今年はどんな年だったかを振り返ってみれば、レポートがここんとこヤケに増えてる事実から判断して、ぼくにとってSFファン活動大幅推進年間(?)でした!
さて、その1999年のSF出版界を彩る数々のトピックのなかでも、東京創元社から『合本 火星のプリンセス』を手始めに6月より刊行が開始された、《火星》シリーズ復活を抜きには語れないだろう。初の試みというワケでは決してないが、その“合本”という手法にも大きな関心が集まった。これについては、様々な制約に縛られ困難であった、シリーズ作品の復刊に道を拓いた点を高く評価したい。
もちろん、復活の大前提が作品の力量なのは当然だろう。その点、大衆小説作家エドガー・ライス・バローズ(早川表記は「バロウズ」だが、ウィリアム・バロウズと区別する意味も含めて却下!)の小説が放つ、時代に左右されない、物語としての普遍的な魅力があってこそなのは言うまでもあるまい。時代がかったその筆致は、しかし古典の風格で他と一線を画し、科学や社会背景が変貌しようとも、輩出した大量の模倣者に消費されようとも、物語の面白さそのものの本質で勝負を仕掛けているために、思いのほか古びない。
好みの相違で受け付けない方もあろう。こういう言い方は語弊があるかもしれないが、実のところバローズの小説は、あらすじを紹介するのがムズカシイ。いつのまにか似通ってしまうのだ(笑)。それぞれのシリーズ、また個々の作品は、明らかな質感の違いを有し、鮮烈なイメージを焼き付けるにもかかわらず、事実、そうなのだ。が、それはむしろ、あくまで読者サービスに徹したバローズの、面目躍如と言わずして何と言おう。
常に異邦人の主人公が、自らの勇気と類いまれな行動力によって、名誉と最愛の伴侶を手に入れるという構図を始め、移民の国アメリカ人のスピリットに訴えかける点を見つけ出すのはたやすい。また、ハミルトンやブラッドベリら多くの作家たちが目標にした事実から、後のアメリカSF界にバローズが果たした功績など、語るべき切り口は多い。しかし今回は、日本のSF出版の牽引者として、バローズの活躍を見てみたい。
1965年9月27日、創元推理文庫SF部門(当時は東京創元新社)から、《火星》シリーズ第一弾『火星のプリンセス』発売さる。もともと、野田宏一郎(昌宏)の連載「SF英雄群像」(〈SFマガジン〉1963年10月号)により、SF読者には待望の邦訳刊行であった。武部本一郎による美麗な装幀、しかも初のカラー口絵+挿絵付として登場したそれは、編集者厚木淳の熱い期待をも上回ろうかという、熱烈な読者の支持を獲得する。コワモテのスレッカラシが集う(!?)〈宇宙塵〉65年11月号(97号)でも、「実によく出来ている」「あまり手放しで面白がると評者のコケンにかかわりそうで気になるが、この作品の魅力は、やはりストーリイテリングのみごとさにある」と絶賛(評者/C・R)。
引き起こした反響のスゴさについては、厚木、野田両氏が折に触れ述懐しているが、編集部の意気込みの一端は、「雄大な構想で展開する、波瀾万丈のスペース・オペラ!」「007の痛快さと風太郎忍法帖のおもしろさ、SF・アクション・大ロマン!」といった惹句が踊る、挟み込みの刊行内容案内からも感じ取ることができる。
バローズの《火星》《金星》シリーズを筆頭に、E・E・スミスの《スカイラーク》《レンズマン》といったスペース・オペラの大量訳出による、創元推理文庫の大攻勢を受けた形で1970年に創刊されたのが、ハヤカワSF文庫(現ハヤカワ文庫SF)である。往年の名叢書ハヤカワ・SF・シリーズ(銀背)は、当時全318冊中まだ250番台と、本格SF中心のラインナップで健在だった。そのため初期のSF文庫は、通俗性を意識した、より娯楽色の強いセレクションにて差別化を図っていた。
とは言うものの、調べてみると意外にも、ハヤカワ・SF・シリーズに《キャプテン・フューチャー》が3冊、E・E・スミスが6冊収録されていたのみならず、『宇宙のスカイラーク』は創元より一年早い1966年発行なのである。バローズの《ペルシダー》に至っては、創元に先駆け5冊を刊行している(創元推理文庫版は1973年〜)。
