『〈現われ〉とその秩序 メーヌ・ド・ビラン研究』
(東信堂 2007年)
実に一冊の書物とは、そのページ上に実際に記されたことと同時に、そこにはあえて書かれなかったことによってもまた、そのような書物として成り立っているものだ。──最初に本書を一読した時に評者がまず抱いたある種の言い難い感慨をあえて言葉にすれば、このようにでも言えようか。我ながらどうしようもなく漠然とした感想だとも思うが、個人的に感じたその両義性をこの場で解きほぐすことを通じて、評者の任をいささかなりとも果たせればと願う。
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メーヌ・ド・ビランという哲学者については、日本語で読めるものに限っても、すでに少なくない数の優れた研究書と研究論文が存在しており、また特にこの十数年、再びその我々の有する財産はいっそう充実したものとなっている。そして村松氏による本書によって、その豊かな蓄積にまた一つ、極めて堅実な成果が、加えられた。
本書の特質は、そこに添えられた仏文タイトル──Maine de Biran, un philosophe du monde ordinaire──によってすでに明らかだろう。これは最晩年のビランがその手帳に記した一節、すなわち「だから、私たちの生きる通常の世界に降りていく哲学者が必要なのだ」という簡明な言葉から採られた表題だが、そこに表明されたビランの哲学的要求を正面から引き受けることで本書は開始される。多くの哲学者から軽視され、時に蔑視すらされるこの「通常の=秩序だった(ordinaire)世界」のうちには、まだ誰も十分に繰り広げたことのない恐るべき深みが折り畳まれており、その「通常の世界」の経験に関しての精密な分析と記述は、そのまま何の留保もなしにすでにして十全な「哲学」をなすものなのだ。
〈秩序〉を主題とする本書は、それ自体、極めて秩序だった構成をそなえている。三部に分かたれるその第一部「ビラニスム以前」では、トラシを始めとする同時代の観念学者との比較などを通じて、ビランがいわゆる彼固有の「ビラニスム」へと歩みを進めていくその姿がまず浮き彫りにされ、第二部「ビラニスムの基本的諸概念とその連関」では「根源的事実」、すなわち意志的努力とそれに対する抵抗=身体といった周知の諸概念から構成される「ビラニスム」の骨格が簡明に整理される。以上に続く第三部は「ビラニスムにおける認識の諸体系」と題されているが、著者はこの「体系」という、実際ビランが多用しつつもそれとしては注目されることの少ない語を重視しつつ、特に『心理学の基礎についての試論』の描く「諸体系」の分節──触発的体系、感覚的体系、知覚的体系、反省的体系──にほぼ依拠しながら、従来の哲学者にとってはあまりに自明なために十分な考察対象にならなかった「通常の世界」がそのうちにはらんでいる錯綜した多重的構造を、そこに実存的に関与しつづける生身の〈私〉のさまざまの能作と共に、詳細な分析の対象としていく。「序文」で著者は力強くこう述べていた──「〈私〉が自らの実存を見出す「通常の世界」を織り成す様々な〈現われ〉のありようを、〈私〉の能力とのかかわりの中で、測定し、配分し、概念化しようとした哲学者であるからこそ、ビランのテキストは読まれるに値する」。その「読み」が実際に展開されるのが、この最後の第三部だというわけである。
