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2002年10月6日

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◆日朝のいちばん長い日

 またしても一ヶ月以上もほったらかした末の「史点」更新である。昨年は小泉首相 が8月15日に靖国に行くの行かないのというところで更新ストップになり、更新再開時にはあの「9.11テロ」が起きていた。今年もほぼ同じ時期に更新ストップとなったのだが、更新したときにはあの北朝鮮と日本がいきなり首脳会談を行い、拉致問題についても北朝鮮側から情報が開示され、てんやわんやの大騒ぎという状況だ。

 2000年の南北首脳会談の時もそうだったが、今回の会談も何の前触れも無くいきなり発表された。まぁ思い返せば「前触れ」が無かったわけでもないのだが…会談実現発表後に政府関係者や小泉首相自身の発言で明らかにされたが、実は1年以上前、森喜朗前首相の時から水面下で交渉が進められていたのだ。関係者にしてみりゃ何もふってわいたような話ではなかったわけである。そう考えてみると、昨年五月の「マサオさん入国騒動」も今にしてみればなかなか意味深である。
 ところで当「史点」としては当初このネタは比較的明るい材料として仕込み(?)に入っていた。8月に電撃的に小泉首相の北朝鮮訪問・日朝首脳会談実現が発表され、僕もかなり驚き、かつその内容にかなりの期待を持った。このところ良くも悪くも北朝鮮の「変化」が感じられ、「これは何か大きな前進があるんじゃないか」との感触が発表段階から感じられたのだ。いきなりのトップ会談となると、まぁ常識的にはすでに大半の話が水面下交渉でついているもので、トップは最後の締めとして乗り込んでいくもの。一部アジマスコミが「罠にはまった」だの「会談をキャンセルしろ」だの「支持率稼ぎのパフォーマンス」だの何の根拠も無い話で見出しだけ盛大に騒いでいたが(某週刊誌の「痛快だ、土産はない」と北朝鮮高官が言ったという話なんて何だったんだろうねぇ。まぁトバシだろうとは思ったけど)、僕自身は「これは何か大きな動きがある」と見ていた。ま、こんな形とは思わなかったけどね。当初このネタ、史点では「北の国から」というタイトルにする気だったぐらいで(やはり誰もが思いつくもののようで山藤章二さんも「ブラックアングル」で田中邦衛が「純、北国は甘くねえぞ」と小泉さんに言うネタを描いていた)
 
 会談に先立っての北朝鮮の「変化」のことだが、実のところはたから見ていると「いよいよ切羽詰まってきたな」というものだった。7月に食料の配給制が停止され、市場経済原理が導入とともに労働者の給与を20倍に引き上げるという経済改革が発表された。さらに8月中に行われた日朝赤十字会談においても妙に北朝鮮側の態度に愛想の良さが感じられた。
 8月に入って報じられたことだが、5月に北朝鮮を訪問した韓国の国会議員朴槿恵氏に金正日総書記が「文世光事件」について北朝鮮の関与を認め「謝罪」をしていたというの話にも驚いた。「文世光事件」とは、1974年8月15日の「光復節」式典で演説していた当時の朴正煕韓国大統領を在日韓国人・文世光が狙撃し、大統領自身は無事だったものの夫人の陸英修さんが死亡した事件で、朴槿恵議員はこの夫妻の娘さんなのである。
 この事件についてはいろいろな見方があった。なにせ朴正煕自身が金大中暗殺未遂・拉致事件を起こしているうえ本人も側近に暗殺されてるようなキナ臭さがつきまとう人だけに、この事件に大統領自身が関わっているんじゃないかとの噂もあった。その一方で北朝鮮による暗殺未遂事件ではないのかとの見方も有力ではあった。
 この報道によると、5月13日に平壌を訪れた朴議員に対し、金正日総書記は「あなたの母親に申し訳ないことをした」と声をかけてこの事件に北朝鮮が関与していたことを認めて謝罪し、「部下がやったことで自分は知らなかった」と述べたという。朴議員自身は帰国後「金総書記はいい人だ」と周囲に話した、というのだが…。
 この話は北京発の時事通信記事が「信頼できる筋によると」として報じたもので、日本では読売新聞など一部がこれを掲載した。かなりショッキングな話題の割に扱いが小さかったのは、日本にとってはいまいち他人事であるせいもあっただろうが、話の出所が今ひとつ信用しきれないと感じられたせいもあっただろう。しかし今にして思うと、この話における金正日総書記のコメントはその後の拉致問題に関する謝罪コメントと恐ろしく符合しているのは事実。その一方で時事通信の「信頼できる筋からの話」にはその後大々的に報じられすぐに全くの誤報と分かった「有本さんら三名帰国」というのもあったりするので、やはり何とも言えない。

 さてなんだかんだと言っているうちに9月17日がやって来た。たまたま僕はこの日フリーで自宅にいたので状況の進展の刻一刻を「史点」なんぞ書きながら見守っていた。ホントは訪朝前に書いてどれだけ当たるかやってみたかったのだが…。
 9月17日午前9時、羽田空港を飛び立った政府専用機が平壌空港に直行で到着した。そういえば「北朝鮮が政府専用機による入国を認めず民間機で行くことになった」と誤報をやっていた新聞もあったっけな(その報道が出た時点ですでに政府専用機が予行演習で平壌まで直接飛んでいた)。とにかくこの訪朝関係ではマスコミの各種右往左往ぶりが終始目に付くことになる。
 平壌空港に小泉首相が降り立つ場面、僕はリアルタイムの中継映像を見ながら深い感慨を覚えていた。派手さはないが(もちろん双方で事前に決めたことだろう) 、二年前に韓国の金大中大統領が平壌に降り立った、あの場面と同じぐらいの感慨はあった。かつて植民地として統治したこともあり戦後は冷戦の中で「最も遠い隣国」で有り続けたこの国の地面に、日本の最高権力者が降り立ったというのはやはり歴史的な一瞬だったのだ。小泉さんがタラップを降りてくる場面では「この一歩は小さな一歩だが…」というアームストロングの月面着陸の際のセリフがちらと頭をかすめたりもしていた(笑)。
 タラップを降りた小泉首相を出迎えたのは予想通り、ナンバー1の金総書記ではなくナンバー2とされる金永南最高人民会議委員長だった。ナンバー2とは言いながら一応対外的には北朝鮮の国家元首クラス(金総書記は党のトップという建前)なので形式的には釣り合いがとれている。金大中大統領が訪問した際は金正日総書記自身がタラップの下に立って出迎え世界を驚かせたが、今回はそれは無し。実にあっさりと挨拶を交わしてとっとと車に乗り込んでいた。

