「反ソヴェト」知識人の大量追放『作戦』
とレーニンの党派性
(宮地作成)
〔目次〕
1、「1922年のレーニン、知識人追放『作戦』」のデータと文献
6、レーニンの『党派性』 知識人の3分類法
(関連ファイル) 健一MENUに戻る
「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令と「労農同盟」論の虚実
レーニン「分派禁止規定」の見直し 逆説・1921年の危機
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』 1918年
梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』 戦時共産主義
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
中野徹三『社会主義像の転回』 制憲議会解散論理、1918年
アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』
ソルジェニーツィン『収容所群島』 第2章、わが下水道の歴史
P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』 クロンシュタット綱領、他
イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』 クロンシュタット綱領、他
ダンコース『奪われた権力』第1章
大藪龍介『国家と民主主義』 1921年ネップ導入と政治の逆改革
1、「1922年のレーニン、知識人追放『作戦』」のデータと文献
このファイルは、「知識人大量追放型社会主義者レーニン」を分析するものです。この『作戦』は、「レーニンが1922年にしたこと」のなかで、『聖職者全員銃殺指令』と並ぶ二大粛清事件の一つです。以下の内容は、それを分析したファイルとの「姉妹編」になります。そこから、全体の〔目次〕構成のしかたも、ほぼ同じにしました。従来の「レーニン神話像」とはまるで異なる「粛清指令者レーニン」の素顔を解明します。よって、このテーマに関しても、ここで使用している7つの文献、データの信憑性が問題になります。本文に入る前に、それら文献の説明と私(宮地)の判断をのべます。
(1)(2)(3)、ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』(現代思潮社、1998年)、『共産主義とは何か』(三一書房、1973年)、『「スターリニズムの犠牲」の推計』(塩川伸明「終焉の中のソ連史」朝日選書、1993年に所収)。彼は、旧ソ連時代から数多くの研究を「サムイズダート(地下出版)」で発表してきました。『共産主義とは何か』は、スターリン批判の古典的名著で、その膨大なデータと論証には圧倒されます。『推計』は、その粛清数字だけの表で、著書から導き出されたので、現在でもその信憑性は高いと評価できます。『1917年のロシア革命』は、ソ連崩壊後の新資料、秘密資料に基づく分析で、かなり突っ込んだレーニン批判になっています。彼の経歴は、HPファイル『1917年のロシア革命』に書きました。
(4)、ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密・上下』(NHK出版、1995年)。このファイルで使用しているのは、『下』第6章の一節「知識人の悲劇」(P.176〜203)です。このデータも、「レーニン文書保管所」にある「レーニン秘密資料」による内容で、レーニン第一次資料です。彼は、大将の軍籍を持ち、軍事史研究所所長であるとともに、極秘文書保管所に最初に閲覧を許され、自由に出入りできた最初の研究者でした。しかも、1991年クーデター未遂事件後、エリツィン政権下で、「党と国家の文書保管所の管理と機密扱い解除」を担当することになり、ロシア共和国最高会議歴史文書委員長も務めました。その公表・研究の一端が、この著書です。
(5)(6)(7)、川端香男里東大教授・中部大学教授『ザミャーチン「われら」翻訳・解説』(講談社文庫、1975年)、『ロシア・ソ連を知る事典』(平凡社、1989年)の「文学」項目執筆、『ロシア』(講談社学術文庫、1998年)。川端氏は、著名なロシア・ソ連文学、歴史研究者です。『事典』の監修者であり、『われら』翻訳をするなど、多面的な活躍をし、多くの著書、論文を発表しています。そこでの分析、データは正確です。
(注)、ファイル中に、引用文献の関係で、ソヴィエトとソヴェトという用語混在があります。
2、知識人追放『作戦』規模・体制とレーニンの極秘「指令」
1、レーニンの1922年5月19日付「知識人追放指令の秘密・手紙」
ソルジェニーツィンは、『収容所群島』第1部・第10章「法は成熟する」(新潮社、P.360)の冒頭で、次の「レーニン全集」に掲載されている「知識人追放に関する準備指令の手紙」を載せました。よって、これは「レーニン秘密資料」ではありません。その個所をそのまま引用します。
『銃殺に代えて国外追放が大量かつ緊急に試みられた。刑法典が編集されていた、あの熱狂の時代、ウラジーミル・イリイッチ(レーニン)は閃(ひらめ)いたた思いつきをただちに五月十九日付の手紙の中に結実させた。
「同志ジェルジンスキー! 反革命を援助している作家や教授たちを国外へ追放する問題について。このことはもっと綿密に準備する必要がある。準備がなければ、われわれは馬鹿をみることになるだろう……これらの《軍事スパイたち》をつかまえ、絶えず一貫してつかまえ、国外へ追放するように処置しなければならない。これのコピーをとらずに、政治局員にこっそり見せてくださるようにお願いする」(「レーニン全集」第45巻、P.721)
この場合、その秘密性は手段の重要さと教訓的なことから当然である。ソビエト・ロシアにおける切り裂いたようにはっきりした階級勢力の布陣は、旧ロシアのブルジョア・インテリゲンチャの輪郭の判然としない、ぼんやりした汚点によってはじめて破られてしまった。これらインテリゲンチャはイデオロギーの面で本当の軍事スパイの役割を演じていたのであり――彼らに対する最善の処置はその腐った思想の滓(かす)を削りとり、彼らを国外へ放り出すこと以外にはなかった。
同志レーニンその人はもう病床にあったが、政治局員たちが明らかに賛同し、同志ジェルジンスキーが八方手を尽して逮捕を行い、一九二二年末に約三百人の人道主義者が伝馬船に?……いいや、汽船に詰め込まれてヨーロッパのごみ捨て場へ送りだされた』。
手紙の「5月19日」という日付には、3つの意味があります。(1)、『知識人の大量追放作戦』の準備指令をレーニンが最初に発したことです。(2)、レーニンは、後述のように、5月26日に第1回目の脳卒中発作を起こし、5月30日には「12×7」の計算もできない症状になりました。その第1回発作の8日前に、『作戦』指令を出していたことです。(3)、彼は、『教会財産没収・聖職者全員銃殺指令』の「極秘手紙」を3月19日に出しました。5月時点は、その指令が大々的に執行され、聖職者数万人の銃殺、信徒数万人の殺害がソ連全土で行なわれていました。よって、「レーニンが1922年に行った2大粛清事件」は、2カ月違いで、ほぼ同時にスタートしたのです。一方は大量銃殺・殺害で、他方は追放をする形態でした。2つの“肉体的排除”形態に違いを持たせました。その点では、“高度な政治的配慮を込めた、いかにもレーニンらしい粛清=「ごみ分別」スタイル”でした。
2、ウラジーミル・イリイチ〔レーニン〕の指令。極秘
ロイ・メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』(P.134)で、次の「レーニン秘密資料」を公開しました。これは、L・コーガン「精神的エリートの追放についての新情報」『哲学の諸問題』(8号、1993年)で最初に掲載されたものです。
