〈講演記録〉 20世紀の意味
「永続革命」から「市民的ヘゲモニー」へ
石堂清倫
(注)、これは、2000年9月16日に開かれた「石堂清倫氏を囲む会」における講演記録です。このHPに全文を転載することについては、石堂氏の了解を頂いてあります。この記録は、ブックレットとして発行(2001.1.25)されており、それを希望の方は、「市民セクター機構気付 рO3−3325−7861」に、頒価500円で、注文できます。
〔目次〕
「石堂清倫氏を囲む会」について・・・小塚尚男
石堂清倫氏の経歴(「図書新聞」2467号参照)
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(石堂論文・手紙 掲載ファイルリスト) 健一MENUに戻る
久しぶりに石堂氏の話を聞く機会を−と提案したのは折戸進彦・前生活クラブ連合会長でした。それを受け、市民セクター政策機構が中心に準備に入り、幸いにも、石堂氏より「若い人たちに話する機会ならば」と快諾をえて、2000年9月16日に「囲む会」は実現しました。当日、約40人が集まったが、本書はその講演の記録に、石堂氏が手を入れられたものです。
いわゆる現存する社会主義体制の崩壊以降、私たちの運動の中からも社会主義は少しく遠い存在になったかのようです。いま、生活クラブグループが、有数な社会主義運動の理論家である石堂氏の話を聞くことに、いささか唐突の感を持った人もいたかと思いますが、翻って市民セクター政策機構の前身としての社会運動研究センターの創生期の八○年代の前半には、故人となった井汲卓一、平田清明氏らと共に、石堂氏は幾度か学習会や雑誌『社会運動』に寄稿されており、私たちとは浅からぬ関係をもっていました。その意味では、まさに“久しぶり”の機会だったのです。
ヨーロッパにおいては少なくとも1844年のロツチデール先駆者協同組合の設立までは、協同組合は自立した存在ではなく、広い意味で労働運動とともに社会主義運動のひとつとして一体化していました。その後もその連係は続き、時に協同組合は、社会主義運動や労働運動の兵站部であるとさえいわれました。とりわけ日本の戦前期には、いくつかの消費組合はそれを目的にしたくらいでした。消費生活協同組合として自立するには、戦後を待たなければならなかったのです。
今日の「新しい社会運動」にとっても、石堂氏が述べられた「新しいアソシエーションの追求」はきわめて重要な提案だといえます。また、社会主義運動の歴史を述べられた中にも、運動にとって大切なのは民主主義であり、民主主義とは情報の公開であることを示唆されており、運動に携わる者としてはもって銘記すべきだろうと思います。
石堂氏を囲む会以降、石堂氏の身辺では十一月に文子夫人が急逝され、同時に石堂氏も急性肺炎で入院されました。石堂氏は本書を元気なうちの夫人に見せたいと出版を再三督促されたが、今日まで遅れてしまい、伏してお詫びをします。私どもの不徳の致す所です。改めて文子夫人のご冥福を祈り、石堂氏の全快を心から願っています。
2001年1月 小塚尚男
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1904年石川県生まれ。四高で先輩である中野重治を知り、東京帝国大学在学中、新人会でともに活動する。卒業後、労働組合運動に身を投じ、そののち無産者新聞の編集に携わる。
28年、「3・15事件」で検挙。獄中でロシア語や中国語を独学、ペンネームでレーニンなどの著作を翻訳する。33年、転向・釈放後、日本評論社に入社、「ゾルゲ事件」で死刑となる尾崎秀実などと相知る。数々の書籍編集及び翻訳を手がけたあと、38年、満鉄調査部に入社、当時「満州国」の大連に赴く。
43年、満鉄調査部第二次検挙で逮捕、投獄。釈放後、関東軍二等兵として動員される。45年、敗戦後大連に戻り、49年まで労働組合運動に加わる。大連のソ連司令部と折衝、この地で中華人民共和国の樹立に接する。帰国後、日本共産党に入党、のち離党。訳書に『マルクス・エンゲルス全集』『レーニン全集』『スターリン全集』がある。
荒畑寒村らとともに運動史研究会を結成、全17巻におよぶ『運動史研究』を刊行。またイタリア語を習得、グラムシ研究会を創設し、『グラムシ獄中ノート』などグラムシの翻訳・紹介に努める。そのほか、ユ・ア・クラシン『レーニンと現代革命』、アルド・アゴスティ『コミンテルン史』、ロイ・メドヴェーデフ『共産主義とは何か』など数多くの翻訳を手掛ける。主な著書に『現代変革の理論』『わが異端の昭和史』『続わが異端の昭和史』『異端の視点』『中野重治との日々』ほか。
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私は1960年代のはじめまで日本共産党関係のイデオロギー運動をやっており、日本共産党の出版した文献も私が関係したものが非常に多くあります。とくに『マルクス・エンゲルス全集』、『レーニン全集』、『スターリン全集』は、責任者の一人でもありました。『スターリン全集』について、みなさんご存じでないことがあると思いますので、そのことからお話しします。『マルクス・エンゲルス全集』も『レーニン全集』も大月書店の商業出版物ですけれども、『スターリン全集』だけは共産党直営です。共産党が大月書店に命じて出版させたものです。
したがって、日本共産党の戦後におけるイデオロギー運動の中心は、全力をあげてスターリン主義の普及にあった。私もその一人として、スターリン主義のすべてのマイナス面についての大きな責任を持つものでしたので、きょうは、その責任の一端を報告としてお話しできるかと思って出掛けてきたわけです。もう年をとりましたし、新しい学問のことを知りませんので、そのへんは、はじめからお許し願いたいと思います。
長い間、実際はスターリン主義でありながら、「マルクス・レーニン主義」と言ってきました。私が1973年に、メドヴェーデフの『共産主義とは何か−スターリン主義の起源』(三一書房)を出版し、スターリンの下での「マルクス・レーニン主義」が「収容所列島」であることが明らかにされました。その頃から、日本共産党は自信を失って「科学的社会主義」という言葉を使うようになりましたが、スターリン主義についての明確な自己批判をしたわけではありません。また、「科学的社会主義」の科学ですが、エンゲルス流の近代自然科学主義の理解であったために平板で、マルクスの弁証法的発展の論理は次第に軽視されていったように思います。
マルクスの予見――世界革命の東漸
友人たちのほとんどがこの世からいなくなりましたが、私は、時々思い出す人物が何人かあります。その一人に社会党の代議士をした田中稔男がいます。彼は、私たちと一緒に学生運動をやって、一時期、左翼学生運動のリーダーの一人でした。
戦後、彼は戦中の行動を反省して、社会党に入り大活躍をしたのですが、選挙が近づくと、決まって私のところに問い合わせをしてくるのでした。それは、マルクスが1848年の、革命失敗後の政治評論の中で言っていることです。フランス大革命で敗北した反動派が、東へ東へと逃げてドイツとロシアを通過し、シベリアを回ってはるばる保守反動の牙城、中国にたどりつき万里長城の入口の山海関の扁額を仰ぎ見ます。ここもまた安住の地ではなく、そこには「中華共和国・自由、平等、博愛」と書いてあることを発見するであろうと。(注1)
(注1)「わがヨーロッパの反動派が、すぐ目の前に迫っているアジアヘの逃亡のさい、ついに万里の長城にたどりつき極反動と極保守主義の堡に通じる門前にたったとき、門の上に次の文字をみないと誰が知ろう――中華共和国・自由、平等、友愛」。邦訳マルクス・エンゲルス全集、第7巻223〜224ページ。
すなわち、世界革命がフランス革命にはじまってドイツで1848年革命の大爆発をとげる。その時にマルクスは予見しておりませんけれども、やがて革命の波はドイツからロシアに移るだろう。そして、事の結果として必ずアジアにまで波及するにちがいない、マルクスがそう考えたのは1850年1月です。それから一世紀たって中華人民共和国が成立したのは、1949年10月1日でした。
田中の選挙区には三池炭鉱があり、そこでそのことを話すと労働者たちが喜ぶのだそうです。ですから選挙の度ごとに、マルクスのこの言葉を確かめるために、私のところに電話をかけてくるのです。しかし、社会主義運動が地球を半まわりしてアジアにやってくる長い旅のなかで、その理念と政策はそれぞれの国の歴史的特殊性にしたがって、変容することはまぬかれませんでした。資本主義が未発達で、プロレタリアートが人口の小さな一部分にすぎない帝政ロシアでは、先進資本主義国が長期にわたる闘争でかちとった政治的自由は、短期のあいだに激烈な闘争によってかちとる必要があり、階級闘争の形態も手段も、それに応じて独自の発展をとげました。
ドイツの社会民主主義に比べてロシアのボリシェヴィズムは暴力手段を正面におしだす必要があり、政党の組織もいちじるしくこの手段に従属したのは当然でした。レーニンは、ロシアで革命思想が成長してゆく過程でさまざまな思潮を経験し、最期にマルクス主義に到達したことを語っています。つまり西欧社会に生まれた解放思想を実践のなかで点検したのでした。
ところが、わが日本ではそれとちがって、すでに確立していたドイツ社会民主党の思想やロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派の教義をとりいれました。それを一つひとつ具体的体験によって確かめる時間がなく、無上の真理として、批判抜きにうけいれた形があります。そこに、もともとマルクスにはなかった権威主義が日本人の思想に反映することになりました。つまり日本の社会運動の思想は、イデオロギーとして歴史的な旅をとげたことが大きな特徴となったのでした。
そして革命闘争が中国大陸で展開されるに至って、帝政ロシアとはもっとちがって、ほとんどプロレタリアートは社会的集団としては定形をもたず、これに代って農民が事実上の主役になるはかありませんでした。中国で成立し発展した社会主義は日本帝国主義との生死の格闘のなかでしたから、いちじるしく民族的な特徴をもちました。民族解放戦争と結びついた社会革新の運動のために、マルクス主義は「中国化、アジア化」(毛沢東の言葉)をとげることになりました。つまり、20世紀はマルクスが予見した運動が実現されていく過程を示したことになります。
ロシア革命――未踏の道と試行錯誤
まず、1917年のロシア革命について考えてみます。あの革命はちゃんとまとまった方式があって、それにしたがって遂行されたわけではありません。レーニン自身にとっても、あの革命の進展には、予期を越えた、あるいは想像外の道をたどったと思います。
人々はあまり注意しませんけれども、レーニンの書いたものを見ますと、「自分たちが、ウラーと叫んで突進すると、だれも抵抗しない。戦闘らしい戦闘をすることもなしに次々に都市が占領できる。時の勢いというか、羽毛を持ち上げるよりも軽々と革命を成功させることができた」と言っています。
