今、ふたたび太平洋戦争を考える



「雑学・太平洋戦争の真実」(日東書院)
佐治芳彦著-1997.4.1-



 太平洋戦争については、様々な見方がある。各人各様といってしまえばそれまでだが、異なる多くの見解のなかにも、いくつかのパターンを認めることができる。ここでは、これらのパターンのうち、いわば典型的と思われるものを採りあげて、太平洋戦争のいわゆる真実へのアプローチの一助としてみたい。


◆ 東京裁判史観

 さて、まず「東京裁判史観」とでもいうべきものがある。これは、敗戦後、連合国(勝利国)によって行なわれた「東京裁判」(極東国際軍事裁判)、つまり、日本のポツダム宣言受諾(降伏)にもとづき、太平洋戦争における日本の戦争責任の追及と、主要な戦争犯罪人(戦犯)に対して行なわれた裁判の判決に見られるような、太平洋戦争は「日本の軍国主義者の共同謀議」による「侵略戦争」であるとする立場からのものである。

 したがって当然、日本は太平洋戦争の全責任を負わされ、その主な戦争指導者たちは有罪とされた。いいかえれば敗戦国日本は「悪玉」で、勝利国(連合国)は「善玉」とする、つまり、ある意味ではきわめて簡単明瞭な見解だ。

 だが、これは当時から世界の少なからぬ識者から指摘された点だが、勝利国による敗戦国に対する裁判が、はたしてどれだけ法的な客観性をもっているかという疑問がある。裁判(というよりも法廷)の形式は、だいたい被告にも弁明の機会を与え、また、弁護士もつき、検察側の証人に対する反対尋問も許され、一応、格好だけはついていた。ただ、その審議過程で被告側に有利な証言や証拠は採りあげられず、日本(被告)に不利な証拠や証言にもとづき、日本と戦犯とを有罪とした。それだけに日本を「犠牲の子羊」とした後味の悪さが残った。とくに肝心の「戦争の責任」を一方的に日本に押し付けた非歴史的判決を私はどうしても肯定する気になれない。

 だが、戦前派の知識層やリベラル派、とくに親英米派の人々は、戦時中の日本の軍国主義的指導層に対する反感や憎悪から、この東京裁判の判決を是認し、太平洋戦争を否定する側に立った。

 とくに占領軍当局の日本マスコミに対する巧妙な操作と、それに便乗して搭乗したリベラル派を自称するオピニオン・リーダーの活躍から、この日本悪玉(当然、連合国-とくにアメリカ-善玉)論がいわば世論とまでなり、それにもとづき、国民(日本人)の反省が求められた。

 この東京裁判的太平洋戦争史観は、現在も東京裁判自体の是非を棚に上げ、汎世界的なタテミエとして残っており、日本(日本人)は、ことあるごとにその点を諸国から指摘され、政治・外交・経済・文化的にも大きなハンディを負わされている。なかには、明らかに日本への内政干渉さえ試みる国があるのはご承知のとおりだ。

 戦後すでに半世紀近くたった現在、戦争放棄・平和主義に徹し、経済を再建し、いまや対外援助ではアメリカを凌ぐくらい世界に貢献しているにもかかわらず、まだ、正面切って、この東京裁判的太平洋戦争史観(日本悪玉論)に反論することが日本には許されていないようだ。少なくとも日本政府は公的には反論できずにいる。

 おそらく戦勝国(連合国)が敗戦国(日本)に課した最大の制裁は、この日本悪玉論を歴史的に定着させることに成功したことではあるまいか。このままでは、私たちの子孫は、二十一世紀になっても、戦争責任・戦争犯罪の汚名をきせられ、国際的につねにマイナー視され続けるだろう。その意味でも、まず、この理不尽(道理にあわない)、東京裁判史観、つまり「日本悪玉」論をまず放棄しなければならない。さもなければ、せっかくの「日本国憲法」も日本(日本人)のいわれなきコンプレックス(劣等感)を助長するだけのものとなるだろう。


◆ コミンテルン史観

 前掲の「東京裁判史観」にならんで大きな影響力を持っているのは、マルクス主義陣営からの太平洋戦争史観である。

 これは、モスクワの指導を受けたコミンテルン(共産主義インターナショナル)の一九三二年のテーゼにのっとり、満州事変からはじまるこの戦争を、天皇制のファシズムの指導者とその追随者、つまり大資本家と大地主による「定刻主義侵略戦争」とする立場からのものだ。政治思想としてのマルクス主義の是非については、現在でこそ「勝負あった」だが、戦前・戦後を通じて、この思想は日本の知識層、とくに革新的ないし理想主義的傾向の人々に大きな影響力を持っていた。

