−2001年1月15日付・朝日新聞朝刊・声「若い世代」−
2001年1月15日付朝日新聞朝刊・「声−若い世代−」に、あきら君(山口県美祢市在住)の回天に関する記事が掲載されました。(HP掲載を許可してくれたあきらくんにこの場を借りてお礼申上げます。)
受験のための平和教育疑問
山口県に、戦争の「負の遺産」が残っていた。人間魚雷「回天」。私は、十八年も住んでいながら何も知らなかったことが恥ずかしかった━。この冬休み、私は徳山市大津島を訪ねた。かつて、この地で行われていたことを知ることと、私と大差ない年齢だった青年たちの軌跡をたどるためだ。
回天記念館には壁一面に回天烈士者の遺影が展示されており、私と同い年の遺影もあった。父母や妻、友人への手紙には、相手を気遣う内容や、出撃への決意が書かれていた。
発射訓練基地にはトンネルを通って行くのだが、内部の道には回天を運ぶのに使われてたレールの痕跡が残っていた。トンネルを抜けると、目の前に薄暗く波の響く海上に基地がそびえていた。
今の歴史教育は、受験のための教育とはいえないだろうか。そのような教育は、受験が行われる限り続くだろう。しかし、受験が終われば忘れ去られてしまう。それで良いのだろうか。
歴史教育は覚えて終わりではない。常に自分の足で行動し、目でとらえ、肌で感じ、耳で聞き、頭で考え、これからの世代に語り継いで行く。これが本当の歴史教育ではないだろうか。
2001.1.15朝日新聞朝刊・声−若い世代−より
−2001年3月3日付メール−
回天の事を知ったのは、政経の授業で「映像の世紀」というNHKの特集のビデオを見て、そのレポートを書いていて資料(名前は忘れましたが)の中に回天の事が載っていたからです。それに僕の地方のテレビ局で特集をしてたので。その時はビックリしました。山口県にこの様な基地があったことをまったく知らなかったので。そして、事実を何も知らないではいけないと思い、今回、大津島に行こうと思い立ったのです。
前のメールには書きませんでしたが、島で道を聞いたんですが、聞いた方が小学生の頃戦争が終わったと話されていました。その方にとって戦争はどのように感じたのでしょうか。聞いておけば良かったです。
今回、回天を知るきっかけとなった政経の先生に感謝しています。また、僕が回天のことを新聞に投稿して掲載されて、その記事を読んだ別の先生が、一年生の現代社会の授業で扱ってくれました。この授業で1人でもいいから何か感じてくれた後輩がいてくれればと思います。
−高校卒業文集−
写真は何を表しているかおわかりですか?
忘れてはならない事実が表されています。
上の写真は1945年、敗退の続く日本の戦局を逆転するために構想された、人間魚雷「回天」の出撃写真である。この魚雷は先端に爆弾を積載し、敵艦に1人で体当たりをし、敵もろとも自爆するという特攻作戦だった。この作戦にたずさわった人のほとんどが、日本全国から集められた平均年齢21.1歳の若者であった。
遺影には18歳の青年もかけられていた。彼らは死ぬことが恐くなかったのだろうか。遺品には家族や友人に当てた手紙があり、そのほとんどが家族、友人、国の行く末を案じたものだった。何故このような事が書けるのだろう。それは「自分が行かなければ誰が守るのか?」という思いがあったのだろうし、時代がそういう事を平気に考えられる状況だったのだ。
私は疑問に思っている事がある。それは、何故戦争の名だけが伝えられ、そこに関わった人の気持ちが伝えられなかったのだろうか、ということだ。ある先生が言っておられた。「気持ちが伝えられないから、戦争がまた起きる」と。
今、私達が生きている時代はどうだろう。飽食、飢餓、同年代の犯罪、ホームレスの孤独死、自殺…。当時と比べたら違いすぎると言えばそれまでだが、過去があるから今があるのだ。私は過去を見据えた上で、今をしっかり生きていきたい。
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