『一九二二年レーニンは多数の人文系学者をソヴィエト・ロシアから追放することを承認した。大勢の傑出した哲学者の一団がペトログラードやモスクワから、汽船(「哲学船」)で送り出された。ペトログラードからは経済学者や歴史家が西側諸国へ向かった。法律家、文学者、協同組合活動家、農学者、医者、財政学者も追放された。これはきわめて大規模な措置であり、モスクワやペトログラードだけでなく、キエフ、カザン、カルーガ、ノヴゴロド、オデッサ、トヴェーリ、ハリコフ、ヤルタ、サラトフ、ゴメリにまで及んだ。ゲー・ペー・ウーの文書ではこの措置は「作戦」というコード名で呼ばれ、その実施指導のために、L・カーメネフを議長とするロシア共産党中央委員会政治局特別委員会が設置された。委員会にはその他ジェルジンスキーの代理ヨシフ・ウンシリフトとゲー・ペー・ウー秘密工作部部長I・レシェトフが加わった。同委員会メンバーとゲー・ペー・ウーの地方機関に対するF・ジェルジンスキーの「指令」メモの一つにはこう書かれていた。
ウラジーミル・イリイチ〔レーニン〕の指令。極秘。
積極的な反ソヴィエト・インテリゲンツィア(まずはメンシェヴイキ)の国外追放を、たゆまず継続する。入念にリストを作成し、それらをチェックしわれわれの文芸学者たちに批評させる。文献は全部彼らに割り当てる。われわれに敵対的な協同組合活動家のリストを作成する。「思想」と「家族共同体」の論集参加者のチェックをする。草々。
F・ジェルジンスキー』
この指令の月日をメドヴェージェフは、著書で書いていません。しかし、期日を推測させる文言があります。それは。『(まずはメンシェヴイキ)の国外追放を、たゆまず継続する』です。この文言は、5月26日第1回目発作以後の『追放の督促・継続指令』です。
〔小目次〕
第1方針 逮捕・国外強制追放
第2方針 逮捕・出国不許可、辺境地強制移住(=流刑)
第3方針 出国許可(=自主的亡命許可)
第4方針 国外に出た亡命者グループ内でのスパイ活動、分裂工作
以下の内容は、ヴォルコゴーノフが公表した「レーニン秘密資料」に基づく要約です。それを、私(宮地)が4方針に分類し、かつレーニン指令を時系列順に並べ直しました。
第1方針 逮捕・国外強制追放
1922年6月8日、政治局(ポリトビューロー)は、レーニンが決定し、ジェルジンスキーの最高補佐官ヨシフ・ウンシュリフトが作成した、党と異なった考え方をする人たちを国外へ追放することを提案した「反ソヴィエト・グループ分布」に関する報告を承認しました。この報告書は、内務人民委員部(NKVD)と司法人民委員部の代表から成る特別委員会を形成し、国内で強行措置の適用が限界に達した時、国外もしくはロシア連邦内の特定地域へ追放する権利をもたせてはどうかと提案していました。絶大な権限をもつ国家保安部(GPU)は、革命にとって危険であるとみなされる人物の選り分けを開始しました。危険人物とは、事実上、ロシア社会のエリートたちでした。
7月31日、第一団のリスト人数は120人でした。彼らの追放命令書は、カーメネフ、クルスキー、ウンシュリフトが署名しました。著名人の名がずらりと並んだ名簿のあとには、「政治局の決定により、同志ジェルジンスキーを議長とする本委員会は、それぞれの分野でかけがえのない人材と考えられ、所属機関から彼らを現在の地位に残す許可願が出ていた人物について、追放命令取り消しの嘆願書を検討した」というヤーゴダのコメントが付いていました。哲学者ニコライ・ベルジャーエフの項には、こうしたGPUの典型的なコメントが付けられていました。「彼はベーレグ出版社と関係があり、戦術センター、君主主義者、右翼立憲民主党、黒百人組〔20世紀帝政ロシアに存在した右翼反動団体の総称〕、宗教関係、反革命的教会との関連も調査済み。追放」。
8月2日、ウンシュリフトはすでに、スターリンに「モスクワ……およびペトログラードの反ソヴィエト知識人」のリストを付けて、こう報告することができました。「要注意人物全員を逮捕し、自費で国外へ退去する機会を与える。もし彼らが拒否すれば、GPUが旅費を出してはどうか」。同時に、「反革命的新開『農業ニュース』と、『思想と経済再生』は、反ソヴィエト的、理想主義的見解を広めつつあるので、廃刊にする」。
GPUはさすがにその道の専門家でした。彼らが選び出した名前のリストには、ロシアの最高の知識人エリートたちがきら星のごとく並んでいました。だが、その選択にはレーニンも個人的にいろいろ干渉しました。最高の知的人材を社会から流出させる政策は、もとはといえば彼がいい出したものだったからです。その名簿は、GPUに渡されて、最終的にジェルジンスキー、スターリン、ウンシュリフトによって完全なものにされる前に、レーニンのところへ何度も回され、修正、追加、但し書き、疑問符が付けられました。最初の一団が追放される寸前の1922年秋には、レーニンは病気で静養中だったにもかかわらず、今後の同様の措置について、彼はあれこれ心配しました。
8月、政治局は、レーニンの指示にしたがい、「学生の中の反革命分子を国外へ追放する」、および「カーメネフ、ウンシュリフト、プレオブラジェンスキーから成る委員会をつくる」というウンシュリフトの提案を承認しました。ボリシェヴィキは先を読んでいたのです。次世代の知識人の芽を、若葉のうちに摘み取ったのです。
9月17日、レーニンは、ウンシュリフトにこう書いています。「だれが追放され、だれが留置所におり、だれがどんな理由で追放を免れたかについてコメントを付けた上、すべての関連書類を私に送り返してくれるように手配してください。この手紙についても短いコメントをお願いします」。翌日の夜、ウンシュリフトは不在だったので、彼の代理のヤーゴダがこう返事しました。「ご指示にしたがって、彼らについてのコメントを付けた名簿を同封いたします。(別に挙げてある)名前の人たちは、何らかの理由があってモスクワ[またはペトログラード]に残っています」。さらにそれには、「最初の一団は、9月22日金曜日にモスクワを発つことになっています」と付け加えられていました。
レーニンのリストには大勢の名前が並んでいました。その見出しを見ただけでも、最高学府のモスクワ大学教授、ペトロフスキー=ラズモフスキー農林学アカデミー教授、鉄道技師養成大学教授、自由経済協会事件に連座した人たち、考古学研究所反ソヴィエト教授、ベーレグ出版社とかかわりのある反ソヴィエト人物、第812事件関連者(アプリコーソフ・グループ)、反ソヴィエト農業経済学者および協同組合主義者、医師、反ソヴィエト・エンジニア、作家、ペトログラード著述家、ペトログラード反ソヴィエト知識人の特別リストなどが並んでいました。
9月22日、最初の一団120人を、モスクワから出発させました。
1922年秋、スターリンに宛てた長い覚え書の中で、レーニンは、反ボリシェヴィキ出版物にかかわりをもった人物や、自分の政権にとってとくに鋭い反対派とみなされる人物を槍玉に挙げていました。この覚え書には、そういう人たちとは緑を切りたいというレーニンの異常なまでの不安がうかがわれます。
『メンシェヴィキ、人民社会主義者党、カデットなどの追放の問題について、いくつかうかがいたい。この問題は、私が休暇に出かける前から着手していたのに、いまだに落着していない。人民社会主義者全員を“根絶する”ことは決定されたのか? ペシュホーノフ、ミャコーチン、ゴーンフェルトはどうなったのか? ペトリシュチェフその他の連中は? 私は彼ら全員が追放されるべきであると考える。彼らはエスエル党員のだれよりも危険である。なぜなら、彼らのほうが抜け目がないからだ。A・N・ポトレソフ、イズゴーエフらの『エコノミスト』[雑誌]の関係者全員、(オゼロフやほかにももっともっと大勢)。メンシェヴィキのローザノフ(医師、抜け目がない)、ヴィグドールチク(ミグロとかいう名)、リューボフ・ニコラエヴナ・ラドチェンコとその若い娘(ボリシェヴィズムにとってもっとも有害な敵と思われる)、N・A・ロジコフ(手に負えない奴なので、追放すべきだ)、S・L・フランク(『方法論』の著者)、マンツェフ=メッシング委員会は、こうしたリストをつくり上げ、そのような紳士数百人を容赦なく国外へ追放すべきである。そうすれば、われわれはロシアを一度に浄化することになる。
レジェネフに関しては……われわれはこれについて考えるべきである。彼を追放すべきではないのか? 彼の論文から判断するかぎり、この男はいつも非常にずる賢い。『エコノミスト』関係者全員と同じように、オゼロフはもっとも冷酷無情な敵である。彼ら全員をロシアから追放しなくてはならない。何が何でも、今すぐ行うべきだ。エスエル党員の裁判が終わるまでにはやるべきで、それより遅くなってはいけない。追放の動機については説明無用。諸君、腰を上げよー!