革命当初、レーニンたちは社会主義革命をいかにして遂行すべきかと、いろいろな専門家を集めて、マルクスやエンゲルスの著書を調べますけれども、具体的な手だては書いていない。一般的な方向のほかははっきりしたことはわからない。つまり、定型というものがあったわけではありませんから、いわばまるで偶然の結果のように革命の合成力が生まれていて、その勢いに乗って権力を得ることができ、ボリシェヴィキの方針がこの合成力のなかで中心的になることができたのでした。
しかし、その革命の根本的性質は、やはり1848年の再現にあったと思います。48年の『共産党宣言』には、もっとも進んだ国々のための一般的方策が書いてあります。レーニンたちはこの方策をヨーロッパではもっともおくれた国の一つで実行しようとしました。「共産主義者のなすべきこと」という問題をマルクスが書いていますけれども、そこに書いてある十力条の事項は1848年革命で実現すべき綱領的要求と考えていたのでしょう。
つまり、レーニンたちは、社会主義とは何であるか、いかに実現するかということについてまだ先例もなく、予め具体的計画をもっていたというよりは、現実と格闘する中で実現したことのほうが多かったと思われます。いわば試行錯誤をくり返すほかなかったのでした。
未成熟の市民社会における革命
だからといって、日本の共産主義者は、ロシア革命の成果を日本の具体的条件のなかで検討することなしに革命の普遍原則としてとりいれてよいとはいえません。われわれの先輩が忘れたのは、ロシアのように市民社会がまだ発展しない国では、変革は市民社会におけるのとは違った経路をたどるということを、はっきりさせなかったことです。成熟していたならば、先進的市民社会ならその下部構造自身がおのずから生み出すようなものも、市民社会状況の希薄なロシアではいちいち意識的に、上部構造のなかで取り上げなければなりませんでした。
例えば、フランス共産党のトレーズはその父親も祖父も炭坑夫でした。三代にわたって炭坑夫として働いたような人たちは、理論以前に、生活のなかから身につけることが経験的に可能な部分がたくさんあって、プロレタリア気質が階級意識としてそなわっていました。しかし、ロシアの労働者は昨日まで農村で働いていて、小所有者的本能を断ち切れないでいる。農村経済と結び付いた農民的イデオロギーというものを労働者自身がまだ持っていたのですから、階級意識の形成には教育と学習が必要でした。プロレタリア的な気質で果たせるような問題も、ロシアでは意識的・計画的に考えなければならなかったのです。したがって、ロシア革命運動の第一の特徴は、理論重視であり、すべて理論化しなければならなかった。そして、それを実行するうえで組織にかかる比重が大となり、しかも厳格な規律による中央集権組織として知られています。
組織愛国主義(Organisationspatriotismus)というものが初期のドイツの運動にもありましたが、ロシアの組織では、まるで軍事的指揮系統のようになりました。いわば、未熟な市民社会的な要素が上部構造の極端な緊張によって埋め合わされなければならなかったといえます。それは後進国の社会運動の急激な離陸に随伴する止むをえない現象と思われます。ですからこの現象を理念として尊重し、一種の理想とするのは、正しくはないとすべきです。
ロシアの革命家はマルクス主義に到達するまでに非常な苦労しています。レーニンたちは「いままで見たこともないほどの革命的英雄主義、信じられないほどのエネルギーとひたむきな探求、学習、実践による試練、失望、点検、ヨーロッパの経験との比較の半世紀の歴史によって真に苦しんで」、「最期の言葉」としてのマルクス主義をたたかいとったのでした(『左翼共産主義内の“左翼主義”小児病』)。
こうしてロシアの先覚者が到達した経験の総括としてボリシェヴィズムが生まれました。それを1920年代のはじめに日本の社会主義者がうけいれたのです。言論・集会・出版・結社の自由がなく、治安警察法や警察犯処罰令などの前時代的悪法が政治生活を窒息させている状態では、ツアーリ専制のもとで成立したボリシェヴィズムはわかりよかったのは事実です。日本の共産主義者はロシア社会では止むをえなかった現象をあやまって原理としたと言われても仕方のないような道をたどりました。
日本でのレーニンはスターリン主義的理解
日本におけるスターリンの著書『レーニン主義の基礎について』の歴史がそれを語っています。私たちが『レーニン主義の基礎について』を受け取ったのは、まだ学生であった1926年の頃でした。これが新規に学習のテキストとして上部から下げ渡されました。それを見て私たちは違和感にうたれました。これまでわれわれが学んできたマルクス主義と違って、単純で、したがって明快なカテキズム集と映じたのです。私たちは最初、これはマルクスの体系と違いはしないかと感じました。一体、スターリンとは何者であろう、弁証的思考の代りに形式論理的な教義があるではないか。
ところがそれに対する答えがおかしいのです。「あの壮大なプロレタリア革命を成功させたロシア人が、われわれよりもマルクス主義の理解が乏しいと考えるのは僭越である。ロシアのボリシェヴィズムはロシア革命運動の経験のマルクス主義的結晶と言わなければならない。スターリンはそのボリシェヴィキ党書記長なのだ。非マルクス主義者をロシアのコミュニストが書記長に選ぶはずがない。日本のマルクス主義が疑問をもつこと自体、まだ至らざるところがある証拠である」と。
このように思い直して、『レーニン主義の基礎について』を勉強しはじめたことを思い出します。つまり私たちは、ロシアの経験を検討の対象として受け取ったのではなく、最初から、無上の真理と思い込む形で随従したのです。その態度は一種の事大主義であり、権威主義であり、マルクス主義的ではない、むしろマルクス主義を修正したかたちでうけとったことになります。しかし、それは後知恵です。われわれは長い間気がつかず、ロシアで形成された「マルクス・レーニン主義」というものを、マルクス主義そのものと認定してきたのです。
それはおそらく、日本がロシアに似たところがあり、政治的自由がほとんど存在してない。国の経済構造もまだ遅れている。イギリス的・フランス的・ドイツ的であるよりは、むしろロシアに近い感じがある。だから、ロシアで成功した実践は日本でも実践運動の基本になりうると判断される根拠があったのだと思います。
スターリン批判は、彼の死後になってやっと可能になり、われわれは、改めて自己の誤謬を感じることができました。しかし、なにもスターリンがわれわれを欺したのではありません。スターリンを信じたのはわれわれ自身の責任です。われわれ自身に、スターリン主義に随従する体質的な弱点があったところに問題があったのではないでしょうか。
1891年から1922年までのレーニンの未公開文献が、2000年になってロシアで発行されました。これで全部か、それともこのほかにももっとあるのか問題は残ります。これの五倍ぐらいの公開をはばかるものがあるということでした。
これを見ますと、レーニンの思想が根本ではマルクス主義に依拠していることは確実ですが、当時の国際状況や国内状況に対応する部分もかなり多いことがわかります。スターリンはそのすべてをレーニン主義として不当に体系化し、しかもレーニン主義を20世紀のマルクス主義であるととらえて、「マルクス・レーニン主義」を普遍的な真理としたのはあきらかに誤りでした。マルクスはマルクス自身にもとづいて理解すべきであって、他のだれによっても理解すべきではないのです。それがエンゲルスであれ、プレハーノフであれ、カウツキーであれ、レーニンであれ、またスターリンであれ、マルクス理解の原点としてはならないのです。
晩年のマルクスが、人々によってマルクス主義と唱えられることに抗議して、自分はマルクス主義者ではないと主張したのは味わうべきことであると思われます。まして、レーニン主義がソ連でうちたてられたのは、元来がトロッキーを排除するための策略でした。トロッキーは、革命前は長期にわたりレーニンの論敵でした。その時代のレーニンの言説をまとめてこれをレーニン主義ととなえ、それによってトロッキーを葬ろうとしたのです。ところが、10月革命とその後、トロッキーはレーニンのよき協力者でした。さきほどお話したレーニン未公開文書には、レーニンがどれほどトロッキーを信頼し、積極的に評価したかを立証する文献がかなりあります。これはこれまで計画的にレーニン著作集、全集から除かれていたことが判明しました。それだけでもこの「レーニン主義」の眼鏡を通さなければマルクス主義がわからないとするスターリンの『レーニン主義の基礎について』を、多年のあいだ日本の共産主義者が信奉してきたのは真理をくつがえすものでした。現にレーニンは1921年になり、内外政策の大転換をやりますが、いわゆる「レーニン主義」はここで転換をとげるのですから、晩年のレーニンを無視しないかぎり「レーニン主義」は消失したものとすべきです。
レーニンの1921年転換の意味
1921年の転換といいますのは、内容的には、従来の「戦時共産主義」の方針を改めて、農民から農産物を取り上げるのではなしに、一定の食糧税として納入させ、余剰の農作物は自由市場で販売することを許すという、市場の存立を前提とする「新経済政策」をとったことです。それが転換の第一です。
その「新経済政策」を採用したのは、今までボリシェヴィキ政権を支持してきた農民が、ボリシェヴィズムに反抗しだし、21年3月にクロンシュタットの水兵の暴動が突発したからです。水兵は農村出身です。農民が武器に訴えてボリシェビキ政権に反対する。ソヴィエト権力は労働者階級と農民の同盟に依拠していたのに、その同盟が根底からくつがえされる恐れが生じたのですから、農民政策を改め、同盟を維持しなければならなくなり、ここに「新経済政策」が生まれたことになります。もう一つの問題は国際政策の転換です。1921年3月のドイツ革命の失敗が原因です。この革命は、ドイツ共産党が社会民主党との十分な協力なしにくわだてた武装蜂起ですが、これが惨敗しました。
1921年6〜7月のコミンテルン第3回大会で、ドイツの「3月行動」の失敗から、労働者階級の多数を獲得する方針がうちだされました。しかし代議員のうちには、ふかく大衆のなかに入りそこに統一を実現する方針よりも、従来の「攻勢主義」を続行する主張もつよかったのです。前衛が果敢な攻勢を開始すれば、大衆はついてくるにちがいないというのです。それを心配したレーニンが、攻勢主義の代表たちをあつめて自説を説明します。「ドイツの3月行動は愚行であった。われわれは大衆のあいだに統一をつくりだす必要がある。そのためには大衆の理解と同意を作り出さなければならない」。