 首脳会談が始まったのは午前11時のことだった。その後明らかになることだが、この会談の直前に行われた事務レベル協議で北朝鮮側から拉致被害者の消息を伝えるリストが日本側に示され、小泉首相もそれを見て愕然とすることになる。こちらはそんなことは知らないから「小泉さん、えらく引きしまった(引きつった?)顔で握手してるなー」などと思っていたものだ。この時点で日本では一部報道で「有本さんら三人が帰国する見込み」と報じられ、また「生存者9人」という話も流れていた。
 会談の内容はもちろん実況中継されるわけはなく、全てはあとで知った話になるのだが、この拉致被害者リストを見た小泉首相は午前中の会談で北朝鮮側にこの犯罪行為を強く抗議したという。また消息は示されたものの死亡率があまりに高いこと、また不自然な点も見られることなどでこれを知った日本国民が衝撃を受けることを予想し、「これでは共同宣言や国交正常化交渉再開には応じられないのではないか」との声も同行者の中からあがったという。このあたり話の性格上どこまで事実なのかは判然としないのだが、小泉首相は「午後の会談の中で北朝鮮側の対応を見て決めよう」ということにしたと言われる。

 で、午後の会談。冒頭からいきなり金正日総書記はこの拉致問題に触れた。その後明らかにされているところでは金総書記は 「拉致の問題について説明をしたい。調査を進め、内部の調査も行った。この背景には数十年の敵対関係があるけれども、誠にいまわしい出来事である。率直にお話し申し上げたい。我々としては特別コミッションをつくって調査をした結果が、お伝えしたような報告である。自分としては70年代、80年代初めまで特殊機関の一部に妄動主義者、英雄主義に走ってこういうことを行ってきた、というふうに考えている。(中略)私がこういうことを承知するにいたり、これらの関連で責任ある人々は処罰をされた。これからは絶対にない。この場で、遺憾なことであったことを率直におわびしたい。二度と許すことはない」と述べたという。
 この問題をどう解決するかについてはこれまでもいろいろと議論されてきた。森喜朗前首相の時に「第三国にいたという形での解決」という案を森さんがしゃべっちゃってオジャンになったことがあったが、やはりメンツを気にする北朝鮮が「拉致」そのものを認めることはないだろうと思われていた。今度の会談直前でも「どうやら行方不明者ということで何人かの消息が明かされてお茶を濁す形になるんじゃないか」と見られていたのだが(それでも一部で「サプライジングな情報が出る」との話も流れてはいた) 、いきなり拉致された人たちの安否を示すリストが出た上、金正日総書記自身の口から謝罪の言葉が出たのだから多くの人が驚いた。ここまで全部ぶっちゃけてしまうとはさすがに誰も予想していなかったわけで、「相変わらず人をビックリさせる国だよなぁ」と変な感想も持ってしまったところもある。

 結局相手があっさりと罪を認め(それでも「部下が勝手にやったことで私は知りません」という論法ではあるのだが )、「おわび」を示したわけだから、日本側としては成り行き上話をまとめざるを得ない。共同宣言にサインして国交正常化交渉再開を決定して会談は終わった。この間に拉致被害者の家族にも北朝鮮が示した情報が伝えられ、会談が終了して2時間ぐらいでマスコミも一斉にその内容を報じ始めた。で、当然のことながら日本国民に大きな衝撃が走った。特に被害者の中で最も若く、拉致問題のシンボル的存在となっていた横田めぐみさんが「死亡」とされていたことへの衝撃が大きかったと思う(変なことを言うようだが、この人一人だけでも無事が確認されていたらずいぶん反応が違ったと思う)
 訪朝直前に書きたい放題勝手なことを書き報じていたマスコミの中には、それっとばかり「なぜ席を蹴ってこなかった」「なぜ正常化交渉をするのか」「なぜ共同宣言にサインした」といった小泉批判の動きを煽るものもあった。「訪朝は失敗だ!この結果では支持率は急激に下がり、一気に政局だ!」などと騒いでいるところもあった。

 今書くとまた「後知恵」などと言われそうだが、僕はこの会談が終了し、中身が出た段階で「こりゃー小泉さん、あと二年はやれるんじゃないか」と思ったものだ(経済的失策があった場合は別だが)。だって客観的にみた場合、これほどの「外交成果」を上げるというのは非常に珍しいケースだと思う。しかも電撃的に自ら相手国に乗り込んでのトップ交渉で、ほとんどの要求を相手に飲ませ、さして揉めることもなく平和的に話をとりまとめたのだ。実際、今回の会談では非常に珍しいことながら日本独自の外交(むろん、その背景に周辺国やアメリカの思惑があるのは当然だが実際にやるのは日本なのだ)が諸外国から高く評価されることになっている。
 あえていえば明かされた内容の衝撃度が高いだけに国民が一時的に支持率を下げる可能性も感じたが、一週間もすれば落ち着いて支持率がアップするだろうと見ていた。しかし僕の考えた以上に日本国民の大半は冷静にこの会談を評価し、一部マスコミの変な感情的扇動には乗らなかったところが興味深い。そんな空気を察してか三週間目ぐらいから各種マスコミの見出しが一気におとなしくなってしまった(単にネタとして新鮮味がなくなったってこともあるだろうけど)。「北朝鮮側の発表はデッチ上げで被害者たちはみな生きている」という、当初とはまた違った方向へ騒ぎが移行してややこしいことになってきてるけど。