「作家の家」および『ムイスリ(思想)』[ペトログラード]関係の執筆者全員、ハリコフは絶対捜し出さねばならない。われわれはそこで何が起こっているのかまったくわからない。われわれにとって、まったく“外国”同然だ。これを速やかに浄化する必要がある。エスエル党員の裁判の終了より前に。[ペトログラードの]作家たちに注目せよ(彼らの住所は、『ノーヴァヤ・ルースカヤ・クニーガ(新しいロシアの書籍)』一九二二年、第四号、三七頁)および民間出版社の名簿(二九頁)を参照せよ』。
レーニンの指示は、支離滅裂だが消えない鉛筆で一息に書かれたかのように、無慈悲、冷酷なものでした。スターリンの手書きのメモによれば、それらはただちに、指導者の命令としてジェルジンスキーへ送られました。
1922年末、レーニンは、秘密警察署長よろしく、チェキストたちに、ないがしろにされていた党の指令の処理方法について模範を示しました。年末には、追放の問題に戻り、もうひとりの自由思想家N・A・ロジュコフについて、自分の主任秘書のリージャ・フォティエヴァを通じて、スターリンに電話で命令しました。『第一に、ロジュコフを外国へ追放することを提案する。第二に、これが実現できなければ(たとえば、彼の高齢を理由に)ブスコフへ送り、何とか耐えられる環境に置き、暮らせる程度の金と仕事を与えよ。だが、監視は厳重にしなければならない。なぜなら、彼は現在も、これからも、最後までわれわれの敵でありつづけることは間違いないからである』。
こうして、レーニンは知識人追放方針を常套手段として現実化し、自ら率先して追放者リストづくりに手を染めていきました。『われわれはこれから長期間にわたって、ロシアを浄化していく予定だ』。浄化とは、つまり、知識人の良心をロシアから一掃することでした。その犠牲者の大半を彼は個人的に知っていたにもかかわらず、そういう人たちを槍玉に挙げることにためらいを感じることはありませんでした。後でのべる彼のゴーリキーへの手紙が、レーニンの知識人にたいする態度を表わしていたとすれば、スターリンへのメモはその具体的リスト指示でした。
1919年、ただし、この第1方針は、すでに、「戦時共産主義」時期において、カデット系知識人にたいして、大量に行なわれていました。カデット=立憲民主党は、1905年、モスクワで結成された自由主義政党です。自由主義地主とブルジョアジー、大学教授、弁護士や医師などの自由業インテリが中心でした。
ソルジェニーツィンは、『収容所群島』「下水道の歴史」(P.43)で、その大量逮捕の事実を暴露しています。『一九一九年、ソビエト政権に対する真偽とりまぜての陰謀(《ナツィオナリヌイ・ツェントル》、軍の陰謀)をめぐって、モスクワ、ペトログラードその他の都市で名簿順の銃殺(というのはつまり、自由の身の人間をつかまえて即座に銃殺することだが)が大々的に行われ、またいわゆる立憲民主党周辺のインテリゲンチャがごっそり牢獄に放り込まれていった。《立憲民主党周辺》とはどういう意味か? 君主制主義者でもなく、また社会主義者でもない、つまり、すべての学者、すべての大学人、すべての芸術家、すべての文学者、それにすべての技師たちである。極端な思想を持った作家、神学者、社会主義の理論家を除いて残りのインテリゲンチャ全部、すなわち、インテリゲンチャの八割までが《立憲民主党周辺》であった。レーニンの考えによれば、たとえば「ブルジョア的偏見の囚となった哀れなプチブル」コロレンコもその一人であり、こういう『才子ども』は数週間監獄に入っているのも悪くはあるまい」ということだった。逮捕された人びとの個々のグループについては、私たちはゴーリキーの抗議文から知ることができる。一九年九月十五日、レーニンは抗議に答えて、「……ここにも間違いのあったことはわれわれには明らかだ」が、しかし「まったくなんという不幸だろう! なんという不公平だろう!」と慨嘆し、「腐りきったインテリどもの泣言に自分の力を消耗する」ような真似はしないようゴーリキーに忠告している』。
第2方針 逮捕・出国不許可、辺境地強制移住(=流刑)
1923年1月11日、政治局は、GPUにたいして『自由主義的な職業をもつ個人の監視を強化すると同時に、ソヴィエト政権の敵が害を及ぼさないようにする措置をとれ』という命令をだしました。国外追放だけでなく、辺地への強制移住も徹底して行なわれました。
相当な人数にのぼる作家、学者、技術者らが窮地に追い込まれて、自力で国を出ようとしました。だが、政治局とGPUはすばやく対応しました。ヤーゴダは中央委員会にたいし、自分の担当するNKVDが、「著名人としてはジナイーダ・ヴェンゲ一ロヴァ、アレクサンドル・ブローク、フョードル・ソログーブら多数の作家の出国声明書」を受け取っていると報告しています。「出国する作家たちは反ソヴィエト・ロシア運動をもっとも積極的に行っており、中でもコンスタンチン・バリモーント、アレクサンドル・クプリーン、イヴァン・ブーニンらは、きわめて恥ずべきことを率先して行う傾向があるため、チェーカーとしては彼らの出国申請を認めるのは妥当ではないと考える」と提案しました。ただ、1920年代はじめのソヴィエト連邦は、外国から外交面で認められ、受け入れられたいと願っており、世論も気になっていたので、世界的に名を知られた芸術家やインテリの扱いにはたいへん神経をとがらせていました。それゆえ、先に挙げたような人たちの大半は、やがて出国を許可されました。しかし、ウクライナの知識人の処遇はちがっていました。政治局は、「彼らを国外へ追い出す代わりに、ロシア連邦共和国内の辺境地へ追放すべきである」というウンシュリフトの提案を認めました。
第3方針 出国許可(=自主的亡命許可)
出国希望者はたくさんいました。とくにソヴィエト・ロシアにいては創造的な仕事をつづけられる見通しはないと思った人たちは国を出たがりました。集団で国外脱出を試みた人たちもいました。1921年5月、政治局は、モスクワ芸術座第一スタジオから提出された出国申請について審議し、ルナチャルスキーから、これまでに出国した学者、芸術家の中で、何人が実際に帰国したかについて報告書が届くまで、決定を延期することにしました。出入国の実態はまったくの一方通行で、行き先は西側でした。当初は、革命を創造的自由のユニークな契機と歓迎していた芸術家たちも、多くの場合、パリやベルリンなど、もっと寛大な環境を求めて国を出る準備をしていました。この分野でもまた、シャガール、カンディンスキー、ステイーンらの画家や、ディアギレフと彼の率いるロシア・バレエ、作曲家のプロコフィエフやストラヴィンスキーなど、ロシア芸術界の著名人の名が見られます。一流のソヴィエト市民が大勢亡命したということは、この国の制度に決定的な欠陥があったという紛れもない証拠でした。
第4方針 国外に出た亡命者グループ内でのスパイ活動、分裂工作
