古バビロニア王国「バビロニア王国」は、後の「新バビロニア王国」と区別するために「古バビロニア王国」と呼ばれることが多く、また「バビロン第一王朝」とも呼ばれる。 シュメールのウル第3王朝が、東方からのエラム人や、シリア方面からのアムル人(セム系遊牧民)の侵略を受けて、BC2006年に滅亡すると、エラム人は故郷へ戻ったが、アムル人はメソポタミアの中・南部に定着してシュメール・アッカド文明を吸収した。 ウル第3王朝が滅亡すると、小国分立の時代となった。ウル第3王朝の後継を任じる「イシン第一王朝」と、アムル人の「ラルサ王朝」とが並立する時期がしばらく続くが、この時期を「イシン・ラルサ期」と呼ぶ。BC1894年ころ、アムル人の族長スム・アブムがバビロンに拠点を置いて「バビロン第一王朝」を建てると、三国が鼎立する状態となった。 「バビロン第一王朝」の初代のスム・アブム王は、13年間在位し、バビロン周辺を広範囲に支配した。 第6代ハムラビ王(在位BC1792〜BC1750)のとき、即位当初はアッシリア、ラルサ、エシュヌンナに包囲されるが、在位29年目にエラム、スバルトゥを破り、翌年ラルサ(ラルサはイシンを征服していた)を破ってバビロニア南部を統一した。また、BC1759ころにはバビロニア中部のマリまで征服し、バビロニア王国の最盛期をむかえた。 全バビロニアを統一したハムラビ王は、BC1750年ころに「ハムラビ法典」を発布した。 (注:「ハムラビ法典」は、AD1901〜1902年の発掘により、フランス隊によってスサで発見された。その後に大きな影響を与えた重要な法典であるが、世界最古の法典ではない。ウル第三王朝時代の「ウルナンム法典」の一部が発見されている。 ウル第3王朝 ) このほか、ハムラビ王は、治水灌漑事業や首都バビロンの造営、中央集権的な行政・司法・軍事の組織を確立した。 なお、ハムラビ王の名は、旧約聖書(「創世記」第14章)にもアムラベルの名で伝えられている。 BC1595年ころ、第11代サムスディタナ王のとき、ヒッタイトのムルシリ1世の襲撃を受けて、バビロニア王国は滅亡し300年の歴史に幕を閉じた。その後にバビロニアを支配したのは、東方の山岳地帯からやってきたカッシート人で、カッシート王朝(バビロン第三王朝)が350年以上続くことになる。 【王朝系図】 「世界の歴史2 古代オリエント」からの引用で、当ページの表記と異なるが、そのままにしてある。 第1代 スムアブ 第2代 スムライル 第3代 サブ 第4代 アピル・シン 第5代 シン・ムバッリト 第6代 ハンムラピ 第7代 サムスイルナ 第8代 アビ・エシュフ 第9代 アンミディタナ 第10代 アンミサドゥガ 第11代 サムスディタナ 【参考ページ】 ウル第3王朝 【LINK】 ルーヴル美術館ミラーサイト(日本語) ≫ コレクション ≫ 古代オリエント美術、イスラム美術 ≫ 選りすぐりの作品 ≫ メソポタミアとアナトリア ≫ ハムラビ法典 NIKKEI NET 日本経済新聞社 ≫ ハムラビ法典の一部が盗難、イラク博物館から(2003/4/13付) 参考文献 「クロニック世界全史」講談社、1994年 「世界の歴史2 古代オリエント」岸本通夫ほか著、河出文庫、1989年 「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年 「年表式世界史小辞典」酒井忠夫監修、文英堂、1988年 更新 2004/1/7 |