イーガンが登場した90年代という時代を特徴づけるところから、パネルは開始された。
90年代は逆説的ではあるが、「特徴が見えない時代」として特徴づけられる。40年代の「自然科学SF」、50年代の「社会科学SF」、60年代の「ニューウェイヴ」、70年代の「サイエンス・ファンタジー」、80年代の「サイバーパンク」などに対応するキャッチフレーズを見つけることは難しい。そんな中、強いてこの時代を代表するフレーズを挙げるとするならば、英国の雑誌Interzoneで80年代後半から90年代前半にかけて提唱された"Radical,Hard SF"が挙げられるだろう。従来のSFのアイデアをなぞるのではなく、新しい科学的知見に基づいた新しいSFを模索する"Radical,Hard SF"は、主に英連邦の作家、ポール・J・マコーリイ、イアン・マクドナルド、スティーブン・バクスター、エリック・ブラウンらによって展開された。その中で颯爽と登場してきたのがグレッグ・イーガンである。その活躍は、90年の作品ではInterzone読者賞1、2位、91年の作品ではInterzone読者賞1位という実績からも明らかである。
イーガンが他の90年代作家に比べて特徴的なのは、その非伝統性である。バクスターやマコーリイらは、題材として選ぶトピックは新しくても、その展開なり料理の仕方なりはSFの伝統的書法に基づいているのだが、イーガンは伝統の文脈に則らず、あたかもSFを自分で新しく発明し直しているかのように書いている。実際、イーガンの小説では、アイデアの展開のしかたや、物語のパターンなど、従来のSFの展開の仕方とは大きく異なる印象がある。
イーガンの小説内の論理展開は、ある現象が起きたときに、仮説Aを立て、それが成立するという前提で仮説Bを立て、それに基づき仮説Cを立て……というようなアクトバティックな論理を展開をした上で、仮説Cからも予想される現象Dが起きた途端に、AからCまでの仮説がすべて正しかったものとしてしまうというような強引な構造を持っている。いったん、A〜Cが証明されたとなれば、過去の仮説は忘れ去ったり、直接は示されていない、途中の仮説から更なる仮説を展開したりとやりたい放題である。まあ、論理を記述する手続きの丁寧さによって、この手法の詐術性を見せないようにしているあたりがイーガンの才能なわけだが、こういったインチキ臭い技法が、小説の構造自体にまで及んでしまうと、伏線がどこかに行ってしまうとか、導入で蜿蜒議論をして読者を突き放してしまうような、欠点として現れてしまう。このあたりが、イーガンの特徴でもあり、欠点でもある。ただ、第3長篇"Distress"や第5長篇"Terranesia"では、このあたりの欠点も大分解消されてきている。
『宇宙消失』や『順列都市』は、「人物描写がほとんど無い」「説明文はあっても、アクション描写などがほとんど無い」という特徴を持つ。これらは、読者を引き付けるという観点からは明らかな欠陥である。これらの欠陥は、"Distress"では充分とは言えないながらも大幅に、"Terranesia"では、かなりのところまで改善されている。あくまでアイデアを語ることが本筋にあるとはいえ、読者を引き付ける工夫も出来るようにはなってきている。それは、SFM 00/2掲載の短篇、"Occeanic"を読めば確認できるだろう。人物がその思想にいたる背景の描写に紙数の半分以上を費やしており、小説的な厚味が圧倒的に増している。
とはいえ、結局はイーガンである。"Distress"で改心したはずなのに、第4作"Diaspora"では、「お前は読者に読ませる気があるのか」という飛ばし方を見せる。ほとんど『スターメイカー』のハードSF版で、説明が中身の大半を占める。イーガンはやはりイーガンなのだった。
イーガンはイーガンであることが確認されたあたりでパネルは一段落。質疑応答となった。質疑応答では、神林との類似点/相違点の確認、塵理論に対する誠実さの確認、宗教に対する嫌悪感の指摘などがあった。そして、最後の質問との絡みから、イーガンのメインテーマが、最新科学の知見から驚きを伝えること、それもあくまで科学と人間との係りの中でその驚きを伝えることである、という指摘があった。最新科学と人間との係りと言う奴が、『宇宙消失』になってしまう人間心理の複雑さについて、会場内の全員が思いを寄せているうちにパネルは終了した。
プロの印刷屋と、編集者と、読者(書評家)、それぞれの立場から、書籍の電子化の可能性と問題点について語るという企画。
