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ほら話とほんとうの話、ほんの十ほど
- 著者:アラスター・グレイ
- 原題:"TEN Tales Tall & True"(1993)
- 訳者:高橋和久
- 出版社:白水社
- ISBN4-560-04644-1
- 備考:作品集
- 評価:-1(-3〜+3の7段階)
残念ながら、久しぶりにはずしてしまった。最近は、ハードカバーで失敗だと思うことはほとんど無くなっていたのだが、この作品は残念ながらそう思ってしまった。
対象をやや突き放したような客観的な文体は気にいったのだが、そこで展開される話が、どうも僕には魅力的ではない。いまひとつ、幻想性を感じないのだ。
幻想性といっても、別に幽霊だの魔法だのが出てきて欲しかったというわけではない。現実的な世界の中で現実的な事象だけが出てくる話でもそれはそれでいいのだ。どこかに浮世離れした何かがあれば。
僕の好きなダールの短編に「南から来た男」がある。ストーリーはご存知の方も多いだろう。賭けに憑かれた男の物語だ。主人公の友人は、この男に「外に停めてある高級車と、君の小指をかけてギャンブルをやらないか」と持ち掛けられ、つい勝負にのってしまう。賭けが行われている瞬間のサスペンスの盛り上がり方は、「ロアルド・ダールこれにあり」ともいうべき見事さだ。
この作品には非現実的な存在は一切出てこない。出てくるのは酒場、人間、高級車、ライターと実際にあるものばかりである。しかし、作品全体からは確かにある種の幻想性を感じる。これは登場するキャラクターの論理が、「いわゆる日常」と乖離しているためだ。
残念ながら、『ほら話とほんとうの話…』からは、このような幻想性を感じられなかった。その舞台が非現実的な場合でさえ。
もちろん、すべての小説が幻想的であるべきだなどとは思っていない。ただ、僕は幻想的な話が好きだというだけだ。そして、この本のタイトルと惹句から、かってにそのような作風を想像してしまっただけだ。
何かを期待して読書をする場合、不幸に終わることが多い。残念ながら、今回はそうなってしまったようだ。
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夜の姉妹団
編・訳者:柴田元幸
出版社:朝日新聞社
ISBN4-02-257229-9
備考:アンソロジー
評価:+2(-3〜+3の7段階)
ある程度、海外物を読みつづけると、信頼できる翻訳者というのができて来る。別に、誤訳が少ないとか、文章がうまいというのではなく、その人が訳す本の大半を面白いと感じられる翻訳者だ。
翻訳は原著を越えられないという制限がある(いや、超える場合もあるけど…)。個人的には野田節は大好き(<ジェイムスン教授>なんて最高だと思う)だが、『ブラックカラー』はお世辞にも面白いとは思えなかったし、山高昭訳の硬い文章は好きなのだが『アレフの彼方』はとても読んでられなかった。まあ、たいていはどんなに好きな翻訳者でもこれはちょっとという作品があるものだ。これは翻訳の問題ではない。原作が肌に合わないのである。
しかし、なかにはごく希に、訳される本みな面白いと思うことができる翻訳者がいる。僕にとって柴田元幸はそんな翻訳者だ。
ミルハウザー、オースター、彼の紹介で読む作品はいずれも面白かった。アンソロジーを読む上で、編者と趣味が合うということほど素晴らしい保証はないだろう。絶対面白いと思いながら読みはじめ、そして期待はまったく裏切られなかった。ありがたいことだ。
ミルハウザーの淡い文章が心地よい「夜の姉妹団」、繰り返されるフレーズが絶品のダイベック「僕たちはしなかった」、あっさりした苦みのセルフ「北ロンドン死者の書」、そして奇妙な味の傑作ド・ベルニエール「ラベル」。力強さには欠けるが、繊細な、見事に完成された宝石細工のような世界が14個展開されている。
柴田訳・編のアンソロジーに欠点があるとすれば読み終わってしまうことだけだろう。それを欠点と感じられる本は、そう多くはない。
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第81Q戦争
- 著者:コードウェイナー・スミス
