『いとしい』☆☆☆1/2 川上弘美 幻冬舎文庫(00.8月刊)
川上弘美にハマったよ第3弾(笑)。これは長篇恋愛小説。
実は昔一度読んだことがあったのだが、あのときには気がつかなかったことがいっぱいわかって興味深かった(単に忘れてただけかもしれないが)。当時は、なんだか登場人物が複雑に入り組んだわけわからんヘンな話、というもやもやした印象しかなかったが、今読んでみると複雑でもなんでもない。これはマリエとユリエというふたり姉妹の、それぞれの恋を描いたものだったんだ。もちろん、それ以外のひとたちの恋も書かれてるけど、スポットライトが当たってるのはなんとも対照的な、この2種類の恋だけだったんだ。
ふたりはそれぞれ、紅郎とオトヒコさんという相手を見つけるのだが、その思いはどちらもだんだんズレが生じてくる。で、やっぱり話は川上弘美らしいシュールさになっていくのだが(オトヒコさんの書き方がすごい)、どちらも相手を強く愛しているのにそうなってしまうところがなんとも切ない。
さらには紅郎の気持ち、鈴本鈴郎、ミドリ子、チダさんの気持ちも、一見妙ではあるが、実は一途で切ないのだ。互いの強い愛が交錯しあい、からみあう。
強烈なようで淡白なような、濃厚でいてさらっとしたような。この小説には名状しがたい空気が漂っている。わからない人には全然理解できない話かもしれない。でも、わかる人にはこれがなんだか、すぐ理解してもらえるであろう。ここに書かれてるのは、さまざまな愛と、その終わりなのだ。
『おめでとう』☆☆☆☆ 川上弘美 新潮社(00.11月刊)
川上弘美にハマったよ第2弾(笑)。これは12章の短篇集。
『椰子・椰子』と『センセイの鞄』をたして2で割ったら、こんな味わいの短篇集ができるのではなかろうか。どこかシュールでヘンテコ、ユーモラスでいてなお恋愛小説っぽかったりするという(笑)。
どの話もほわっとあったかい、できたてのおまんじゅうみたいな淡い甘さ。う〜ん、どれもいいのだが、ワタクシ的にはあまりリアルなものより、『椰子・椰子』度の高い話のほうが好き。つまり、日常からぶっ飛んでる率が高めの話、ですか(笑)。
自分と同じ男にふられた気弱な幽霊にとりつかれる話「どうにもこうにも」とか、奇妙な女二人旅の「春の虫」とか、恋人が桜の木のうろに住みついてしまう「運命の恋人」とかが好きな路線。でも一番すごいのは表題作の「おめでとう」だ。驚愕。最高傑作。
川上弘美は短篇の名手でもあったのだなあ。
『センセイの鞄』☆☆☆☆☆ 川上弘美 平凡社(01.6月刊)
ううむ、いいっ!☆5つの満点!文句なく、今年の大収穫!『椰子・椰子』(川上弘美、新潮文庫)を読んで以来、どうも川上弘美はよさそうだぞ、と思った予感がこの1冊で確実になった。ワタクシ的に、今年発見した作家ベスト1。本書は今年のワタクシ的ベスト3には入るであろう。
もうすでにあちこちで絶賛されているし、内容も紹介されているので今更だが、これは30代後半のツキコさんという女性と、そのかつての高校時代の国語教師であった、もう「おじいちゃん」と呼ばれるようなお年の「センセイ」との、なんともほわほわした恋愛小説である。駅前の一杯飲み屋で隣あわせになったところから、この物語は始まる。
ああ、恋愛って結局相手との距離の取り方が一番大事だったんだな、と強く思わされた。彼らは、決して相手の心やテリトリーにずかずか土足で踏み込まない。普通(かどうかは疑問かもしれないが)、誰かを好きになったりすると、もう相手のことを知りたくて知りたくて、そのひとの領域に踏み込んで陣地を確保したくて、いてもたってもいられなくなる。
が、彼らときたら、もうじれったいほど、相手との距離をキープしつづける。その距離の取り方が絶妙にいいのだ。つかず離れず、自分の生活をそのままのテンポで保ちながら、でも心ではいつも相手のことを視野の片隅に入れていて。で、ちょろっとひととき触れ合って、また自分の日常に戻っていく。あくまでマイペースを崩さず、相手のペースもかく乱せず、そんな感じ。今の世の中からみたら、おとぎ話みたいな恋愛だ。