このように早川書房の反応は早かったが、やはり“文庫”スタイルの持つ、ヴィジュアルと廉価さに対抗できなかったという所だろうか。折しも「文庫戦争」という言葉が叫ばれ始めた時代であった。
いずれにしても、バローズ作品が引っ張りだこであった状況は一目瞭然であろう。ハヤカワSF文庫創刊ラインナップの5冊に、バローズの『月の地底王国』が含まれていたのは、むしろ当然過ぎると言える。だが驚かされるのはその後だ。通巻25番までで、バローズがナント9冊! 50番まででも12冊と、にわかには信じ難い驚異的ハイペースにて続々と発売されたのだ。さらに記念すべき101番から125番は、特別仕様の黄色の背表紙に「TARZAN BOOKS」と銘打ち、バローズの《ターザン》シリーズが鳴り物入りで登場するのである(内3冊未刊。SF114の『地底世界のターザン』は、SF25に収録済の《ペルシダー》の一編と同一作品だが、「TARZAN BOOKS」としては欠番のための4冊とも言える)。いかに文庫そのものの柱として、高い依存度を示していたかが分かるだろう。
と、まあ、これだけの勢いを以ってしてもなお、バローズ=東京創元社とのイメージが広く刻み込まれているようなのは、恐るべき事実と言わねばなるまい。バローズとしては平凡と思わざるを得ない作品も含め、読者は全作品を貪欲に求め歓迎し、その欲求に精力的な紹介で応え続けたのが、訳者厚木淳と創元推理文庫だった!
これだけ一世を風靡しながら、紹介するタマが無くなればおのずと新刊も途絶え、ここ数年不幸にして書店店頭で姿を見られない状況にあった。だが、あれだけの点数が20年に渡り増刷を重ねたとは思えないほど、意外に古本屋で見掛けず、場合によってはプレミアさえ付く事実をして、バローズ人気の証明の一端にならないだろうか。
《火星》のみならず、厚木『ターザン』がディズニー映画化の追い風を受け、創元SF文庫より新訳刊行された。完結目指し突き進む事を願ってやまない。ガンバレ〜!
その行動は、場当たり的なイキオイに過ぎない。我ながら「よく行ったなあ」と、驚きを禁じ得ない程。1999年10月17日、ぼくはひとり旅立った。目指すは、柴野拓美講演会「日本SFを築いた人たち―SF同人誌『宇宙塵』・40年の軌跡―」。四国徳島日帰り強行軍!! そう、歴史の証言に立ち会うために!
講演会を行うそもそものキッカケは、徳島出身作家・海野十三(うんの じゅうざ)生誕百年記念出版の『JU通信◎復刻版』(1998年、発行 海野十三の会、発売 先鋭疾風社)に、柴野氏が資料提供したことに始まる(〈JU通信〉とは、1962年に結成された「海野十三氏の碑を建てる会」機関誌)。
お昼頃に到着した徳島空港から、会場の北島町立図書館・創世ホールへ直行。しばらくして、小浜徹也&三村美衣ご夫妻と合流する。四国行きを思い立ち、真っ先にアドバイスを乞うたのが、もちろんこのお二人。小浜さんは地元の藍住町出身なので、ご両親もいらっしゃってました。後に小西さんから、その裏で心暖まる逸話があったことを伺うが、それはまた別の話だ。そうそう、紹介が遅れたけど、小西さんこと小西昌幸こそ、『JU通信◎復刻版』から今度の講演会までをプロデュースした方である。お忙しい中、いろいろとお世話になってしまいました。その他にも、後援の古典SF研究会から藤元直樹さん(〈未来趣味〉編集発行人)や、セミナーなどでご一緒させていただく桐山芳男さんというおなじみの方々に加え、青心社社長の青木治道さんも来場。
北島町長および海野十三の会事務局長による講師紹介の後、講演会が始まる。以下箇条書きにて。
☆徳島へは3回目。2年前の広島での「あきこん」後と、37年前に筒井康隆・豊田有恒ら5人で、海野の記念碑建立時に来た。
★ここ数年、SFに関する思い出話をしろという要請が多い。星新一・小松左京についてや、アニメ(タツノコプロ)のSF考証時代についての話など。
