知事北垣国道に招かれ、京都府御用掛となり琵琶湖疏水工事を担当した。当時の日本では最長の疎水第一トンネルも貫通し、明治23年4月に竣工した。竣工間際に蹴上発電所併設の計画変更もあり、田辺は急遽アメリカに渡り水力発電の技術を習得することになったが、これも明治25年に無事完成した。
 琵琶湖疏水が完成した明治23年には帝大教授、次いで臨時北海道鉄道敷設部技師、部長を経て、明治33年欧米視察、帰国後京都帝大教授、同大工科大学学長を歴任。その間、京都市土木顧問に推され第二疏水の事業にも参画。
 また、関門海底トンネルの調査にも従事し、昭和19年9月5日に亡くなった。
 田辺朔郎自身による「石斎随筆」には卒論の課題を求めて明治14年に京都を訪れた際の事として「汽車は勿論ないのですから、歩いてきました」「人力車はえらい人の乗るものでした。ですから私どもは、弁当持ちで歩きました。」とあり、当時の一般人の生活水準が窺い知れる。
 いくつかの人名辞典で「たなべ さくお」とされているが、親族の方々の証言などにより「たなべ さくろう」が正しいと思われる。

主な作品:琵琶湖疎水蹴上浄水場、他



宋 兵蔵 そう ひょうぞう
 文久4(1864)年〜昭和19(1944)年
主な作品:生駒ビルヂング<登文>、柴島浄水場 送水ポンプ所、他



伊東忠太 いとう ちゅうた
 慶応3(1867)年10月26日、米沢藩(山形県米沢市)に生まれた。
 明治25年、帝国大学工科大学造家学科を卒業し、大学院にて日本建築史の研究を続けた。翌年、平安建都1100年記念事業である平安遷都紀念祭の協賛会紀念殿建築技師として嘱託され、平安神宮を設計した。
 明治29年内務省古社寺保存会委員、明治30年東京帝大工科大学講師、明治31年造神宮技師兼内務技師、東京帝室博物館学芸委員、明治32年工科大学助教授などを歴任し、明治35年に中国、インド、トルコに留学し建築を研究した。明治38年に帰国し、工科大学教授となった。
 大正4年、明治神宮造営局工営課長となり、大正9年に明治神宮が竣工した。昭和3年、東京帝大を退官し早稲田大学の教授となった。
 昭和29年4月7日に亡くなった。

主な作品:平安神宮、明治神宮、築地本願寺、真宗信徒生命保険本館、祇園閣、日泰寺仏舎利奉安塔法華経寺聖教殿可睡斎護国塔恩賜林謝恩碑J.コンドル銅像台座、他



鈴木禎次 すずき ていじ
 明治3年7月6日、静岡県の銀行家の裕福な家庭に生まれ、明治29年、帝大工科大学造家学科を卒業し、翌年、三井銀行建築掛に就任した。
 辰野金吾の指示により名古屋高等工業学校に行くことになったが、それに先だって、明治36年、イギリス、フランスに留学し特にフランス流の建築を学んだ。明治38年、名古屋高等工業学校が開校したが、鈴木は翌年帰国、教授兼建築科長に就任し人材の育成に尽力した。
 名古屋を拠点とし、東海の建築の近代化に貢献した鈴木は、夏目漱石の義理の弟でもあり、大正6年、夏目漱石の一周忌に間に合うよう、その墓標を設計した。
 昭和15年、名古屋の建築事務所を閉鎖し、東京の自邸に戻ったが、翌16年に名古屋での愛知時計電気との打ち合わせ中に倒れ、8月12日に旅館にて急逝した。
主な作品:鶴舞公園計画、岡崎銀行本店、東邦瓦斯諸施設、夏目漱石墓標、他



中村與資平 なかむら よしへい
 明治13年2月8日〜昭和38年12月21日
主な作品:静岡市役所、静岡県庁、豊橋市公会堂済生会中津病院天道教中央大聖堂徳寿宮美術館、、他



鉄川与助



田中又一 と 樋口市郎




参考文献
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