 日本共産党は、戦前すでに非合法化されていたが、社会科学やジャーナリズムの場にその思想はかなり根強く残り、その同調者も少なくなかった。それだけに戦前派の知識人で程度の差こそあれ、この思想にコミットしなかったものはむしろ少なかったといってよい。

 しかも転向しないで刑務所に服役したり、地下に潜ったりしていた共産主義者が、敗戦後、解放されたわけだが、かつての同調者でありながら戦時中、一応転向していた知識人のなかには、弾圧にもめげず非転向を貫いた人々に対して、内心うしろめたいコンプレックス(劣等感)を抱いた人々も多い。

 それだけに、共産主義者が提唱した太平洋戦争史観、つまり「帝国主義侵略戦争」として太平洋戦争をとらえるコミンテルン的立場に対して、同調する知識人は戦後、それこそ雨後の筍のごとく輩出した。

 彼らは、戦後一時、占領軍を解放軍とみなし、占領軍司令部前で「万歳」を唱えたりしたように、日本悪玉の点で、東京裁判史観派と一種の同盟、とまではいかずとも、共同闘争を組み、マルクス主義にコンプレックスを持つマスコミを通じて、彼らの太平洋戦争史観=帝国主義侵略戦争論を打ち出したのである。

 この勢力は、自分たちの主張に反対する人々を「ファシスト」ないし「反動」の一語で切り捨ててきた。とくに、客観的には中立条約を破って対日参戦し、多くの日本人の生命・財産を奪い、かつ五〇万の日本兵の捕虜をこ酷寒のシベリアで強制労働させたソ連に、批判的な見解をもつ人々に対して、組織的な弾圧さえ加えた。また、核実験反対運動でも、ソ連や中国の核実験は「平和」のためだからよろしいなどという迷論さえ、まかり通らせていたのである。このような彼らの傲慢な、共産党ないしクレムリン非誤謬説に辟易した記憶をもつ人々も多いだろう(しかも、現在においても日本共産党は誤りを冒さなかったなどと信じている党員もいる)。

 だが、この後遺症は現在もなお続き、社会主義諸国(東欧やソ連壊滅後も依然として残る中国)に対する客観的な評価をかなり困難にさせていることは、毎日の新聞を読めばよくわかる。

 私たちが、現在まで「太平洋戦争の真実」の究明に遅れをとった原因の一つは、アメリカ主導の「東京裁判史観」と、このマルクス主義主導の「帝国主義侵略戦争史観」のいわば連合した(二重の)強力な壁にあるといってよいだろう。

 この二つの否定的な太平洋戦争史観をさらにエスカレートさせて、太平洋戦争を「民族犯罪」として告発するように進歩的ジャーナリストさえ出てきた。一方、それに呼応?するかのように、自国の経済政策の失敗を、この戦争のせいにして、自国をそれこそ一方的被害者として、一方的に加害者(日本)に経済的無理難題を押しつけてくる国もある。この永遠に続くかに見える賠償問題(タカリの構造)をさらに解決するためにも、私たちは「太平洋戦争の真実」を、いまこそ堂々と主張するべきであろう。


◆ 自衛戦争史観

 いままで述べた二つの太平洋戦争論(いずれも日本悪玉論)に対して「自衛戦争」史観ともいうべきものがある。

 これは、端的にいえば、太平洋戦争を、欧米の圧迫に対する自存・自衛の戦争であると見るとらえ方だ。簡単にいえば「日本善玉」論となる。

 この自衛戦争論は、戦時中の日本の公的な太平洋戦争観に近く(「宣戦の詔勅」)、また、当時の日本のおかれた状況から見てもそれなりの説得力をもっていることは否定できない。

 だが、戦後(占領時代)、すでに述べた「東京裁判史観」や「マルクス主義的(コミンテルン)史観」に圧倒され、また、占領軍の忌諱にふれることもあって、社会の表層に浮かび上がってこなかった。この見解は、講和会議終了後、一部の右翼によって公然と主張されるようになったが、マスコミは相手にしなかった。