その頃の実状は、共産党を支持するのは労働者階級の少数者であり、大多数は社会民主党の影響下にあったのです。その大多数の労働者の信頼を得るには、思いきった転換が必要でした。そこでレーニンはこれからはもっと「日和見主義者になろう」といったことに深い意味があります。それまでレーニンたちは、社会民主主義を資本主義のイデオロギーと考えていました。社会民主主義を解消することなしには社会主義への道は開かれないと確信していたのです。「日和見主義」とは、打倒されるべき社会民主主義になげつけられた悪罵のコトバでした。もっと日和見主義的になるとは、そうした社会民主主義と手を結ぶことです。そうしなければ社会民主主義の影響下にある労働者大衆と手を結ぶことはできません。それはボリシェヴィズムの全面的見直しをさえ予想するものです。スターリンたちがレーニンのこの「日和見主義」演説をながいあいだ秘匿したのは、レーニンにたいする反対を意味することになるのです。「これからはもっと慎重にやろう、もっと右寄りになろう、もっと日和見主義的になろう」と彼らに語らなければならないとまで強調し、やっとコミンテルン内の急進派を説き伏せて方針の転換を賛成させることができました。これが1921年の転換の第二です。このときのレーニンの談話とそのメモがスターリン時代には秘匿されていました。
その前の1918年にポーランドの軍事闘争にロシアは敗北しました。1920年9月の共産党全国協議会でレーニンは、ポーランド戦の敗北の原因は、土地私有を固執するポーランド農民の民族主義に敗れたことだと認めてはいますが、そのために方針を変更する可能性は全く見られません。この演説も今回はじめて全文が公表されたのですが、20年のレーニンは21年のレーニンと明らかに区別されます。1921年の転換はソ連共産党の歴史上きわめて重大なものでしたが、それは多分に、変化した世界情勢によって迫られた側面がつよいことが感じられます。明確な理論的処理の側面は微弱であって、いわばプラグマティックな針路変更でした。その理論的解明はそれから十数年のあと、ムソリーニの獄中にあるグラムシを待たなければなりませんでした。
グラムシはこう言っています。「1921年までは、ロシア人が採用する戦術は世界史的にいえば機動戦の連続である。しかし21年の転換は、明らかに機動戦から陣地戦への転換を意味するものであった。ただ、すでに病床にあったレーニンは、それを理論的に深める余裕を持たなかった」。つまり、原理的に反省するところまでは行かなかったのです。
(注)グラムシ『獄中ノート』で「イリイッチは、17年に東方〔ロシア〕に適用して勝利した機動戦から、西方でただ一つ可能であった陣地戦への変更が必要なことを理解していたように思われる・・・・・・ただイリイッチは、かれのこの定式を深める時間がなかった。」[邦訳『獄中ノート』1992年、193ページ]
グラムシはまた「受動的革命」を論ずるなかで、「1789年から1870年までのヨーロッパでは、フランス革命で機動戦がたたかわれた。現代では、1917年の3月から1921年3月まで政治的に機動戦があり、陣地戦がこれにつづいている」と述べている。(前出『獄中ノート』132ページ)。
私が時々グラムシを持ち出すのは、グラムシの『獄中ノート』の大半は、ソヴィエト共産主義に対する理論および政策上の批判だったと思うからです。例えば『獄中ノート』にソヴィエトの理論家のブハーリンに対する批判がありますが、ブハーリンを批判したということはコミンテルンの公式イデオロギーとして批判したということであり、細かい言及をみても、だいたい、スターリンおよびスターリン陣営にたいする批判と解釈したほうがいい問題がたくさんあります。そういう意味で私は、グラムシ理論はコミンテルン方式に対する根本的批判の書として受け取ってよろしいと思います。ロシア革命は、本来のプロレタリア革命として展開されたのではなくて、非常に不十分なかたちで状況に恵まれて革命は成功できたけれども、本来の社会主義革命としての成果を上げるには至らなかったのです。
その成果を上げるためにいかに行動すべきかという点では、レーニンはすでに晩年であり、レーニンの「遺言」といわれるものが22年に何篇かありますが、この「遺言」は、医師の指示により、1日30分を限度としての口述筆記です。時間的に制限されていることと、相談すベき者は夫人のクループスカヤしかおらず、健康人の論文のように意を尽くしたものではありません。レーニンはスターリン批判をやろうとして、ブハーリンやトロッキーに援助を求めようとしますが、うまくいかなかったのです。
近年「トロッキー・ペーパーズ」が公表されましたが、レーニンの依頼に応じてスターリンにたいする処置をすべき政治局会議の決議は、レーニンの意向にそわなかったことがわかります。決定的な瞬間にも、レーニンの意を受けてスターリンと闘うということは、トロッキーにも困難であったようです。レーニンの考えた転換を、同志たちが理論化していく必要があるのにそれは可能ではなかった。レーニン一人が突出しており、しかもそれがかなり経験的にとどまっていたわけで、これを集団の作業として明確に理論化することはできないのが実状でした。
レーニンが亡くなると数年のうちに、レーニンの政策は元の「戦時共産主義」の方針に逆戻りし、「新経済政策」も廃止になりました。そういうことで、その後のロシア革命は、グラムシが言う意味での受動的革命の段階に陥って、社会主義的な積極的な前進はもはや見えなくなります。
社会主義はもともと世界的にしか成立しないのですが、その世界革命が事実上、近い将来には期待できなくなります。スターリンは、社会主義は少数の国ないし単独の一国でも可能であると考えましたが、これは事実上の社会主義を断念したに等しいことになります。世界革命の指導体であったはずのコミンテルンは、実際にはソ連の外交政策の道具の役割しか果さなくなり、それすら1943年6月についに自己解体をとげてしまいます。われわれが研究する場合、そのへんのことを当然気づくべきでしたが、長い間気がつかなかったのです。戦後の昭和30年代になって、はじめてグラムシの『獄中ノート』を見て、やっと1921年の転換を理解したことになります。
1921年のレーニンの転換提唱が社会主義運動史上きわめて大きな意味をもつものですが、それでさえまだ大きな欠陥を蔵していたのでした。1922年11月13日のコミンテルン第4回大会で、レーニンはコミンテルンでの最後の演説のなかで次のように告白しました。第3回大会での転換を実現するための組織活動について、大会で長文の決議を採択しました(「共産党の組織的構成、活動の方法と内容に関する決議」)。「だが、あれはもっぱらロシアの経験にもとづくもので、外国人にはわからない、わかっても実行できるものではない。あまりにロシア的であった。あれでわれわれは、“みずから今後の成功への道を断ってしまったという印象がある”。ロシア革命から5年たったが、やっと今、学ばなければならないことを覚った。それもはじめから学びなおすことである。もしそれができたら、世界革命の前途は有望になるかもしれない」、と。これはレーニンの遺言の一つ、しかも重要な遺言になります。
「永続革命」から「市民的ヘゲモニー」へ
ロシアの経験だけでなく、新しい国際情勢の本質をはっきりととらえる必要があったのです。1917年のロシア革命はたしかに決定的な転換点であったが、ロシアの同志たちにとっては、それは旧来の「永続革命」方式として理解されてきました。アントニオ・グラムシは、ここで、永続革命とは何であったかを問います。それは、資本主義の中心部では1789年のフランス大革命から1794年7月のテルミドール反革命までのロベスピエールらジャコバン派の経験の科学的表現でした。それを生みだしたのは、まだ大きな大衆政党も大きな労働組合も存在していず、社会自体がまだ不定形で流動的な時代の表現なのです。ところが1870年いらい、時代は新しい段階に入ります。
新しい社会勢力が登場し、議会活動、産業組織、民主主義、自由主義等々のそれぞれ重要性のあるもの、グラムシの指摘によれば「労働組合現象」が支配的になると、もはや「永続革命」方式は資本主義の周辺部でしか意味をもたず、中心部では、有効性を失った教条に変わっていきます。永続革命の1848年定式にかわって「市民的ヘゲモニー」の定式があらわれてきます。一言でいえば、1870年を境にゼネストや市街戦などの正面攻撃に帰着する機動戦方式は、「今や敗北の原因でしかない」新時代に入っています。おくれて起った1917年革命はこの機動戦からの転化として、市民社会におけるヘゲモニーをうちたてる諸方策を検討する段階に入ったのであり、1921年の転換がおくればせにそれを示したのでした。
機動戦方式で運営されたコミンテルン運動
グラムシはまた、ロシアの1905年革命は永続革命方式がすでに無効であることの一つの証明である、とも言っていますが、1870年をもって、古い時代のジャコビニズム的な方式は歴史的生命を終えます。したがって、ロシア革命は自分の国のおくれた経済構造に規定されて、運動形態としては機動戦方式に発展したけれども、実質的には、21年にすでに世界史的陣地戦に転換を迫られたのです。不運というほかはないのですが、レーニンの死後に元の「戦時共産主義」方式に逆戻りしています。例えば5カ年計画あるいは農業の集団化は、スターリン時代の二つの眼目ですが、あのやり方はまさに機動戦方式そのものでした。グラムシはそのように見たのでしょう。
機動戦方式で運営されたコミンテルン運動が不発に終わったことは、それだけの理由があったのです。そのことの反省が、獄中のグラムシによって書きとめられましたが、それが獄外に伝えられたのは1950年代末、わが国では60年代に入ってからでした。
そういう意味で、「労働組合現象」という言葉は、本来は、イタリアのリソルジメント運動を見ていくうちに考えついたことでしょうけれども、グラムシはそれを、時代を判断するひとつの基準としてロシア革命史にも適用したものです。それは一国的現象と国際的現象との絡み合いも確かめるのに有用な基準ですが、ロシアの理論家が見落としたのは不幸なことでした。
ここですこし立ちどまり、われわれ自身の体質について考えたいのです。それについての避けて通れない問題の一つは、「転向」のことです。一般に転向とは、政治運動における屈折、妥協、投降などよくみられる現象であり、いつでも運動者の節操が問われる問題です。日本共産党の場合、昭和初期に大量の転向者を出したのは、このような一般的傾向とは異なる意義があったのです。
戦後の共産党内でも、戦前の転向者の大量復帰があり、多くはそれが認められました。しかし再入党後の党内では一般党員とは区別され、たとえ能力があっても、転向の経歴のある人は責任のある地位、わけても中央委員になるのは至難のことでした。なぜなら転向者には節操上の弱点、困難に対する持久的抵抗力の欠乏その他のマイナスがあるとされたのが事実でした。
しかし、ここに問題があります。昭和の転向は節操や耐久力など道徳的欠陥のある下部党員から生じたのではなく、もっとも能力のある志操堅固のはずの最高指導部から発生したのです。まれにみる激しい弾圧のもとでも、下部の党員はなお闘う意志をもっているのに、それまで無条件で信頼していた指導部が権力の前に降伏し、なお闘志を擁する党員を背後から攻撃したことになるのです。方途を失ったこれらの大衆的党員は、止むなく刑の軽減をはかるために上部の降伏宣言を支持したのでした。指導者、たとえば鍋山貞親はこれらの便乗転向をつよく非難し、自分たちが純粋な転向者であると主張しました。私はこの人から直接にこの主張を聞かされています。