1923年、政治局はOGPUに、「国外にいる白衛軍の武装解除を徹底的に行い、彼らの一部をソヴィエト体制の利益のために利用する」ように指示しました。その結果、OGPUに特殊任務のための外国課が設置され、ロシア人亡命者の間で徹底的なスパイ活動が展開されました。その中には、「ソヴィエト政権にとってとくに危険な敵の一掃」も含まれていました。西側諸都市の工作員から送られた山のような報告書のファイルを見ると、当局がまず大勢の知識人を国外へ追放しておいて、今度は彼らを、スキャンダルや贈収賄を利用したり、グループ同士を対立させたりして、彼らを“分離させる”ことに全力を挙げていたことがわかります。公開されたファイルには、『ロシア出国者』という大きな見出しのもとに、著名な学者、著述家、政治家が集められ、亡命者の一挙一動が記録されています。
興味深いのは、ソヴィエト諜報部が反動思想の持ち主として追放した哲学者ベルジャーエフに巧みに取り入って信頼を獲得し、彼の名前と影響力を利用しようとしていたことです。だが、工作員カルによれば、彼は役に立ちそうもないと報告されています。なぜなら、「彼は共産主義の批判者で、唯物論的哲学の明確な敵であり、目的論しか論じたがらない」人物だったからでした。外国課のベルジャーエフ・ファイルには『表信者〔殉教はしないが迫害や拷問に屈せず、キリスト教への信仰を宣言し、それを守った男の意味〕』という見出しが付けられていました。OGPUの工作員たちは何度か取り入ろうとしたがやがてあきらめました。
(表1) レーニン指令による“肉体的排除”数
方針 |
規模 |
出典 |
逮捕・国外追放 |
1922年9月22日、第一次追放120人 1922年秋、160人 1922年末、300人の人道主義者が、汽船に詰め込まれてヨーロッパのごみ捨て場へ送り出された。全体の人数は不明 |
『レーニンの秘密』 『われら』解説 『収容所群島』 |
逮捕・出国不許可、辺地強制移住 |
ウクライナの知識人 『われら』作者ザミャーチンは逮捕・出国不許可 |
『レーニンの秘密』 『われら』解説 |
出国許可 |
コサック約3万人、ドンコサック合唱団亡命。亡命者200万人+内戦犠牲者700万人、飢饉死亡者500万人 |
川端『ロシア』 |
総計 |
知識人“肉体的排除”3方針の総計数万人 具体的数字は不明。しかし、レーニンは「排除人数」報告を要求しているので、そのデータは「レーニン秘密資料」6000点の中にある筈 |
『レーニンの秘密』 |
(表2) スターリンによるレーニン路線継承の知識人大量逮捕と死亡数
分野 |
逮捕・銃殺・拷問死・強制労働死の規模 1930年代後半 |
出典 |
文学 |
作家同盟にいる作家、詩人、劇作家、評論家などの1/3の600人逮捕。ほとんどが拘禁中に死亡、銃殺、強制収容所で餓死 各共和国の作家組織も大きな損害 ウクライナ、グルージァ、アゼルバイジャン、カザフスタン、タタールなど パステルナーク、レオーノフ、エーレンブルグを「形式主義的偏向」の罪があると批判 |
『共産主義とは何か・上』(P.376) |
芸術 |
多数の有名俳優、芸術家、映画人、音楽家、建築家、画家逮捕。 舞台監督メイエルホリド狩り、「形式主義」と批判、メイエルホリド劇場閉鎖。彼は、「逮捕され、とくに苦しく手のこんだ責苦をうけたのち、肉体的にほろぼされた」 映画監督ドブジェンコ、エイゼンシュタインにも批判 |
『同』(P.381) |
学問 |
何千人という学者がほろびた。学術雑誌で始まった論争と討論は、内務人民委員部の拷問部屋での拷問と銃殺に終わった。逮捕・銃殺の範囲は、歴史学、哲学、教育学、言語学・文献学、数学、生物学と農業、医学に及んだ。 農学者ルイセンコは、逮捕開始を利用して、多くの著名な生物学者と農学者への誹謗カンパニアを展開した。彼らへの逮捕、弾圧は異常に広まった。遺伝学、品種改良学、農芸化学、微生物学、植物学のあらゆる分野の学者が、逮捕され、拷問死・獄死し、強制収容所で死んだ |
『同』(P.365) |
技術 |
技術インテリゲンツィア、有名な学者、発明家と設計者、何百何千の企業の企業長、技師長、職場長にも大弾圧がふりかかった。航空機製造技師、兵器関係設計者・技師、水力発電・製鉄・自動車製造、鉄道関係の工場長、技師、幹部が逮捕され、死んだ。 ベロルシア鉄道長は、代理の逮捕を知って、妻と息子を射殺したうえ自殺した |
『同』(P.373) |
総計 |
『共産主義とは何か』は、被粛清者のうち、有名な百数十人の名前を記載。ただし、その総計は不明。 メドヴェージェフは、下記データで、スターリン大テロル時期に、共産党員100万人、元共産党員100万人が、銃殺・拷問死・強制労働死したと推計している |
(表3) メドヴェージェフによる「スターリニズムの犠牲」の推計
時期 |
事項 |
逮捕・流刑・強制移住にあった者の数 |
うち死亡 |
1920年代末 1920年代末〜30年代初 1929〜32年 1933年 1935年 |
党内反対派 ブルジョア民族主義者、ブルジョア専門家、ネップマンなど 富農撲滅 飢饉 キーロフ暗殺後の旧分子摘発 |
数万 [100万] 数十万 1000万 ――― 100万 |
?(多く一旦許されるが後処刑) ?(スターリン後の釈放まで生きのびたのは数万か) ?(苛酷な生活条件下ではあるが、多くが生きのびた) 600万[600〜700万] ? |
ここまでの犠牲者小計 |
1700〜1800万 1) |
1000万 |
|
1937〜38年 1939〜40年 1941年 1942〜43年 戦中〜46年 1947〜53年 |
大テロル 西ウクライナ西白ロシア、バルト3国、ベッサラビア、ブコヴィナ併合 ドイツ人の追放 カルムィク人、チェチェン人、イングーシ人、クリミア、タタール追放 ドイツ占領時の占領軍協力 レニングラード事件、コスモポリタン狩り、その他 |
500〜700万 2) 200万 ?[200万弱] 300万 500万 1100万[100〜150万] |
死刑100万+獄死? ? ? 100万以上 ? ? |
総計 |
?[4000万] |
? |
1)飢饉の死者を含む。
2)うち党員約100万,除名されていた元党員約100万,非党員300〜500万
出典《Московские новости》,1988、No.48
表の訳出と解説 塩川伸明「終焉の中のソ連史」(P.340)朝日選書、1993年に所収
5、1922年5月第1回発作・症状と『作戦』遂行時期
3回の発作と死去
レーニンは、3回の発作を経て、死去しました。
第1回、1922年5月26日、最初の脳卒中発作。夏、ゴールキで静養。
第2回、1922年12月16日。12月23日〜26日、『党大会への手紙』口述。
第3回、1923年3月10日、以後、口述も不可能。
死去、 1924年1月21日。
第1回発作後の症状、知能状態 1922年6月〜7月
この症状、知能状態も、ヴォルコゴーノフが「レーニン秘密資料」により初めて明らかにしました。その個所(P.259〜261)をそのまま引用します。