称賛に値する明晰さと慎重さを備えた本書の論述を通じて我々に与えられる示唆的な論点は数多いが、その中から特に印象的なポイントをいくつか拾っておこう。1)ビランの歩みの背景として、コンディヤックは当然として、トラシやバルテズ、カバニスといった著作家に正当な注意が払われ、直接の参照が行われている(第一部全体、あるいは第三部第二章ならびに第三章、等々)。読者は、簡明な整理の背後で行われたはずの著者による作業の(当然と言えば当然の)誠実さに気づかずにはいられないだろう。2)「ビラニスム」を構成する周知の諸概念を考察した第二部でも、人格的同一性の問題に深く関与するところの継続的で未限定な「内在的努力」、ならびにいわゆる「固有身体」に相関して与えられている「内的空間」という諸概念の意義が強調されている点は、その記述の明快さと共に、身体論を始めとする諸々の問題系への潜在的寄与という観点から評価されるべきだろう。3)「触発」と「直観」との区別とその意義は、例えばアズヴィが以前から適切に指摘していたものだが、著者はその区別を改めて明晰に性格づけ、「直観」には固有の質的かつ空間的な性格がそなわっていること、そしてまた自然科学の対象がこの「直観」であるといった諸論点をそれとして指摘していく。そして先に言われた「内在的努力」と、「直観」固有の空間性の中で自ら身体全体をもって動く「共通の努力」とを、もちろん同一ではないにせよ、「類似」の相の下で連続的に捉える読解を示す(第三部第二章、ならびに同第三章第三節)。これもまた、ビラン読解として少なくない示唆を与えるものである。4)初歩的な点とも言われようが、「外的物体」を、同じく「抵抗」として現われる「固有身体」とは別個の、まさに「外的」なものとして区別して認識するプロセスの解明について、ビラン自身が時期によって見解を変えつつ議論を洗練させていく点の整理も明晰である(第三部第三章第二節)。──ただあえて付言すれば、ここで著者はもっぱら『試論』の論述中での「触圧」の概念に着目し、この「触圧」が、自我と同一化されないというビラン的意味での「直観」に属するという点を特に強調しながら、その点に固有身体と外的物体との間の区別の根拠を見定めている。注意深い著者自身によって当然すでに自覚され注記されていることだが、ただやはり、意志的努力に対して結局はそれに従うことになる「関係的=相対的」抵抗と、そうではない「絶対的」抵抗との、つまり、「抵抗」内部での差異という論点は、著者が註で引く『試論』第一部のみならず、当の「触圧」が議論に加わってくる箇所でも反復される(Azouvi-VII-2, p.282)ものである以上、著者の選択した解釈方向に委ねられている賭金に関して一層の説明を求めたくなる点ではある。というのも、もしポイントがむしろまずもって「抵抗」そのものの内部での区別であるとすれば、そしてもし仮にこの「抵抗」の絶対性と相対性との境界が移動可能なゆらぎを持ち得るものだとすれば、ビランの身体論はまた別の含意を持つものとして位置づけられ得ようからである。まずもって「非我」を意味する「抵抗」が、それでもある程度まで馴致可能(「我有化」(「所有」ではない)可能、と言い換えてもよい)であるという事実は、身体論一般の問題構制に関する限り、そしてまた「通常の世界」のそのままの記述という課題に照らしても、あるいはさらに言うなら、ラヴェッソンからメルロ=ポンティへと連なるあの「習慣」論の系譜が担う問題系に関しても、おそらく無意味なことではないからである。著者は楽器の事例を好んで取り上げるが、ではあなたが愛用する例えばそのチェロは、あなたがそれを奏でているその瞬間、〈私〉に対しての単なる「外的対象」であろうか、と問うてみたい気もする。
「問うてみたい気もする」と書いたが、冒頭で述べた評者の両義的な感慨も、それと同じトーンを帯びたものとなろう。先述の諸点に限らず、著者は数多くの解釈上のポイントを実に明瞭に見通している。ビランについて、あるいはビランを拠点として展開されたヴァンクール、ベルッシ、アズヴィ、そして特にアンリといった論者による堅実な、しかしある場合には冒険的ともなる既存の重要な諸研究すべてが著者の冷静かつ散文的な論述の暗黙の背景をなしていることは読者には明らかであって、そうした諸解釈に関しては実際、本論への補足的な意味での言及と参照が、そして時に過剰な解釈への批判(例えば第三章第二部での直観的空間性に関する註11や13)が、多くの場合「註」という慎ましい枠組みの中で行われている。そしてあくまで本書本文は、「通常の世界の〈秩序〉について、ビラン自身が何を語っていたのか」という問いの枠を自らに厳格に課しつつ論述を進める。かくして、ページ上に実際に記された叙述は、極めて明晰な光の下に置かれることになる。