 僕も連想し、実際に会談直後の各種メディアの議論の中でしばしば引き合いに出された外交史のネタがある。日露戦争の講和会議でポーツマス条約を結んで「腰抜け外相」と国民の非難を受けた小村寿太郎と、満州問題で国際連盟を脱退して国民の喝采を浴びた松岡洋右の先例だ。その後の歴史的評価がどうなっているかは言うまでもなく、かの吉田茂もサンフランシスコ平和条約と日米安保条約締結へ赴いた際に「そのときに国民に非難されるぐらいの外交の方が後になってみれば正しいものだ」とこの二者の例を挙げて語っていたと言われる。このパターンがまた起こることをかなりのマスコミ関係者が予想し、あるいはそれを期待しあるいはそれを恐れ、煽ったりなだめたりという報道を行った。直後の世論調査で小泉内閣支持率が急上昇し(40%台後半から60%台後半へ) 、訪朝についてもおおむね成功と見ているという結果が示されたとき、多くのマスコミ関係者は拍子抜け、あるいは当惑してしまったようだ。まぁ僕もすぐに急上昇するとは思っていなかったけどね。その後も妙な煽り記事・番組は見かけるが、やはり世論調査の結果を受けて、どこか冷めてしまっている状態だ。代わりに外務省に矛先を向けているようだけど。
 この意外な国民の反応だが、僕はこんな風に受け取っている。多くの日本人にとって、自分たちのトップである首相おんみずからが国民に何かをしてくれたという経験が、歴史上においてもこれが初めてだったのではないかということだ(苦笑)。そりゃもちろん首相一人で全てを運んだわけではないし、あくまで相手に情報を開示させて謝らせただけで「何かをしてくれた」という表現は多少語弊があるとは思うが、そういう経験すら日本人にはほとんど無かったということなのかもしれない。僕が会談結果を見て直感的に「支持率が上がる」と感じた理由は、あとから自分で分析してみるとこんなあたりになっている。少なくとも「拉致も工作船ももうしません」と言質はとったわけだし(もちろんどこまで信用できるかはわからないけど)
 他に考えうる要素としては北朝鮮が改めて「ヤバイ国」と認識されたことで、近所に住んでる食い詰めたヤクザ一家みたいなもんで「危うきに近寄らず」と考えて余りムキになっていないってところもあるかもしれない。
 それにしても今度の一件では、かつて日本に侵略された国の人なんかが日本に「謝罪」を求めたり、なかなか言うことを信用せず警戒視を続けていたりする気分の一端がちょっと分かったような気がする。金正日の責任議論なんか見ていると昭和天皇の戦争責任論となんだか似てくるもんな(笑)。

 さて、その後も北朝鮮関係は何かと騒がしい。
 前からやるとは言われていたが、中国と同じような「経済特区」を中国との国境の新義州に設けて(さすがに資本主義国である韓国との国境に置くのは差し控えたようだ。中国側から提案はあったと言われているが…)、脇目もふらぬカネ稼ぎに走り始めた。特区の長官には中国系の事業家で香港などでは何かと毀誉褒貶で有名な人らしい楊斌氏なんてのを持ってきて、それなりに斬新な手を打っては来た。しかしその直後にこの楊氏がいきなり脱税容疑(?)で中国当局に拘束されるなど謎の事態が出来したりしており、前途はまさに多難である。いずれにせよなんかもう切羽詰まった末の浮ついた政策転換というのも見え見えで、早くも経済破綻の話も聞こえてくる(って、もうとっくに破綻していたとも思えるが)。さて、どうなることやら…。



◆北の国から来たスパイ

 上のネタでふざけにくくなったから「北の国から」ネタはこっちで消費(笑)。今でこそ単純に「北」と言えば北朝鮮が頭に浮かぶが、振り返ってみるとアジアには他にもかつて南北分断状態に置かれていた国があった。それはヴェトナムである。

 このヴェトナムの分断事情も朝鮮半島のそれと似ている。第二次大戦前はフランスの植民地とされていたこの国だが(それでも従来の阮朝皇帝はそのまんま君臨していて二重統治状態。この辺りは日本の植民地朝鮮とは異なる)、第二次大戦中に日本軍が進出してこれが太平洋戦争への引き金の一つとなり、日本敗北直後にホー=チ=ミン率いる共産党を中心とするヴェトナム独立同盟(ヴェトミン)が「ヴェトナム民主共和国」を建国、フランスからの独立を宣言した。しかしフランスはこれを認めず、阮朝皇帝バオ=ダイを主席に擁立し南部に「ヴェトナム国」を建国して対抗、両国は「インドシナ戦争」(1946〜1954)に突入していった。結局この戦争は「ヴェトナム民主共和国」側の勝利に終わり一応独立は達成されたのだが、アジアの共産化拡大を恐れるアメリカが介入してジュネーブ休戦協定により北緯17度付近を軍事境界線としてでヴェトナムを南北に分断、直後にアメリカは南側で将軍ゴ=ディン=ディエムにクーデターを起こさせて「ヴェトナム共和国」を作らせ、北の「民主共和国」と対抗させる。しかしこのゴ=ディン=ディエムがとんでもない独裁者にして暴君で悪政の限りを尽くし、、北側は「南ヴェトナム解放民族戦線」(ヴェトコン)を結成して南部で政権打倒のゲリラ活動を起こす形になってしまう。頭に来たアメリカはズオン=バン=ミン将軍にクーデターを起こさせてゴ=ディン=ディエムを抹殺し(1963年)、やがて自らヴェトナム戦争の泥沼へと踏み込んでいくわけだ。
 パターンとしては確かに朝鮮半島のケースとよく似ている。しかし大きく違うのがこちらでは結果的に「北」があのアメリカを破って勝利し、完全統一を達成してしまったというところだ。またこちらの場合、朝鮮戦争同様に米ソを中心とする東西冷戦の一局面という性格も確かにあるものの、どちらかというと反植民地・反帝国主義的な民族独立戦争の性格が強かったという点も注目しなければならないだろう。