『ボリシェヴィキ政権獲得後の数年間とそれに伴う重圧で、レーニンの神経の傷つきやすさが表面化した。それは一九二二年五月に最初の脳卒中の発作を起こしたあと、目立つようになった。発作を起こした時、クレメル教授は次のように記している。「彼の病気の原因は頭の使いすぎばかりではなく、脳血管の重大な変調によるものであった」。脳への血液供給の異常は精神機能障害と密接に関連しており、一九二二〜二三年にレーニンを治療した医師の大半が精神科医と、神経専門医であったのはそのためだった。医学文献によれば、脳動脈の劣化による精神疾患は、徴候として、持続性の頭痛、いらだち、不安、鬱病、固着観念などの形で表われるという。レーニンはこれらの症状のすべてを示した。
レーニンの病気が、政権の座にあった彼の行為にどのような影響を及ぼしたのか、明確に証明することはむずかしい。レーニンは病気になる前から苛酷な命令をどんどん出していた。とりわけ一九一八年にはそれが目立つ。だが、そうした決定もまた、神経の緊張が高まった時になされていた。ストレスが高ければ高いほど、これらの決定はより極端で苛酷なものになった。強大で、監視機構のない、無制限の権力が、彼の心の病的傾向を悪化させたことは明らかのように思われる。
すでに述べたように、レーニンがロシアの知識人の追放をはじめたのは一九二二年八月〜九月であった。ロシア文化の花を追放する――実際は根絶する――という発想は、病気か、あるいはよほど頭の硬化した人間でもなければ思い浮かぶはずがなかった。だが、この事件のわずか一〜二カ月前には、病床のレーニンはクループスカヤの助けを借りて、文字の書き方を練習したり、小学生程度の計算問題を解こうとしたり、ごく簡単な聞き書きの練習をしていたのである。彼はかろうじて読める、ぎこちない字を何頁も書いた。その年の五月の卒中発作のあと、彼にはひどい記憶ちがいが起こるようになり、物事にたいする反応が緩慢になった。彼はぼうっとしていた。クレメル教授は次のように記している。「彼はもっとも初歩的な計算を行うことができず、ごく短い語句さえ思い出せなかったが、理解力、思考力は完全だった」
彼の理解力、思考力は完全だったという神経専門医の断言を疑いたくなる根拠はたしかにあった。彼の妹マリヤの回想によれば、五月三十日に、「医師たちから12×7の計算をするようにいわれて、それができなかった彼はひどく落ち込んだ。だが、彼は持ち前の意固地さを発揮した。医師たちが帰ったあと、この間題を解こうと三時間にわたって苦闘し、足し算でこれを解決した(12+12=24、24+12=36、など)」。そんな状態から一カ月もしないうちに、レーニンは、知識人の追放、「処刑を含む秘密警察GPUの法的に正当と認められない措置」の承認、コミンテルンの戦術と戦略の決定というようなきわめて重大な決断をしていた』。
知識人の大量追放『作戦』時期 1922年6月〜年末
ソルジェニーツィンは、『収容所群島』で、5月19日付の『秘密・手紙』を載せました。それによって、レーニンが、第1回発作の5月26日前から、すでに『知識人の大量追放に関する準備指令』を出していたことが立証されました。
「12×7」の計算ができなかった、5月30日の病状から、1カ月しか経っていない「精神・神経病患者」が、この『作戦』を指令、督促し、追放リストを点検したのでした。そして、知識人数万人の“肉体的排除”を強行したのです。
1922年8月のレーニン(『レーニンの秘密』(P.183)写真)
6、レーニンの『党派性』 知識人の3分類法
〔小目次〕
第1分類、ボリシェヴィキ党員知識人
第2分類、「同盟者」知識人、同伴者文学の作家・詩人
第3分類、「反ソヴェト」「非ソヴェト」知識人
ソ連憲法は、知識人を「階層」と規定しています。労働者、農民と知識人です。ソ連の統計は、労働者、農民、職員と知識人に分けています。その知識人「階層」を、さらに3分類するのが、レーニン、ボリシェヴィキの基本観点です。それは、知識人をふるいにかける“党派的・階級的逆差別”分類法です。以下は、文学を中心にのべます。
党員知識人によるプロレトクリト(=プロレタリア文化)が、1917年に結成されました。文学分野では、ワップ(=全ロシア・プロレタリア作家協会)が作られました。1925年に、それはラップ(=全ロシア・プロレタリア作家協会)になりました。
革命前の1905年、レーニンは、『党組織と党文献』において、「プロレタリアートと公然と結びついた文学」を強調しました。ブルジョア文学に対抗するものとして、プロレタリアート自身による階級的芸術の必要性を訴えました。ソヴェト文学の創作・批評の基本的方法は、社会主義リアリズムです。そこには、思想性(イディノスチ)と党派性(パルティイノスチ)が要求されます。『党派性』は、レーニンの用語で、文学における共産主義精神の発揚を目指さなければならないとするものです。
レーニンの基本方針は、知識人を党の管理下に置き、彼らを革命のために働かせることでした。政治局が「プロレトクリト(プロレタリア文化の略)」大会の問題を討議した時、レーニン、スターリン、カーメネフ、クレスチンスキー、ブハーリンらは、全員一致で「プロレトクリトの党への従属」を擁護しました。
トロツキーは、1925年にモスクワの作家と詩人たちにこういっています。「われわれは新しいプロレタリア詩人や芸術家たちを生み出す工場をもっている。だが、それはMAPP(モスクワ・プロレタリア作家協会)や、VAPP(全ロシア・プロレタリア作家協会)といったものではなく、RKP(ロシア共産党)である。同志たちは党にきて勉強すべきだ。党はプロレタリア詩人に教育し、純粋な芸術的作家をつくり出す。それゆえ、共産主義作家は、党員として、党内での創作活動に注意を集中しなければならない」。
ロシアの文化と知識人の悲劇は進行しつつありました。党への忠誠心は彼らの創造的自由を奪うことになります。初歩的な社会主義思想が理解できる国民をつくるため、ボリシェヴィキは素朴な知的文献を国民に与えました。その一方、読むのを禁じられた文学の分野は、その後70年間に常識を超えた範囲にまで広がりました。ソヴィエト知識人の教育は、『党組織と党文献』の中に編み出されています。これによれば、文学は党の仕事であり、新聞は党組織の管理下に置き、作家は党員でなければならないと明示されています。いったんレーニンが政権の座についてからは、こうした考え方がひとつの政策になりました。
そこから、まず第一に、知識人はふるいにかけなければならない。革命が要求するものに応じられない人たちを排除しなければならない、という発想につながります。
第2分類、「同盟者」知識人、同伴者文学の作家・詩人
これは、プロレタリア作家ではないが、十月革命への同調を示した作家たちとその作品をいいます。レオーノフ、エセーニン、A・N・トルストイ、エレンブルグ、マヤコフスキー、パステルナークら、旧知識人系、農民系、都市小市民系、帰国者や芸術左派戦線所属者などがこの名前で呼ばれました。
しかし、ワップの後を引き継いだラップは、共産主義世界観に偏った創作方法を掲げ、非プロレタリア系作家への攻撃を強めました。ラップは、同伴者文学擁護派との激しい論争を繰り返し、創作・批評における政治主義的傾向を強め、ゴーリキーやショーロホフを含む非プロレタリア系作家に、「卑属社会学的、世界観偏重」の非難を浴びせ、その批評は“ラップの棍棒”と怖れられました。