転向がこのように薄志弱行の部分ではなく、思想的にも組織的にももっとも強靭で多年国家権力との闘争で鍛錬された部分から生じた以上、転向の最大の原因は党指導部と上部機関であるコミンテルンとの対立に求める外はありません。コミンテルンが課した戦略にたいする共産党の反発がなければ、あの大転向は生じなかったでしょう。端的にこの対立は天皇制と戦争の問題をめぐって爆発しています。日本帝国主義の中国侵略戦争にたいする反対は、コミンテルンの指示の有無にかかわらず、共産主義者でない社会主義者でも、それどころか自由主義者でも示しうるところです。それがある段階で、まず共産主義者が支持に転じたのはなぜでしょうか。
おなじことは天皇制についても言いえます。党は創立の当初から君主制廃止を至上の命題としていました。すくなくとも表向きには、この命題に反対するものはありませんでした。しかし、それを国民大衆のあいだで実行に移す段になると、動揺があり逡巡があり、回避が生じています。1923年の関東大震災後における解党、その後の再建共産党内における消極派(それは労農派として結晶)の存在がありました。治安維持法第1条の、国体変革にかんする罪とはこの天皇制廃絶を対象とするものでした。
戦争と天皇制は不可分の関係でしたが、この二つのものを行動に移すにあたり、国民の支持がえられないことが、これらの消極意見のよりどころでした。国民のつよい支持があればいかなる弾圧にも抗し、一貫して戦うことができたかもしれませんが、国民から孤立して、前衛集団だけで事を起す自信がなかったことが、転向における最大の動機となったと思われます。
なかった「天皇制」への陣地戦的対応
天皇制廃止のスローガンは何を要求したのでしょうか。この実現には長期困難な活動を要する以上、さしあたり、このスローガンを国民のあいだで宣伝することにとどめるか、それとも、即時宣伝以外の具体的行動を求めるのか.その点が必ずしも明らかでなかったのです。たんに宣伝にとどめるにしても、非合法手段によるほかはないが、具体的行動となるとどんなことが考えられたでしょうか。この点1927〜28年段階の党員にはほとんど知られていなかったのです。
この当時の国民精神としては天皇崇拝は強固なものであり、これにどのように共産主義者は対応できたのか、おそらく明確な見通しをもつものはなかったのではないだろうか。共産主義者のあいだでも具体的に考えるものはなかったであろう。日本史上の必要知識をもったものもきわめて乏しく、何から始めるかもさだかでなく、いわんや国民にわかる言葉など持ち合わせていなかったのです。コミンテルンにしても大差はなく、せいぜい彼らの知っているツアーリズムとの類推によって、これを絶対主義と規定するだけで日本における反天皇制活動の困難性はあまり深く考えていなかったのではないかと思われます。
逮捕された共産主義者は、君主制反対のスローガンを支持する点では共通であっても、その具体的内容となると各人各説で、ほとんど一致がなかったことは明らかです。それだけのことで長期刑に処せられるのは、いかにも馬鹿げていると感じたものも多かったでしょう。それなのに、党指導部も、ことによるとコミンテルンも天皇制問題の複雑さを軽視していて、責任は個人としての党員に移されます。1930年代はじめまで、つまり32年テーゼまで、党は君主制をふくめブルジョア民主主義的要求に興奮する小ブルジョアジーの性癖に警戒心をもっていたのであり、一般に民主主義の歴史的役割を軽視し、プロレタリアート独裁のための本来的闘争段階へのほんの過渡的な意義しか認めていなかったのでした。
コミンテルンの方針における一種のアポリアは、方針自体が前時代的な機動戦方式に依拠するため、日本の君主制を適切にとらえにくいところにあると思われます。君主制は、形態では封建性あるいは非ブルジョア性の産物にみえるが、その内実では半ばブルジョア化した日本近代に適合していたと考えることもできます。
この場合、ツアーリズムとの類推は適切ではありません。日本型の陣地戦としての君主制が考えられるとすれば、コミンテルンによって理解されていた廃止戦術でなしに、「復古−革命の弁証法」が登場します。それがどのように出現しうるかを論じた人もすくなく、「コミンテルン−日共方式」にたいするオルタナティヴを検討すべきなのです。そして、このオルタナティヴを積極的に提示できないところに転向現象が影をおとしたとも考えてよいのです。30年代に考えられなかったのは止むをえないことですが、20世紀末の今日、それを考えないのは怠慢ではないだろうか。
いずれにせよ実現性に欠けるスローガンのために、獄窓に朽ちてゆくことを人びとが拒否したとしても、それを節操の問題で処理するのは政治的ではありません。
ことに日本共産党の場合、32年テーゼ以来、一方ではこのテーゼを金科玉条として崇めた党が、国民大衆からまったく遊離しており、しかもその指導部に検察当局直属の大物スパイがいたとき、または中央委員の半数がスパイ嫌疑をかけられているとき、党とは一体なんであったのか、この党は献身に値するものであっただろうか。
これとは直接の関連はありませんが、戦後の共産党もこれに劣らない厄介な問題を抱えています。それは野坂参三間題です。この人は、はたして何であったのか。一貫して彼方の人であったのか。途中から彼方へ移ったのか。そのあたりがまったくわからないのです。彼が最高幹部として全党を指導していた時代に、彼を推重することによって自らも指導部に入った人物はどこまで信頼してよいのだろうか。不問に付するにしては重大すぎる疑問が続出します。党とは何であるか。それは指導者集団のことであるか。それとも指導される一般党員の集団であるのか。
交替するさまざまな傾向の指導層とちがって、一般党員群には管理者的行政官的手腕も、イデオロギー的な冴えも乏しいかもしれません。しかし、この人々は黙っていても意見がないのではない。彼らなりに感じ、願望しているのです。この群は、不定形に見えるけれどもいわゆる党の地盤を形成しているのです。そこに生れるさまざまな見解と要求を長期にわたって研究した例はあまりありませんが、しかしそこにある生命が、本来の政治を表現するようにみえます。そこに降りてゆかなければ、君主制の姿もわからないと思われるのです。
コミンテルンは、犠牲のみ多く効果に乏しかった反君主制のスローガンをどう評価していたのでしょうか。うがった意見によると、ソ連共産党は反君主制のスローガンによって日本帝国主義に打撃を与え、帝国主義者によるソ連への攻撃を軽減することができればよかったと言います。損害はたしかに大きかった。しかし、損害を伴わない革命運動などは考えることはできないのです。この意見は多分に中国的ではありますが。戦前における転向の発議者であり、以来反共主義の名士となった鍋山貞親氏に、日本共産党が多数の犠牲者を生みだしたことは痛ましい限りだと述べたところ、氏は怪訝な面持を見せたのでした。
最近、共産党の不破哲三君が『日本共産党の歴史と綱領を語る』という本を作りました。この中で、レーニンのやったことはよかったが、スターリンは間違ったと言っていますが、これは歴史の評価としては単純化した嫌いがあります。
レーニン自身が1921年に転換したのは、みずから新しい立場に移り、それまでの社会民主党反対の方針をあらため、労働者階級の統一を実現するなど、市民的ヘゲモニーの運動を開始しようとするものであり、これまでのソヴィエト権力のスローガンにかえて、労働者農民の政府のスローガンをかかげています。これならば社会民主主義と協力する前提が成立することになります。レーニンの没後、「新経済政策」の続行を主張する人びとは右派と認定されつぎつぎに姿を消しました。
新しく指導者となったスターリンは「新経済政策」を廃棄し、強権政治を柱とする5カ年計画とコルホーズ化計画を実行します。この誤った超急進政策に対して大衆的抵抗が生まれるのは当然でした。ところがスターリンは、社会主義建設が進行すればするほど反動勢力の抵抗もつよまると考え、弾圧を強化し、ついに全国を強制収容所にかえたのでした。それはスターリンの理論の歪みから生じたのではなく、勤労者を敵とする彼の本質から生じたものです。この反マルクス的暴論の典型とも言うべき原書があります。
それは1937年3月3日の共産党中央委員会総会報告「党活動の欠陥とトロッキスト的およびその他の二心者を根絶する方策について」と銘うったものです。これはさすがにスターリン幕僚もひどすぎると判断したのでしょう。その後の一切の党文献には、これをのせていません。スターリン著作集が13巻で中断したのも、この悪名たかい論文が14巻に含まれるための処置であったと思われます。私はこの文献を手にいれるため何年も努力しましたが、ソ連ではついに手にいれることができず、偶然に東ドイツに残っていたものをやっと入手して、1962年に論集『スターリン主義とアルバニア問題』に資料としてのせることができました。分量は400字詰原稿用紙100枚にあたります。この資料があまり普及しなかったのは返すがえすも残念です。
いまごろスターリンの理論的誤りを指摘しても手おくれの感があります。その前に、日本共産党が一貫してスターリン主義を信奉し、それを普及した責任を反省し、現実にそれが党生活に残している結果を除去する必要があります。ついでにいえば日本共産党は、スターリン批判には熱心ではありませんでした。くり返して言いますが、日本の共産主義は体質的にスターリニズムに同調するところがあります。その根源にさかのぼっての自己批判はこれまでなされたことはないように思います。間違ったのではなくて、1921年の転換後のレーニンは20世紀的市民的ヘゲモニーの陣地戦への接近として、今日もなお評価すべきですけれども、スターリンがレーニンを継承できずに、軍事的方式に等しい権力志向によって前世紀的機動戦方式に逆戻りして21年の転換を否定したという点で誤っていると言い換えるべきで、そうではなしに善玉と悪玉に区別するという整理は、成り立ちにくいと思います。
たしかに市民社会的要素の希薄なロシアでは、上部構造を極度に緊張させることによって補う必要がありました。それは歴史的に止むをえないことであったかもしれません。しかし、それだけでは世界史的方向と結びつくことはできません。そこでは上部構造を下部構造に密着させる可能性を発見し、新しい民衆文化をつくりだす必要があったのです。昨日の共産主義者が今日の「日和見主義者」にならなければならなかったように。だから憲法制定会議を解散したり、メンシェビキや左翼SR(エス・エル)を敵に回すのではなく、これらの統一戦線をつくるべきであったという認識に達したに等しいのです。レーニンが苦心して指導してきた党が、レーニンの道に立てなかったのはたんにレーニンの理論的誤謬を追及することにはならないと思われます。あの段階でロシア革命は取り返しのつかない失敗の道に入り込んだのですが、善玉・悪玉だけでは、ロシア共産主義における民主主義の過小評価ということの批判は、出てこないと思います。