お互いに、相手に異性の友人めいたのができると、これまた妙な感じに嫉妬してみたり。このツキコさんと小島孝との微妙な関係の章も実はとても好き。どちらにも簡単に転べそうな危うさとか、でもそう軽くいかないとことか、本当は大人なんだけど中身はやっぱりまだどこか子供だと思ってるとことか。ああ、なんかすごくよくわかる、この感じ。
そうやって時間をかけて、すこうしずつすこうしずつ、ツキコさんとセンセイの距離は縮まっていく。ふたりのやることはどっかユーモラスでわけわかんなくて、でも恋愛中の行動って端から見るとこんなヘンテコなもんだよなあ、なんてふふっと笑ったりして。
そう、恋愛って結局、その相手との距離を測りつつそろそろと手さぐりで進んでる、そこの過程、その時間こそが一番楽しいのだ。このふたりは、その微妙なところを、がつがつせずにゆっくりゆっくりと歩んでいる。そのテンポと相手への気遣いや優しさが、この物語を読む者をなんとも幸福にさせるのだ。と同時に、ぐぐっと切なさがこみあげる。
いとしくていとしくて、どうしようもなく切なくて、ぎゅっと抱きしめたくなるような、そんな1冊。とにかくいいです。
『西の魔女が死んだ』☆☆☆☆ 梨木香歩 新潮文庫(01.8月刊)
西の魔女が死んだ。魔女とは、中学生の少女、まいの母方のおばあちゃんのことだ。2年前、ちょっとしたことで登校拒否になったまいは、ひと月あまりをこのおばあちゃんの家で過ごしたのだ。まいの回想から、この物語は始まる。
心に傷を負ったまいを、なぐさめるでもなんでもなく、ゆっくりとおばあちゃんはその傷を癒していく。その方法は、地に足のついた生活をさせることだった。森や畑をゆっくり歩き、ジャムを作り、早寝早起きをする。そういう、ごくごくシンプルな、でも生き物としての人間らしい生活だ。おばあちゃんは物知りで、生活におけるちょっとした知恵を何でも知っている。さらには死についてなどの、人生の知恵も。それらの知恵や知識、さらには超能力(というと大げさだけど、第六感かな)をもった人間を、おばあちゃんは「魔女」と呼ぶ。
このおばあちゃんの、教えるでもない教えがなんといっても秀逸だ。おばあちゃんは、自分の歩いてきた道に絶対的自信がある。それは自分でなんでもやってきた、という確かな手ごたえだ。このふたりは、どことなく、ハイジとおじいさんを連想させる。まいは、ここで少しずつ自分の潜在的に持っていた生きる力に気づき始める。ひとつひとつ、自分の力でクリアしていくことで、彼女は自信を取り戻すのだ。
ゲンジさんに象徴される、現実の汚濁みたいなものへの、まいの嫌悪感もよくわかる。それから逃げることなく、全てをあるがままとりこもうとするおばあちゃん。そこでちょっとすれ違ってしまったふたり。でも、おばあちゃんの器はやっぱりずっと大きかったのだった。
祖母と孫娘の心の交流に、ほっくりと心あたたまる。このおばあちゃんは実に素敵な「大人」だ。こういう大人が近くにいる子供は、本当に幸福だと思う。読後感が爽やかな、とてもいい物語だ。このカントリーな生活をいいなあと思うと同時に、自分のことを思わず考えてしまった。私の立場は、まいの母親とよく似てる。それがいいかどうかはともかくとして。
『天帝妖狐』☆☆☆1/2 乙一 集英社文庫(01.8月刊)
2つの中篇が収められている。表題作と、「A MASKED BALL」。
「A MASKED BALL」は、設定が心ニクイ。匿名の人物たちとの文字によるやり取りが描かれるのだが、これがネットの掲示板とかではなく、なんと学校のトイレの落書きなのだ。ああ、そういえばやったよ、こういうの。や、トイレじゃないけど(笑)。高校の化学室みたいにいろんな知らない人が座る机に、メッセージ書いてやりとりしたり。クイズ書いといて、翌週に見るのが楽しみだったり。
で、乙一はいつもの如く、どこか飄々としたトボケた筆致で、そのコミュニケーションを徐々にサスペンスタッチのホラーにしていく。ラストの、かくっと肩すかしを食わされた感じの、居心地の悪さも彼らしい。さらには、もうひとつ隠しネタを仕込んであるところがなかなか。(我孫子武丸の解説参照のこと)
表題作は、悲劇である。幼い頃コックリさんに呪われてしまい、異形に姿を変えられてしまったある男の悲劇。切々とした語り口が、心にしんしん染みてくる。その彼がつかの間出会った、ある少女との心の触れ合い。人の優しさと憎悪と孤独が見事に描かれた、傑作。ラストの一文にはやっぱり泣かされてしまった。
