◆ 「終戦の日」 国際法上は五十周年
今年(2002.8.15)も、戦没者追悼の日を迎えた。政府主催の追悼式典は四十一回目となる。
戦後五十七年になるのに、何故四十一回なのか。1952年4月28日にサンフランシスコ講話条約が発効して日本が国家主権・独立を回復するまで、連合国軍総司令部(GHQ)が日本に戦没者を追悼することも許さなかったのが一因だ。
八月十五日は「終戦の日」とされる。だが、国際法上の「終戦の日」は、講話条約発効の日である。それまでの日本はGHQによる占領行政下にあったのだ、という歴史の実態を改めて思い起こしたい。
これは、現行憲法についても言えることである。
四七年五月三日に憲法が施行されたはずの後も、GHQは言論・出版への厳しい検閲を継続していた。憲法の中核的原理である「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」(第二十一条)は施行されていなかったのだ。
その意味では、今年こそが実質的な憲法施行五十周年である。
四五年八月十五日には、まだ、日ソ中立条約を破ったソ連が、千島列島から北方領土へと侵攻を継続していた。
そのソ連が、極東国際軍事裁判(東京裁判)の検事席、判事席にいて日本を裁いていたというのは、実に矛盾した構図である。しかも、日本将兵ら数十万人の連行・シベリアでの酷使という、明白な国際法違反が「同時進行中」である状況下でのことだった。
他方で、東京裁判中は、英、仏、蘭によるアジアへの再侵略も「同時進行中」だった。
オランダ軍がインドネシア独立軍と停戦協定を結んだのは、東京裁判終了の翌四九年である。ベトナム北部のディエンビエンフーでフランス軍が降伏したのは、五四年になってのことだ。
第二次大戦で、日本はアジア「諸国」を侵略したわけではない。当時の東アジアには、中国、タイのほかは、米、英、仏、蘭などの植民地しかなかった。大戦突入以前からの日中戦争の継続局面を除けば、日本はこれら「欧米諸国の領土」に侵攻した、という戦争である。
◆ 東京裁判の再点検を
この点について、東京裁判のインド代表・パル判事は、欧米諸国には帝国主義行動の歴史に照らして日本を裁く資格はないとし、被告全員を無罪とした。しかし、「パル判決書」は、日本が国家主権を回復するまで、GHQにより報道も出版も禁じられていた。
日本とドイツを同列に並べるというのも間違いであろう。
ナチスドイツは戦争そのものとは別の次元で、思想的・組織的・計画的にユダヤ人絶滅政策を推進した。ホロコーストのための組織運営は、時には軍事作戦上の都合よりも優先された。
日本の戦争行動にも、さまざまな蛮行が伴ったが、特定民族を絶滅しようと図った事は無い。ドイツの「人道に対する罪」とは根本的に異なる点である。
だからといって、当時の日本の指導者達になんの責任もない、ということにはならない。
日本を無謀な戦争に引きずり込んだという意味では、A級戦犯とされた人達は、「A級戦争責任者」だったと言えるだろう。
◆ 平和祈る戦没者追悼
ともあれ、GHQの言論コントロールの下で進められた東京裁判の「文明の裁き」史観を、改めて再点検して見る時期ではないだろうか。東京裁判史観にとらわれている人たちは、しばしば、’日本一国性悪説’的な自虐史観に陥ってしまっている。
いわゆる’従軍慰安婦’問題は、その典型だ。 戦時勤労動員だった女子挺身隊を’慰安婦狩り’のための制度だったかのように歴史を捏造した一部新聞のキャンペーンなどは、自虐史観の極みと言うべきだろう。
ドイツは、占領地で将兵の慰安施設用に、国家的、強制的な’女性狩り’をしていた。
しかし、ユダヤ民族絶滅政策の暴虐があまりにも巨大悪だったために、’女性狩り’問題は相対的に不問に付され、ドイツの指導者も国民も、そんなことはなかったような顔をしている。
自虐史観派はそうした歴史的事実をも見ないふりをして、「ドイツに比べ反省が足りない」等と論じている。
二十一世紀に入ってから、日本の国家としてのアイデンティティーをめぐる論議が活発になっている。その論議のためにも、アジアにおける近代史の実態、そうした時代環境を踏まえた上での日本の近・現代史、さらには戦後史を虚心に洗い直してみることが必要だろう。
現在の日本では、これは決して、戦前のような軍国主義への回帰を志向することなどにはならない。それは日本国民の大多数がよく知っている。
日本は、平和な国際環境と自由な通商体制なしには、国民の豊かな生活を維持できない国だ。 戦没者追悼の祈りは、それを再確認することに意義がある。 |