海上史事件簿その一
嘉靖以前の倭寇たち
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福江島の「倭寇像」。説明は文末にあります

 このサイトでは「倭寇」をテーマとして大きく取り上げているわけなんですが・・・そもそも「倭寇」って何もので、いつから出現したものなんでしょうか?まず「倭寇世界」に入る前にこの点を確認しておきたいと思います。

 「倭寇」という単語は字句通り取れば「倭が寇する」、つまり「倭」による侵略を意味する言葉です。その初見はあの高句麗の「好太王碑文」(5世紀?)にまでさかのぼれると言われます。まあこれについてはこのページで取り上げる「海賊」でないことは明らかのようですので、放っておきましょう。
 いわゆる「倭寇」としてイメージされる海賊の初見は『高麗史』の高宗癸未10年(1223)5月甲子の「倭寇金州(倭、金州を寇す)」という記事です。鎌倉初期ですよ!意外に古いでしょ。しかしこの記事、あまりに簡単なので実態がどうだったのかよくわかりません。
 「倭寇」活動の本格化はやはり14世紀半ば、日本で言う南北朝争乱のころからです。『高麗史』忠定王庚寅2年(1350)2月に「倭寇の侵、ここに始まる」という記事があり、朝鮮半島南部各地に大規模な襲撃があったことが伝えられています。ここからが「倭寇時代」の始まりと言って良いでしょう。以後しばらく連年のように朝鮮半島と中国沿岸に倭寇の襲撃が行われるようになります。

 14世紀の倭寇は一般に「前期倭寇」と呼ばれます。この「前期倭寇」は主に朝鮮半島を、一部が山東半島付近を攻撃し、当時の東アジアの歴史に大きな影を落としました。高麗王朝は倭寇の侵略によって国力を衰退させ、中国では元末の群雄のいくつか(方国珍・張士誠など)は倭寇と何らかの繋がりがあったといわれています。
 そしてこの時代に興った新国家・李氏朝鮮と明帝国もまた倭寇と深い関わりを持っています。李氏朝鮮の建国者・李成桂(イ・ソンゲ)は将軍として倭寇と戦い、自らその少年武将・阿只抜都(アキバツ)を矢で討ち取っています。この戦功をきっかけに彼は台頭し、ついには自ら新王朝を築きました。そしてその後もこの李氏朝鮮は倭寇と対決し、一時は倭寇の拠点と見なされた対馬を攻撃しています。
前期倭寇寇掠図 事情は明でも大差ありません。明を建国した洪武帝・朱元璋は新国家を開くとただちに日本に使節を派遣し、倭寇の禁圧を求めています。もっともこの時の使者は九州の南朝勢力・懐良親王を日本の支配者と勘違いしてしまい、追い返されます(最近では勘違いではなく分かってやっていたという説も出てきてます)。もっとも懐良親王自体が倭寇のパトロン的存在だったとみる見方もありますが・・・その後、室町幕府を日本の支配者と確認した明はこれと国交を結び、ともに倭寇を沈静化させていくのです。
 永楽17年(1419)に山東海上で「望海堝の戦い」があり、数千(!)の倭寇を明軍が撃滅し、以後中国方面の倭寇は急速に衰退します。朝鮮では軍事的に倭寇を鎮圧する一方、対馬などの「倭人」に交易を許し、懐柔する策をとったことで倭寇の活動は沈静化していきます。

 さて・・・前期倭寇の大雑把な説明をした上で、考えて置かねばならない問題があります。「倭寇」の正体ってなんなんだ?ということです。字句通り解釈すれば「日本人海賊」ということになるんですが・・・実態はそう単純ではありません。

 まず朝鮮半島を襲った倭寇達が騎馬隊を擁していたこと、そして「阿只抜都」という名にモンゴル語の響きがあることが挙げられます。当時、朝鮮の南に浮かんでいる済州島(チェジュド)には元に支配された時代の牧場があったと言われ、どうもここの住民がこの時期の倭寇に大きく関わっているらしいのです。その後の「倭人」の中には明らかに現在の感覚では「朝鮮人」に分類される人々が数多く見いだされます。
 また、この済州島と対馬は非常によく似た環境を持っており、二つで一つの世界を形成しているとも言えそうです。「え?」と思う人は地図を見る際に現在の国家が作った国境線を取っ払って眺めるようにしてください。まぁ当時でも漠然と「済州島は朝鮮、対馬は日本」という感覚はあったらしいですが、やはり漠然としたものです。日本でもない朝鮮でもない境界上の空間・・・「倭寇」「倭人」といわれる人々は、単純な「日本人」ではなく、この境界上の漠然とした空間の人間だったのではないか、と言われるようになっています。驚くべきことに当時の朝鮮側の認識の一つに「倭人」と「日本人」は別種の存在、というものもあるのです。最近では海外の研究の影響を受けて、こうした境界上に住む帰属のあいまいな人間たちのことを「マージナル・マン」という言葉で呼ぶ学者もいます。

 「倭寇」を語るときに注意して欲しいことは、その中に出てくる「日本人」「朝鮮人」「中国人」という言葉を現代の国家・民族の感覚でとらえてはいけないということです。前近代では国家や民族なんてのはかなり曖昧なものだったはずです。だからこそ「倭寇」という日本人も朝鮮人も中国人も、はては西洋人まで加わったゴチャゴチャな「無国籍集団」が出現したわけです。
 私事ですが、僕がなんで「倭寇」が大好きなのかというと、その「無国籍」ぶりが気に入ったからなんです。まぁ無国籍であると同時に無秩序な連中で、どっちかというと人に迷惑かけてる存在ですけどね・・・(笑)

(写真右)トップに掲げた五島列島・福江島の富江町に建つ「倭寇像」の後ろ姿(1992年撮影)。倭寇の根城の跡と思しき遺跡が近くにあったので行ってみたらこの像を発見してビックリ仰天(笑)。建てた直後だったんですよね。
地元の教育委員会が書いたんでしょうか、説明板には以下のような文が書かれてます。

「ここ東シナ海は明国(今の中国)に近いこともあって異国船の往来があった。この山崎石塁(勘次ヶ城)をアジトとしていた男達は、赤銅色に日焼し、鍛えられた強靭な肉体をもち、集団生活では、大きな力となって一つの目的に敢然と立ち向かっていた。また昼夜を通しての見張は、忍耐と統制そのものです。この像はこうした「団結 実行 忍耐」を表現したもので私たちに何かを語りかけているようです」(以上、原文のママ)

…だ、そうです(^^;)。ひょっとして子どもたちに海賊活動を奨励しているのか、この町は。それと途中で文体が変化するのはなぜだろう(笑)。


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