しかし──しかし、と言おう、それだけに、その周囲に暗く沈まされ、あるいは削ぎ落とされた諸論点が、評者にはいっそう気がかりなものとなるのである。例えばビランにおける「信憑(croyance)」概念の問題性は周知のものだが、著者は「解釈の困難なこの「信憑」の概念については詳述することは避ける」(pp.125-126)と述べ、この概念をただ「感覚的体系」における「非我原因」の認知に関わる場面(第三部第二章第四節)でのみ扱うに留める。また、「努力の感情」の「感情」的側面の意義、言い換えれば「努力」が自らを「努力」として知るその根源的構造としての情感的受動性という問題についても、著者は当然アンリを引きつつも、この論点をそれ以上展開することはしない。以上の諸論点を仮に展開したならば結局、そこにおいて〈私〉が単なる能動的意志としてはもはや規定され得ない、「精神的生」という別種の〈秩序〉(ordre)に、つまりは後期ビランの「人間論」へと話を進めざるを得なくなるはずだが、しかし本書はその種の(正直、ありふれた)道筋をむしろ意識的にきっぱりと遮断しているように見える。そしてこの「語らない」という所作そのものに著者の態度表明を読みとることは、評者の恣意的な勘繰りではないはずだ。繰り返すなら、『メーヌ・ド・ビラン、通常の世界の哲学者』というあの仏語書名には、まさにビラン哲学の評価そのものに関わる著者の実に強い主張が明瞭に記されているのである。
したがって、以上のようないくぶん過剰な疑念を含む評者の感想は、逆に評者自身へと厳しく打ち返されてくることになるだろう。ここでは、特に19世紀フランス哲学の文脈を視野に入れながら、次の二つの問題を、願わくは著者と共有すべき「懸案」として提示することでお許し願いたい。
1)「行為」概念について。著者は「知覚的体系」を論じる中で、一定の〈秩序〉把握を前提としつつ眼前の「直観」に変化を与える能作に、「「行為」という言葉の極めて厳密な定義」(p.222:第三部第三章註20)を見る。しかし「行為」とは同時にまた、私が把握し予期する〈秩序〉の外部、私が理解する意味の外部に〈私〉を曝し、未知の〈秩序〉へと〈私〉を開いていく冒険的所作のことでもありはしないか。ビランをすぐさまブロンデルたちへと延長せよ、という意味ではない。しかしベルクソンを想起するまでもなく、〈私〉が諸現象の内部に〈秩序〉を探し求めるその営みの根底に、何らかの先行的な、広義の「実践」的方向づけが存在すると見ることは不当なのかどうか(もちろん著者も「注意」を動機づける「好奇心」について語ってはいる(p.201)が、そこでもそのささやかな語りがすでにして「ビランのテキストを越えていくことになる」と言われ、それ以上の考察はやはり遮断されている)。2)コント哲学との対決について。著者は本書の「序文」と「結語」でコントの名を、19世紀フランス哲学に課された〈秩序〉という一般的主題を引き受けたもう一人の哲学者として、繰り返し口にしている。しかしこの「ビラン/コント」という非常に興味深いペアが形成する問題系について、本書はまだ何も実質的に論じてはいない。実際、巨大なテーマである。本書は、そのテーマを前にして「まずは」(p.4)ビランの側で必要な準備を整える、その意味ではこの上なく周到な一つの予備作業なのだ、と見ることも許されよう。では、この次に何が論じられるのか。フランス哲学に取り組みながら、ここに多大な関心と興味、そして期待を抱かぬ者など、どこにもいないはずである。そして評者自身、強い期待をもって、著者の引き続いての研究を待ち望んでいるその一人であることを喜んで告白しておきたい。──ひとまずはそんな期待を著者に投げ返すことで、優れて繊細なビラン研究としての本書への評を終えることにしよう。
(杉山直樹)