☆SFとはどんなものか。皆さんの中に、『スター・ウォーズ』とか『インデペンデンス・デイ』をご覧になったことが無い方はいらっしゃいますか? SFとは、ああいったものです。
★『2001年宇宙の旅』の結末がわからないというファンも多いが、私に言わせれば、あれ程わかりやすい映画はない。
☆「SFの浸透と拡散」(筒井康隆)から、SFの状況論。
★東海村臨界事故から、SFは科学啓蒙に役立つのか。
☆SF界でのファンの役割。
★SFを築いた人たち。暦史を追って、まずはメアリー・シェリー。
☆2人の巨人、ヴェルヌの科学文明謳歌もウェルズの文明批評も、共に何か、今のSFの本質というものにぶち当たっていない気がする。これ、遊離しているのです。怪奇幻想の機械の怖さみたいな恐怖文学みたいなものと、そういう融合がまだ成されていない気がする。本物のSFを掴んでいないという点で「SF前期」と言いたい。
★ガーンズバックと同時代のE・R・バローズあたりから、スペース・オペラの時代が始まる。安っぽい西部劇をそのまま宇宙に持ち出したようなもので、悪く言えばミソクソ一緒の冒険活劇でありましたが、ここで古来の恐怖・冒険・怪奇といったものと、科学文明に対する態度というものが見事に混ぜ合わさって、そこで現代のSFが誕生する。50年代を代表する、クラーク、アジモフ、ブラッドベリ、それからハインラインといった作家たちの本物のSF″というものは、そこから生まれて来たのです。
☆どうもSFというものは、アメリカ・イギリス的なものらしい。
★押川春浪から海野十三へ。本物のSFを日本で一番最初に書いたのは、海野十三さんでしたね。
☆1950年に誠文堂新光社から『アメ―ジング・ストーリーズ日本語版』が出たが、惨憺たる失敗に終わり、やがて〈星雲〉という雑誌が1954年に生まれるんですが、なんか1号でおしまい。1955年頃に元々社シリーズが出まして(注:元々社は1956年)、これはある程度売れるんですが、親会社が潰れたとかでツブレました。こうしてSFは、ひとつの暗黒時代に入るんですねえ。
★私、実はその頃SFを書き始めたんです。大下宇陀児さんとか北村小松さんに原稿見て頂いて、みんな褒めて下さって、雨後のタケノコの如く次々に出た薄っぺらな雑誌に推薦して頂くんですが、その会社が潰れるんですよね。それでとうとうデビューし損ないまして、自分の作品が活字になる前にスランプに陥ったみたいで(笑)、自分では創作は断念してしまったような所がございました。
☆1956年に「日本空飛ぶ円盤研究会」というものがあるのを知りまして、会合に出てみたら、そこが好事家の集まりだったのです。
★そこでSFの同人誌を出してみようと、みんなで集まればなんか出来るんじゃないかと、声を掛けてみると、真っ先に名乗り出てくれたのが星新一さんでした。そして円盤の会や、文通で知り合った人たち20人位で〈宇宙塵〉が始まるのです。…
その後、場内は暗くなり、柴野さん秘蔵のスライドと共に、会員たちの紹介が始まる。星、光瀬、矢野、小松、筒井…と続く、総勢30人を超えるスライド上映。柴野さんがそれぞれに関するコメントを加えていくんだけど、その間に何度か「この人は〈宇宙塵〉には書いていません」とか挟まるのが、妙にオカシイ(笑)。
海外編として、1968年のサン・フランシスコで開催された、世界SF大会「ベイコン」に招待された時の写真も公開。こちらも著名作家・ファンが十数名登場したが、個人的に「おおっ」と思ったのが、キャンベルにハミルトン&ブラケット、ウォルハイムあたりかな。ヴァン・ヴォクトの紹介で会場が湧いたことは口外無用だ(笑)。
そのほか、世界SF大会での日本SF紹介企画の模様や、大会の華マスカレード(仮装)、及び日本SF大会の数々の写真がズラリ。第1回大会「メグコン」唯一のカラー写真などなど。「日本ではどうもアメリカと違って、マスカレードはあんまり盛んじゃないけど、代わりにアメリカには無いクイズの伝統がある」とのご指摘。おお、ナルホド確かに!
