海上史論文室
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16世紀「嘉靖大倭寇」を構成する諸勢力について
(その4)


<3>塩徒

 塩徒とは塩の密売商人の集団であり、その無頼結社的性格からしばしば反乱活動の中核となることがあった。地方志などをみれば「倭寇」が到来する以前から江南地方の各所に塩徒の巣があったことが知られる。そして前項の最後にも推測したようにやはり「大倭寇」に彼らも参加していった可能性が高いと見られる。

 『嘉靖東南平倭通録』嘉靖33年の記事(4月のあとに書かれているが、3月の事件に触れたもの)「初め通州河の役、賊兵僅かに百余人、塩徒及び脅従者千余人」 とあり、江北の通州河の戦闘においてわずか百余人の「賊」に「塩徒および脅従者」がそれよりはるかに多い千余人で従うという構成であったとしている。「脅従」は倭寇などが現地の住民を捕らえて強制的に協力させる意味合いで使われる表現であるが、実態としては自ら進んで参加しているケースも少なくなかったと思われる。ここでの塩徒と脅従者の割合は不明であるが少なからぬ塩徒が「倭寇」に合流していたことは事実であろう。この『嘉靖東南平倭通録』の同年3月の記事を見るとこの海門・如皐・通州などを寇掠したこの「倭寇」集団は「各塩場を焚した」とあり、塩徒反乱の側面もうかがわせている。

 また、あくまで傍証であるが、『籌海図編』などで「三丈浦の賊」などと表現され「倭寇」の拠点の一つとされる三丈浦について、『江南経略』には巻三・三丈浦険要図説に詳しく図が載っており「通州と対境す。私塩を販する者の江を絶ちて往来す」との説明がついており、ここが塩徒らの往来する場所であったことを伝えている。この他にも長江河口域の南岸部を中心に「倭寇」の拠点となった場所と塩徒の活動地は重なりあうところが多い。


<4>竈戸

 竈戸は沿海にあって製塩を生業とする住民であるが、同時に燃料となる柴を刈ったり漁をするために海上で活動する人々でもあった。彼らはそうした生活のために密貿易とも深く関わり、かつ「倭寇」にも深く関与していたことが史料中から浮かび上がってくる。

 『籌海図編』巻十一、叙寇原にこうした「竈戸」と「倭寇」の関わりについて重要な意見が載せられている。

  海道副使譚綸云う、片板も下海を許さず、双桅大船を禁革す、乃ちしばしば朝例を明らかにし以て禍の未だ萌さざるに銷す、深遠に至ると意うに、奈何ぞ沿海の竈丁、仮に採弁を以て大船を私造し禁を違えて下海す。
 始めは則ち魚を取り継いで則ち接済し、甚しきは則ち通番す。十数年来、富商の大賈、利をrり交通して、番船海に満ちる。間に朱秋崖の任有り、之に事えて臣力めて行禁捕を行う。而して大家の竈戸、浮議横生し、小民の以て聊生無しを曰わず、則ち国課の必ず虧損を致すを曰う。之に加えて監鹺の憲臣、竈戸を偏護し、過ぎては辺官を抑え小愆をし節次に論劾す。海道備倭の勘斥相継ぎ、遂に禍を避け遷就するに至る。
 海禁いよいよやぶれ、大禍を養成す。敢言有る者莫し。往年の倭寇、漁船を劫リョ{才虜}し逼りて党羽と為す。既に其の船を得て以て声勢を張る。又は其人を駆りたてて以て嚮導と為す。蘇松の寇、半は皆脅従・捕獲・有贓にして尤も竃戸多し。


 譚綸はこの前段において「片板も下海を許さず」という厳しい海禁政策下にあって沿海の竈戸が「採弁」を理由に大船を私造し下海していた事に触れ、これが初めは漁業、やがて密貿易船に物資などを売る行為である「接済」に及び、甚だしくは自ら「通番」、密貿易をするに至ったというプロセスを示している。十数年来に密貿易活動が活発化したため朱ガン{糸丸}による双嶼掃討が行われて譚綸も海上活動の禁捕に務めたが、「大家の竈戸」が海上活動の制限が彼らの生活の妨げになるだけでなく製塩に支障をきたして国課に損失をもたらすと抗議し、これに加えて「監鹺の憲臣」も竈戸らの主張の肩を持ったため海禁は結局破られてしまった、というのである。その結果が「往年の倭寇」であり、蘇州・松江を襲った「倭寇」の半ばはこれに「脅従」した、もしくは「捕獲」された、あるいは彼らの奪ってきた金品を隠し持っていた者たちであり、それらの多くが竈戸であった、というのである。

