回天のあった海 油津、栄松の人間魚雷基地
本県には六十年前、五カ所に人間魚雷「回天」の基地があった。海中から敵艦に体当たり攻撃する特攻兵器である。テロや核、靖国神社参拝などで混迷しているいま、日南市油津と南郷町栄松の回天基地の記憶をたどり、平和を考えた。
(日南支社長・坂元陽介)
2005年8月2日
埼玉県深谷市―。栄松基地で出撃命令を待っていた元海軍一飛曹の多賀谷虎雄さん(78)と会った。栄松にいた回天搭乗員は多賀谷さんを残して皆亡くなり、当時を知るただ一人である。
「戦争が悪いことも、回天が不完全兵器だったことも十分に分かっている。しかし、あの時代を純粋に生きたことは間違いない。それは誇りでもあり、死ぬまで持ち続けたい」。元特攻隊員の生きざまはまっすぐで、はっきりしていた。
日向灘に散る覚悟を決めていた回天搭乗員たちを、地元の人たちはどう見守っていたのか。六十年が過ぎ、当時を知る人を探すのも困難を極めたが、油津基地近くに住んでいた男性の話を聞くことができた。
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田代弘さん(76)=日南市梅ケ浜一丁目=は当時、油津港内にあった海運局長官舎に家族で暮らしていた。回天が格納された隧道(ずいどう)へ行く途中に家はあり、搭乗員たちが時折立ち寄ってはお茶を飲みながら世間話をしたという。
旧制飫肥中生だった田代さんは一九四五(昭和二十)年の夏、勤労動員から家に帰ってくるたびに搭乗員と顔を合わせた。
「年も近いので親しくなりました。ビスケットやおこわの缶詰、父にはたばこや酒など当時のぜいたく品をたくさん持ってきてくれたものです」。特攻が迫った搭乗員に対する待遇の良さがうかがえるエピソードだ。
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「天運挽回(ばんかい)」。戦況が悪化してきた四四年、回天は開発された。全長一四・七五メートル、最高速力三十ノット(時速約五十六キロ)。直径一メートルの一人乗りで、一・五五トンの爆薬を搭載する。
油津基地は四五年五月、九州初の回天基地として開設された。県内では六月に栄松、七月に日向市細島、宮崎市内海、日南市大堂津に相次いで搭乗員が着任している。
終戦後、田代さんは油津の海岸沿いのがけに掘られた数本の隧道をのぞいたことがある。中には黒い人間魚雷と、海に向かってレールが敷かれていた。回天はこのレールに乗って海へと出撃していくはずだったのだ。
その隧道が今も残っているという。田代さんに案内してもらったが、がけ一面が勢いの良い樹木と夏草に覆われていて結局は分からなかった。
写真/油津、栄松基地の回天搭乗員。前列左から2人目が多賀谷さん。中列中央は「同期の桜」作詞者ともいわれる油津基地隊長の帖佐裕大尉=「回天特別攻撃隊写真集」から
2005年8月3日
回天を格納していた油津基地の数本の隧道(ずいどう)は、一九四五(昭和二十)年始めから徴用された人たちによって造られた。彼らの宿舎は、油津にあった濤声館(とうせいかん)という千人収容の劇場だった。
近くに住んでいた柴田雅夫さん(78)=日南市春日町=は、毎朝決まった時間に作業に出ていく人たちの姿を覚えている。
「二、三百人いたうちの多くが朝鮮半島出身者でした。殴られたんでしょうか、濤声館前の広場から『アイゴー』という叫び声がよく聞こえてきました」。朝鮮の人たちは、全国各地の炭坑や鉱山などでも戦時の労働力として酷使されている。
落盤などでかなりの犠牲者を出しながらも隧道は完成した。横幅と高さは二・五メートルから三メートル、回天を二基収容できるよう奥行きは最長四十メートル掘られ、壁はコンクリートで塗り固められていた。
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油津基地の回天隊が所属していたのは海軍第三三突撃隊。回天搭乗員九人のほかに、基地隊員が百数十人いた。
石井丹さん(76)=日南市油津三丁目=もその一人で、終戦直前には隧道の中に寝台を作って搭乗員と寝泊まりしたという。いつでも出撃できる態勢を整えていたのだ。
石井さんは搭乗員と一緒に訓練もした。「夜、二、三十人の隊員でトロッコに載せた回天をレールで海辺まで運び、また戻すのです。搭乗員も実際に乗り込みました」。回天に脱出装置はなく、出撃したら帰還できない。発進は搭乗員の死を意味する。
そんな特攻隊員を率いていたのが、帖佐裕大尉=故人=だった。
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油津基地電信員だった山下助蔵さん(77)=串間市西方=は、戦況を尋ねる帖佐大尉と電信室でよく言葉を交わした。
