海上史事件簿その十
烈港奇襲

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王直vs兪大猷


 前章にも見たように、嘉靖31年(1552)という年は王直とその集団にとってひとつの絶頂期となったのですが、依然として王直の傘下には加わらず暴力的な海賊活動に走る海上集団もありました。この年の四月から六月に遊仙寨・瑞安県・黄岩県といった浙江沿岸の各地が海賊に襲われ、黄岩県では県城が攻め落とされたほか、各地で官軍の軍人や府知事などが戦死あるいは殺害されるという事態まで起こりました。

 『籌海図編』によるとこの海寇の主犯は「福清の賊首・トウ文俊」とされます。「海上の激闘」の章でも触れたように、王直のライバルであった陳思盻との関係が疑われる人物で、林碧川沈南山 といった首領たちと行動を共にしていたようです。前年に陳思盻が王直に滅ぼされているだけに王直に降伏するわけにもいかず行き場を失って沿海を荒らしまわっていたものとも考えられます。しかしこの襲撃の直後に書かれた万表の『海寇議』はなぜかこれを王直一派の犯行であるとして激しくその罪を問うています。沿海の守備にあたる軍人・万表にとっては「海上すでに二賊なし」という状況だったはずなので海賊活動は王直の手によるものとしか思えなかったのかもしれませんが…。

 このほかにも以前王直に密貿易活動を許されたキョウ十八黄永忠ら「江・洋の盗」がこの年に長江河口域で暴れて捕縛、処刑されています(『世宗実録』) 。この地方の記録である『太倉州志』にはこの件についてかなり詳しい記述があり、彼らが日本で商売をして帰る途中で朝鮮に漂流し、朝鮮人の官軍に襲われて死戦してこれを逃れ、漂流の末ここに流れついたものでもともと掠奪活動をするつもりではなかったと主張したことが記されています。またこのとき「倭十余人を捕らえた」とあるのですが、「婦女四五人のみ真倭(日本人)であった」とも書かれていまして、「倭」という言葉の使われ方を考える上でも、また倭寇における女性の存在を考える上でも興味深い記録となっています。
 それはともかくキョウ十八もまた先に考察したように陳思盻とのつながりがあった可能性がある人物ですから一応王直とは別グループと考えたほうがよさそうです。しかし一度とはいえ王直がその交易を許した人物でもあり、官憲側からすれば両者は一体のものと見えたのかもしれません。

 浙江沿海がにわかに騒がしくなったことを受けて、明朝廷は朱ガン失脚以来の引き締めのための人事を行い、対モンゴルや山東半島方面で実績のあった官僚の右僉事都御史・王ヨ(りっしんべん+予)を浙江・福建方面の提督軍務・巡視の職に任じました。さらに安南(ベトナム)方面の作戦や広東の少数民族対策などにあたって武名を上げていた武官である参将・兪大猷を浙江方面に転任させ、浙江で同じく参将となっていた湯克寛とコンビを組ませて沿海守備にあたらせることになります。王ヨはただちに浙江へ赴いて沿海の警備を強化し、さっそく嘉靖31年の11月には湯克寛率いる水軍が馬下洋の海戦でトウ文俊の船団を破り、トウ文俊を捕縛しています。

 さてここで登場した兪大猷はのちに明代を代表する名将として後世に名を残すことになるわけですが、この人自身が多くの文章を書いており、それが没後間もなく『正気堂集』として編纂・出版されているので彼自身が目撃・体験した事件について非常に詳細な報告を今日読むことが出来ます。

 浙江の温州にやってきた兪大猷は立て続けにいくつもの意見書を王ヨに提出していますが、いずれも基本的に「王直討つべし」という強硬意見が主張されており、その方針に基づいた具体的な軍事的提案を多く含んでいます。中でも『王直の招くべからざるを議す(議王直不可招)』という意見書(嘉靖32年正月末か二月初め)では官軍の中にたぶんに漂っていた「王直と協力して海上の安定を図ろう」という声を厳しく批判し、王直とその養子・毛烈を名指しして「海上の劇寇」 と呼び、ただちに烈港に兵を出してこれを掃討すべしと述べています。海賊の罪を許して投降させ官軍のために利用するという方策は「招撫」といって、実は特に珍しいことではないのですが、兪大猷は自分が実際に目撃したケースを挙げて、こうした投降海賊が市街を集団でねり歩き周辺住民に害を為すこと、また贈賄を受けてこれを黙認する役人の罪をとなえてとにかく猛反対しています。
 また『王直のいまだ撃つべからざるを議す(議王直未可撃)』という意見書(同年2月か3月)では兪大猷自身が烈港を偵察して地形・潮流・兵力を観察し、海戦に慣れ精強な温州の水軍が到着するまでは攻撃を控えるようにという意見を述べてますが、どのみち烈港を攻撃して王直らを討つことはこの時点ですでに規定路線になっています。