 都御史朱ガン{糸丸}が嘉靖27年に当時の密貿易の拠点であった双嶼港を掃討した際も「平時海を以て家と為すの徒」「邪議蜂起」して官軍を動揺させたことが記録されている。これらが竈戸であったと明記があるわけではないが、譚綸のいう「大家竈戸の浮議横生」 とよく呼応していることに気づかされる。「竈戸」も「海を以て家と為すの徒」の類であったと見てよいだろう。彼らのような海禁下においても海に出る自由をある程度認められていた者達が密貿易に関わって利益を得ており、その密貿易活動が官憲によって禁圧されたときに、彼らが「倭寇」へと合流していくことは自然なことであったとは思える(5)


<5>沙民

 長大な長江は大量の土砂を運び、「沙」と呼ばれる陸地をその河口域に出現させてきた。現在巨大な崇明島が形成されいくつかの「沙」が残るのみとなっているが、この水域の「沙」は長い歴史の中で消長を繰り返しており、特に明代中期から清初にかけて数十もの「沙」が出現・消滅を繰り返し、唐代から置かれていた崇明の県城も明代には水没のために4度にわたって移転を余儀なくされるほど(特に嘉靖年間から万暦年間までの約半世紀に3度も移転している)激しい変化を見せていた。

 このように消長の激しい崇明付近の「沙」に住む人々(ここでは一括して「沙民」と呼ぶ)は自然と流動性のある、不安定な存在にならざるをえなかった。万暦新修『崇明県志』巻一・風俗には「崇人は自ら耕稼漁樵するより外、別に他業無し。故に游民多く、或は打行を習い、或は賭博を攻め、盗みを為し姦を行う。大率みな此の類なり」とあり、また『明実録』弘治十八年(1505)二月丙寅の巡撫応天等府都御史・魏紳らの上奏には崇明の住民について「海洋の民、習性は貪悍、闘を好み生を軽んじ、中間に盗を為すの徒多く、起ちて利を争う」と記し、彼らの中に盗賊の類となる者が多く存在していたことを指摘している。塩分を多く含んで農耕には適さなかったとされる「沙」においては漁業と共に製塩が主要な産業であったようで、必然的に彼らは海上に生活の基盤を置き操船技術に優れ、「風濤出没、長技を独り擅にす。此れ其の民、これを善に駆りたてるは則ち難にして、これを悪に縦てば則ち性然るのみ」と実際に近隣に住み『籌海図編』『江南経略』の著者であり倭寇対策にもあたった鄭若曽も評している。この点において沙民は先述の「竈戸」とよく似たこうした特性を持っていたと言える。

 実際にこうした「沙」を拠点とした反乱活動が「嘉靖大倭寇」以前の時代にしばしば起こっていたことが地方志などによって知られる。特に大規模であったのは「大倭寇」時代の直前とも言える嘉靖19年(1540)の「秦ハン{王番}・王良の乱」で、彼らは崇明付近の沙の一つである「南沙」を拠点に「魚を捕り塩を煮て奸を為す」(『太倉州志』)という活動をし「壮丁を蓄え巨艦を備え魚塩を載せ、近洋に泊して小舟を以て分載して入港し、州守以下に賄す」(『崇明県志』) といったように、官憲にも贈賄して海上活動の自由を得ていた。彼らは最終的に官軍によって討滅されたが、泥地など沙の地形を利用した戦法により官軍を一時は破っており、また彼らが拠点とした南沙には少なくとも二千人の「男女」の住民が存在しこれが彼らの活動を支えていたと思われる節があるなど、沙と沙民に基盤を持つ反乱活動であったことは、後述の「大倭寇」における沙の情勢と絡めて注目されるところである。

 その後嘉靖32年4月に「嘉靖大倭寇」が発生するが、その先陣を切り、王直とも深く関わる人物であったと推測される賊首・蕭顕が、秦ハン・王良と同じくこの南沙に二度にわたり拠点を構えていることは注目される。『江南経略』などの記事によれば蕭顕らは五百余の勢力で南沙に上陸し、ここに官軍が蓄えていたものと思われる「積粟」を手に入れ、沙の地形を利用して伏兵を駆使するなど激しく官軍に抵抗した。さらには官軍の動向を偵知した蕭顕が「各沙の新賊を招集」 したと『江南経略』は伝えており、南沙以外の「沙」に彼に呼応しうる勢力がいたことを示唆している。また7月に南沙に入って官軍に包囲された蕭顕はその年の暮れまで約五ヶ月間もここに立てこもり続けており、彼らを陰から強く支える南沙の住民の存在があったことを推測させる。