そういう意味で、われわれがロシア共産主義を受け入れた時に、これを金科玉条として無批判で受け入れた。無批判で受け入れることは、心情的には説明できないことはないのですけれども、昔から日本の共産主義者は、第2インターナショナルのいろいろの方針を受け入れる場合にも、第3インターナショナルにしたがっていく場合にも、同じような態度で受け取りました。すなわち、これを一つの点検すべき理論体系として受け取らないで、感性的に、激烈なる、巻き込まれた変動として受け取る、つまり、論理として受け取るのではなしに、情緒として受け取るという体質があったわけです。
この弊風は戦後にもつよく残っていました。たとえば主流派と国際派の分裂を反省し、新しく統一を実現するために開かれた第6回全国協議会(六全協、1955年7月)は、同時に参加者全員が一致して51年綱領を再確認しています。この綱領が極左冒険主義の源泉の一つであることを知らないものはありません。それを確認した人々はすべて、極左冒険主義を再確認したことになります。なぜでしょうか。それはこの綱領の作成に直接スターリンが関与し、ある部分は彼自身書き加えたためでしょう。個人崇拝をやめるという口の下から、スターリン崇拝を宣言するとは滑稽を通りこして悲惨です。宮本顕治氏は能力のある共産主義者ですが、六全協での誤りを公然と全国民の前で自己批判したことがあるでしょうか。
51年綱領は理論的にも最低なものです。この綱領は「日本共産党の当面の要求」として発表されたものですが、その編成と構造が、日本より一年おくれて公表された「ドイツ民族再統一綱領」と瓜二つです。私はそれを対照表にして1964年に三一書房発行の新書『日本共産党批判』の解説代わりに寄稿しています。書房は私の名を佐山信次郎と改めているので気づく人は少なかったのです。日本と西ドイツは地理的にも歴史的にも大いにちがっているのに、どうしてこうまで似たものに仕上げたのかわかりません。スターリンの知見の程度が丸見えです。奇怪なのは日本共産党がソ連共産党と不和になってから、綱領へのスターリンの参加を内政干渉といって攻撃していますが、その前に、ソ連一辺倒であったっことの自己批判をすべきだったのです。六全協は絶好の機会でした。19世紀のヨーロッパでは、支配階級にたいする闘争はしばしばバリケード戦の形をとりました。事あるごとに市民はバリケードをつくる、それがほとんど日常的なことでした。そのような力関係のもとでは、階級間の権力移動と新しい権力の擁護のために、権力装置としてプロレタリアートによる独裁の理念が当然に生まれていました。しかし「労働組合現象」いらいその力関係が一変し、新しい政治原理が現れる。いやヨーロッパの主要な社会党は議会制のなかで権力移動をはかるようになっていました。日本でも戦後にはその転換が可能でした。
その戦略転換を、国民の前に説明しなければならなかった。そのための努力をしないで、「Diktatura」の訳語として「独裁」では不十分であるとして、政治戦略変更の問題を訳語の問題にすりかえ、執政とか執権に改めようというのです。まるで北条時宗の時代に返ったような話で、これは訳語としてはもっと拙劣であり、あいまいになります。大きな原則的転換を小出しの、なしくずしの小さな技巧で解決するのは保守勢力の常套手段です。
ですから実生活のなかでは、もう30年も前から社会民主主義政策をとりながら、党内の規律、分派の禁止というような点は、依然としてプロレタリア独裁論の支配する古い時代のボリシェビキ的なものを残しているのです。共産党という党名も本当は変えるべきだと思います。つまり1990年いらい、歴史的な共産主義は死滅しています。その歴史的共産主義をのりこえたというなら維持する理由について説明があるべきです。旧名称を変換したら、それを憚るにあたらないのです。
日本共産党の成立以来の運動をみますと、いろいろ大きなチャンスを逸している段階があると思います。例えば、大正デモクラシーは運動を全く評価していません。大正デモクラシー運動の中心になるのは、都会のプロレタリアートの変動もありますが、農民闘争の変化があります。この農民闘争は、最初のうちは小作料の減免を中心とする経済的要求でしたけれども、その頃の共産党は、大土地所有の廃止というスローガンを与えています。
しかし、日本では大土地所有は存在しておりません。ロシアの2000人、3000人の農奴的農民を抱える大きな領地経済は、日本にはあったことがない。日本には圧倒的に零細土地所有制度があり、その零細土地所有と闘うのに、大土地所有の廃止のスローガンをかかげています。そうすると、寺社の土地とか御料地とかは別にして、日本の農村の生命をなす小土地所有には手を着けないことになります。
ところが大正時代の農民運動を通じて、運動の中から小土地所有そのものをも廃止しなければ、貧困の農民は救済できないということが実践的に明らかになってくる。農民の闘争は、土地所有そのものの廃止に進みはじめていたのです。この時代、昭和恐慌下で小地主は経営を拡大するために小作地を引きあげはじめます。こうして農民闘争は「大土地」どころか一切の土地所有と戦うことが当面の実践的課題となってきました。だから実践的には日本の社会主義にとって、保守支配下の農民大衆を革新の方向に組織する最大のチャンスが来ていたのに、コミンテルンも共産党もこの契機をとらえることができなかったのです。
ことに日本共産党は民主主義を過小に評価し、君主制問題を含めて民主主義の諸要求に興奮するのは小ブルジョワジーであり、プロレタリアートは急進的に、プロレタリアート独裁の闘争に邁進すべきだと確信していました。
急進的変革を熱望するあまり、変革の条件の検出と造成の代わりに、多分に空想的情熱的なカタストロフを願っていたことになります。日本にとって非常に不幸なことは、国内矛盾の解決を、社会改革の方法によって実現することを怠ったことで、その隙間に支配階級、とくにそのなかの軍部が国内の議論を対外に転嫁させる、海外侵略に転嫁することに成功したのです。
「満州事変」を準備する軍部の世論形成
ここで、昭和に入った1930年のことをちょっとお話ししようと思います。
私は当時、身体を悪くして田舎で療養していました。ある日、町の公会堂の前を通ったら、「時局大講演会」という立て看板が出ていました。入ってみると軍部直営の演説会で、この町は人口1万5000もない小都市ですが、近郷近在の農民たちが動員されて、町では見掛けない日焼けした顔で満員でした。
これに対して、名前は忘れましたが陸軍省から派遣された制服の少佐が何を話したかと言いますと、「日本の農村はいま非常に窮乏している。ことに1929年から始まった世界恐慌の影響は農村において最も激しく爆発しており、農村の娘の身売りのような悲惨な出来事が相次いでいる。電気代も税金も払えない。都会の失業者が農村に帰ってもメシにも困り、今や農村は窮乏のドン底にある」と嘆きました。そして、「これは思い切った手段で解決しなければならないだろう。農民組合の左翼は土地の平等分配を要求しているが、もっともなことである。しかしかりに、今の日本の全耕地を全農家に平等分配してみても、分配額は農家1戸当たり5反歩にしかならない。5反歩の経営では貧農の条件を脱出することはできない。諸君は5反歩の土地を持って、息子を中学にやれるか、娘を女学校に通わせられるか。ダメだろう。税金を払うのも困難だろう。日本は土地が狭くて人口が過剰である。このことを左翼は忘れている。だから、国内の土地所有制度を根本的に改革することでは改革はできない。ここでわれわれは国内から外部へ眼を転換しなければならない。満蒙の沃野を見よ。あそこには無限の耕地が広がっている。他人のものを失敬するのは褒めたことではないけれども、生きるか死ぬかという時には背に腹はかえられないから、あの満蒙の沃野を頂戴しようではないか。これを計算してみると、諸君は5反歩ではなしに一躍10町歩の地主になれる。つまり旦那衆になれる。民族として生きるためのただ一つの選択だからこれをやるしかないのだ」。
つまり国内改革、すなわち内部矛盾の解決は客観的条件がないから、対外的侵略で急場を免れようと、露骨に宣伝するわけです。自分が困ったときは他人から物を奪ってもよい。それが正義だ。それを国家権力の象徴のような軍人が堂々と煽動するのです。軍部はもっとも賎しい欲情をあおりたて、国民精神の改革を実行するのでした。このことを強調するのですから、その後の中国大陸における日本兵の無慙な反人道的行為は理の当然なことになります。ところが、戦後になってそのことを友人の歴史学者に話しても、あまり取り合う人がない。調ベてみると、年表にも新聞にも雑誌にも、軍部がそのような大宣伝をやったということは書いてないのです。そんな歴史的事実はなかったのではないか、ということです。
しかし、私はいろいろなものを発見しました。ここにあるのは、学者はあまり援用しませんが、軍部が出していた『偕行社記事』という月刊誌です。
これを見ますと、軍部は演説会を全国で1866回もやり、165万5000人の聴衆を組織することができたと出ています。だとすれば東京でも200回近くの演説会をやっただろう。その時の講演の内容が、陸軍省から『国防思想普及参考資料』として出ています。私が持っているのはその第1集で、さすがに印刷物ですから「他人の懐に手を突っ込んで頂戴しよう」というようなえげつないことは書いてないけれども、「満蒙は日本の生命線で、満蒙の土地をわれわれが支配することによって生活できる」ということを書いています。これを書いているのは陸軍省の課長クラスです。これを数万部全国にばらまいて、それをタネ本にして、だいたい少佐と中佐の左官クラスですが、将校たちが全国的に大宣伝をやっていたのです。私が手に入れた中で一番ひどいのは『偕行社記事』の付録の一つです。「特秘扱」になっていますが、昭和6年7月、満州事変が起こる2カ月前に、参謀本部第2部長の建川美次少将が、人口と食糧、土地分配の問題で、満蒙が日本にとっていかに重要であるかというような、かなり際どいことを書いています。
満州事変が起るとこれを抑えるために、陸軍中央部は建川美次を満州に派遣しました。当時の新聞や雑誌を見ると、「止め男」として派遣したと書いてありますが、止め男か煽動に行ったのか分かりやしない。戦後50年たってもこの種の文献が入手できるのですから、1930年当時は、この種の印刷物が渦をまいていたことが想像されます。軍が中心になってこんなものを数万部作り、千数百回にわたり演説会をやって与論の形成に努めているのに、左翼はいかに反応したか――。日本共産党は組織を維持するのが精いっぱいで、「アカハタ」も正規に発行することさえ困難で、大衆動員には全く非力で、政治的に無視可能な存在になっていました。社会党系の一部には民族主義的に転向する動きが出てきて、反戦の全国的な大キャンペーンに対応することなど夢のようなものでした。それでは中産階級のこれに対する反対運動があったかというと、そういう機能はありません。
