衣装に見る20世紀初頭および朝鮮戦争中の韓国
 20世紀初頭の韓国
 
 
 19世紀末から20世紀、李朝末期の朝鮮の暮らし
 
 
 ソウルの"市の日"の雑踏、「彼らは値段交渉に丸一日を費やす」と説明が付いてあるが、両班の略奪経済により貨幣経済が
 崩壊していたので当然だろう。
 「場市は、5日ごとに1回ずつ開かれ物々交換をした。このように期日を定めて市場が開かれたのは、地方の商業的な発達が
 なかったためだ。」(李氏朝鮮の経済 - Wiki ) / 閔妃 - Wiki
 
 
 (左)南大門前に並ぶ運送用の牛。1900年頃。(右)南大門大通り、大荷物を担いでいるのは牛ではなく人。1888年
 
 
 壷を運ぶ人。壷は必需品だが割れ易いので需要が多かった。木で桶を作る技術が無かったためでもある。
 
   
 右端の人は食膳を担いでいる。
 
  
 子供のポーター。遊びではない。彼らも働いている。(右)は焚き付け用の小枝を担いでいる。現在も北朝鮮で見られる光景である。
 
  
 (左)大きな材木を5人がかりで担いでいる。(中)豚は傷むので生きたまま担いでいく。(右)鶏も同様。
 日本なら、こんな大荷物は大八車を使い馬に曳かせた。朝鮮では平坦な道路がなく、車輪を作る技術も育たなかった。
 車輪は「大体同じ」では通用しない、同一規格で同じものを複数作る技術が必要である。
 
  
 (左)藁靴の行商人。(中)露天の藁靴売り。(右)露店の食事。
 
  
 路肩の飯屋。(中)はドブロクを飲んでいる。
 
  
 女性はこのように頭に物をのせて運んだ。
 1950年代、朝鮮戦争中の写真でもこのように頭に荷物をのせている光景が見られる。
 
  
 水売りの取水  氷上の取水  結氷中婦人の洗濯
 如何に大きな川でもこれくらい河口が広い場所になると、水質は工業用水レベルになる。工業用水をガラスコップに入れて、夏場なら半日もすると
 藻が発生しはじめ、臭いもするように なってくる。それでも水場から遠く、水汲みの労働力もない場合、水売りから買わざるを得ない。
 水の需要は季節を問わないので、冬場は氷結した川から水をくんでいる。 これは洗濯も同じで、酷寒の氷結した川の氷を割って行われる。
 
 
 (左)足踏み水車は、中国南部や、東南アジアでもみられるが、これほどみすぼらしいものではない。
 (右)毎年、雨期のあとで架け替える仮設の橋だが、それにしても酷い作りである。
 朝鮮は世界最貧国の一つであった。数百年に及ぶ両班の略奪経済、王室の浪費と無策もあって国家経済は破綻していた。
 王家は様々な国家権益を外国に売り渡し、日本が買い戻しては朝鮮に与えた。
 朝鮮が世界最貧国を脱したのは、日韓基本条約で膨大な資金と技術援助を受けた朴正煕の時代からであった。
 日本はに知られたくない韓国「5つの反日タブー」 vol.02  / 
 
  
 (左)19世紀末でこの牢屋(?!)。(中)首枷をつけられた罪人。(右)鞭打ちの刑。
 
 
 
 日本は日清戦争の講和条件として、清国に朝鮮の独立を認めさせた。
 朝鮮の清国からの独立後、日本の援助により急速な近代化が図られた。
 帝国主義の時代、西欧列強の侵略から自力で身を守れる日本並みの国家を隣国に置くことは日本の安全保障上重大関心事であった。
 インドはすでにイギリスの手に落ち、インドシナ半島は英仏が領有し、中国もイギリスの蚕食を受けていた。
 ビスマルクに南下政策を阻止されたロシアは満州を占領、朝鮮半島からの南下を図った。
 
  
 (左)京城鐘路より南大門通りを望む。(中)京城・南大門通 1丁目、郵便局。(右)本町2丁目。京城一の繁華街。
 日本の資本、技術の投下によってインフラは整備されたが、朝鮮の政府、民衆の自覚、意識は低く、到底自立できる状態にはならなかった。
 
 
 
 
 朝鮮総督府は朝鮮人が自国の言葉で読み書きができるように、ハングルを使った義務教育を実施した。
  朝鮮の宗主国である清では、洋学、実学、儒教においても陽明学と学問領域の 幅は広がっていたが、朝鮮は朱子学原理主義に陥り、他の学問の参入発展を許さなかった。
 そして自国の文字であるハングルさえ蔑んでいた。日本は総督府の正規教育のみならず、民間もハングル活字を鋳造し、漢字ハングル併用の新聞を発行してハングル普及を
 促した。 / 日帝時代の教科書画像【資料】| 朝鮮歴史館 / 朝鮮民族 - Wiki / 朝鮮の外来帰化氏族 - Wiki /
 
 
 
 
 『朝鮮(コリア)が劇的に豊かになった時代(とき)』 - Google 検索 /
 
 
 二次世界大戦後の韓国
 
 1946年1月1日二次大戦終結翌年のソウル市内にて撮影。
 
 
 朝鮮戦争中の韓国
 
 
 (左)前線へ向かう米兵とすれ違う避難民。1950年8月。 頭に荷物を乗せるのは日常のことであった。
 (右)牛に家財を積み背負子には子牛を載せている。 奪還された村へ帰る夫婦。1950年10月。
 
 
 (左)避難民の群れ。牛はこの時代でも主な輸送力であった。1951年1月。
 (右)米韓憲兵の尋問を受ける避難民の家族。1951年9月28日。
 
 日本統治中は日本本土並みのインフラ整備が行われ、 身分制度の解体、教育の普及等々の近代化も実施されたが、朝鮮国民の意識水準は、中世のままであった。
 金日成と、李承晩による朝鮮戦争によって国土は荒廃し、 世界最貧国の一つになった。
 日本と国交を回復、日韓基本条約を締結、ようやく復興、発展の緒についた。韓国の発展はごく近年の出来事であり、日米の多大な支援のおかげである。