660年 百済の滅亡朝鮮半島では、半島北方と大陸方面を領土とした高句麗、半島南東部の新羅、南西部の百済の三国がしのぎをけずっていたが、中国が五胡十六国の分裂の時代が終わり、隋による統一国家が成立すると、朝鮮半島への出兵を行うようになった。 隋は高句麗に対する3度の遠征に失敗し4度目の出兵を計画するが、中国国内に内乱が起こって自滅した。 次の唐も高句麗へ3度の出兵を行うが成功せず、新羅と結んで先に百済を滅亡させる作戦に出た。 660年、唐は水陸13万人の大軍を動員して山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、百済の王都の泗沘城(しひじょう・錦江下流域)を攻めた。 百済王はいったんは旧都の熊津城(錦江中流域)にのがれたが、皇太子らとともに降伏し、660年、百済は滅亡した。 百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道琛(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り、663年に、錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗した。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。 なお、多くの百済人が日本へ亡命した。 【参考ページ】 346年 百済の建国 663年 白村江の戦い 【LINK】 水.土壌.心の汚染や、アジア太平洋の利権を現場で考え真実を伝える ≫ 朝鮮半島南部の前方後円墳&任那日本府&ヒスイ製勾玉は糸魚川のみ産地(2012年3月17日付) 縄文と古代文明を探求しよう! ≫ NHKスペシャル「日本と朝鮮半島2000年」第2回放映(2009年6月17日付) News U.S. 中国・韓国・在日朝鮮人崩壊ニュース ≫ 韓国人「日本人は百済系だからウリ達と兄弟ニダ!!」 ← バカ 今の韓国人は百済とは何の関係もなし!!!!! そもそも日本は百済を統治する立場に!!!!! 劣等遺伝子民族は真の歴史を知り発狂憤死すべきである!!!! 2ch「天皇が半島の子孫なら、なぜ『日王』などと呼ぶのか。嘘と妄想と手のひら返しを繰り返しすぎだろ」(2013年5月1日付) |
このサイトのコメントとして、次の記述がある。太字は、当サイト管理人による。 『★現天皇のゆかり発言で有名になった桓武天皇の母親の高野新笠の系図 武寧王[461年日本生まれ第25代百済王(在位501-523年)] 純陀太子 在日1世(日本に人質に) 斯我君 在日2世 法師君 在日3世 雄蘇利紀君 在日4世 和史宇奈羅 在日5世(和氏に改名して日本に帰化) 和史粟勝 在日6世 和史浄足 在日7世 和史武助 在日8世 和史乙継 在日9世(娘を天皇家に嫁がせて高野姓を賜る) 高野朝臣新笠 在日10世―桓武天皇[第50代天皇(在位781-806年)] ・・・つまり桓武天皇の母親の高野新笠は10代前に渡来し、6代前に日本に帰化した百済系10世なのです。 彼女の百済系の割合は1/(2^10)=0.00098。パーセントにすると0.098%となります。 逆に日本系の割合は99.902%で、血筋から見ても帰化している事から見ても正真正銘の日本人です。 ましてや125代の今上天皇との関係は「0」と言って差し支えありません。 また「百済≠韓国」である事も強調しておきます。 さらに「武寧王の父の東城王は日本(倭)からやって来た」と韓国の古文書に書かれている事も付け加えておきます。 そして桓武天皇が即位したのは781年・・・つまり660年百済滅亡の121年後なのです。百済の政治的な関わりは「0」です。 』 |
参考文献 「古代朝鮮 NHKブックス172」井上秀雄著、日本放送協会、1972年 「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年 「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年 「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年 「クロニック世界全史」講談社、1994年 更新 2013/5/2 |
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