ケニア独立戦争 / アフリカの植民地分割 / アフリカ地図 |
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マウマウ団の乱 (マウマウ戦争) |
マウマウ団の乱(Mau Mau Uprising)は、 イギリス領ケニア植民地 (現 ケニア)で、1952年から1960年に起こった民族独立運動。 |
ケニア最大民族であるキクユ族 の急進派は、ケニア土地自由軍(KLFA)を結成。 このKLFAを、イギリスはマウマウ団と呼んだ。 |
1952年、KLFAは軍事行動を開始。イギリスは正規軍5万人を投入、 ケニア山の山林内に封じ込められたマウマウはゲリラ戦で |
抵抗したが、軍事的には敗北した。しかし、この反乱がケニアの独立を早めることになった。 1963年12月 ケニア独立。 |
イギリスの分断支配により反乱はキクユ族以外には、あまり広がらずまたキクユ族内でも 植民地政府につく勢力があった。 |
戦闘は、少量の小銃以外は斧、鉈、蛮刀しか持たない マウマウ団に対して重爆撃機まで動員した一方的なもので、双方による |
残虐行為の応酬もあり、汚い戦争と呼ばれた。 【分割統治、分断支配】Divide and conquer、Divide and rule |
イギリスの分割統治 - Google 検索 / mau mau dirty war - Google 検索 / |
独立達成後も、政権を担当したのは親植民地派であり、ケニア土地自由軍の非合法解除は行われず、2002年になってようやく |
解除された。 |
日本版wikiでは、マウマウ側の死者数、11503人。イギリス側の死者数は、白人入植者95人、親植民地派とみなされたアフリカ人 |
1920人。としているが、英語版wikiでは、 マウマウ側の死者、公式には12000人、非公式にはおそらく20000人それ以上。 |
治安部隊の死者200人、民間人は、アフリカ人1819人、白人32人、アジア人26人としている。 |
そして、これらの数字には、行方不明者、遺体の未発見者は含まれていないとしている。 |
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ケニア山 標高 5199m。アフリカ大陸でタンザニアのキリマンジャロにつぎ、2番目の高山。(ユネスコ世界遺産) | |||
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英国現代史の恥部(その2)| 防衛省OB太田述正の日本はアメリカの属国だ / | ||||||||||
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Mau Mau - Google 画像検索 / Oliver's Army -The Myth of 'Mau Mau' / | ||||||||||
Kenya, 1952-60 | Online Exhibitions | National Army Museum, London 英国立軍事博物館(National Army Museum )のサイト。 | ||||||||||
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右の図はあなたの銃をマウマウが狙っているという啓発ポスター。 上段図、爆撃機に書かれたマークは"槍を持つ土人"。 | ||||||||||
奴隷貿易から植民地へ | ||||||||||
16世紀から18世紀に、ヨーロッパとアフリカとアメリカを結んで、約3世紀にわたってアフリカ原住民を奴隷とする三角貿易 が | ||||||||||
行われた。アフリカ大陸は、奴隷、象牙、胡椒などの供給源でしかなく、直接支配するメリットはなかった。 | ||||||||||
産業革命の進展と、奴隷貿易の廃止に伴い、原料の供給源、工業産品の市場としてアフリカ大陸の植民地化が、19世紀半ば以降始まり | ||||||||||
ヨーロッパの帝国主義列強によって争奪戦が行われた。 | ||||||||||
1912年にイタリアがリビアを獲得、リベリア、エチオピアを除くアフリカ全土がヨーロッパの7か国によって分割支配された。 | ||||||||||
リベリアは、アメリカの解放奴隷によって建国され、アメリカの強い影響下にあった。 | ||||||||||
19世紀、アフリカ、特にサハラ以南を 暗黒大陸(dark continent)、Black Africa と呼んだ。これは差別表現であるところから現在は | ||||||||||
サブサハラアフリカ (サハラ以南のアフリカ)と呼ぶ。 | ||||||||||
北アフリカ は、人種的には、アラブ系のコーカソイド。サハラ以南のアフリカ は、ネグロイド。 | ||||||||||
マダガスカルの先住民はネグロイドではなく、マレー系。 / マレー人 - Wiki / File:Meyers b11 s0476a.jpg - Wiki | ||||||||||
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1833年8月23日、イギリス奴隷制度廃止法成立。 1863年1月1日、アメリカ奴隷解放宣言。 | ||||||||||