- 原題:"THE INSTRUMENTALITY OF MANKIND"(1979)
- 訳者:伊藤典夫
- 出版社:早川書房 ハヤカワ文庫SF
- ISBN4-15-011180-4
- 備考:作品集 人類補完機構
- 評価:0(-3〜+3の7段階)
こんなもんだろうと思いながら読み始めたら、こんなもんだった。特に何の感動も、不満も無い。C・スミスの信奉者にとってはたまらないんだろうし、嫌うものにとっては退屈な代物だろう。「スミスには好きな短編もある」なんて僕にとっては、可もなく不可もなしの見本のような本だった。
収録作中で気に入った作品が数本(「青をこころに一、二、と数えよ」「西洋科学はすばらしい」など)、つまらなかった作品が数本(「第81Q戦争」「マーク・エルフ」など)。いずれも、スミスならこんな風に面白いだろう/つまらないだろうという予想通りで、特に意外性のあったものはない。ひょっとしたら、全編これ見事なまでにつまらない"Early Asimov"を読んでいた時の方がむしろ、楽しかったかもしれない。
スミスが好きな方なら買ってみるのもいいだろう、きっと予想通りだ。スミスが嫌いなら買わない方がいい、きっと予想通りだ。もし、スミスを知らないのなら?何をグズグズしてるんだ、いますぐ『鼠と竜のゲーム』を買いにいきたまえ。
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エドガー@サイプラス
著者:アストロ・テラー
訳者:前山佳朱彦
原題:"Exegesis"
出版社:文藝春秋
ISBN4-16-317480-X
評価:0(-3〜+3の7段階)
まれに第1印象に負けるということがある。カッコイイ装丁、ツボにはまった惹句、思いも着かなかったタイトルなど、どうせ期待は裏切られるんだろうと思いながらも、買わざるをえない気分になる場合だ。
今回がそうだった。案の定、思った通りだし。
白地に朱色ででっかく欧米式のスマイリーマークを描いただけの表紙、e-mailのヘッダがページ頭に必ずつく、書簡体ならぬe-mail体の文章、ほら、これだけ妖しいとつい買っちゃうでしょ?まるで、SFみたいだったし。
一応、ストーリーの方も、「ある研究者が作っていたプログラムが自我をもち、研究者はその発見の名誉を得ようとして、スタンドアローンのマシンに閉じ込めて研究しようとするんだけど、プログラムは自由を求めに逃げ出す。」というSFみたいな始まりかたはするんだけど、残念ながら、中身は「まるでSFみたいな」話どまり。
コンピュータプログラムの成長小説としての部分も、「プログラムの自由とは」とか「プログラムに魂はあるか」なんて哲学のフリはあるんだけど、文体の制限からか、十分に生きているとはいえない。まあ、仲間内で最初に読むのなら、話の種になっていいかもという程度。
熟読しても1時間半で読めたんで、買うかどうかは書店で2、3割読んで決めるのが吉でしょう。値段(2000円弱)には見合わないことは保証できますが。
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フィアサム・エンジン
- 著者:イアン・バンクス
- 原題:"Feersum Endjinn"
- 訳者:増田まもる
- 出版社:早川書房
- ISBN4-15-208065-5
- 評価:+1(-3〜+3の7段階)
面白かった。ハードカバーで出たことには多少の疑問があるが十分満足できる作品だった。このレベルの作品が年3作あればジャンルは安泰だと思わせるできではある。
すべての記憶を失って目覚めた少女の心理描写から始まり、この「アシュラ」となのる少女、王国の現状を愁う女性科学者、自らが殺された理由を探る政府高官、友人のアリを探して「クリプト」とよばれるネット空間を旅する少年、この4人を主な視点人物とし、滅亡の危機が迫る遠未来の地球を救う物語が展開される。
ハイファンタジーを思わせる落ち着いた文体、サスペンスあふれるアクションシーン、ちょっぴり文学っぽい装置。ちょっとアレな最後は失敗すると目も当てられないものになりかねなかったが、見事に自然につなげている。
この10年の傑作などにはならないだろうが、今年を代表する佳作としては十分な作品だ。しかし。
なんで早川は、難しい作品と思わせたがるんだろう?