知覧や鹿屋から沖縄へ飛び立った特攻機は、強い電波を発しながら敵艦に突っ込む。守るべき秘密はなく、傍受されても構わないからだ。山下さんはレシーバー越しに、何人もの兵士の最後の声をはっきり聞いた。
「階級、名前を述べた後、多くが『おっかさーん』と叫びながら突入していきました」。さらに特攻隊長の意外な素顔を口にした。「帖佐大尉も『山下、僕はね、おっかさーんと叫んで突っ込むよ』と言ったんです」
「最近よく考えるんです。基地から沖縄近海までの二時間近く、特攻隊員は何を思っていたのかと」。メモを取って顔を上げると、山下さんの目は赤くなっていた。
特攻隊員の心情を聞いてみたい。回天搭乗員を訪ねることにした。
写真/油津の回天隧道があった付近。現在は埋め立てられているが、当時はがけ下まで海が迫っていた
2005年8月5日
油津基地回天搭乗員だった元海軍一飛曹稲永真さん(80)=福岡市=は、待ち合わせ場所に自転車で現れた。福岡県警では鑑識一筋だった延長で写真が趣味。撮影旅行に出掛け、博多写友会代表の肩書も持っている。
油津に派遣されたのは一九四五(昭和二十)年七月だった。同期の搭乗員と二人、潜水艦で運ばれ、夜中に上陸したという。宿舎は軍が接収した遊郭で、八畳の一人部屋を与えられた。
午前中に隧道(ずいどう)へ行き、九人の搭乗員一人一人に与えられた回天を点検した後は特にすることもなかった。出撃命令を待つだけだったからだ。
「町の飲み屋で基地隊員とよく騒ぎました。山芋を掘りにいった楽しい思い出もあります。そんな毎日を過ごしながらも早く出撃したいと願う半面、そうなったら人生終わりだと思っていました」。
稲永さんの複雑な心情が少しだけ見えた。
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奈良航空隊予科練を終えた稲永さんが、人間魚雷の操縦訓練を受けたのは山口県周南市の大津島基地。初めて乗るときは、操縦をひと通り覚えた搭乗員との同乗訓練がある。一人でも窮屈な空間に二人で座り、操縦を見学するのだ。
その同乗訓練で事故は起きた。「回天が深さ二七メートルの海底に突っ込んだんです。二時間身動きできず、もう駄目かと思いました」。稲永さんは無事救助されたが、訓練中の事故はしょっちゅうあり、命を落とした搭乗員も少なくない。
その後も搭乗訓練を重ねたが、乗り込んでハッチが閉められた瞬間、血の気がスーッと引いていったという。「はたから見たら、きっと真っ青になっていたはずです。操縦を始めれば何も考えませんでしたが」
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実は稲永さんは交代要員だった。宮崎市の内海基地へ回天の収容作業に行った油津基地の搭乗員二人が、空襲を受けて死亡した。このため稲永さんら二人の派遣が急きょ決まったのだった。
多くの搭乗員の中から選ばれて出発する前日の夜、大津島基地で送別会が催された。にぎやかな宴の様子を話してくれながら、「情けないと思われるかもしれませんが」と、稲永さんは突然切り出した。
「用を足したくもないのに、席を立って便所に入りました。泣いたんです。感情を抑えられなくなってね。上官や仲間から頑張ってこいと励まされても、それは立派に死ねということですから」。稲永さんは目線を落とした。
死を運命付けられた特攻隊員の本当の気持ちは、本人だけにしか分かるはずはない。
写真/米国ハワイ州・ホノルルに展示されている人間魚雷「回天」=「回天特別攻撃隊写真集」から
【4】えい航した漁師 軍事機密固く口止めか
2005年8月6日
回天搭乗員には多くの予科練出身者がいた。戦闘機のパイロットになるはずの彼らは、なぜ人間魚雷に乗ることになったのか。
山口県の大津島基地で訓練に励んだ奈良航空隊予科練出身の川原勝さん(79)=三股町樺山=を訪ねて理由を聞いた。「予科練を終える前の一九四四(昭和十九)年七月、司令から話がありました。もう戦闘機はない。だが新型特攻兵器が開発された。これで戦闘に参加したい者は志願せよという内容でした」
兵器の説明はなく、一枚の紙が渡されたという。「熱望は二重丸、希望は一重丸、または白紙で提出を求められました。全員が二重丸で出したと思います」。川原さんたち少年航空兵は、大空への夢を断ち切って特攻を志願したのだった。