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帝国主義本国の疲弊と植民地各国の独立 | ||||||||||
ケニア人は、二次大戦にイギリス兵として従軍、ビルマ戦線で日本軍と対峙した。 ( 他のアフリカ英領諸国も同様であった。) | ||||||||||
同じイギリス植民地のインドに、日本軍と協力するインド国民軍 があった。インドでは、長く独立運動が続けられてきた。 | ||||||||||
ガンジーの「塩の行進」は1930年代である。二次大戦終結後、日本と協力してインド独立を計ったインド国民軍将兵が、 | ||||||||||
イギリス植民地政府から反逆罪として裁判にかけられることになった。これはインド全土で反発を呼び各地で | ||||||||||
暴動が発生した。二次大戦終で疲弊したイギリスにインドを植民地として維持し続ける余力はなかった。 | ||||||||||
アトリー内閣はインドの独立を容認することになった。1947年8月15日、インド独立。 | ||||||||||
1948年 ビルマ連邦、イギリスから独立。 / 1949年 インドネシア、オランダから独立戦争 によって、独立。 | ||||||||||
1953年10月 ラオスがフランスから独立。11月 カンボジアがフランスから独立。 | ||||||||||
1954年 フランスがベトナムの民族独立戦争 に敗退、撤退。 | ||||||||||
1950年代後半には、アフリカ北部から独立がはじまる。 | ||||||||||
1960年はアフリカの年と呼ばれ、多くの国が宗主国から独立した。 | ||||||||||
60年代から70年代にかけても、旧植民地の独立が続いた。 | ||||||||||
チャンドラ・ボース - Wiki / アウンサン - Wiki / バー・モウ - Wiki / スカルノ - Wiki / ビルマ国民軍 - Wiki | ||||||||||
フランス領インドシナ - Wiki / 仏印進駐 - Wiki / 明号作戦 - Wiki / | ||||||||||
イギリス領東アフリカ〜ケニア共和国 | ||||||
1895年 イギリス領東アフリカが成立。(明治28年) | ||||||
1920年 イギリス直轄のケニア植民地となる。(大正9年) | ||||||
ケニア人による政治運動 | ||||||
1921年 キクユ青年協会(YKA)設立 | ||||||
1924年 YKAの政治活動禁止、キクユ中央協会(KCA)結成 | ||||||
1942年 ケニア・アフリカ学生同盟(KASU)設立 | ||||||
1947年 KASUがケニア・アフリカ同盟(KAU)に改組 | ||||||
1952年 ケニア・アフリカ同盟の急進派は、ケニア土地自由軍(KLFA)を結成蜂起した。 | ||||||
1956年 マウマウ団の乱終結。 | ||||||
1960年 ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)結成。 | ||||||
1963年 英連邦王国として独立。 | ||||||
1964年 共和制移行、ケニア共和国成立。 | ||||||
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世界遺産 ラム島 - Wiki / インド洋三角貿易 - Wiki / | ||||||
ケニア共和国 : 外務省 / ケニア小史 |駐日ケニア共和国大使館 / | ||||||
※ラム島のラムは、Lamu。ラム酒 のラムは、rum。こちらは、カリブ海、バルバドス が原産国。 | ||||||
【タンガニーカ】 | ||||||
タンガニーカは、タンザニア連合共和国 の大陸部分である。 | ||||||
もう一方のザンジバルは、インド洋島嶼部にあり、 中央政府から強い自治権を持つザンジバル革命政府 が統治している。 | ||||||
ケニア山 - Wiki / キリマンジャロ - Wiki / ヴィクトリア湖 - Wiki / タンガニーカ湖 - Wiki / マラウイ湖 - Wiki | ||||||
リヴィングストンとスタンリー | ||||||
リヴィングストンは探検、宣教、奴隷貿易の廃止を目的として三度に渡るアフリカ探検を行った。 | ||||||
リヴィングストンは天体観測による測量術で、ほぼ正確なアフリカの地図を作ることができた。 | ||||||
皮肉なことにリヴィングストンの開拓したルートを最も利用したのは、奴隷商人たちであった。中央アフリカへの | ||||||
ルートが開拓されたことで、ザンジバルの奴隷市場は中央アフリカ最大となった。 / オマーン - Wiki | ||||||
三度目の探検で、 消息を絶ち、死亡説まで流れているリヴィングストンを探索発見したのが、『ニューヨーク・ヘラルド』の | ||||||
リヴィングストン捜索依頼を受けたスタンリーであった。 | ||||||
1871年11月10日、スタンリーは、タンガニーカ湖東岸のウジジ 近辺でリヴィングストンと対面した。 | ||||||
スタンリーは、リヴィングストンのやり残した、白ナイルの源流を突き止めた。 | ||||||