 さて歴史的前フリはこの辺にして、ニュースの話題だが。
 8月8日、かつて南ヴェトナム(ヴェトナム共和国)においてゴ=ディン=ディエムやグエン=バン=チューといった大統領の政策顧問をつとめたブー=ゴク=ニャ 氏が前日の7日にホーチミン市の自宅で74歳で亡くなった事が報じられた。旧南ヴェトナムの大統領の側近じゃあ、それこそ「国賊」扱いかいな、と思ったらさにあらず。この人、なんと南ヴェトナムで大統領の政策顧問として大統領官邸内に寝泊りしていながら、同時に北ヴェトナムに機密情報を送る大物スパイでもあったのである!ああ、久々に僕の大好きなスパイネタが(笑)。
 悪名高いゴ=ディン=ディエムの政策顧問までしていたこの人だが、特にグエン=バン=チュー大統領からは絶大な信頼を受けていたそうで、大統領官邸内に寝室を与えられ、政策だけでなく個人的な相談まで受け、大統領の執務室の鍵まで預かっていたそうな。ここまでトップに食い込んだスパイってのも珍しいかもしれない。そりゃーもう機密はばっちり筒抜けだったでしょうな。戦いを優勢に進めていると思っていたアメリカを驚愕させた1968年の「テト(旧正月)攻勢」なんかも彼の情報によるところがあったのかもしれない。
 しかしさすがにCIAが彼のスパイ活動を突き止めた。1969年にブー=ゴク=ニャ氏は北のスパイとして逮捕・投獄される。結局そのまま獄中にあるうちにアメリカがヴェトナムから撤退し、1975年4月に南ヴェトナムの首都サイゴンが陥落。ブー氏は獄中から解放され、戦争勝利の功労者としてヴェトナム人民軍の少将にまで昇進した。その半生は『顧問』というタイトルの伝記本にもなっているとのこと。

 なお、単なる偶然なのだが、このブー氏が亡くなった日のちょうど一年前の2001年8月7日、ゴ=ディン=ディエムを打倒し、運命のめぐりあわせで最後の南ヴェトナム大統領を務めたズオン=バン=ミン氏が亡くなっていて昨年の「史点」でもとりあげている。ヴェトナム戦争も歴史の彼方の話になりつつあるわけだ。
 


◆「9.11」からまる一年

 今年と同様に昨年も僕は8月から9月にかけて「史点」執筆がストップした。夏期講習なんかしているせいもあってこの時期どうもポッカリと書くタイミングを失ってしまうのだ。いったんタイミングを失うとズルズルと書けなくなってしまう。昨年はそんなこんなで執筆再開して一か月分の話題をまとめていたところへ、あの「9.11テロ」が発生した。僕はとりあえずこのテロの件を含まない「史点」をアップし、その直後に「9.11」テロ関連ばかりで記事を埋め尽くした「史点」をアップすることとなった。その後は「まだまだまだ…続く余波」シリーズなど書いていたりもするが、余波自体は一年たった今なお続いている。

 それにしてもこの一年間はこのテロ事件に絡んだだけでもいろんなことがあった。アメリカ軍のアフガニスタンへの攻撃、タリバン政権の崩壊とカルザイ 政権の誕生、それと連動するイスラエルとパレスチナの憎悪の連鎖、パキスタンとインドの核戦争すら匂わせるキナ臭い対立、そして次なる戦火はイラクに起こるということが現在ほぼ確実視されている。これだけ早い段階からやるぞやるぞと言っている戦争ってのも歴史上珍しいんじゃなかろうか。
 一年たってみてつくづく不思議なのが、「主犯」と目されるオサマ=ビン=ラディン氏、タリバン政権の指導者オマル師まで、捕まらないどころか生死すら不明という現状。ついでに言えばアルカーイダも相変わらず活動しているらしく、なおかつ彼らとあの飛行機テロとの接点を証明する証拠はまだまだ状況証拠的で今ひとつピンと来ないところだ。むろん他にやるやつがいないだろう、とは思うのだが、今頃になっても「証拠があった!」などと小ネタがアメリカから報じられるあたりを見ていると、なんかやっぱり決定打に欠けているんと違うかと思ってしまうところではある。しかも最近じゃあ「アルカーイダとフセイン政権に接点があった証拠が!」などとブッシュ政権周辺がチマチマと言い出して、もうテロの話は戦争開始のための口実しか過ぎなくなってるんじゃないかと思えてくる。

 8月ぐらいにはようやく冷めてきたのかアメリカ国内でもイラク攻撃に懐疑的な意見が多くなり、ブッシュ政権の支持率もかなりのところまで落ち込んだ。あのアメリカマスコミの中でもイラク攻撃に対する懐疑的な意見が無いわけでもないようで、NYタイムスみたいに結構意図してアンチブッシュの記事を組んでいたところもある。面白かったのがイラン・イラク戦争の際に当時のレーガン政権が、イラン革命の波及を恐れてイラクに肩入れし(だいたいこのイラン・イラク戦争自体がアメリカのたきつけたものだったと言われている)、アメリカ軍の情報要員60名が極秘裏にイラク支援に送り込まれていたという同紙のスクープ。そこではこの戦争においてイラク軍がサリンなど毒ガス兵器を使用したことについてもレーガン政権(副大統領は父ブッシュである)は知りながらも事実上容認していたという指摘も含まれていた。さんざ言われていることだが、イラクのフセイン政権を「育てた」のはアメリカであり(同パターンはタリバン政権にも言える。いずれもレーガン→ブッシュ父という流れの中だ)、それが調子に乗ってクウェートを占領したりしたから飼い犬に手をかまれたとばかりブッシュ父大統領は怒り狂って湾岸戦争を戦い、このとき徹底的にやらなかったことを悔やんで息子ブッシュがそれを果たそうとしている、と、まぁそういう流れになるわけだな。
 しかし9.11一周年の大騒ぎで、またブッシュ政権への支持率が上昇し、イラク攻撃支持の声が高まってきているらしい。ここぞとばかりにブッシュ政権はイラク攻撃論をこの9月には盛んにブチあげていたものだ。その背後には近づいてきている中間選挙への配慮もチラチラする。