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本県出身で、川原さんのように訓練中に終戦を迎えた人は多いが、戦死した搭乗員もいた。岡山至少尉は海軍機関学校卒で宮崎市出身。四五年二月、五人編成特攻隊の隊長として回天を搭載した潜水艦で出撃したが、硫黄島海域で撃沈されている。この潜水艦には本県出身乗組員も七人いた。
川原さんは、南郷町の栄松基地の搭乗員だった多賀谷虎雄さん(78)=埼玉県深谷市=とは予科練から大津島まで一緒で、今も親しい友人である。その多賀谷さんが着任する前の栄松基地に、回天が配備されたときの状況を知る人がいた。
南郷町文化財審議委員だった河野芳行さん(80)=南郷町津屋野=は、九二年九月の出来事を話してくれた。
「マグロ景気に沸いたころの話を聞くため、八十歳を超えた漁師を訪ねました。何の拍子でか、人間魚雷の話になったんです」。それは映画のような話だった。
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四五年二月か三月、夜遅く訪ねてきた軍人に、漁師は三日後の夜九時に船を出すよう要請された。
約束の晩、船に乗り込んできた軍人に言われるまま栄松港外で船を止めると、三基の人間魚雷を積んだ潜水艦が突然浮上。漁師は命令に従い、四時間かけて回天三基を港へえい航したという。
「誰にも話したことはなかったそうです。奥さんにもです。思い出したときや寝言の中で、『怖かった』とつぶやくことがあったようです。わたしに打ち明けて三カ月後に亡くなりました」
終戦から四十七年もすぎてようやく口を開いたのは、固く口止めされていたからではないか。回天はそれほど重要な軍事機密だったのだ。
随分探したつもりだが、当時の栄松基地を知る人にはたどりつかなかった。搭乗員だった多賀谷さんに会うしかない。
写真/回天を搭載した潜水艦で出撃していく宮崎市出身の岡山少尉(前列右)。潜水艦は硫黄島海域で撃沈された=「回天特別攻撃隊写真集」から
【5】元特攻隊員 終戦60年、最後の1人に
2005年8月7日
待ち合わせのJRの駅で、ベンチに座っていた男性がおもむろに海軍の白い作業帽をかぶった。南郷町の栄松基地回天搭乗員で元海軍一飛曹多賀谷虎雄さん(78)=埼玉県深谷市=だった。
奈良航空隊予科練で、新型特攻兵器への搭乗をためらうことなく「熱望」。山口県の大津島基地では、初の同乗訓練で水深一〇メートルの海底に突っ込み、四時間半後に救助された。二十六回の搭乗を重ね、栄松基地に着任したのは一九四五(昭和二十)年六月のことだ。
ざっくばらんな性格と話す通り、飾り気がない。「どうしたらうまく敵艦に体当たりして死ねるか。そのことだけ考えて訓練に励みました。栄松に行くと決まったときはうれしくってね」
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栄松では毎日同じ時間に空襲があった。狙われて銃撃され、造船所の防空壕(ごう)に飛び込んだこともある。しかし大津島に比べると、のんびり過ごせたという。
「夕方に海で泳いだり、漁師が釣った新鮮なカツオを港で刺し身にして腹いっぱい食べたりしたこともあります。地元の人も親切でしたね」。かといって、いつ出撃命令が出るか分からない。夜中の召集訓練や机上訓練で、七人の搭乗員は緊張感を保ち続けた。
しかし終戦。攻撃目標の米艦隊は日向灘に現れなかった。県内五カ所を含む国内十五カ所に設けられた突撃基地からは、回天は一度も出撃しなかったのである。
潜水艦からの出撃や撃沈、訓練中の事故などで亡くなった回天の搭乗員、整備員は四四年九月の訓練開始から百四十六人を数えた。
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多賀谷さんは栄松の記憶が意外と少ない。「宿舎の場所、ふだんの過ごし方などよく覚えていません。敗戦のショックで忘れたと思うんです」。終戦までそれほどまっすぐ生きていたのだ。
油津基地搭乗員だった佐藤登さん(79)=福島県原町市=も、電話でこう話していた。「復員したら、両親から『おっかなくて見られない顔だ』と言われました。国と家族を守るために、必ず死んでやると決めていましたからね。いくら金をもらっても、当時の気持ちには戻れないでしょう」
終戦から六十年。栄松基地搭乗員は多賀谷さん一人になった。いま、多賀谷さんは三世代一緒に暮らしている。
「仕事を何度か変わって苦労もしたけど、今は家族に囲まれて幸せです。孫が出来がよくってね、早稲田大に通ってるんですよ」。ほんとに幸せそうだった。
「回天」は昔話ではなかった。これからの生き方を、幸せを教えてくれた。
(おわり)
写真/60年前の面影が残る栄松基地の回天隧道(ずいどう)跡。人間魚雷が出撃することはなかった