考えてみると、軍服を着ている、つまり武器を持っている軍人に対して正面から反対するということは非常に危険でした。その頃の軍部は自分の気に入らない者を暗殺する。あるいは気に入らない内閣を倒すために、3月革命とか10月革命とかのクーデター計画を公々然と宣伝する。陰謀が露顕しても罰されない。このなかでその軍部と戦うのは容易なことではありません。
そういう段階ですから、満蒙侵略に対して心情としては賛成できなくても、行動によって反対の意思表示をすることは生命の危険を伴ったというのが実状でした。「反対しなかった」のではなく、「反対できなかった」のです。だから、軍服を着た軍人が堂々と人間の最も卑しい欲望に訴えて、「貧乏した時は盗むのも正義だ」というようなことを喧伝しました。それが農村の窮乏化と自然と結合することによって一種の侵略の与論が出来上がっていって、1931年9月18日に満州事変をはじめます。
満州事変は、軍部の陰謀として突然起こったのではなく、ちゃんと与論を形成するという努力を1年間続けて、だいたい与論の形成に成功したという時に行動を起こしたことになります。満州事変当時の、日本の国民道徳の水準はどの程度かが問題です。「窮すれば盗むも可なり」ということですが、これは国民精神の堕落だと思います。軍部は国民精神を堕落させることによってしか戦争を始めることができなかった。このことを私たちはよく記憶しておくべきだと思います。
軍部は、国民の一部に反対があっても、戦争を始めてしまえば「仕方なく国民は軍部についてくる」という確信をもっていたらしいのです。参謀本部の四手井少将はその著書『戦争史概観』(1943年)のなかで、日露戦争前の話ですが、小村外相の言として「日本人は鉄砲玉一つ放ったら、後からついてくるのは心強い」と述べています。
関東軍の暴走を抑えたはずの陸軍省は、9.18事変に使用する大砲2門を現地に送り込んでいました。軍部の方がうわ手でした。日本の学者は大体が極めて寛大であって、こういった事実をだれも言わないのは、どういうことであろうかと思います。
私は今日、『難忘的中国』(忘れ難い中国)という中国語の本を持ってきました。皆さんご承知と思いますが、中帰連(中国帰還者連絡会)という旧軍人の組織があります。本来ならば全部死刑になってもやむをえない残虐行為をやった人たちが、戦犯として中国・撫順の戦犯収容所で何年間か再教育されて、帝国主義的侵略の精神から平和的な共生の精神に転換しえて、無事日本に帰ってきました。その人たちがつくった会で、会長は、第117師団の師団長であった藤田茂中将です。その人が団長になって1972年に中国へ旅行した時に、周恩来が出てきて、ナポレオン戦史について以下のように述べています。「戦史」とはおそらくクラウゼヴィッツの“戦争論”(彼には1812年のロシア戦役史もありますが)のことでその中国語訳の−本を示しながら話のように思われます。以下“難忘的中国”(“わすれがたい中国”)の中国文からの訳文。
現在世界の各国はみな『ナポレオン戦史』を研究していますが、それはまた何故でしょうか。あのナポレオン戦史は、すこしも修復されておらず、悪いところは悪いと書き、善いところは善いと書いています。この一冊は、是と非の明らかな戦争史であり、したがってこの戦史についてナポレオンのもっとも卓越した優点をとらえることができます。それゆえ、この戦史は今なお多くの国の軍事家たちから重視されており、この中から当然教訓を汲みとるべきです。ある国々の軍隊がこれらを模範としてとりあげ研究しているのは当然です。それが今日の軍事趨勢です。
日本は戦争を終えてから30年近くなりましたが、しかし私は何冊か日本で最近に出版された戦争にかんするいろいろな本を読みました。あるものは戦史、あるものは戦地の実録ですが、読後に感じたのは、依然としてあの侵略戦争を美化した内容のものが少なくないことです。これが引きだすべき歴史の結論でしょうか。疑わしくなります。数月前まで国内に“山本五十六”の映画が見られ、また“大陸軍”の映画も見ました。しかしこれだけでなく、すべては軍国主義的英雄伝の称賛であり美化なのです。こうした侵略戦争を知らない若い連中に、あこがれからもう一度このような事をやりたくならせるのは大いにありうることです。
私の知っている東条大将は、総理大臣、陸軍大臣、参謀総長になりましたが、彼の指揮する“大東亜戦争”ははたして出色の戦役だったでしょうか。それは非常に明らかに、きわめて大きな欠陥をもち、そこにはナポレオン戦役にあったのとほとんど同様のきわめて大きな欠陥が現れています。藤田さん、あなたが日本にお帰りになってから、今回の大東亜戦争中、歴史の事実、客観的事実上に符号する戦争史を執筆なさるべきです。あの時期の幕僚たちは大部分年をとり、ある者はもう死去しています。あなたも相当のお年です。がんばらないと駄目です。もしこの分の歴史を正確に総括できないと、誤りをくり返すことになりそうです。
私は中帰連の幹部を少し知っているものですから、このことで話し合ったことがあります。そこで、私は次のように考えていました。「クラウゼヴィッツは、フランス革命後のナポレオンの戦略を詳しく研究していた。将軍ボナパルトはフランス革命の申し子のような仕事をやって、ヨーロッパ近代化のためのメッセンジャーとして活動した側面があります。彼の軍事行動は赫々たる功績を収めました。しかし、彼は将軍ボナパルトから皇帝ナポレオンに、つまり侵略者になってスペインに、またロシアに攻め込んだ。だから、そこに区別がなければならない。ことに、スペインに乗り込むことによって、スペインの全民衆を反フランスに変えてしまった。つまり、日本が中国を侵略することによって、中国の10億の民衆が全部、抗日精神に燃え立つようになった。軍自身が思わずして中国人の統一的な抗日精神を高めはしなかったか」。そういうことが周恩来の念頭にあったと思います。
もう一つはナポレオンのモスクワ侵入です。この時にナポレオンが立てた計画は、兵力・兵站の問題、輸送力の問題とかすべての点について計算した結果、スモレンスク近くのヴィルナをもって軍事行動を終結させる。それから先へ進めば、日に日にフランス軍にとってマイナスの状況になる。たぶんヴィルナを占領すればツアーリは降伏せざるをえないだろうという見通しで、フランス軍の攻勢終末点を決定しました。ところが、ツアーリは民衆を犠牲にして、降伏しないで奥へ奥へとどんどん退却していった。ナポレオンはここで攻勢終末点を延長せざるをえなくなります。それに伴い、客観的には今まで以上の兵站の困難が生じる。つまり、60万の大軍に対する食糧・武器・弾薬の補給はだんだんだんだん困難になってきます。第一に馬糧が無くなる。ツアーリは退却する時に、馬糧になるようなものは隠すなり焼くなりしましたから、占領しても人馬ともに食べるものがない。その上、だんだん冬になって、兵隊は凍傷にかかる。ナポレオンを敗北においこんだのは人間ではなくて冬将軍でした。これも計算外のことでした。やっとの思いでモスクワに到達してこれから屋内で寝られると思ったら、ツアーリはモスクワの家々を全部焼いてしまった。だから、凍傷になやむフランスの兵隊は、占領はしたけれども雪中で露営しなければならなかったのです。
そこでフランス軍は、やむを得ず後退に転じた。しかし、プロイセンの国境を越えてフランスに帰り着いた軍勢はわずか5万人で、55万人を戦わずして失ったわけです。こういうことがありましたから、クラウゼヴィッツは、「攻勢終末点の任意変更はやるべきではない」と言っています。
石原莞爾の攻勢終末点の変更
それと同じことを、日本人が中国でやりました。満州を占領したときは、石原莞爾参謀は山海関をもって攻勢終末点としていました。山海関を越えて中国本土に出れば、蓄積したところの武器・弾薬を消耗することになり、そのあとに控える対ソ戦争や、世界終末戦計画は困難になると計算していたのです。ところが、蘆溝橋事件が起こると、石原は自説を変更して三個師団追送を承諾します。ここで指導部の分裂があらわれ、そこで攻勢終末点の他動的延長が始まります。黄河を越え、揚子江を越え、重慶まで攻めなければならないことになりました。そのことによって、中国の10億の民衆を全部抗日の陣営に追いやっただけでなく、攻勢終末点を今度は国民党政府の計算に基づいて受動的に延長して日本は自滅してしまったのです。そのことをどうして東條大将は考えなかったのか。これが周恩来の疑問でなかったかと想像されます。
そこで私は、クラウゼヴィッツのことを調べると、彼は『戦争論』を書く前に大いに哲学の勉強をやっているのです。カントの親友でもあり、カント理論の総括をしたようなキーゼヴェッターの本を丁寧に読んでいます(J.D.C.C.Kiesewetter.Grundriss
einer allgemeiner Logik nach Kantischen Grundsaten,1802
『カントの原理による一般論理学綱領』)。
カントは、『純粋理性批判』や『判断力批判』のほかに「永久平和論」を書いています。それらを読んだ上で、いわば方法論的基礎を持つて『戦争論』を書いている。したがって『戦争論』は、レーニンたちの弁証法的思考の標本になるようなものだということがいえます。石原のイデオロギー的基礎は何であるかというと、田中智学的な偏狭固陋・排外主義的な日蓮理解が原点です。しかも、日蓮は中世の人です。私はマルクスの1869年の言葉を思い出さずにはいられません。「19世紀の社会革命は、その詩を過去から汲みとることはできず、未来から汲みとるほかはない」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』国民文庫版21ページ)。一方は近代の批判精神に基づいた『戦争論』。他方の石原は古びてしまった日蓮を田中智学的に解釈したものです。北一輝も田中智学の弟子ですが、日本の右翼はなぜ、自分たちの思考の原点を現代に置かないで、後ろ向きの中世に置いたのだろうか。
周恩来の話をしたついでに、もう一つ周恩来の大慶油田発見の話をします。戦争中、日本が南方行動をはじめると、アメリカが日本を抑制するために石油の輸出を禁止します。石油なしに日本の飛行機や軍艦は行動できません。そこで昭和16、17年の2年にわたって、満州国政府と満鉄が協力して大規模な資源調査をやりました。その資源調査は、一つはウラン鉱がどこかにないかどうか。もう一つは石油資源です。もし満州に石油資源が見つかったら、南方のボルネオやスマトラの石油を取りに行く必要はなくなる。もし日本が南方行動に出なかつたならば、アメリカと日本との戦争の原因はなかった。したがって、石油を探すということは、日本帝国主義にとって死命を制するような大任務だったわけです。2年続けて探索しましたが、一向に見つからない。北満のジャライ・ノール地方は、地質学的に石油層が存在する可能性が強いというのでいろいろと試掘を試みたけれども、いかにしても見つかりませんでした。