1977年の「宇宙塵20周年を祝う会」(コズミコン)のスライドでは、柴野さん思わず「ああ、これは最近の写真ですね」。…えっと、決してそうとばかりも言えないのではないかと…(笑)。
柴野さんが常に自問しておられる、「SFファン活動は、ホビーかウェイ・オブ・ライフか?」という命題など話は全く尽きないのだが、時間が押し迫ってここらで終了。
ロビーで柴野幸子さん、小浜さん、三村さん、桐山さん、藤元さんらと談笑する途中、ちょっと抜けて、柴野さんのサイン会にそっと本を差し出す。それを見た柴野さん曰く、「これは、ぼくがこの世から抹殺したい本です(笑)。」…!!
知るはずもないとはいえ冷汗ものだが、にこやかにサインをして頂く。ちなみにこの『Junior宇宙塵』は、15号別冊付録として1958年8月に発行されたもの。柴野さん(小隅黎)の「ボールのなぞ」と、川野京輔「ロケットの怪紳士」の2篇を収録。長篇『北極シティーの反乱』の最初期バージョンである、中篇版「北極市の叛乱(上・下)」掲載の〈宇宙塵〉1959年11、12月号(26、27号)では表紙にお願いした所、「表紙にするのは忍びない」とのことで、裏表紙にサインを頂きました。
この『北極シティーの反乱』は、徳間文庫版に加筆修正を加えた決定版が、ファン出版ながらも1999年7月に星海企業より発売されてます。入手はお早めにどうぞ。
おじゃました控室で、感想のアンケートに目を通していた柴野さん、好評にホッとされたようで満足そう。と、いきなり嬉しそうに読み上げ始めたのが、ぼくの書いた感想(笑)。勝因は、要望もキッチリ付け加えた点か?
時と闘い空駆け巡り、滞在時間わずかに6時間半。しかし、徳島よ。素晴らしい体験をありがとう!
1999.9.11 (土)、星新一の誕生日(9月6日)にちなんで開催された、星新一を偲ぶ会「ホシヅルの日」に行ってきたゾ。あの愛すべきキャラクター「ホシヅル」を全面に打ち出すことで、ヘンに祭り上げちまう風に陥らなかったし、多分、いやきっと星さんも喜んでいるんじゃないかな。
会場となった科学技術館サイエンスホールに到着してすぐ、牧眞司・紀子ご夫妻にお会いして同席することに。見知った顔もチラホラと。前の座席には柴野幸子さんが。柴野拓美さんは、もちろんゲスト席にいらっしゃいました。
ホシヅルによるオープニング・アニメの後、司会として実行委員長の新井素子と井上雅彦が登場する。この会を起こすに至った思い入れなどが語られたが、発起人の小松左京が体調優れず来場ならなかったのは、返す返すも残念であった。
そして、柴野さんがホシヅル人形を手に、いかなる生物かを外国人相手に説明するため(本人曰く「アヤシゲな英語」で)悪戦苦闘しているモノクロ映像(お若い!)を皮切りに始まるは、メインのビデオ上映。題して「千一篇の夢」。
もはや伝説となっているSF作家クラブの東海村原発見学の映像や、パーティー、TV、ファンの集いなどで残された星さんの姿、そして親交のあった方たちによる証言(告発? 笑)インタビューなど。映像そのものは、1998年5月29日放映「驚きももの木20世紀」でのカットも多数使用していたために、必ずしも初見とは限らなかったけれど、たった数百人に一回見せるだけではモッタイないと思わせる、ナカナカの出来でした。
途中に挟まれた第1パネルでは、柴野拓美、野田昌宏、豊田有恒という第一世代の面々が登壇(司会/巽孝之)。会場の関心は“星語録”に集中したが(笑)、極端に限られた短い時間という悪条件に輪を掛け、その内容から自主規制(!?)が働き、聞いてるこっちはまさにお預け状態。いやしかし、さすが一緒にバカ話をしていた方たち。出るは出るは…(笑)。