 近頃のアメリカの単独行動ぶりには世界的にみても好意的な人は少数派ではあるのだろうが、なにせそこは「世界のガキ大将」であるから表立ってアメリカにブレーキをかけられる国は少ない。ジャイアンがリサイタルを開催してそこにみんなが泣く泣く集まって賛辞を送っている様子に似ていなくも無い(って、いきなり何の話だ)。いわゆる「五大国」の中ではロシアと中国はアメリカの行動に批判を加えつつ深くはつっこまずに様子を見ているという感じだし、イギリスは国内は反対意見がかなり強くなっているもののなぜかブレア首相の付き合いがよく、最近はすっかりアメリカと歩調を合わせてしまっている。イラクから見ればそれこそ「鬼畜米英」なんだろうな(笑)。他には右派政権のイタリア・ベルルスコーニ首相なんかも妙にブッシュ政権に擦り寄った発言をしている。
 その一方でドイツとフランスはかなり明確にイラク攻撃反対をブチあげている。フランスのシラク大統領は歴代の大統領の例にならってアメリカとは一線を画す「独自外交」の姿勢だから実際に戦争が始まった場合どうするか分からないが、ドイツのシュレーダー首相は政治家生命を賭けて「イラク攻撃反対・開戦でも参加せず」との方針を掲げてしまっている。ドイツでは先ごろ政権交代をかけた総選挙が実施され、当初不利も伝えられたシュレーダー首相率いるドイツ社会民主党は「イラク攻撃反対」を旗印に掲げて支持率を急上昇させ(ってことはやっぱりイラク攻撃に反対の世論が強いってことで)、接戦ではあったものの勝利を獲得し、「緑の党」との連立政権を維持した。この選挙中にシュレーダー内閣の法務相がブッシュ大統領をあのヒトラーに例えて批判したとの報道があり(本人は否定しているらしいが)、ブッシュ政権が露骨に不快感を示し、シュレーダー首相再任が決まった際も、「反米をダシにして勝利しやがって」とばかりかなり冷たい反応を示した(たいていは敵対国でも首脳新任・再任時はお祝いのコメントの一つもするものだが、それも無かった)。アメリカの高官の誰だかが「シュレーダーは辞任すべきだ」などと物騒な発言したという話も聞こえてくる。その調子で行くとドイツの空爆もできそうだな(汗)。つい先ほど耳に入ったニュースだが、今度はドイツの高官がブッシュ大統領の軍事政策をソ連の長期独裁者ブレジネフ書記長のそれに似ていると発言したとか…

 しばらく失言騒動の無かったブッシュ大統領だが、久々にチラッとやってくれた。地元テキサスで開かれた共和党資金集め行事の中で「イラクのフセインの敵意は米国に向けられている。こいつはパパ(My Dad)を殺そうとしたやつだ」と発言したというのだ。ブッシュ父大統領は職を退いた後の1993年にクウェートを訪問した際、自動車爆弾によるテロに遭いそうになったことがあり、この発言はそのことを指しているらしい。この事件がフセイン政権によるものとこの時のクリントン大統領は断定して報復にミサイルをブチ込んでいるのだが、どうもブッシュ息子の方は個人的なあだ討ち(っつっても殺されたわけじゃないだろ?)感情をフセインに対して抱いているらしい。父ブッシュも先日マスコミのインタビューで「イラク攻撃は大統領の判断に任せる」と言いつつ、フセイン大統領のことを「最低の奴」とばかりずいぶん個人的な恨みの入った人物評を述べていたっけ。
 大統領同様に変に口を滑らせる印象のあるフライシャー報道官だが(まぁ彼の場合は意図的にやってる節を感じるけど)「イラクの体制交代はどんな形で実現しても歓迎だ。イラクの人々が銃弾1発の費用を引き受けてくれれば、ずいぶん安上がりだ」などと10月1日に発言していた。要するにフセイン政権さえ倒せるならそれでいいということらしい。どうみてもタカ派の最右翼と思えるライス大統領補佐官が相前後して「フセインとアルカーイダの間に接触が…」などとチラチラと発言しだしたのと考え合わせると、もうブッシュ政権は何があろうと止まらないみたい。一方で軍人出身のパウエル国務長官が「大量破壊兵器さえ廃棄すれば別にイラクはどんな政権でもいい」とか発言した、なんて報道もあり、ブッシュ政権内部で彼がほとんど唯一?の慎重派になっている様子をうかがわせた。そのせいか仮にこの政権に二期目があるとしても彼は参加しない気らしいとの話も聞こえてくる。
 
 ああ、長いなぁ…。この更新中断の間にまたパレスチナとイスラエルの間がきな臭くなり、またぞろアラファト議長の公邸が包囲・攻撃され「いよいよ終わりか」と言われていたら案の定(そう、僕もだいたいああなると思っていた)、ギリギリのところでイスラエル側が引き、「不死身のアラファト」ぶりを見せ付けたりしている。ま、要するにこちらは何ら進展は無いわけで、省略。




◆スイス、とうとう国連加盟

 あの永世中立国・スイスがとうとう国連に正式に加盟した。190番目の国連加盟国となる。これまで国是の「永世中立」の堅持のためにEUはおろか国連にすら与さなかったこの国だが、ほとんど全世界の国が国連に加盟したいま、もはや「中立」の意味もあるまいと今年3月の国民投票で国連加盟が決定され、去る9月10日の第57回国連総会で正式に加盟が認められたわけだ。「ここにスイスが来てくれるのを長い間待っていた」とはアナン国連事務総長のコメント。
 このあと9月27日に、独立したばかりの国東ティモールが191番目の加盟国に正式に決まり、世界で国連未加盟の国家はあの「バチカン市国」 だけになった。もっともこの「国」は余りにも特殊な性格を持っているから国連に加盟する意味があるのか、ちと怪しい。そう考えればもはや全世界の国家が国連に加盟していると言っても良い状況であるのだが、国連がその本部を置いているどっかの国が国連を脱退しやしないかとヒヤヒヤさせられる昨今である。