プロレタリア派が力を得るにつれて、非共産党員作家にたいする論難はきびしくなりました。ついには、『同盟者か敵か』『われらか敵か』として、圧力が加えられました。ザミャーチンは、1905年以来のボリシェヴィキ党員で、ゴーリキーとともにロシア文学の中心で活動していました。彼のSF小説『われら』や短編にたいしても、強烈な攻撃が始まりました。彼だけでなく、ゴーリキー、エレンブルグ、マヤコフスキー、エセーニン、《セラピオン兄弟》グループも激しい攻撃にさらされました。1925年エセーニン自殺、1930年マヤコフスキーが自殺します。ザミャーチン『われら』の一節は、この状況をもっとも先鋭的に浮き彫りにしました。『われら』では、主人公D-503号は「覚え書」を40まで書きますが、すでにこれは反逆行動で、I-330号との恋愛もそうです。彼は「覚え書」にこう書きました。「私でなく<われら>です。<われら>は神に、<われ>は悪魔に由来する。すべての人も私も単一の<われら>なのであるから」。
これには、第1、第2分類以外の知識人全員が入ります。それは膨大な数になります。レーニンは、それらに「反ソヴェト」知識人レッテルを貼りつけ、その“肉体的排除”4方針を指令し、第1回発作の病み上がり状態で、強制執行しました。
レーニンの「ブルジョア」知識人にたいする『党派的』見方のいくつかを、明らかにしておきます。
1908年、レーニンは、レフ・トルストイを分析して、創造的芸術家への自分の見解を詳しく論じています。「ロシア革命の鏡としてのレフ・トルストイ」という題のこの論文は、レーニンがこの作家を革命という観点からのみ見ていたことがわかります。レーニンにとってトルストイは必要でした。なぜなら、トルストイはロシアの知識人の無力さ、無意味さを彼に示してくれた“鏡”だからです。
『(トルストイは)、一方では、ロシアの生活の比類のない画像を提供したばかりでなく、世界文学の第一級の作品を提供した天才的な芸術家。他方では、キリストをばかみたいに信じている地主。一方では、社会的な虚偽と偽りにたいするすばらしく力強い、直接的で心からの抗議、他方では、「トルストイ主義者」、すなわち、公衆の面前で自分の胸をたたきながら、「私は醜悪だ、私はけがらわしい、しかし私は道徳的自己完成を求めている。私はもはや肉を食わず、今は揚餅を食べている」という、ロシアの知識人と呼ばれる生活に疲れた、ヒステリックな意気地なし』。
ナロードニキの哲学者・作家チェルヌイシェフスキーの革命小説『何をなすべきか』を愛読したレーニンは、自分の著作に同じ題名『なにをなすべきか』を付けただけでなく、その一方で、ドストエフスキーの『悪霊』について次のように発言しました。ネチャーエフは、ナロードニキ革命組織内での裏切り者を殺害した指導者で、その事件をドストエフスキーは『悪霊』で、その殺人心理と革命家の倫理を鋭く批判的に探求しました。「『悪霊』のような反動的な小説を読む時間は私にはない。この小説によってネチャーエフのような人の存在がおとしめられている。ネチャーエフのような人はわれわれにとって必要だったんだ」(1943年、雑誌「三十日間」に掲載)。
1919年9月15日、レーニンはゴーリキーに長い手紙を書きました。その頃ドイツにいたゴーリキーは知識人たちの逮捕を案じる手紙をレーニンに送ってきていました。レーニンに抗議し、知識人の保護を要請するゴーリキーの手紙は、自由を求める彼の最後のあがきのように見えます。レーニンの返事には、彼の知識人にたいする基本姿勢が表明されています。それは、教条的で、怒りに満ち、命令調の冷酷なものでした。彼は逮捕に『間違いがあった』ことを認めつつも、『たしかに立憲民主党員(カデット)およびそのシンパの逮捕は、当然であり正しかった』と結論していました。
『国民の知的エネルギーと、ブルジョア知識人の影響力とを混同するのは間違っています。作家のヴラジーミル・コロレンコを例にとってみましょう。私は最近彼の小冊子「戦争、祖国、人類」を読みました。彼がこれを書いたのは一九一七年八月でした。彼はおそらく“カデット・シンパ”で、事実上は、メンシェヴィキだったと思われます。それにしても、この小冊子は、まことに恥ずべき、卑劣な、不愉快きわまりない帝国主義戦争の弁護であり、感傷的な言葉で大げさに語られています! 彼はブルジョア的偏見にとらわれた、哀れな俗物です! こういう紳士たちにとっては、帝国主義戦争における数百万の死者は援助する価値があるが……地主や資本家にたいする正義の戦争における数十万人の死は、「おおー・ああ!」というため息とヒステリーを起こさせるのです』。
レーニンはさらにこう続けました。『労働者や農民の知的エネルギーは、自分たちこそこの国の頭脳であると思い込んでいるブルジョアやその仲間、知識人、資本主義のお先棒かつぎたちを打倒する闘いにおいてますます強化されつつあります。実際、彼らはこの国の頭脳どころか、ただのくそったれなのです』。
このレーニンによる知識人「党派的」分類法からすれば、第3分類知識人は、聖職者・信徒と同じく、その存在自体が「反革命」「反革命の火種という危険階層」となります。そこから、彼ら全員を4方針で“肉体的排除”しつくす『作戦』の発想が、必然的に生じたのです。
マルクスは、権力を取っていない知識人社会主義者でした。それにたいして、レーニンは、ボリシェヴィキ単独武装蜂起によって権力奪取したが、労働経験のない知識人マルクス主義者でした。知識人特有の“うぬぼれた”エリート思想から、科学的社会主義理論は上から=知識人から注入されなければならないという「注入理論」を創作しました。それは、知識人が遅れた大衆を啓蒙するという「ヨーロッパ啓蒙思想」の系譜につながるものでした。同時に、それは、国外追放された哲学者ベルジャーエフが指摘したように、ヨーロッパ・キリスト教の「一神教」=異端教義排除の「攻撃的排他宗教」の本質をも具有していたのです。
その系譜と教義を信奉する第1分類知識人たる亡命革命家レーニンが、一党独裁最高権力者となったとき、同じ階層である第3分類知識人にたいして、どういう態度をとるかは自明のことでした。それは、聖職者にたいする『戦闘的無神論』の知識人版といえるものとなりました。彼は、3分類逆差別でふるいわけるだけでなく、同一階層である異端教義知識人の「ソ連国内存在の危険性」を、だれよりも、恐怖をもって洞察することができました。そこでのレーニンの心理は、『浄化』という言葉に集約的に表されています。『浄化』とは、彼にとって、第3分類知識人にたいして、『われらか敵か』の踏絵を踏ませ、従わない知識人に『人民の敵』レッテルを貼りつけ、『反革命活動に加担』とでっちあげ、チェーカーの暴力を使用し、4方針で“肉体的排除”を完遂することでした。