 それが、どうしたいきさつかは不明だが、一流のマスコミ、というよりも戦前からのオピニオン・リーダーの牙城であり、そのスポークスマン格の雑誌「中央公論」紙上に、転向作家林房雄によって公然と主張されて以来(『大東亜戦争肯定論』)、いわゆる革新派、進歩的文化人たちの集中攻撃にもかかわらず、多くの国民の共感をよんだ。

 林は、幕末からの日米の対決の歴史を追い、大東亜戦争(太平洋戦争)を「日米百年戦争」としてとらえ、東洋を欧米帝国主義の毒牙から守るための自衛戦争として太平洋戦争を位置づけている。

 「中央公論」のような伝統と権威のある雑誌に延々一年十ヶ月にもわたって、この林論文が連載されたことは、その所論の当否はさておき、一つの社会現象として冷静に見るべきだろう。それは「もはや戦後ではない」という社会意識の投影でもあった。

 なお、林論文の歴史的意義は、太平洋戦争を、日本一国だけでなく、東亜(東南アジア含む東アジア)の自衛戦争と見、欧米諸国(の帝国主義)からの解放をめざした戦争であると規定し、この戦争のこれまでタブー視されてきた理想性を堂々と主張した点にある。つまり、大東亜戦争(太平洋戦争についての当時の日本の公的呼称)を公然と肯定したことにある。

 当然、彼のこの主張には、太平洋戦争を帝国主義侵略戦争と見る立場からはげしい反論が起こった。また、東京裁判史観のしっぽをひきずっているリベラル派からは冷笑をもって迎えられた。

 それまでも、太平洋戦争を自衛戦争とする立場からの主張や発言はあったが、作家としての林の知名度、それに発表の場が「中央公論」という伝統と権威をまだ一般読者の多くにもっていた媒体であったことから、そのショック度!は大きかったし、また、それだけに反発も大きかった(無視できなかった)のである。

 もちろん、林論文についての個々の歴史的事実の解釈で、いわゆる誤りを指摘することは容易だろう。だが、体系的に彼の主張を論破することは、やはり歴史的事実を特定の価値観で適当に処理して済ませてきた人々には、かなり困難である。つまり、太平洋戦争における自衛戦争的性格はどうみても否定しきれない事実でもあるからだ。

 だが、あの時点(昭和十六年十二月)で、日米開戦に突っ走ることだけが日本の自衛策であったかどうかという批判(これはプロ野球のネット裏の評論家の戦評と似ていなくはないが)について、自衛戦争論は明確に答えていないようである。


◆ 戦争相互責任論

 太平洋戦争について、たがいに「悪玉」だ、いや「善玉」だと争ってみたところで、双方にどうしてもうしろめたさやしこりが残る。つまり、どちらの主張も歴史的に見て無理があるからだ。

 そこで発想を変え、どちらも「失敗」だったという歴史的真実から「戦争相互責任」論とでもいうべき立場が考えられないだろうか。

 それは、太平洋戦争についての日本の責任は免れ難いが、あの原因や責任を一方の当事者(国)である日本だけに負わせるというのは、歴史的に見てもいささか片手落ちである。つまりもう一方の当事者(連合国)にも責任や原因があった、いいかえれば、双方とも歴史的に見て失敗があったという見方である。

 世界は、国家主義や民族主義の論争がたえまない戦国乱世である(少なくとも二つの世界大戦がそれを証明している)。したがって、諸国間・諸民族間の紛争(ないし戦争)は絶えず起こり、たがいにその責任や原因を相手になすりつけようとして懸命である。だが、だいたい「水かけ論」に終わるだけだ。せいぜい、たがいに「表に出ろ」ということになって殴り合いとなり、腕力に卓ぐれた方が勝ち、敗れた者に原因や責任を押しつけるということになる。そこにはたらいているのはせいぜい「力こそ正義なり」(Might is Right)の理論だ。実にアホらしく、そこには人間の叡智のひとかけらも見られない。とにかく、この理論のゆきつくところは、地球をいくども破壊するに十分な核兵器を所有するという正気では考えられない状況だ。

 太平洋戦争の原因と責任とを見ると、戦争にいたるまでの日本のもろもろの政索決定に(つまり対応に)多くの失敗があったことは認めなければならない。同時に、真珠湾にたち到った原因や責任を連合国から免責することもできない。アメリカやイギリス、オランダ、中国すべてが正しかったなどとはとてもいえないからだ。太平洋戦争の原因は、彼らも作ったし、したがって責任も分担すべきだろう。