 さて、このスイスという国、アルプスの山の中の平和な永世中立国ってなイメージが強い国なのであるが、実は自国の安全保障にはかなり神経質な国という側面もある。軍隊を持っているのはもちろんのこと(バチカンの警備なんかにもあたってるけど)、家庭用核シェルターの普及率は世界最高で、銃の保有率も高い(昨年、その銃を使った議場乱射事件が起きて世界的ニュースになったっけ) 。そしてしっかりと地対空ミサイルを装備し核攻撃に備えた防御体制もとっていた。そもそも永世中立という国是も、あちこちに傭兵として自国民を送り出した国が複雑なヨーロッパ国際情勢の中で生き延びるために選択した積極的防衛政策という面もあるから、もともと神経質なまでに戦争を意識する国民性なのかもしれない。

 9月1日付読売新聞に「スイスの秘密ミサイル基地、軍事博物館に」という記事が載っていた。なんでも同国ツーク州グリューゲル村の秘密ミサイル基地が軍事博物館として一般公開されたとかで、その取材記事が掲載されていたのだ。
 1960年代にスイスは当時最新鋭のイギリス製ミサイル「ブラッドハウンド」を購入し実戦配備していた。その配備状況は当然極秘とされたが、この記事内で元軍人が明らかにしているところによると全国6ヶ所に合計200基のブラッドハウンドミサイルが配備されていたという。このツーク州グリューゲル村の丘の基地にも32基が配備され、常時270人の兵隊が勤務してスイスの空を睨んでいた。やはり核攻撃を想定していて、敵ミサイルを感知し発射を指示する司令部は地下核シェルター内に置かれていたという。しかしこの基地は存在そのものが極秘とされ関係者以外の立ち入りは当然禁止、勤務者たちも自分たちの職務を他人はもちろん家族にすら漏らすことを認められていなかった。もっともこんな村に200人以上のよそ者がいて飲み屋なんかにも出かけていたから、村人たちはだいたいどういうことが行われているかは察していたらしい。「しかしそれをあえて詮索しなかった。それがスイス人というものさ」と取材に答えた元軍人はコメントしていた(笑)。

 90年代に入ってスイス軍が地対空ミサイルの主力を移動式・小型の「レイピア」に移したため、6ヵ所あった「ブラッドハウンド」ミサイルの秘密基地は全て閉鎖されることになった。1999年に基地が閉鎖され機密も解除されたのを受けて、長年この基地に勤務した有志の働きかけでこの基地は軍事博物館として一般公開されることとなったのだった。見学者はほとんどスイス人で、やはり「秘密基地」みたさがその大きな動機のようだ。この基地の勤務者で現在はボランティアで観光客向けガイドを勤めている元軍人は「大事に守ってきた秘密基地が公開されるのは、ちょっと寂しい気もするが、それが人生、時代の流れ」と語っていたそうな。



◆戦中戦後秘史あれこれ

 毎年8月ともなると「先の戦争」を回顧するイベントやら、新たな歴史事実の発見報道などが相次ぐ。前者はともかく後者については毎年よくネタがあるよな〜と思ってしまうぐらい、各マスコミで一つずつぐらい第二次大戦関連のスクープ(?)ネタが発表されるものだ。
 「これは史点ネタだなぁ」と手当たり次第にあれこれ集めていたのだが、更新する機会を逸し、そのまま一ヶ月遅れでまとめて公開ということになる。

 太平洋戦争の開始と言えば「真珠湾攻撃」。もっとも実際には日本軍はそれより早くマレー半島に上陸を開始していたらしいのだが、インパクトの強烈度という点では確かに「真珠湾」は太平洋戦争の幕開けと呼んで差し支えないだろう。昨年は60周年ってこともあって大作映画も公開されましたけどねぇ…実は僕はまだ見てない(爆)。
 さてこの真珠湾攻撃だが、いきなり日本の戦闘機部隊が飛んできたわけではなく、その直前に日本軍の潜航艇が一隻真珠湾に接近し、米軍の駆逐艦によって撃沈されている(映画「トラ・トラ・トラ!」ではこのシーンがしっかり入っていた) 。去る8月の末、この潜航艇が真珠湾沖の海底に沈んでいることがハワイ大学・海洋調査研究所の調査で確認された。歴史的な遺物であり、中に兵士の遺骨も残っている可能性もあるこの潜航艇だが、引き揚げとなるとあの「えひめ丸」並みの大ごとになるのは確実。同研究所所長代行のウイルトシャー博士は「潜航艇は61年間もここにあったのだから、あと2、3年ここに置いておいても大丈夫だろう」と割合のんきなことを言っていた。

 この真珠湾攻撃の第一報を伝えたジャーナリストが去る8月16日に100歳の高齢で亡くなっていた。亡くなったのは元AP通信のヒュー=ライトル 氏。ライトル氏は1941年12月7日(現地時間)、通信員として赴任していたホノルルで真珠湾攻撃に遭遇、世界に向けてこの攻撃の第一報を打電した。直後に軍が報道の検閲態勢に入ったため、他社に先駆けてこの一報が歴史的特ダネとなり、今こうしてその死去がニュースとして世界に配信されることにもなっちゃったのである。なお、ライトル氏は予備役兵であったため打電した直後に軍服に着替えて報道を検閲する側に回ったとか。ひょっとして他社の報道を妨害に回っていたのだろうか(笑)。

 太平洋戦争、当時の日本で言うところの大東亜戦争は当初日本軍の快進撃が続いた。アメリカが事実上の植民地にしていたフィリピンも日本軍に占領され、ここに個人的にも利権のあったマッカーサー司令官はフィリピンを放棄し、多くのフィリピン在住のアメリカ人が捕虜となり収容所に送られた。こうした捕虜アメリカ人とその遺族など598人が7月29日に「アメリカ連邦政府は戦争が近く始まることを知りながらフィリピン在住の米国人を放置した」として、損害賠償や機密文書の開示を求める集団訴訟をワシントンの連邦請求裁判所に起こしている。
 彼らの訴えによれば、 アメリカ政府は日本との開戦が近い、しかもフィリピンに侵攻してくると確信しながら、侵攻を予知していないと見せかけるために当時フィリピンに在住していた約1万2000人のアメリカ国民に脱出勧告を出さなかっただけでなく、パスポート発給を停止するなどして意図的にフィリピン脱出を妨害したのだ…とのこと。「真珠湾はアメリカの謀略」説みたいな話であるが、まったく考えられないわけでもない。ソ連の満州侵攻を予測しながら日本人入植者をほったらかして逃げた関東軍の例もある。