 『籌海図編』で「善戦多謀、王直も憚ってこれに譲る」と記された蕭顕はその名はしばしば資料中に明記されるものの出身や実態が全く不明の人物である。先に「土寇」についての考察でこのように名のみ記されるものの詳細が不明の「賊首」たちはもともとその地域で「賊」として名を知られたものではなかったかとの推測を行ったが、あるいはこの蕭顕も以前から「沙」を拠点に活動して名を知られていた塩徒の類ではなかったかとも考えられる。王直との人脈的繋がりは彼が密貿易とも関係を持っていたことを示唆していると考えられ、沙の住民が密貿易に参加していた可能性をも予想させる。嘉靖32年に王直の拠点・烈港が官軍の襲撃を受けた直後に蕭顕の寇掠活動が開始されることも、こうした推測を補強するものとなろう。

 蕭顕以後も嘉靖33年から34年にかけて、崇明付近の各沙にはしばしば「倭寇」と思われる「賊」の上陸、攻撃が繰り返された。中でも蕭顕も立てこもった南沙に上陸したものが「尤も衆し」と『江南経略』は伝えている。そして「大倭寇」がピークを過ぎた嘉靖38年4月にも三爿沙から三沙に上陸した「倭寇」があり、彼らは最終的に三沙に立てこもって官軍に抵抗した。この戦闘の模様は『江南経略』崇明県倭患事跡が詳しく伝えているが、「賊、多智にして猛く、我が兵常にこれに怯える」と官軍が葦原などの伏兵を恐れるなど非常に慎重な戦法をとったことを記し、「沙中の大家、また賊の奸細となり、かえって賊勢を揚げ我が軍を恐怖する者なり」として、この沙の住民、しかも有力者が「賊」側の奸細となるケースすらあったことにも言及している。

 沙民の活動地域はあくまで長江河口域付近に限られるため、彼らのどれほどが「倭寇」に参加していったのかを明示するのは難しい。また逆に鄭若曽などは『江南経略』においてしばしば彼ら沙民を倭寇対策に利用しようという意図を示すのだが、例えば同書所収の「沙船論二」において「盗を捕らえる者は沙船なり。盗を為す者もまた沙船なり。海寇生発の時少なく平靖の時多し」と記し、沙民の使用する沙船が海寇の側にも使用されていること、それはひいては海寇(倭寇)側にも彼ら沙民が多く参加していたととれる発言をしている。


 むすびにかえて

 以上、江南地方における「嘉靖大倭寇」の急激な規模の拡大の実態と、その拡大の原因となった各種勢力−客兵、奸細、塩徒、竈戸、沙民など−の「倭寇」への参加の状況について検証してきた。本論文では紙数の問題もありこれらの勢力の列挙にとどまり、当時の江南地方の社会状況と彼らの間にいかなる矛盾があったのかといった問題についてまで深く考察することができなかった。ここではこれらの様々な勢力がそれぞれの事情において「倭寇」という外来の刺激に反応し、それぞれの方法において「倭寇」に参加し、「倭寇」を「大倭寇」と呼ばれるほどの大規模かつ激しい活動へと成長させていったことを確認するにとどめたい。

 直隷・浙江方面における「嘉靖大倭寇」は嘉靖36年にはほぼピークを過ぎ、次第に「倭寇」活動は福建・広東方面へとその主舞台を移して行く。本文で考察した江南方面の「大倭寇」は大規模な活動ではあったにも関わらず、その時期を境にあっけないほど急速に収束していく。その後の福建・広東方面での「倭寇」活動が嘉靖末年から万暦初期までの比較的長期にわたって続くのに比べて江南方面の「大倭寇」がなぜかくも激しく消長したのか、この問題の解明は当時の江南地方の社会状況の分析と不可分の関係にあると思われる。

 特に本文の後半で触れた竈戸・沙民といった海民的性格を強く持つ住民たちの「倭寇」への参加という現象の解明は、「嘉靖大倭寇」「後期倭寇」といった枠組みに限らず、マージナルな存在であったと思われる「倭寇」像そのものの考察に深く関わってくる課題であろう。この問題については今後より深く検証を行ってみたい。

(2003年10月)


 

(5)竈戸に関しては彼らが「倭寇」に参加したとされる一方で、官軍側が彼らを倭寇対策に利用しようとしていた部分もあるが、本稿ではその件については論考しない。