まずはじめに、かって見事に失敗に終わったNECのデジタルブックと、見事に失敗に終わりそうな電子書籍コンソーシアムの携帯端末がが会場内を回され、参加者にその使い難さを遺憾無く見せつけた。
この手の電子ブック、最大の問題点は、未だ紙の書籍に匹敵する性能を持つ端末が存在しないことであろう。もちろん、保存性なり、検索性なり、携帯性、可読性以外の点で、紙の書籍を上回る部分があれば、普及する可能性はあるわけだが、現段階ではその辺がうまく行っていない。
また、それでも供給される作品タイトルが、そのメディアでしか読めないものであれば、それはそれで普及する可能性はあるのだが、実際のラインナップは、『ゴルゴ13』であったり、『ロードス島』であったりと、現在用意に入手可能なものが中心になってしまっている。せっかくデータをすべて画像として扱うことで、ファイルサイズを犠牲にしてまでも入力の手間を抑えているというのに、これではあまりにも無意味だ。
供給側の立脚点が改められない限り、電子ブックは役立たずなままに終わるに違いない。
続いて、中西秀彦がオンデマンドによる小部数印刷の現状を紹介した。オンデマンドの機械は、端的に言えばパソコン+レーザープリンタ/コピー+製本機。これさえあれば、オフセット風のファンジン製作も思いのままという夢の機械だ。しょせん、コピーはコピーだろうと思っていたのだが、会場内を回された印刷版とコピー版を見比べてみるとほとんど区別がつかないほどの出来。これなら、所有欲も充分に満たされる。
ただ、結局最終アウトプットが紙であるという事実はかわらないわけで、保存性、検索性などは現在の書籍と変わらない。また、最も重要なのは入力データという点も変化はないわけで、今後の少部数出版が容易になるというメリットはあったとしても、過去の絶版書籍の入手の為には切り札とまでは言い難い。
さらに、携帯端末を使用しないオンライン出版、例えば光文社のデータサービスや電子書籍パピルスなども話題に上った。プラットフォームを選ばない、これらのサービスは、現在の電子ブックに比べれば圧倒的な利点を持つ。また、テキスト自体が配布される形式では、圧倒的な検索性能もありこの点も利点の一つとして挙げられる。しかし、それら取扱の容易さは、複製の容易さ、すなわち著作権の守り難さにも繋がってしまう。
いくつかのサービスが話題に上る中、最大の問題として取りあげられたのがタイトル数確保の問題である。保守費用が実質的に0であることからすれば、入手難の物、刊行が難しいものを中心にがんがん電子化していけばオンデマンドにしろ電子ブックにしろ、どんどん普及していくはず。問題は最初の電子化のコストにある。電子化そのものにかかる人件費(スキャニングしてOCRでも、校正は必要となる)、作家に電子化を許可してもらうための労力e.t.c.それを考えると、保守的な経営陣の場合、最初のタイトルは確実性の高いメジャータイトルばかりということになりかねない。そして、それでは電子化されている意味がない……。
ここで、中西秀彦が新たな観点から電子化の必要性を指摘した。来世紀には紙が無くなるかもしれないというのだ。森林の減少ももちろん大きいが、何より問題なのは中国とインドの急速な先進国化。莫大な人口を抱える中国・インドの平均生活レベルが上がれば必然的に紙需要は急騰する。印刷しようにも紙が無い。不可抗力としての電子化が行われる可能性は極めて高い。
H-II打ち上げ取材の専門家、笹本祐一が撮影したH-II 8号機打ち上げの様子を眺めながら、ついに商用段階に入ってきた日本の宇宙輸送システム(衛星は遥か昔に商用段階に入っている)について宇宙作家クラブ所属の二人が語り明かす……。
というパネルになれば素晴らしかったのだが、残念ながらそうは行かない。ご存知のように、8号機は一段目のトラブルからNASDA史上初めて自爆スイッチを押された機体となってしまったのである。そんなわけで、話題は比較的暗めの方が中心。もちろん、「なんでい、たかが戦闘機二機じゃねえか」というような発言も多かったがそれは景気づけにはなっても話題にはならないわけで、結局NASDAに漂う閉塞感だの、NASDA組織内での情報流通の不足などという話になってしまうのである。
よほど大きく京フェス実行委員側のメンバーが変わらない限り、来年もパネルなり合宿なりで、これに類する企画が行われるとは思うのだが、その席では明るい話題ばかり語られる事を祈るのみだ。