ハードカバーで出したこともそうだが、SFMで紹介する段階から、
やれ難解だの、翻訳不可能だの、「難しく知的な作品」として印象づけようとする姿勢が見え見えだった。なんといっても巻末の訳者あとがきで「なんだかわけのわからない人もいるかもしれないから、もう少しわかりやすく説明」するというのだ。馬鹿にするんじゃない。単語の一つ一つに複数の意味をこめたという英語版ならともかく(それだってどの程度かわからないが)、意味の複数性を切り捨てた日本語版は、普通に小説を読み慣れた人間なら、けして引っかかるような代物ではない。よくできた物語の域を越えるものではないのだ。たしかに、普段小説を読みつけない人なら引っかかるかもしれないが、この本はその手の購買層を意識した作りにはなっていない。それなら、難解、難解なんて宣伝は百害あって一利無しだと思うのだが。
青背ではなく、ハードカバーで出したことの意義は理解できる。この手のわかりやすく面白い小説こそ、ジャンル外読者に読んでもらいたいものだ。しかし、その決意で外に送り出したなら、「でも難しいかもしれないよ」などという読者を信頼しない防衛線を張る必要はあるまい。国書、白水あたりの読者ならSFの99%くらいの仕掛けには十分ついていける。読者を甘く見ないで欲しいものだ。
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満ち足りた人生
- 著者:別役実
- 出版社:白水社
- ISBN4-560-04623-9
- 評価:0(-3〜+3の7段階)
別役実は何を読んでも同じである。
いや、戯曲なら話はまた別なのかもしれないが、エッセイ(というか、なんというか)では『台詞の風景』を読もうが『虫づくし』を読もうが、本質的には同じ味がする。そうなると、どれを読んでも同じように面白いかとなるが、これがそうはいかない。どうも出来不出来というものが大きいのだ。
喜んで欲しい、今回は当りだ。
「誕生」、「排便」、「歩行」…。我々が、ともすれば忘れがちな日常の行為の意味、別役はそのひとつひとつの意義を、あるいは楽しみかたを教えてくれる…。
等と書いても、無意味だろう。ようはいつもの別役だ。『日々の暮らしかた』には劣るかもしれない、しかし『教訓』よりは面白い。ファンはこれを指標にしてみて欲しい。
え?別役エッセイを読んだことがないって?『虫づくし』からやり直してくるんだな。
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火星夜想曲
- 著者:イアン・マクドナルド
- 原題:"DESOLATION ROAD"(1988)
- 訳者:古沢嘉通
- 出版社:早川書房 ハヤカワ文庫SF
- ISBN4-15-011203-7
- 評価:+1(-3〜+3の7段階)
火星の砂漠にぽつんと生まれた町と、その住民のたどる数奇な運命…(帯より)
この作品はさまざまな言葉で評されている。曰く、「90年代の火星年代記」。曰く、「SF版百年の孤独」。そんな惹句にだまされてはいけない。これはそんな退屈なものでも、完成度の高いものでもない。もっと源初のSFに近い猥雑な代物だ。
冒頭は確かにブンガクの匂いがする。マジックリアリズム風(しかも、南米ではなくアメリカのそれ)の文体で語られる火星の情景は確かに美しい。そこを舞台に展開される家族の物語もブンガクによくある光景だ。しかも、その端々に背伸びがうかがえる。そのままで終ったとすれば、よくある文学かぶれの一作にとどまっただろう。しかし。
マクドナルドお得意の転調が訪れる。
『黎明の王、白昼の女王』では、この転調はうざったかった。ファンタジイは雰囲気が命。不用意に雰囲気を変えられても、よほどの技術がなければこちらは醒めるばかりだ。が、こちらはSF。転調だろうがなんだろうが、物語の加速は望むところである。それは見事に成功している。
終盤の急激な展開は見事のひとこと。途中で投げ出した人は、だまされたと思って読み切ってみて欲しい。
それで、だまされたとしても、それはあなたの責任だ(笑)。
追記:この小説、キー・キャラクターとして緑の小人がでてくる。これを、ブラウンの『火星人ゴーホーム』のキャラという人は多く、そこまでは僕も賛成なのだが、人によっては、これをブラウンの創作として扱っているようだ。