 兪大猷は実際に叩き上げで出世してきた歴戦の軍人ですから強硬姿勢をとるのは当然といえば当然なんですが、鄭舜功『日本一鑑』を読みますと彼が王直を敵視するにいたるには少し回り道もあった気配もあります。
 『日本一鑑』の「流逋」の記事によれば、この嘉靖32年(1553)に蕭顕という海賊に率いられた集団が上海を襲撃し、つづいて王十六沈門謝リョウ(僚のけものへん)許リョウ曽堅らが倭を誘って黄岩県を襲ったため、兪大猷と湯克寛が王直に命じてこれらの賊を捕らえさせようとした、ところが王直が動かぬうちに賊が立ち去ってしまったため兪大猷らは「王直こそが東南の禍本(わざわいの元凶)」 と判断し烈港攻撃を決断した、という流れだったというのです。この記述は各地の襲撃時期が他資料とうまくかみ合わず全面的には採用できないのですが(特に蕭顕による上海攻撃については次章参照)、強硬派とされる兪大猷らが一度は王直に海賊の討伐を命じていたとする記述は見逃せません。そしてそれが果たされなかったために海賊達を後ろから操るのが王直自身ではないかと疑うようになったというのはむしろ自然なことであると思えます。その判断には、たびたび引用する『海寇議』の著者・万表のようにもともと王直を危険視していた地元軍人の意見も影響していた可能性もあるでしょう。

兪大猷の烈港攻撃に参加した軍船
大福船
蒼山船
八槳船
大福船。大洋航海も可能な福建の大型船で、兪大猷も「大船は小船に勝る」として福船の使用を意見している。
蒼山船。帆と櫓の両方が使える中型船で、敵船に衝突させての肉弾戦に向いていたらしい。
八槳船。「槳」とは「オール」のことで、8本のオールで漕ぐ小回りの利く船であったらしいが戦闘より哨戒に向いていた。

 
 ともかく嘉靖32年閏3月はじめ、王ヨの指令により王直の本拠地・烈港の攻撃が実行されます。実行部隊の将は兪大猷と湯克寛の二人で、それぞれの船隊を率いて二手に分かれ、兪大猷は烈港の正面から攻めかかり、湯克寛は裏手を固めて敵の逃亡を防ぐという万全の手はずがとられました(ついでながら王直にペコペコしていたという張四維もこの作戦に参加してます)。この作戦は事前に兪大猷が調査しておいた烈港周辺の地形・潮流の情報をもとに図上演習までして周到に決められらしく、作戦立案も兪大猷が中心になっていたものと思われます。

 そしてこの烈港攻撃の詳しい経過も、その兪大猷本人の記した報告書によって知ることが出来ます。閏3月の6日に兪大猷・湯克寛らは温州を出港、翌7日には舟山群島の金塘山に入って烈港の情勢を慎重にうかがいます。10日には官軍の襲来に気付いた烈港の王直たちが船に荷を積み帆を整えているのを確認、「これは今日明日にも必ず脱出をはかるぞ」と察知した兪大猷は、翌11日早朝に潮流に乗じて船隊を烈港港内へ突入させます。勢いに乗った官軍は大型の兵船を敵船に衝突させるなどして王直らの船団を次々と撃破し、王直の部下達数百人が島に上がり海に落ち、王直自身の乗る船も「その敗、もっとも甚(はなは)だし」という有様になってしまいます。

 まさに王直大ピンチ!という状況になったわけですが、ここで港内の潮の流れの激しさに波が高く立ち、風も出てきて激しく揺さぶられた官軍船団はひとまず港の北に難を避け、潮が引くのを待ってから再攻撃にかかることにしました。すると不意に「颶風(ぐふう=突然の旋風、暴風)の逆発」が発生(兪大猷自身がこう書いている)、官軍の船団は揺さぶられて身動きが取れなくなり、一方の王直たちはこの突風を利用して港の外へと脱出してしまうのです。
 この突風発生によって王直を取り逃がした事ついては他の史料でも言及されているのでほぼ事実と思われますが、時期的にも台風でもないでしょうし、でっかい竜巻でも発生したのかな?「砲声で蟄竜(眠れる竜)が目を覚まして暴れた」なんて表現が複数の真面目な本に堂々と書かれてまして、竜巻が竜の昇る姿という考えがあったことと重ね合わせるとその辺が真相かもしれません。ともかく王直にとってはまさに「神風」でありました。

 兪大猷の『正気堂集』に載るこの時の細かいエピソードをご紹介。この「颶風」の発生によって官軍の船は大きく揺れ、ほとんど壊れるかと思えるほど。慌てた湯克寛は兪大猷を呼んで「数十の牛・羊・豚をいけにえに捧げて海神に祈ろう」と提案します。当時は航海の安全を海神に祈るというのが一般的だったんですね。すると兪大猷、牛・羊・豚を一頭ずつ捧げて祈ろうとします。「君はなんでそんなに少ないんだ?」と聞く湯克寛に兪大猷は「私は貧乏でね」と即答(笑)。さらにまた激しく強風が起こり兵士達がもうダメだと号泣するなか、兪大猷は「快いもんじゃないか」と笑います。湯克寛が「こんな時に快いと言うなんて、本当に快い時はなんて言うんだね」と聞くと、兪大猷は「同じく快いだけさ。今日は君と一緒に大海に投げ込まれて共に一生を終えられるのだ、快くないはずがないじゃないか」と答えたそうで。いついかなる時も明るく前向きに考え、悩んだり苦しんだりしないことが兪大猷という男のモットーだった、として伝わるミニエピソードです。

