1900年 北清事変(列強が清へ出兵〜1901年)1898年から1899年にかけて山東省で起こった義和団の乱は、民衆の不満を背景に団員を増やし、1900年には天津・北京へと向かった。北京での団員は20万人にのぼったという。義和団は「扶清滅洋」(清をたすけ西洋を滅ぼす)をスローガンとし、保守排外的な傾向に傾いていた西太后の清朝政府はこの運動を支援し、官軍も行動をともにするようになった。 北京に入った義和団は外国人に数々の暴行をふるい、外国公使館区域を包囲するにいたった。 清朝政府が列国に対して宣戦を布告するにいたると、8か国(日本・ドイツ・イギリス・フランス・ロシア・アメリカ・イタリア・オーストリア)の連合軍約2万が北京に向かい外国人とキリスト教徒の救援を行った。その後、さらにドイツ兵が加わり4万5千の兵で、直隷、山西、山東に四散した義和団を討伐、満州に義和団の乱が及ぶとロシアがこれを討伐した。 西太后と光緒帝は、北京陥落の翌日未明に、農民の姿で古馬車に乗り西安へ向かったが、その途中で列国と和を結ぶことを決めた。 講和は、中国側は慶親王と李鴻章が全権大使に指命され、講和相手国は8カ国のほかにスペイン・ベルギー・オランダを加えた11か国であった。約1年の歳月を交渉に費やし、1901年9月に調印された。 その内容は、主に次のとおり。 1 日本とドイツに謝罪使を派遣する。 2 端郡王以下の戦争責任者を処罰する。 3 外国人を殺害・虐待した城市の科挙を5年間停止する。 4 武器・弾薬およびその材料の中国への輸入を2年間禁止する。 5 4憶5千万両を、関税、塩税を担保として、39年間で支払う。 6 公使館区域を定め、その防衛のために外国軍隊を常駐させる。 7 大沽砲台、および北京と海岸にいたる間の砲台を撤去する。 8 北京と海岸の間の重要地点は、外国軍隊が占領する。 9 中国人が排外団体に加入することを、永久に禁止する。 10 総理衙門を外務部とあらため、六部の上位におく。 これにより、首都北京とその周辺に外国軍が配置されるとともに莫大な賠償金が課せられ、中国は半植民地状態となった。ただし、中国が分割をまぬがれたことは、幸いであった。 【参考ページ】 1898年 義和団の乱(〜1901年) 参考文献 「世界の歴史20 中国の近代」市古宙三著、河出文庫、1990年 「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年 更新 2003/11/28 |