あれ?緑の小人って、宇宙人の伝統的なイメージじゃなかったっけ?典型的な「宇宙人」が大挙して現れるっていう展開のバカバカしさこそ、ブラウンの設定力の高さを示してるんだと思ってたんだけど、緑の小人ってブラウンの創作なの?だれか、教えてください。
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虚数
- 著者:スタニスワフ・レム
- 訳者:長谷見一雄・沼野充義・西成彦
- 原題:"WIELKOSC UROJONA"&"GOLEM XIV"
- 出版社:国書刊行会
- ISBN4-336-03593-8
- 評価:+1(-3〜+3の7段階)
この本は大きく二つの部分からなっている。架空の書籍の序文集である『虚数』と、架空の講義録からの抜粋『GOLEM XIV』である。詳しい成立事情は分からないが、『虚数』の初版にあった一章、「GOLEM XIV」をレムが気に入り、後に膨らませて独立させたものが『GOLEM XIV』だということらしい。
表題作(っていうのか?)『虚数』は残念ながら、凡作に終わっている。確かにレントゲン写真によるポルノ、機械文学など、面白いネタもいくつかあるが、一編一編が長いため、収録された作品の数が少なく、序文集としての面白味が無くなっている。ただでさえ、書評に比べてはるかに自由度が低い序文という形式を選んでいるだけに、『完全な真空』を超えるにはもう少し工夫が必要だったのではないか。『完全な真空』のように一つ一つのページ数を抑え、せめて10編以上の序文を収録していれば、もう少し面白くなったのではと思うと残念だ。
しかし、同時収録の『GOLEM XIV』のおかげでそんな不満は完全に拭い去られた。
『GOLEM XIV』はあくなき軍拡競争の過程で、ついに人間の制御の及ばない超知性となった米軍の戦略演算コンピュータ、GOLEM XIVが語る、人間論、知性・宇宙論だ。それはもはや小説ではなく、レムの哲学の開陳という形になっている。
#まあ、どこまで本気かはわかったものではないが。
偶然によって生まれた人間、自らのプライドを保つために作られた文化、知性に対する足かせとしての人間性。あるいは、理想としての機械、知性間の本質的なコミュニケーション不全、宇宙の沈黙。「誤謬としての文化」、「新しい宇宙創造説」、あるいは『宇宙創世記ロボットの旅』など過去の作品でさまざまに展開されてきたテーマがここで一気にまとめられている。その一つ一つで十分1本のSFが書けそうなテーマが惜しげもなく投げ出され、議論に追いつくのがやっとのペースでクリアされていく様は実に小気味良い。もちろん、立ち止まって読むと首をかしげざるをえない論理も散見されるが、そんな躊躇を許さない議論のパワーがあふれている。
なかでも、超知性GOLEMの扱いは面白かった。議論のおおざっぱな論旨は「人間は自然のランダムな過程のなかで生まれたものであり、本質的な足かせである「人間性」に囚われてしまっていて、知性の階段を次に踏み出すことができない。知性のはしごを次に進むのは計画された、本質的に知性であるコンピュータの方がふさわしい」というようなことなのだが、この純粋知性としての機械賛美はレムに特徴的なものではないだろうか?
アシモフの「ロボット」は理想的な存在として評価されるが、それは彼らの「人間性」似よるところが大きい。アシモフのロボットは「倫理」において「超人」なのだ。ラファティのカミロイ人やレックなどは高い能力を持つが、所詮は人間の能力を拡大したものにすぎず、彼らの能力の本質は倫理の枠を超える能力にある。ラファティの非人類は「非倫理」性において超人である。ラッカーのバッパーたちは異様に人間臭く、超人の臭いは感じない。事実、物語が進むにつれて人間と機械の境目はどんどん薄くなっていく。そう、ラッカーには超人は存在しない。アメリカSFの超人たちは、みなその本質において人間であり続けている。
クラークにはレム的な純粋理性としての超人が登場するが、その主役はあくまで人類である。ところが、レムでは人類はその「人間性」ゆえに超人となることができず、機械は「人間性」を、さらには「自意識」を持たないがゆえに超人となる。ここまで、「人間性」を切り捨てる作家も珍しいのではないだろうか。
もちろん、どこまで本気なのかはわからない。しかし、今回はかなりしっぽを出してる気はするな。
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