野田さんが、例の《キャプテン・フューチャー》を翻訳出版した時のエピソードを持ち出した途端、ウ〜ンと頭を抱えた柴野さんが実に微笑ましかったことは、みんなに内緒にしておこう(笑)。
この、まことしやかに語り継がれる“星語録”というシロモノ、ぼくも実在を信じかけたことがあったが(オイオイ)、「探しても見つからないから、自分で作った方が早いのでは…」と、本当に作ってしまった人が世の中にいる。
内容はむしろ星作品の名言・金言集であるが、この『星新一語録』(1973年)を発行した人物こそは、後にファンクラブ「エヌ氏の会」を結成することとなる林敏夫である。『星新一語録』から「エヌ氏の会」を経て続いた、直接の交流の経緯については、〈小説新潮〉98年3月号に寄せた林敏夫の追悼文でも語られている所である。
さて会場の方は、永井豪、江口寿史、吉田戦車、萩尾望都、大友克洋、小松左京(!)他、超豪華な顔ぶれによる、ホシヅル・イラストギャラリー「ホシヅルがいっぱい!!」を上映。パンフレットにも掲載されているが、大画面で動きがあるし、しかもカラーなのだ!
続いては、岡本忠成が「花とひみつ」を映画化した、『花ともぐら』の上映がなされました。人形劇による14分の短篇で、とても可愛くて秀逸。第22回ベネチア国際映画祭銀賞受賞を始めとする、数々の受賞歴を誇るだけあり、30年以上前の作品ながら楽しめました。
また星新一にまつわるビデオが流された後、高井信、大原まり子、新井素子、太田忠司、江坂遊、井上雅彦という“星新一の子供たち”による第2パネルがスタート(司会/星敬)。高井信は筋金入りの星ファン上がり。大原まり子もヴォクトなどの海外SF以前に、星作品を愛読したという。新井素子は言わずと知れた「奇想天外新人賞」で、ただひとり星新一が激賞してデビュー。太田忠司、江坂遊、井上雅彦の3人は、共に星が選者を務めた「星新一ショートショート・コンテスト」出身者。という訳で、新たな才能を発掘・指導した、育成者としての星像が語られた。
今日の「ホシヅルの日」というイベント自体が、これだけの内容を盛り込みながら、たった2時間のスケジュールだったことからも想像出来るように、パネルに充てられた時間は余りにも短い。しかし“子供たち”の気持ちは、ショートショート・コンテスト出身作家による追悼作品集、『ホシ計画』(廣済堂文庫99年)からも十分に伺うことが可能であろう。
そして新井&井上両司会により、いよいよ星新一ショート・ショートベスト3が発表されることに。これは参加登録する際に記入した、来場各人のベスト1アンケートを集計したもので、対象作品の膨大さと平均点の高さから大混戦を強いられた。では結果発表! 3位「午後の恐竜」(6票)/2位「ボッコちゃん」(11票)/1位「おーい でてこーい」(26票)でした。
順当な結果ではあるが、〈宇宙塵〉1958年8月号(15号)初出という最初期作がファンの選んだショートショート第1位ということは、やはり作家星新一にとって、複雑な部分もあるのだろうか。
発表後、女優の市毛良枝が「おーい でてこーい」を朗読。バックの画面に流れる、しりあがり寿の絵がとてもイイ味出していて、雰囲気良し。これはかなりお得かも。
エンディング・ビデオにて全行程終了。もしも第2、第3の「ホシヅルの日」が続くのであれば、ゼヒゼヒ馳せ参じようゾ!