『R.P.G.』☆☆☆ 宮部みゆき 集英社文庫(01.8月刊)
注:ネタバレ部分は色を変えてあります。文字を反転させてお読みください。
宮部みゆきの文庫書き下ろし。『模倣犯』の武上悦郎刑事と、『クロスファイア』の石津ちか子刑事が登場する。が、別にこの2つの作品が本書に重大な関係がある、というわけではない。まあ、ちょっと前のキャラを借りるという程度なので、この2作品を未読の人もご安心を。
最初は展開がもたつき気味な感があったが、話が進み出したらあっという間のイッキ読み。宮部さんの、いつもながらの圧倒的な筆力でぐいぐいと終わりまで引っ張られてしまった。まさに2時間のテレビドラマか、一幕の舞台劇のよう。なんたって、場面はほとんど全部取調室のみなのだから。
結論から言うと、…またやられました(笑)。いっつも騙されちゃうんだよなあ〜。読後、しみじみ思ったのは、構成の見事さである。ラストまで読んでみると、ああ、あそこはそういうことだったのか、というのがよく見える。タイトルの意味も。
だが…私はこの小説にはどうも違和感を感じてしまうのだ。ここに書かれてるネットの捉え方と、登場人物たちの心理に。
実は、これは大いにネットが絡んでくる物語である。とある中年男が殺されるのだが、彼は実の妻や娘がいたにもかかわらず、ネットに擬似家族がいたのだ。彼はそこでも「お父さん」役で、他にも「お母さん」と子供の「カズミ」「ミノル」がいた。この擬似家族3人を取り調べるのを、実の娘である一美がマジックミラーで面通しする、という形で話は進行する。
ここで徐々に明らかになっていくのは、殺された男の過去と、その彼の擬似家族たちの心vs実の家族である母娘の心である。要するに現実と架空、リアルとバーチャル。それらは一体、人間にとってどういう意味を持つのか。
しかし、どうも私には彼らの心情があまり共感できるものではなかった。なぜだろう。まるで異世界の人間たちの話であるような感覚のズレがある。まずはこの擬似家族たちの方。彼らとの違和感は、「素敵なオモチャ箱」という私のネット観と、「現実からの逃避場所」という彼らのネット観との差異だけだろうか。それとも、これはあくまでも『R.P.G.』であって、虚構の人物像だからだろうか?実の家族である二人の気持ちも、いまひとつよく理解できない。犯人の心情すらも。なんというか、この物語に出てくる人物全てが、どうも作り物っぽい気がしてしまうのだ。
でも、これは著者の意図なのか?なんたって『R.P.G.』だからなあ。でもやっぱり、リアルとしてこういう人もいるだろうという意味でこれを書いたのだろうか…う〜ん、どうなんだろう。
面白かったことは面白かったのだが、どうも読後感がすっきりしない印象。
『上と外 1〜6』☆☆☆☆1/2 恩田陸(幻冬舎文庫、H12.8月〜H13.8月)
そうか、完結まで1年かかったのか…。ついに終ってしまったと思うと、なんだかさみしい気もする。この1年、本当に本当に続きが待ちきれなくてじりじりしたよ!
ふた月に1冊刊行というスティーヴン・キングの試みに果敢にもチャレンジした恩田陸版『グリーン・マイル』(笑)の正体は、手に汗握るハラハラドキドキのジェットコースター・アンドベンチャー・ノベルであった。もうね、どうしてこんなに次から次へと!ってくらいに、主人公の兄妹に危機が降りかかるのよ。一難去ってまた一難。「きゃ〜っ、この先は!?」ってところで「第2巻に続く」って、うっそお〜恩田さん、ひどすぎます〜×5!(笑)。しかも、巻を増すごとに大風呂敷がどんどん広がっていき、次々と想像を裏切る展開になっていっちゃうんだからまいる。このハイテンションをずううっと最後まで途切れることなく、失速するどころか加速度を増して維持し続けた筆力には、敬意を表するほかはない。
ワタクシ的には、恩田さんの作品の中で最も血湧き肉踊る話であった。ん〜、何に似てるかっていうと、昔の紙芝居かな。私自身は見たことないけど、叔父さんがリヤカーを引っ張ってきて、公園とかでやるアレ。黄金バットなんかの、ハラハラドキドキの大冒険。または恩田版「天空の城ラピュタ」ともいえるかな?