 したがって、あの戦争を、民族主義対日本軍国主義の戦いといったり、正義と人道の勝利などといったりするのは、歴史的に見て正しいとは、とてもいえない。まず、責められるべきは、戦争にいたった双方の対応のまずさである。

 この対応のまずさ、つまり失敗をたがいに認めることから、人類は戦争のない、恒久平和の第一歩を踏み出せるのだ。この「相互責任論」を認めることこそ「正しい歴史認識」というべきだろう。

 私たちは、そろそろ、歴史を、善とか悪とかいう神学的情緒論から見ることをやめてもよいのではあるまいか。


◆ 歴史に明確さと勇気を

 現在の私たち(日本人)の太平洋戦争史観を歪めている最大の原因は、やはり戦争責任と戦争犯罪に対する押しつけられた自虐的なイメージである。

 ここでは、一人の日本人の卓抜な・・というよりも、むしろ当然な(常識的な)・・見解を紹介して、現在の日本人が太平洋戦争について抱かされた民族的コンプレックスから日本人を解放してみたい。

 すなわち、昭和陸軍が生んだ最大の天才(戦略家)といわれた石原莞爾が、終戦後、持病の悪化で東京の逓信病院に入院していたとき、東京裁判のため来日していた連合国の検事に尋問を受けたことがあった。
 そのとき検事(アメリカ人)が「戦争犯罪人(いわゆる「戦犯」)のなかで、いったい、だれが第一級と思うか」と訊ねた。それに対して石原は「トルーマン(当時のアメリカ大統領)」と答えた。
 石原は、その理由として、トルーマンが国際法の規定を無視して、一般市民、つまり非戦闘員の無差別大量虐殺(広島・長崎の原爆投下を含め100万人近くの市民を殺した)を行わせた点をあげた。そして「このトルーマン大統領の行為こそ戦犯第一級のそのまた第一級に価するもの」として、連合国検事に、彼を戦争犯罪人として告発したのである。

 ついで検事が「日本の戦争責任は、日清・日露戦争までさかのぼる」と述べたとき、石原は「それならペリーをよんでこい」といった。無学な検事はペリーの名を知らず「ペリーとはだれだ?」と反問した。
 石原は検事に次のように教えた。すなわち、ペリーは鎖国政策のもと300年間、他国に一切迷惑をかけず平和に生活していた日本に、黒船(艦隊)を率いて開国を迫った人物である。
 日本(江戸幕府)は、その艦隊の脅迫でやむをえず開国し、君らの国と外交関係をもったところ、君らの国が例外なく侵略主義や帝国主義の恐ろしい国々であることが分かった。そこで日本も、植民地化を免れる(生き残る)ため、やむおえず君らの侵略主義や帝国主義を学ばざるをえなかった。
 したがって、太平洋戦争の戦争責任が、もし日清・日露戦争にまでさかのぼるとすれば、日本を武力(艦隊)で脅迫して開国させ、かつ侵略主義・帝国主義を教育した元凶であるアメリカの水帥提督ペリーを承認として喚問せよ・・・。
 このように述べて、彼は勝利者側からの、いわゆる戦犯や戦争責任の追及のナンセンスさを皮肉り、検事をグーの音も出ないほどやりこめたのである。

 ちなみに、この石原は、太平洋戦争について、軍人として、原因と責任についてもっとも深く反省した人物の一人であった。彼は、世界最終戦論(東方の王道文明と欧米の覇道文明とが武力対決し、その結果、戦争のない恒久平和が実現される・・日米軍事対決はその文脈での世界最終戦争だとする)の論理が、日本軍部の早過ぎた軍事対決によって破れたことについて、自分の論理の構造的な弱さを自己批判した。そして、核戦争の脅威のもとに世界が苦悩する時代を「最終戦争時代」と定義し、非武装国家日本が、この危機の時代をいかに突破し、世界の真の恒久平和確立に貢献するかについての戦略を構想しつつ世を去った。

 おそらく現在もなお、私たち日本人の理性的な思考と行動を呪縛している太平洋戦争についてのコンプレックスを解消するためにも、私たちは、この石原が示した明確な歴史分析と、それを表現する勇気が必要である。なぜなら、押しつけられた太平洋戦争史観を抱くかぎり、日本(日本人)は、未来に対して、明晰な、勇気あるビジョンをもつことなど、けっしてできないからである。