 一気に戦争末期に話が飛ぶ。
 日本の敗戦への決定打の一つとなったのがアメリカ軍による広島・長崎への原爆投下だが、実は「第三の原爆投下」の計画があったことが当時の電文調査により確認された。もともと広島に原爆を投下したエノラ=ゲイ号のポール=ティベッツ機長がそういう話があったことを証言していたが、国立徳山工業高専の工藤洋三教授らが戦争末期一ヶ月間のティベッツ機長とワシントンの後方司令部の間の電文交信記録をアメリカ国立公文書館から入手して調査した結果、確認できたという。
 広島への原爆投下を翌日に控えた1945年8月5日、司令部からテニアン島にいたティベッツ機長に「組み立て前の新たな爆発物を運ぶにはテニアン島にある大型のB29が必要」との指示があり、双方のやりとりの結果、10日に2機のB29がテニアン島を発ってアメリカ本土に向かい、爆弾を受け取って14日に出発する予定となっていたという。結局14日の段階で日本が降伏したため(玉音放送こそまだだったが、ポツダム宣言表明は14日中にやっていた)、この第三の原爆がどこに落とされる予定だったのかは不明である。

 日本政府が降伏を決定したのはどの時点だったのか。まぁ政府が決定しても軍部の強硬派が本土決戦を叫んで譲らず、14日から15日にかけての深夜にクーデター騒動を起こしている始末だったから、かなりギリギリまで危ない展開だったんだけど(この辺の経緯はたびたび紹介しているが映画「日本のいちばん長い日」が見事なドラマにまとめている)。ともあれ6日に広島、9日に長崎に原爆を投下され、妙にあてにしていたソ連に8日に侵攻され、という状況を受けて9日の御前会議でようやく「ポツダム宣言を受諾するか否か」の議題がとりあげられている(それまではそれを口にすることすら危ない状況だった)。結局この日の御前会議で昭和天皇 の「聖断」を仰ぐと言う形で本土決戦派を押さえ込み、ポツダム宣言受諾の方針が決定、翌10日には米英ソ中四カ国にその旨を通告もしている。だがポツダム宣言が「無条件降伏」を要求しているのに対し、日本側は「国体の護持(=天皇制の維持)」その他の条件をつけようとし、また陸軍を中心にそうした条件をつけることで降伏そのものをつぶしてしまおうとする動きもあり、結局14日の最終決定まで戦争は続いた。その間にも空襲・戦闘は続き、多くの犠牲者が出ている。
 さて、中国の北京青年報が8月15日の終戦特集ネタとして伝えたところによると、元新華社記者(89歳)の話として、当時延安に本拠地を置いていた毛沢東 が、8月10日の時点で日本が降伏を決めたという情報を聞いていた、との歴史秘話が明らかにされていた。この元記者は当時延安にあって通信機で世界の通信社の情報を集めていたが、10日午後9時にロイター電で「日本降伏」とだけ書かれた電文があるのを見つけ、電話で共産党本部に連絡し、毛沢東本人にこのことを伝えたと言う。毛沢東は「よかった。引き続き何かあったらまた私たちに知らせなさい」と何の変哲も無く答えたそうで。なお、先ほど日本政府が降伏の意向を米英ソ中四カ国に通告したと書いたが、当時の中国の代表政府は毛沢東ではなくそのライバルの蒋介石率いる国民党政府たったので、念のため。日本が降伏した直後にこの二人は中国の覇権をかけて戦いを再開し、結局毛沢東が天下をとるということになる。

 日本が降伏し、そこに乗り込んできて事実上の日本の最高支配者となったのが、先ほどの話でも出てきたマッカーサー。このマッカーサーがなかなか面白い日本への警戒感をもっていたことを明らかにする文書がスイスから出てきた。
 その文書は1945年10月、マッカーサーがスイスのカミーユ=ゴルジ駐日公使と対談した際の内容をゴルジ公使が本国に電報で送ったもの。これによると、マッカーサーは日本軍の残虐性を強調して嫌悪感をあらわにし、日本が戦後の国際社会で軍事的にはまるで重要ではない、「悲惨な地位を占めることになろう」と語ったという。その後の歴史を見るとおおむねそうなっているようにも思えるが、朝鮮戦争ごろにはマッカーサーも発想を転換していたことにもなる。
 この文書で面白いのはマッカーサーが、軍事的にはダメになった日本が経済的に他国を侵略するようになるのでは、と警戒していたことが明らかになる点だ。マッカーサーは日本の労働者が「食べていくにも困るほどの低賃金」で働かされ、それによって作られた「安価な粗悪品」がアジア諸国の市場を席巻し、経済的な侵略につながっていくと見て「我々はアジア諸国を日本の経済侵略から守らねばならない」と主張していたという。そのためには日本の労働状況の改善が必要だとして、「賃金や生活水準を向上させるために労働組合を組織し、日本の労働者を奴隷状態から解放する」との方針をマッカーサーは示し、実際にこの会談の直後に彼は幣原喜重郎首相に「婦人解放」「教育の自由主義化」「圧制諸制度の撤廃」「経済の民主化」などの「五大改革指令」を与え、その中に「労働組合の結成」を加えている。
 労働状況の改善は確かに日本人にとっても有益なことだったと思うのだが、その動機の中に「日本の経済侵略を阻止する」という戦略的なものが含まれていたというのには、いささか複雑な気分がしなくはないが、確かに変な善意よりは分かりやすい。しかし結局日本はアジアはおろかアメリカ本土にまで「経済侵略」することになり(ただし予想された「粗悪品」ではなかったけどね)、ある程度マッカーサーの懸念は的中することにはなったのだ。その日本も近頃は中国辺りから似たような追い上げを食らっているように思えるが。