キャラの描き方は相変わらずのうまさ。主人公もいいけど、またその祖父が秀逸。カッコイイぞ、おじいちゃん!とにかく、登場人物すべてが魅力的。彼女の、人間というものへの愛が、そこかしこにうかがえる。本筋のストーリーからちょっと外れた脇道の書き込みがまたいいのだよねえ、恩田さんって。
まあとにかく、無事に完結して何より(笑)。ふは〜っ、楽しませていただきました!
『ドミノ』☆☆☆☆ 恩田陸(角川書店、01.7月刊)
恩田陸の新境地!今度はコメディだ!(笑)
いやはや、毎度毎度のことだけど、実際彼女はいったい幾つの引出しを持っているんだろう?さながら後から後からハトを出す、奇術師のようだ。とにかく、これまでに一度たりとも同じ傾向の話を書いたことがないのだから。その中でも、本書は特に異彩を放つ意欲作だ。ある意味、最も恩田陸らしからぬ作品とも言える。
ユーモア・パニックもの、と評したらいいだろうか。最初はバラバラに登場する28人もの人物(!)が、クライマックスに従って徐々に続々と東京駅に集まっていく様はお見事。緻密な構成に驚くばかり。こんなにハチャメチャなのに、筋がきっちり通ってる。キャラクターの書き分けもばっちり。多種多様な人間たち、それぞれの悲喜劇に彩られた人生模様が描かれる。が、皆真面目なんだけど、やることなすこと、もう全部おっかしくておかしくて!(笑)そこここで、文字通り膝を叩いて大笑いであったよ。そう、どことなくマンガチック。
とにかく読み始めたら止まらない!極上のノンストップ・ユーモア・エンターテイメント!傑作!!
『祈りの海』☆☆☆☆ グレッグ・イーガン(ハヤカワ文庫SF、00.12月刊)
各所で絶賛されまくっているので、もはや私などが今更何も書く必要などないのですが。実に、実にゴージャスな、本格SF短篇集。いや、これはもはや短篇集などという領域・認識を遥かに越えている。なぜなら、1篇1篇がじゅうぶんに単行本1冊分に値するほどの、ずっしりとした読み応えがあるからだ。これを11篇も読むなんてのは、もうまさに満漢全席並みの満腹度である。
といっても、別に1篇が長いわけではないのだ。「貸金庫」は33ページ、「キューティ」は21ページでしかない。なのに、このガツンとくる衝撃度のすごさはどうだ。すごい。すごいの一言。
話はちょっとずれるが、私は短篇にこそSFの醍醐味があると思う。それは、読者をアイデアで仰天させてそこですぱっと終わりになるからだ。人間ドラマを書く余地がそんなにないから、いっそう鮮やかにそのSF手腕のみが際立つ。もちろん長篇SFも面白いけれど、純粋に「SF」というテイストを味わうなら、短篇集のほうがよいような気がする。話の数だけ、センス・オブ・ワンダーを体験できるから。
その点において、とにかく本書はすごい。衝撃波を、それも超ド級のを11回も食らうのだから。正直言って、軽くサクサク読める本ではない。SFを読みなれてない方には、確かに少々しんどいかもしれない。私も「えっ!?えっ!?それナニどういうこと!?」と自問自答しながら、同じところを何度も反芻して読んだ。が、その苦労は十分報われた。これが今のSFなのか!というショックをたっぷり堪能することができたから。
ワタクシ的ベスト1は「百光年ダイアリー」。Web日記書いてる方には特にイチオシ。思い当たるフシがあるはず(笑)。SFはちょっと、という方は、これだけでいいから読んでみて下さい。理論は読み飛ばしても大丈夫です、たぶん(笑)。他には「貸金庫」、「ぼくになることを」など、いやどれも本当に素晴らしい。もったいないので、話の詳細については書かないでおきます。
蛇足だが、本書の瀬名秀明の解説は白眉。普段は解説など読まない、という方もぜひご一読を。最後に、彼の解説から引用。
小説の未来を考えようとするすべての人に、グレッグ・イーガンはある。
『ほぼ日刊イトイ新聞の本』☆☆☆☆ 糸井重里(講談社、01.4月刊)