平倭碑
金塘島の烈港(瀝港)跡に今も残る「平倭碑」。1553年に王直を駆逐したことを記念して数年後に兪大猷が建てたものだという。ちょっと見にくいが「平倭」の字が彫られている。(朝日百科「世界の歴史」73号掲載のものを拝借・加工してます)

  さて烈港からの脱出に成功した王直たちは大海へ逃亡し、最終的に一番東のはずれである馬跡山に停泊します。しかしここまで湯克寛の船団が追いかけてきたため結局あきらめ、日本へと向かうことになります。その経過については史料により違いがあり、実はこの点が、この直後に発生する「大倭寇」と王直との関わりを考える上で重要となるのです。
 官軍による烈港の攻撃直後、浙江から直隷(現在の江蘇省南部)にかけて散発的ながら活発な「倭寇」による襲撃活動が開始されます。これを後世「嘉靖大倭寇」などと呼ぶ事ことになるわけですが、一般にこの「大倭寇」の主犯は王直その人であるとされています。例えば明朝廷の記録である『世宗実録』は閏三月甲戌に「海賊汪直、ショウ[シ章]・広の群盗を糾し、各島の倭夷を勾集して大挙入寇し、連艦百余艘、海を蔽(おお)うて至る」と記し、これに基づいて清初期に編纂された正史『明史』の日本伝は「(嘉靖)三十二年三月、汪直、諸倭を勾して大挙入寇す。連艦数百、海を蔽うて至る」と記し、月を間違えた上に汪直(王直)の艦隊の数が数倍に増えていたりします。こうした「政府の公式記録」を読む限りは王直が「大倭寇」を指揮しているように見えるわけですが…。

 「大倭寇」の直後に編纂された倭寇対策の集大成とも言える『籌海図編』収録の年表「浙江倭変記」「直隷倭変記」の詳しい記事を追っていくとだいぶ違う展開が見えてきます。閏三月に烈港を襲撃され脱出した王直がその直後、わずか百余人を率いて江南地方に上陸して嘉定という町の周辺を略奪したと記しているのです。いつもの塩盗(塩の密売を行う盗賊。江南地方ではありふれた存在)かと思って小人数で出撃した官軍が、相手が王直であると知ってあえて追わなかったというのですが、ここでは「海をおおって至る」ほどの大艦隊どころか百人程度の敗残集団といったところ。
 さらにこの直後の4月14日に王直ははるか東の海上の馬跡山に現れ湯克寛のために敗れたという記事があり、そこでは「砲声に驚いた竜が目を覚まして官軍の船が転覆、溺死する者が多く出た」ため王直は直隷地方に脱出できた、しかしここでも兪大猷のために敗れてわずか百余人にまで討ち減らされたと書かれています。ですが烈港で起こったはずの出来事(兪大猷自身が書いてるから確認できます)が馬跡山でのこととして書かれてますし、海を越えて東へ西へと逃げる敗残の王直の情報にも不自然さを感じてしまうところ。このあたり、どうやら情報の混乱があるようなのですが、少なくとも『実録』『明史』が言うような「海をおおうほどの大艦隊による大挙侵攻」なんて状態ではなかったことは明白でしょう。
 王直ら海賊・海商たちについて独自の情報をかなり含む『日本一鑑』では王直は烈港から馬跡山へと逃れ、そのまま停泊するところを見つけられず六月になって日本の平戸へと渡ったと記し、王直自身による大陸への侵攻については一字も触れていません。また時間が前後しますが、同書では王直の腹心の一人である葉宗満が烈港攻撃直前に日本から浙江へ貿易にやって来て、官軍の艦隊が出動していることを知って驚き、目的地を広東の南澳に変更した、との記述があり、これも王直とその部下達に積極的に明官軍と戦う気はなかったことの証拠になると思えます。
 これらの情報から総合すると、烈港を追われた王直は少人数で一時的に大陸沿岸部に上陸した可能性もあるもののほとんど何も出来なかったに等しく、島々を転々として結局日本へ逃れた、というのが実態だったと見ていいのではないでしょうか。このことは後に王直が意外なほどあっさりと明軍に投降してしまうこととリンクしているように思えるのです。

 しかし王直本人がどうであったかはともかく王直の本拠地・烈港が官軍に攻め落とされた直後に「大倭寇」が開始されたのは事実。そしてその襲撃活動に関わった者に王直と関係のある人物が含まれていたのも事実なのです。では以下にこの嘉靖32年の「大倭寇」の経過を簡単に見ていく事にしたいと思います。


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