 このマッカーサーと昭和天皇との間で何度か行われた会見は敗戦直後史の中で重要な位置を占める。昭和天皇を「現人神」の地位から引きずりおろしたともいえるあの二人が並んで写った有名な写真もあるが、この二人がどこまで政治的に突っ込んだ話をしたのかについてはまだまだ謎が多い。何と言ってもことは昭和天皇の戦争責任に関わることであり、戦後の歴史の中でこの会談の内容はどこかタブーのベールがつきまとった。
 この会談の内容についてこれまで全く情報が出なかったわけではない。マッカーサーが自伝の中で触れているし、昭和天皇自身も死後公開された「独白録」の中で触れてはいる。だが本人の弁であるだけに微妙な問題については信用が置けないところがあるのも事実。比較的客観的な資料である通訳の記録を作家の児島襄 氏が公表したり、国会図書館で見つかったりことがあるが、それもあくまで一部にとどまっている。ただ、この一部の資料の中でマッカーサーら当事者の証言と食い違う点があり、彼らの自伝を全面的には信用できない根拠になってもいるのだ。特に議論を呼んでいるのが、昭和天皇が最初の会見時に「罪は私にある。自分はどうなってもよいから国民を救って欲しい」と言ったとか言わないとかという問題だ。

 このたび朝日新聞がその内容を入手、終戦関連ネタとして報道したのは、この会見の際に通訳にあたっていた松井明氏(故人)が1980年代に書き残した手記「天皇の通訳」の写し。松井氏は1949年から1953年まで、昭和天皇とマッカーサーの全11回の会見のうち後半の8〜11回、さらにマッカーサー解任後の後任リッジウェーとの全7回の会見で通訳を担当していた。今回報道されたこの会見の中身では、昭和天皇が想像以上に政治的に突っ込んだ話題をしていたことが注目される。
 
 この松井氏が通訳を担当した時期は第二次大戦後の勝利者間の勢力争い、米ソ間のいわゆる「冷戦」が極度の緊張をともなって進行していた時期だ。1950年にはその「冷戦」が火を吹く形でお隣朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発している。このため、昭和天皇の発言には「共産主義勢力」に対する恐怖心・警戒心が濃厚に含まれていた。1949年11月のマッカーサーとの第9回会談で昭和天皇は「ソ連による共産主義思想の浸透と朝鮮に対する侵略等がありますと国民が甚だしく動揺するが如(ごと)き事態となることをおそれます」と発言、マッカーサーがこれに対し「アメリカは日本を空白状態にはしない」とし、過渡的措置として講和後も米軍が駐留するとの意向を示したとされる。また、実際に朝鮮戦争が起こっている最中の1951年5月のリッジウェーとの会談では、昭和天皇は国連軍(実質的に米軍)の士気や制空権など戦況を細かく質問し、さらには「仮に(共産側が)大攻勢に転じた場合、米軍は原子兵器を使用されるお考えはあるか?」との質問をリッジウェーにぶつけたという。前任者のマッカーサーが核使用を企図してトルーマン大統領により解任されたことを考え合わせると、一国の「象徴」としてはずいぶん突っ込んだ質問をしたものだと思う。しかも「被爆国だから核使用に反対」という姿勢からの質問とはちょっと思えない節がある。朝鮮戦争前のマッカーサーへの質問でも「共産主義の浸透」への警戒感は「それにより日本の国民が動揺する」、つまり日本国内の「革命」によって天皇制自体が危うくなることへの恐怖から来ているように感じられる。

 また1951年4月、解任された直後のマッカーサーとの会談で昭和天皇は「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度につき、この機会に謝意を表したい」と感謝の意を述べたということが今回公表された内容に含まれていた。「戦争裁判」とは極東国際軍事裁判、俗に言うところの「東京裁判」のこと。ここで昭和天皇が謝意を表しているマッカーサーのとった態度、というのは、イギリスやソ連などが主張した昭和天皇の戦争責任を裁判で問うべきとの意見を、マッカーサーが反対して結局天皇が不起訴に持っていったことを指している(だから東条英機なんかはそのための人身御供だったと言えるわけ。皮肉なもんで例の物議を呼んだ映画「プライド」ではそのことを図らずも暴露している)。マッカーサーとアメリカ政府が日本統治という政治的思惑から天皇の戦争責任を追及しないことにしたというのは、これまでもほぼ史実として語られてきたが、こうも明白に昭和天皇が謝意を表しているとはちょっと驚いた。よく「“東京裁判史観”を打破せよ!」とか騒いでいる人たちがいるが、彼らの多くが信奉してやまないらしい昭和天皇自身がこの裁判を有難いものと受け取っていたことにはどう感じるのだろう(ま、どうせ無視だろうけど)

 もちろん昭和天皇自身が戦中の軍部暴走を嘆いていてそれを止められなかったことに反省をしていたのは事実だろう。1951年8月のリッジウェーとの会見でも、昭和天皇はリッジーウェーと日本の国防について語り、「もちろん国が独立した以上、その防衛を考えるのは当然の責務。問題はいつの時点でいかなる形で実行するかということ」と軍隊の復活に明白に言及しつつ、「日本の旧来の軍国主義の復活を阻止しなければならない。それにはまず軍人の訓練と優秀な幹部の養成だ」と述べたという。

 僕も昭和生まれで、「天皇」といえば現在の人よりも昭和天皇のイメージのほうがやはり強い。それは恐らく現在の天皇、明仁さんはかなり「フツーの人」だからなんだろう。やっぱ昭和天皇って、あの玉音放送もそうだがしゃべり方からして「フツー」じゃなかった(笑)。ただ、「あ、そう」などとどこかとぼけた、世間離れした人のよさそうなご老人という印象でもあった。それがなかなか「政治家」だったんだよ、と言う話がその死後10年ぐらいたってからいろいろと出てきているように思われる。「歴史」の中の人物になりつつあるってことなんだろうな。


2002/10/6の記事

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