従来から、マルクス主義者は、アクトンの『すべての権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗する』というテーゼを普遍的真理と認め、資本主義体制権力者にたいしてそのテーゼを適用し批判してきました。しかし、「在権マルクス主義者」(=国家権力奪取に成功したマルクス主義革命家)は、このテーゼを自らに適用することには、拒絶反応を示しました。資本主義国のマルクス主義者たちも、それをレーニンにたいして適用しようという発想を抱きませんでした。ところが、1989年から1991年にかけて、10の一党独裁国家とその前衛党が一挙に崩壊し、その「秘密資料」の一部が公表されるに及んで、スターリンだけでなく、レーニン、チャウシェスク、ホーネッカーなど、すべての一党独裁国前衛党最高指導者にも、そのテーゼが当てはまることが証明されたのです。もし、レーニンの6000点以上の「秘密資料」が完全公開されれば、その証明度は、さらに高まるでしょう。
〔小目次〕
2、他党派系・無党派系知識人の『レーニンがしたこと』にたいする批判事項
レーニン、政治局、チェーカーは、「反ソヴェト」知識人、または「積極的な反ソヴェト」知識人というレッテルを貼りつけて、数万人の“肉体的排除”『作戦』を完遂しました。その「反ソヴェト」というレッテルに、根拠があるのかどうかを検討します。問題は、第3分類知識人が、実際の「反革命活動に加担」したかどうかです。その根拠は一切明示されていません。
1、第3分類知識人の党派支持有無関係による分析
(1)、カデット(立憲民主党)系知識人 保守だが、自由主義者です。1905年に結成され、ツアーリ帝政に批判的であるとともに、ボリシェヴィキ一党独裁にも批判的立場です。自由主義的地主とブルジョアジー、大学教授、弁護士、医師などの自由業インテリが中心でした。この政党・党員や周辺知識人たちが、「レーニン批判」をしたとしても、党全体の方針として、白衛軍に加担したり、反革命活動に参加した証拠はありません。しかし、レーニンは、『浄化』の第1対象として、はやくも、1919年に彼らを大量逮捕し、“肉体的排除”4方針を執行しました。これは、「反革命」の恐怖におののく25%少数派レーニンらによる“予防拘禁”“予防追放”措置でした。ソルジェニーツィンは、上記引用のように『インテリゲンチャの8割までが《立憲民主党周辺》』としています。ゴーリキーが抗議した手紙内容とレーニンの返事は、この逮捕・追放に関するものです。
(2)、メンシェビキ(ロシア社会民主労働党)系知識人 プレハーノフ創立の伝統を受け継ぐロシアのマルクス主義政党です。二月革命以降、レーニンの2段階プロレタリア革命路線とマルトフらのブルジョア革命路線とに分離しました。労働運動、二月革命で中心的役割を果しました。7月には、党員が20万人になりました。レーニンの10月単独武装蜂起以降、その対立は決定的になりました。その路線から、レーニン・ボリシェヴィキ批判は一貫していましたが、白衛軍に加担した事実はありません。レーニンとチェーカーは、彼らを監視、逮捕し、非合法化と合法化を繰り返し、意図的に弾圧しました。1921年2月、ペトログラードの労働者大規模ストライキに逮捕を免れていた党員たちが参加しました。しかし、ペトログラード・チェーカーにより、その労働者・党員たち5000人が逮捕され、拷問死、銃殺、強制収容所送りされ、党組織はほぼ壊滅させられました。
(3)、エスエル(社会主義者・革命家党)、左派エスエル系知識人 革命的ナロードニキ運動の伝統に立つロシアの革命政党です。「土地社会化」綱領を掲げ、国民の8割を占める農民の大きな支持を受けました。二月革命後、党員は100万人を越えました。1917年11月のボリシェヴィキ単独政権が行った憲法制定議会選挙で、707議席中、438、得票率40.3%を得て、第一党になりました。しかし、12月に、ボリシェヴィキ支持の左派エスエルが分裂します。レーニンは、「分裂前のエスエル統一名簿だから選挙は無効」といいがかりをつけて、憲法制定議会武力解散の暴挙をしました。25%ボリシェヴィキの『クーデター』にたいして左派エスエル以外の全党派がこれに猛反発しました。メドヴェージェフは、ソ連崩壊後の新資料に基づき、この武力解散を内戦の第1原因と規定しました。左派エスエルは、ボリシェヴィキと連立政権を組みましたが、1918年3月のブレスト講和条約に反対して、3カ月間だけで連立を離脱しました。
二月革命以降の農民ソヴェトによる自力の土地革命を指導し、一貫して、最初から現物税、自由商業を主張し、1921年のレーニン「新経済政策」内容を先取り提案していました。よって、レーニンの1918年5月からの「食糧独裁令」に反発し、ボリシェヴィキへの批判を強め、レーニンのチェーカー・赤軍暴力支配体制、軍事=食糧割当徴発にたいして、武装抵抗もしました。ただ、タンボフで農民反乱を起すことに、党は反対でした。しかし、エスエル党員である反乱指導者アントーノフが、党の方針に逆らって、レーニンによる過酷な「軍事=食糧割当徴発」にたいして、武装抵抗をしたのです。レーニンは、その真相をタンボフ県チェーカーからの報告によって承知した上で、それを『エスエルの武装反乱、陰謀』とでっち上げました。1921年4月タンボフの森に逃げ込んだ「反乱」農民にたいする『毒ガスの使用』をも指令しました。1921年6月『裁判なし射殺』指令を発して、数万人の農民とともに、エスエル・左派エスエルとその知識人を大量虐殺、殲滅しました。これらが、レーニン生存中における意図的な他党派殲滅=一党独裁政治体制完成の真因です。
(4)、アナキスト系知識人 ロシアのアナキズムは、民衆と知識人の側の組織されない分散した点の抵抗として、世界でも例をみないほどの広がりを持ちました。バクーニン、クロポトキンらの思想的影響と伝統は根強いものがありました。ナロードニキ運動と一体化したときのアナキズムは、テロリズムを前面に押し出しました。ウクライナのマフノ軍は、農民の強い支持を受け、最盛期には5万人以上の勢力を持ち、ボリシェヴィキと協力して、ドイツ占領軍や白衛軍とたたかいました。しかし、レーニンの食糧独裁令に反対し、1920年〜21年、赤軍との戦闘で、敗れ、双方に数万人の犠牲者を出しました。1921年3月、“革命の栄光拠点”クロンシュタット・ソヴェトの反乱では、アナキストが大きな役割を果しました。そのアナキズム思想から、ボリシェヴィキの中央集権強化路線・一党独裁システムには、強烈な批判を持ちました。
(5)、無党派系知識人 特定の党派に属さず、「非ソヴェト」無党派系の知識人も多数いました。しかし、レーニン式の『われらか敵か』という知識人ふるいわけ法からみれば、彼らも「反ソヴェト」知識人=『人民の敵』に自動的に入れられます。
これら5つの第3分類知識人階層は、ロシア社会において、帝政時代や、1917年二月革命時期も、数万人の聖職者と並んで、大きな思想的・精神的影響力を持っていました。彼らは、『レーニンのしたこと』にたいするもっとも強固な批判勢力を形成していたのです。
2、他党派系・無党派系知識人の『レーニンがしたこと』にたいする批判事項
「反ソヴェト」「積極的な反ソヴェト」の内容は何でしょう。知識人たちが、国家権力に批判的見解を持ち、それを言動に表すのは、当然のことです。第3分類知識人たちの、レーニン・ボリシェヴィキ一党独裁権力にたいする批判事項は、多々あります。ここでは、その項目と簡単な説明にとどめます。日付は新暦にしました。
