プロロ−グ
日々の写真をすくいとるように、集めてみました。
デジタルカメラを買いました。小さくカシャリと写してできた写真です。
目が流してきた風景の輪郭をなぞるように、かすめるように・・・。
確かめるように・・・。
が、確かめるには、カメラとデジカメは別のメデイアであるように・・・。
それはそれで、よいのです。
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デジカメは、0次画像である。
リバ−サルは1次画像。ネガ・プリントは2次画像である。
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Walking with electric-ccd-camera・・・
日々の写真をすくいとるように、集めてみました。
デジタルカメラを買いました。小さくカシャリと写してできた写真です。
目が流してきた風景の輪郭をなぞるように、かすめるように・・・。
確かめるように・・・。
が、確かめるには、カメラとデジカメは別のメデイアであるように・・・。
それはそれで、よいのです。
デジカメは、生々しく、それは、カメラにあった化学変化の間に生じる
昇華、昇華、変化作用が、根本的に違うような
、それは、なにかなと思ったりする。
それは、明らかに違うというような明確なものではない何か・・・。
そう、違和感・・・。どこから生まれるのか、・・・違和感・・・。
どこが違うというのだろう?
カメラと8mmビデオカメラの映像は、だれも同じとは思わない。
それは、音があり、映像が動くから・・・。しかし、根本はそうでなく、・・・。
ならば、映画とビデオは同じか・・?
技術的なことをいっている気は毛頭ありません。
カメラでやってきたことが、デジカメに置き換わるのか?
画素数の問題でなく、この違和感は、
やはり、銀粒子、と電子画像の違いでしょうか?
紙媒体とデスプレイの違いでしょうか?
銀の化学変化の間に、時間的な遅れからくる撮影者の精神的な引き算と足し算、
そして銀粒子の化学変化による写像の置き換わり、
そこと電子画像の画像の感光性の違い。
いずれ、銀粒子の細かさを電子画像は追い抜いて、やがてトランジスタが真空管の音をも真似たように、
銀粒子表現の味わいをもった電子感光体も出来てゆくのでしょう・・。
しかし、現在は、私の環境で持てる両者は、明らかに、質的な相違がある。
デジカメの方が、より、生である。それは、人を写したら、すぐわかる。
画素数が大きかろうと小さかろうと、CCDの方が、生々しい。
銀塩粒子の方が、現実?から、隔たっている。
そこが、銀塩粒子の写真表現のおもしろさの本質があるように思える。
どちらが、よいわけでもなく、異質のものであるのだ。
デジカメは、0次画像である。
リバ−サルは1次画像。ネガ・プリントは2次画像である。
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