戦後、周恩来は「戦前、日本人があそこで石油を探していたのは根拠があるのだろう。われわれの手で探そう」と言ってやったら石油が見つかった。それは中国人の大きな喜びでしたから「大慶油田」と名前を付けたのです。科学的技術的に進歩しているはずの日本人の専門家が二年間調査して分からなかった石油資源が、戦後ではあるけれども、なぜ、それだけの条件に恵まれていなかった中国人によって発見できたのでしょう。周恩来に匹敵するような政治家が、戦前の日本には一人もいなかった。そういう人間が出にくいような体制の日本でした。それに対して、中国はそういう人間が抬頭しやすい体制の国であつた。日本人の愛国心と中国人の愛国心にこれだけの違いがありました。これは戦後、日本人が中国論を展開する時に忘れてはならない重要なことです。
明治以来日本人は、中国を後れた国だと軽蔑しました。民族的な優越感は日清戦争にとって必要な条件でした。福沢諭吉口癖の「ちゃんころ」に対する侮蔑は持前の排外心の表現でした。しかし、中国人は侮蔑に値するのか。彼らは日本の明治維新以後、三つの革命をやっています。
第一は、辛亥革命で清朝打倒に成功したことです。日本人には、辛亥革命に値するようなことは、明治維新以来、今日までなにもやっていません。その次に、北洋軍閥を中心とする清朝に代わる軍閥政治みたいなものが出来ますが、孫文が出てきて、三民主義原則に基づいて国民革命に成功する。この三民主義には、社会主義ロシアと連合しなければならない(聯魯聯共)という一項が入っています。中国の民族主義は日本の民族主義と違って、もっと新しい次元との接触点を持ち、国民革命の成功の原因になったと思います。そして20年と経たないうちに、今度は毛沢東集団が出てきて新民主主義革命を成就させました。このように、中国人はすでに三回の前進的な大革命をやっているわけです。
ところが日本人は、ただの一回も革命をやることができない。明治維新以来今日に至るまで、日本の国民的な反動政権は一つも変わっていないのです。今度の太平洋戦争で、日本軍は中国人をおよそ2000万人殺したということになっています。あるいはもっと多いかもしれません。これは偶然の誤りではなく、満州事変に国民をひきいれるにあたり、軍部が自分の困ったときには「他人から奪うのが正義だ」と宣伝した精神の必然の結果です。2000万の人間を殺したことに対して、日本は国民的謝罪はやっていない。田中角栄が行って「遺憾だった」と言ったけれども、遺憾なのは向こうであって、こっちが遺憾とすることではありません。
日本人は、広島と長崎で十何万人殺されたと口癖のように世界に訴えるけれども、自分たちが「2000万人殺しました」ということの国民的国家的謝罪は、まだ一度もやっていない。残念ながらこれが日本人の特徴です。そんな中で、少数ですけれども、中国に謝罪をしたのは「中帰連」は多とすべきでしょう。
それでは日本人は意気地がないのだろうか。日本の国民は太平洋戦争をやめさせることができなくて、アメリカ軍の勝利によってやっと戦争を終わらせることができた。そして、戦争のイデオロギー的中心であった天皇制を、国民の手では廃止できなくて、占領者の利益になるような「象徴天皇制」と称するものに衣がえさせています。憲法が押しつけられたと言うならば、象徴天皇制も押しつけられたといわなければならないのに、憲法改正をいう人たちは象徴天皇制を憲法と一緒に押しつけられたということをだれも言いません。そういう日本人は、先天的にアジアの諸民族と友好関係を持てないのだろうか。私は、非常に弱いけれども、それを可能にする原因が戦後に出来ているように思います。
「復古−革命(受動的革命)」としての明治維新
ところで明治維新は、一方では徳川幕藩体制を倒した点で「革命」でしたが、中国人とはちがい、その方向は「復古」でした。旧来の国民的特性として知られている「尚古」と「排他」の基本精神は規定的な力を持ちつづけました。明治新政権は、欧米近代国家の開国要求に当面して「攘夷」を叫びました。武力によって外国勢力とたたかうということです。その点では、阿片戦争に敗れやむなく開国に転じた中国とはちがいます。「夷」と対抗する実力をいかにして生みだすか、そのためには「夷」を知り、「夷」を学ぶことであると信じたのです。中国の3回の革命はその連続上の発展でした。
日本では攘夷の実行困難を知り、開国にふみきるが、外来勢力に対抗するためにはおなじ境遇にある近隣の朝鮮・中国と結び、力を合わせて国内の新しい発展を期すべきだと考える勢力もありました。幕府側では勝海舟、反幕側では坂本竜馬や横井小楠らがそれでしたが、その二人とその同士たちは却って暗殺されます。
わが国が古代に、卓越した外来文化の衝撃をうけたとき、文化では到底対抗できないことを悟った人々は、それをうけいれました。そのとき、それにはつよい自立の欲求があったのは当然です。流行のコトバで言えば、日本的アイデンティティを主張し、それは和魂漢才ということでした。外来文化の優位を認めるが、主体である和の独自性は維持したいということです。漢文化をとりいれるが、それを成り立たせている原理はとらない。漢文化は利用する。それは道具として役立つが、主体はあくまでもかえない。それは『源氏物語』の「やまとごころ」であり、菅原道真に仮託された「和魂漢才」は、その後国学によってよりいっそう懐古的、後退的に作為させられ、ながい鎖国状態のうちで偏狭固陋な排外心となって明治維新を迎えました。
明治の「復古−革命」の新政権は、根本では復古=保守の原則をまもり、他方では、士族出身の行政者、技術者の官僚集団を形成し、こうして「封建的−官僚的外被」のもとで、一挙の変革ではなしに小刻みの改革・近代化に成功し、先進資本主義国に近づきました。福沢諭吉らの文明開化の促進は、脱亜入欧の形をとりました。今なお封建遺制に拘束されて近代化におくれたアジア諸国を自らに従属させ支配することによって、ヨーロッパ的水準に到達したいという方針です。日清戦争、朝鮮併合が近代化の軍事的性格をよくしめしています。日露戦争はまがう方のない帝国主義日本の宣言でもありました。この時期の日本帝国主義はイギリスと同盟を結んでいました。Pax Britanicaの一構成要素としてアジア支配を謀ったのでした。
1929年の世界恐慌は、累積した日本の国内矛盾をさらに激成しました。日本は民主主義的な社会改造に直面していることが明らかになりました。ブルジョワジーは不統一でした。それに代って、権力機構で急速に力を加えた軍部が、対外侵略によって歴史的な危機を回避できると信じましたが、1931年の満州事変から1945年の敗戦にいたる軍事戦略の経過をみると、日本には一貫した政策がなかったことが判明します。一つの例ですが、1936年の毛沢東の「持久戦を論ず」には劣勢から均衡へ、さらに優勢へと前進する構想がしめされています。日本軍にはそれに対抗する論理がありませんでした。「和魂洋才」の「和」は、アジア諸民族の武力による統一を夢見るものにすぎませんでした。周恩来が、「東條大将は一体なにを構想していたのか」と疑問をもったのは当然でした。ナポレオンのロシア侵入を上回る愚挙によって自滅した日本は、敗戦を機として国民的反省、国民精神の改革を実現しないで「和魂」を維持したまま、こんどはPax−Americanaの一員として再生し、新しいミレニアムを迎えようというのです。
母乳とともに飲み込んだ愛国心と排外主義
回顧すれば、日本の社会主義思想は、こうした体質的な排外主義思想と共存してきました。別の機会に述べたことのくり返しとなりますが、20世紀のはじめに東京に留学し、当時の社会主義者とも交流をふかめていた思想家・劉師培はその『亜州現勢論』(1907)のなかで(注3)、日本帝国主義がイギリスやフランスの帝国主義と結んで、アジアの公敵となっていると批判していますが、それは幸徳秋水らにとっても問題とされませんでした。
(注3)『国粋与西化一劉師培文選』上海1996、228ページ。
1922年にコミンテルンがアジア諸国の社会主義者を召集した極東民族大会の席上で、「日本の労働者には母乳とともに飲み込んできた愛国心があり、その排外主義がアジア民衆の団結を妨げている」と警告しています(注4)。
外からみれば誰の目にも排外心として映ずる日本の偏狭な愛国主義は、日本人は体感としてはわかっていないと外部の人が感じています。
(注4)「国際情勢と極東についての報告」「資料集、コミンテルンと日本」第一巻40ページ”。
言われてみればなるほどと思いますが、それではこの「根づよい愛国心」は、どうすれば国民の意識からとり除くことができるか。それはこれまで誰も具体的に提案していません。「軍人勅諭」(1880)や「教育勅語」(1889)が日夜国民に愛国心と天皇崇拝を教育しているのに、誰も−社会主義者でさえ−すこしも批判していません。日清・日露両役の戦争によってそれは強化されるばかりでした。社会主義者は、この二つの基本文献となれあっているのかと怪しまれます。これでは愛国心−排外心とたたかうどころではないのです。20世紀もまもなく終ろうというときに、日本政府は「君が代」の斉唱と「日の丸」の掲揚を法制化しました。保守化時代に入り、国家主義者、民族主義者が時を得て、現代版愛国心を鼓吹しているのが現状です。
以上、長々と述べたのは、敗戦時における日本の社会運動の歴史的資産状態です。もちろん明治維新いらい、民衆の奮闘によって大きな社会的進歩があり、われわれはその継承者です。しかし継承するのは資産だけでなく、当然のことながら負債も少なくなかったのでした。われわれ日本人は、人民の手で15年にわたる侵略戦争をやめさせる力をもちませんでした。あの戦争と不可分の関係にある天皇の責任を問うこともできませんでした。20世紀中にわれわれは、国民的決済をとげていません。
第二次世界戦争後の世界関係に生じた激変の一つは、「社会主義陣営」の突然の消滅です。これは誰一人として予想しなかった現象です。それはこれまで社会主義運動をみちびいてきた伝統的な「マルクス・レーニン主義」の崩壊をも意味するものです。それは「周辺における永続革命と中心部におけるヘゲモニー運動」の思想とは異質な部分に生じただけでなく、マルクスの原思想の見直しをさえ要求するものでした。階級闘争の思想もその一つです。それは資本と労働のあいだの力関係の歴史的表現でした。そして歴史的経過のなかで、交渉と妥協の形をつうじて、すこしづつ労働側に有利な、解決に近づいたのは事実です。日本でも労働者の団結が罪であり、ストライキなどが不法とされたのはそう遠い時代のことではありません。いまでは労働組合や団体交渉が法で認められている。この関係はもっと発展させて、労働側にとってより有利な条件をつくりだすことがけっして不可能ではなく、階級闘争は一定の歴史的事実であって、社会発展の原理だったわけではないということです。
階級的矛盾の非暴力的解決の時代へ