内容的に『インターネット的』(PHP新書)とだいぶネタがかぶってるが、こちらも非常に面白い。まさに「ほぼ日」ができるまでとその後の話なのだが、サイトを立ち上げる時のわくわく感が実によく書けている。ああ、その気持ちよくわかるよくわかる!さすがにやることのスケールは違うけど、そのサイトにかける熱い思いは、私たちと全く同じだ。毎日更新を継続するしんどさも(やっぱり彼もひどい睡眠不足に悩まされている。おお、同志よ!^^)。こんなに大変な苦労をしてるのに、1銭も儲かっていないことも。そして、そんなにキツいのに、楽しくて楽しくて仕方ない、というところも。
『インターネット的』と違い、時系列で書かれているので、彼の気持ちや考え方の変化もよくわかって興味深い。これはまさに「ほぼ日」誕生記&成長記なので、こういう本を書いておくことは、後でとても意義あることではないか、とちょっと思った。さあ、今後、「ほぼ日」がどこに行くのか。それがとても楽しみだ。「ほぼ日」に一度もアクセスしてない方でも、じゅうぶん楽しめる1冊。
『インターネット的』☆☆☆☆ 糸井重里(PHP新書、01.7月刊)
糸井重里といえば、あの「ほぼ日刊イトイ新聞」で驚異的なアクセス数(1日35万!)を誇るお方。今、ネットについて最も的確な意見を述べられる人といったら彼しかいないだろう!と思ってたら、どんぴしゃ。ネット者には、この本、大いに共感できること間違いナシ。なぜなら、これはあのうさんくさいeビジネスだとかIT関連みたいなインターネットの本ではなく、ずばりそのコンテンツについて書かれているからだ。そうなの、私たちがやってるのはそういうことなのよね、イトイさん!世の中のネットの何たるかを介さない人々に、この面白さを理解できない人々に、もうどんどん言ってやってクダサイ!(笑)
ここには、「インターネットってつまるところナニ?」ってことが書かれている。今までは、インターネットってのは、コンピュータとかデジタルとかとごっちゃになった切り口で語られていた、と著者は言う。でも、ネットってのは単なる通信の道具、商売の道具じゃないのだ。人と人をつなぐもの、「人の思いが楽々と自由に無限に開放されてゆく空間」なのだ。これを著者は「インターネット的」と表現しており、もはや、こういった情報社会に生きている私達の考え方や生き方までもが「インターネット的」になってきていると述べている。
著者は、「インターネット的」という言葉を、3つのキーワードで説明している。「リンク」と「フラット」と「シェア」。これもネット者としては、実にわかりやすく納得できる考え方だ。「リンク」はいうまでもなく、「フラット」はハンドルネームなどで肩書きをはずし、誰もが平らな位置で語れるということ。「シェア」は無償で情報を交換しあうことにより、楽しいことを共有しましょう、ということ。おいしいものは皆で一緒に食べたほうが楽しいよね、と。
著者はインターネットの登場により、社会そのものが変革していってると述べる。更には思考法、表現法、マーケティングや消費についてまで。彼は、インターネットから発生した「インターネット的」なものの考え方いっさいがっさいを曖昧で未完成なまま、全部ひっくるめて前向きに肯定している。そこにとても好感を持った。ネットには確かに悪意も存在するけれど、それを大きく上回る、無償の善意や好意といったものが存在するということを、「ほぼ日」によって彼はいやというほどよくわかっているのだ。
器(情報を載せて届けるお皿>ネットのしくみ)のことについての本はいっぱいあるけど、料理(人間の生み出す情報そのもの>コンテンツ)についての本はあまりない、と著者は言う。おっしゃるとおりだと思う。その意味で、この本は画期的である。ネット者の方にも、そうでない方にも、多くの方に読まれて欲しい本だ。(ただ、ネットやってないひとには、この本ちんぷんかんぷんという可能性もあると思う^^。ネットって、実際やってみないとわからない。まあ何でもそうだけど)