スタンリーは、優秀な探検家である一方、結果的に列強のアフリカ進出においてリヴィングストンよりも直接的な影響を与えた。 | ||||||
スタンリーは、ベルギー王 レオポルド2世 の依頼を受け、レオポルド2世の私物領土であり暴虐無比の治世で知られる | ||||||
コンゴ自由国 の建設に貢献した。 | ||||||
デイヴィッド・リヴィングストン - Wiki / ヘンリー・モートン・スタンリー - Wiki / | ||||||
ザンジバル、タンガニーカ / ザンジバル - Wiki / タンガニーカ - Wiki / 東アフリカ - Wiki / | ||||||
レオポルド2世 (ベルギー王) - Wiki / 列強のアフリカ分割(その1) / 列強のアフリカ分割(その2) / | ||||||
コンゴ自由国 - Wiki / ベルギー領コンゴ - Wiki / アフリカ・太平洋地域の分割 / | ||||||
History of Oman - Wiki / 図録▽アフリカにおける河川流域と国境の不一致(地図) | ||||||
1885年のアフリカと1914年のアフリカ | ||||||
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1885年 明治18年 | ||||||
清仏戦争 / 4月(日清)天津条約 (甲申政変の事後処理) / 6月(清仏)天津条約 (清仏戦争の講和条約) | ||||||
1914年 大正3年 | ||||||
6月28日 - 第一次世界大戦 発端、サラエボ事件発生。 | ||||||
幕末以降の日本と世界の年表 / 1908年の世界地図(アフリカ) / | ||||||
欧米500年の世界植民地支配の歴史と日本の存在の意義 / 植民地支配 - Google 検索 / 植民地 - Wiki / | ||||||
アジアの森 日本が行なった人類史上類を見ない残酷な植民地支配の証拠写真 / 日韓併合前後 朝鮮半島写真館 / | ||||||
今日植民地であった世界各国が未だに発展途上国としてあえいでいる / | ||||||
1933年のアフリカ地図 / | ||||||
20世紀以降のアフリカの戦争 | ||||||
アフリカの独立戦争と、内乱は二次世界大戦後のことであり、比較的報道も多くあった。 | ||||||
しかし、なにぶん、あまりにも遠く、名称とその悲惨な状況は、記憶にはあるものの詳しく説明できる人は少ない。 | ||||||
サハラ以南のアフリカの戦争の資料にリンクした。 | ||||||
コンゴ動乱 1960〜1965年 コンゴ動乱 - Wiki / コンゴ動乱 - Google 検索 / | ||||||
コンゴ自由国 / ベルギー領コンゴ / コンゴ独立 / コンゴの「憲政上の危機」 / ルムンバ暗殺 / | ||||||
ソマリア内戦 1980年代〜 | ||||||
ソマリア内戦 - Wiki / ソマリア (内戦と人道的介入) / アフリカの角 - Wiki / ソマリア沖の海賊 - Wiki / | ||||||
ジェノサイド、飢餓、貧国の戦争 | ||||||
ルワンダ虐殺1994年 - Wiki / ビアフラ戦争 1967年〜1970年- Wiki / | ||||||
アンゴラ内戦 1974年〜2002年 - Wiki / ローデシア紛争 - (現ジンバブエ共和国) 1965年〜1979年- Wiki / | ||||||
モザンビーク独立戦争 1964年〜1974年 - Wiki / マリ北部紛争 (2012年)- Wiki / ダルフール紛争 2003年2月〜 | ||||||
エチオピア・エリトリア国境紛争 1998年〜2000年 - Wiki / マダガスカルの歴史 ( 1947年3月の暴動 ) - Wiki / | ||||||
Category:アフリカの戦争 - Wiki / アジア・アフリカ諸国の独立年表 - Wiki / | ||||||
スーダンの小国分裂化: 中東と北アフリカ地図の書き換え: マスコミに載らない海外記事 / | ||||||
アフリカの実際の大きさ ( The True Size of Afeica ) | ||||||
通常見かけるメルカトール図法は、両極に近づくにつれ、歪みが増大して面積は、 正しくない、 | ||||||
アフリカ大陸が本当のところどれ位の大きさなのか数字でみても、 あまりピンと来ないが、 | ||||||
世界各国をアフリカに詰め込んでみた図があった。 これは、想像以上に大きい。 | ||||||
isomorphismes.tumblr.com | ||||||
アフリカと世界各国の面積比較をしたもの、 日本は、右下の黄色い部分、赤みのオレンジ部分は中国、 | ||||||
ソマリア、ケニア部分がインド、 西アフリカの焦茶部分がアメリカ。 | ||||||
現物のページは The True Size of Africa( isomorphismes.tumblr.com ) | ||||||
アフリカの安全情報 | ||||||
海外安全ホームページ: 地域別危険情報一覧:外務省 / 海外安全情報 |NHKワールド / | ||||||
Fudaraku Voice | ||||||