私はこの立場にたって、1997年11月のグラムシ没後60年の国際シンポジウムの席上で、ソ連のゴルバチョフの「新しい思考」を支持し、階級的矛盾の非暴力的解決の展望を述べました。国際関係は力と力の対決によってではなく、道徳的・倫理的規範にみちびかれる非暴力の立場から解決する展望がひらけてきたと考えたのです。もちろんそこには一時的な停滞や後退もおこりうるでしょう。しかし歴史の方向としては、正義が力をもつことは確信してよいと信じています。「これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と説く『共産党宣言』は、「階級および階級対立をもつ古いブルジョワ的社会の代りに、各人の自由な発展が万人の自由な発展のための条件である連合体が現われる」展望を描いています。ここで連合体とあるのは新日本文庫の訳語で、訳者によってはちがった訳語をとることが多く、邦訳『マルクス・エンゲルス全集』では24種の訳語があてられているそうで、安定した訳語はまだないのですが、原語はAssoziation(英語、フランス語ではassociation)です。やむなくアソシエーションと呼ぶ人も少なくありません。一言でいえば「自由で平等な生産者の結合体」くらいが原意でした。われわれのまわりにもこのアソシエーションは数多く生活のなかから生まれています。労働組合はその最たるものですが、そのほかにも生活協同組合があり、平和・反核の運動、環境保全の運動、福祉と健康づくりの運動、リサイクル運動、さらにワーカーズ・コレクティブの活動などがそれです。40年ほど前、学生諸君と相談して、出版資本とは独立に、図書生協運動を企てたことがあります。それは失敗しましたが、生活協同組合運動には限りない可能性があることに気づきました。世界の生協運動については、先年丸山茂樹氏からレイドロウ報告を中心にしてその現状を聞いたことがあります。
これまで私たちは長いあいだ、社会主義革命をプロレタリアートによる国家権力獲得のうえで新しい生活様式を建設することと理解し、カタストロフ型の権力獲得過程と信じていましたから、協同組合型の運動は典型的な改良主義であり、社会運動としては傍流のものと評価していました。しかし、短期決戦的な行動によってつくられる制度は、生活の外からつくられるものであって、生活の中から生まれてくるものと性格がちがうことは崩落したソヴィエトの社会生活をみればよくわかります。生活のなかからしみだしてくる諸要求が資本主義のうみだす欠陥を、あるものはとり除きあるものは別の水路にみちびきいれる歴史的移行のながい過程と考えるならば、変革行為の形態論はかならずしも本質規定にはならないのです。ここで私たちはゴルバチョフ的な新思考を哲学的にふかめる必要を痛感しました。
最近の思想的営為――アソシエーション論
さいわいなことに最近10年のあいだにその作業がなされました。一つの例で言いますと、その作業の一つが『マルクスとアソシエーション』(1997年、田畑稔)として結実しました。それはマルクス理論の新しい解釈であるだけでなく、いろいろの種類のアソシエーション志向の運動に堅固な土台をあたえてくれることになりました。
マルクスの新解釈によって、はじめてそれは今日の社会運動の原典たりうる歴史的生命力を示しています。マルクスは帝国主義の新時代の到来を見ることなく去りましたが、この新時代がまったく新しい政治術を必要とすることをしめしたのは、さきに述べたアントニオ・グラムシでした。彼の解放理論は、従属的な諸集団が形成するもろもろのアソシエーションを内的に結びつける過程を追求しました。彼はアソシエーションが連合化されるのは一定の倫理的な原理と考えています。ヘゲモニーとアソシエーションは「知識人ぬきには考えられず、この考えはマルクスを大きく超え出て、マルクスの思考の空白部分に達している」とまで言われています(注5)。
(注5)(ヴォルフガング・フイリッツ・ハウク、「マルクス主義とアソシエーション」季刊『唯物論研究』68号、1999.5)。
グラムシの珠玉の思想はその『獄中のノート』にちりばめられていますが、わが国でも熱心な研究者が続出しています。なかでも松田博氏らの研究は重要であって、いずれ「グラムシとアソシエーション」について包括的な報告に接しうるものとひそかに期待しています。
今日情勢の激変に圧倒され、多くの人は解放運動の目標と方法について伝統的な理論では対応することができず、ある人は判断を中止し、ある人は自信喪失を公言し、進歩勢力全体が茫然としているとき、われわれはマルクスとグラムシのアソシエーション論をつうじて精神的再武装をとげ、来るべき世紀に立ち向かうことができると言えます。
グローバリゼーションに対抗するには
このところ、一部の人はグローバリゼーションを礼賛しています。たしかにそれは国民経済の世界化を意味する客観的現象です。しかし、この現象をほめたたえる人々は別の期待をもっていると思われます。個々の国民経済が広域経済にひきいれられることによって、とくに最新の通信情報システムを利用することによって、時間的・空間的にこれまで参入できなかったものが世界市場のうちに地位を占めることができるのは利点の一つです。しかし、グローバル化にともない、規制がのぞかれ自由化が求められるのは、より発展した大国にとって有利であって、おくれた国民経済の全面的発展よりも一面的利用のためであって、かえって途上国にとっては経済の自立を失ない、ふかい従属におちいる危険が大きいと思われます。アメリカ経済が、製造業では他の資本主義国よりも劣位に立つようになっていることはよく知られています。それでもアメリカ資本主義は何らかの方法によって利潤をえなければなりません。それで彼等は金融デリヴァティブ商品を考え出し、各国に大量の投機的投資をして、それらの国の労働階級がつくりだした価値をうばいとることができます。先年のタイの通貨危機はその適例でした。みずからは生産活動によらず、他人の生産活動の成果をとりあげるのに彼らの開発した高度の通信情報手段を利用するのは、正常な経済行動というよりは、もはや健全な生活力を失ったものの仕業であり、バブル経済にほかなりません。したがって、このような結果を伴なうグローバリゼーションを予防し、その侵入をふせぎ、その結果とたたかうために損害をうける国々の共同の対策を講ずるのは当然のことです。
そのうえ、このグローバリゼーションは、同時に、資本主義固有の矛盾もまたグローバル化しています。支配階級がグローバル化していると同様に、被支配階級もまたグローバル化する可能性があるのですから、アソシエーションのグローバル化の機会が生じます。したがって、その民衆の次元からグローバリゼーションに対抗しうる新しい抵抗形態としての変動した資本主義、そこにおける生産構造の変化、労働力の配置、雇用形態の変化と、マルクスの時代にくらべて非常に大きな変化が起こっています。
労働者階級の構造にも大きな変化があり、知的労働や情報労働の比重がふえて、第二次産業部門よりも第三次産業部門のほうが拡大しているくらいです。雇用形態が変化して、勤労者は常時職場に拘束されるのではなしに、フレキシブルなかたちでの雇用形態が出てきています。したがって、今までの労働組合形態とは異なった配慮が必要になりました。あるいはローカルな組織形態を考える必要があります。これまでになかった、新しいアソシエーション形態をこれから考えることが、今日の時局を転換するうえで大きな眼目になっています。
今後の日本の社会運動は、そういったもろもろの諸集団を新しいアソシエーションに編成する課題に当面しています。このアソシエーションが国境を越えて拡がってゆくのですが、それを確実にするために、わが日本の排他的な国民性を改革することが重い条件になります。国民的規模での「知的道徳的改革」なしにはアソシエーションを成立させる原理をつくりあげることはできないからです。
それから戦後50年、日本はいくらか民主化したと思いますけれども、「君が代」の国歌化、国旗の法制化と「知的道徳的改革」は併存できないことです。この古い日本主義に対して、「もう一つの日本」というものがあると思います。それは、労働運動の中にも、政治運動の中にも、萌芽として存在しています。それを今度は意識的に成長させ、新しいアソシエーションに高め、さらにそれを拡大することが、これからの中心問題になるだろうと思います。(完)
グラムシ『分子運動』的変化や毛細管現象について一言しておきます。グラムシにとって、第一次世界大戦後のロシア革命(1917年)は一種の「滄桑の変」の側面があった。それについて一つの説明を試み、分子運動のメタフアーをもちだしたのである。1914〜18年の間に無数の出来事が起こっている。人々はそれに注意しなかったが、目に見えない微細な運動が数年のあいだに堆積して大きな塊になっていく、その大きな塊の上に、ある日突如として大変動が起ったようなものです。ただ、われわれは、諸階級の行動を観察し、新聞・雑誌、日常の会話に至るまで微細な変化に注目して、そのことを分析していなかっただけで、実はこの「滄桑の変」は起こるべくして起こったものである。
たしかに1914年には革命に新しい醗酵があった。レーニンたちもこの運動を組織しようとした。それは事実である。だからロシア革命家集団に確たる展望があり、それにしたがって1917年に革命に成功したということにはならないのではないか。そこには予想以外の展開があり、いろいろの事象の複合のうえに思いがけず成功が転がり込んできたと見ることもできる。それがグラムシの考えであった。ロシアの理論家達は、事後に予見が実現されたような歴史を描いているがそこにはこの“分子運動”の精細な復元があったわけではないと思われる。
付記(2)
戦後の土地改革は無であったとする五一年綱領の反証。
戦前・学生時代から、新潟で農民運動をはじめた三宅正一、稲村隆一は、農民運動の献身的な指導者でした。たいへん苦労した人で戦後新潟の農民にこわれて国会議員に選出されている。
私は、戦前の学生運動を総括的に回顧したいと考えて、同時代に学生運動に参加した人たちを歴訪して話し合ったことがある。1967年、三宅正一と稲村隆一がこんなことを言っていた。「僕らは、学生時代から農民運動に没頭して、なしうるべきことは全部やったつもりでいたものだが、わが生涯は何であったかの思いがする。自分たちと一緒に活動した新潟の戦闘的な農民活動家たちは、土地改革で土地所有者になった。今日、田中角栄の腹心になっているのは彼らなのだ」。それが二人の述懐であった。
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(石堂論文・手紙 掲載ファイル)
『コミンフォルム批判・再考』 スターリン、中国との関係
『上田不破「戦後革命論争史」出版経緯』 手紙3通と書評
『二〇世紀を生きる』 特別インタビュー
『ヘゲモニー思想と変革への道』 「世界」1998年4月号
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』 石堂氏挨拶、インタビュー
以上
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