1917年11月7日、ボリシェヴィキ単独武装蜂起・権力奪取 第2回全ロシア・ソヴェト大会が翌日予定されていました。また、11月に憲法制定議会選挙を施行することにボリシェヴィキも賛成し、その打ち合わせ会議にも参加していました。その時点で、なぜ武装蜂起をする必要があったのでしょうか。ツアーリ帝政を倒した二月革命では、労働者・兵士ソヴェトとメンシェビキ、エスエル党が中心勢力でした。ボリシェヴィキはその時点では、党員数24000人の弱小政党で、基本的役割を果していません。7月を境目として、「土地、平和、パン」「戦争を内乱に転化せよ!」を掲げるボリシェヴィキ勢力が、ペトログラード、モスクワの2大首都、および陸海軍内で急伸張しただけでした。7月の党員数は、エスエル100万人、ボリシェヴィキ24万人、メンシェビキ20万人でした。たしかに、臨時政府に入っていたメンシェビキ、エスエル党は、「土地、平和」問題解決に及び腰でした。メンシェビキ、エスエル党は、ケレンスキー内閣に閣僚を出していましたが、同時に、ボリシェヴィキと並んで、全ロシア・ソヴェト大会の中心となる革命政党でした。
その状況・経過から見ると、ボリシェヴィキ武装蜂起・権力奪取は、12月に分裂する前の左派エスエル以外の他党派、知識人にとって、『レーニンとペトログラード・ソヴェト議長トロツキーのクーデター』そのものでした。それは、従来からの「レーニン神話」通説のように、「二重権力」の一方としての臨時政府にたいする武装蜂起という側面があります。しかし、“ひた隠しにされてきた”別の側面は、『革命勢力内の「ぬけがけ」的クーデター』という本質を持つものでした。ツアーリ帝政を打倒した二月革命および全ロシア・ソヴェト大会の中心であり、かつ憲法制定議会選挙施行で一致していた2大社会主義政党とアナキストたちは、“レーニンの「ぬけがけ」的権力奪取”
に強烈な怒りを抱き、その“暴挙”を告発しました。左派エスエル系知識人以外の全政党と知識人が、それに猛反発したのは当然です。党内でも、ジノヴィエフとカーメネフが、この武装蜂起に反対し、レーニンが2人に『反革命分子』のレッテルを貼りつけて、罵倒したことは、有名な話です。この問題のボリシェヴィキ党内論争については、R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』(蜂起、連立か独裁か)が豊富な資料で解析しています。
1917年11月8日、カデット機関紙「レーチ」、ブルジョア新聞閉鎖措置 革命政府(人民委員会議)が樹立された翌日、軍事革命委員会は、レーニンの強い主張を受け入れて、カデット機関紙「レーチ」、その他のブルジョア新聞を『反革命活動』の理由で閉鎖しました。さらにその翌日、『出版にかんする布告』を発し、敵対的な新聞の封鎖を命じました。
『布告』発令前の全ロシア中央執行委員会では、左派エスエルだけでなく、ボリシェヴィキの一部も、それに猛反対しました。その会議で、左派エスエルは、「出版にかんする布告」の廃止を求め、次のようにその理由を明かにしました。「われわれは、社会主義を暴力的というべき方法をもって導入しようと考える世界観を厳しく拒否する。われわれが勝利をおさめるのは、われわれがブルジョア新聞を閉鎖するからではなく、われわれの綱領と戦術が広範な勤労大衆の利益を表現し、兵士、労働者、農民の強固な団結をつくりだしているからである。ブルジョア新聞および黄色新聞のおびただしい虚報にたいして、われわれは、革命家の、社会主義者の真実をもってこたえた。勤労大衆には、大衆闘争という信頼すべさ羅針盤がある」。ブルジョア新聞にたいしては、それを暴力的に閉鎖することによってではなく、真実の訴えをもって思想闘争により勤労人民大衆の団結を組織することによって勝利すべきだし、勝利できる、というのでした。他にも、出版の自由の規制は、自由な出版を不可欠とする大衆運動を害することになりかねない、のみならず政治的テロルや国内戦争に火をつける、として廃止を訴えました。
武装蜂起による死者は、双方合わせて10数人だけでした。レーニンも『テロルなど問題にならなかった』と認めています。たしかに、臨時政府内のカデット閣僚5人が、コルニーロフの反乱を契機に辞任したのは事実です。しかし、ソ連崩壊後の資料によっても、レーニンのレッテル『コルニーロフの反乱にカデット党が加担したから』という事実はありません。それは、レーニンのウソです。それは、レーニンによる“権力奪取と同時の先制攻撃”としての「ブルジョア階級からの言論出版の権利剥奪」政策でした。すべての他党派、知識人が、それを言論・出版の自由への弾圧として、強烈に反対、批判しました。この問題については、大藪龍介『国家と民主主義』が、詳しい分析をしています。
1918年1月18日、憲法制定議会武力解散 この選挙は、1917年11月25日開始で、ボリシェヴィキ政権が執行したものです。投票率は50%弱で、選挙結果の得票率は、エスエル40.4%、ボリシェヴィキ24%、カデット4.7%、メンシェビキ2.6%でした。レーニンは、憲法制定議会に、ボリシェヴィキ権力とその諸政策を承認するよう要求しました。上記の反発の蓄積から、他党派は、その要求を拒否しました。すると、レーニンは『左派エスエルが12月に分裂しており、選挙結果は、分裂前のエスエル統一名簿で行なわれたから無効』と、いいがかりをつけて、クロンシュタット水兵の暴力を使って、議会武力解散を強行しました。レーニンのこれら3連続『クーデター』の暴挙にたいして、左派エスエル以外の他党派、知識人は、怒りを込めて、レーニン批判、ボリシェヴィキ批判をしました。ロイ・メドヴェージェフが規定したように、これへのすざまじい怒り・反発が、1918年から20年内戦の第1原因になりました。この問題は、ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』、中野徹三『社会主義像の転回』(制憲議会解散論理)が研究しています。
1918年3月3日、ブレスト・リトフスク講和条約 「戦争を内乱に転化せよ」と、「土地、平和、パン」のスローガンで、レーニンの権力奪取戦術は成功しました。しかし、ボリシェヴィキ政権によるドイツなどとの講和条約は、領土一部放棄などの屈辱的条件を含むものでした。左派エスエルは、それを批判し、連立を離脱しました。
1918年5月〜21年3月、農民への食糧独裁令 戦争中からの飢餓状態を克服できないので、レーニンは、中央集権的食糧政策をとり、食糧独裁令を発令しました。1918年秋からは、食糧調達を強化するために、チェーカーと赤軍を使った「軍事=食糧割当徴発」体制に移行しました。この実態は、農民からの過酷な食糧収奪そのもので、各地で農民の抵抗・反乱が発生しました。1920年、21年には、シベリア、タンボフで大規模な農民反乱が起こり、レーニンは、5万人の赤軍、チェーカーによりそれを武力鎮圧し、反乱参加農民の大量「裁判なし射殺」を指令しました。タンボフの森に逃げ込んだ農民たちにたいして、鎮圧司令官トハチェフスキーは、レーニンの指令に基づいて、1921年4月、毒ガスまでをも使用して、大殺戮をしました。エスエル、左派エスエルとも、1918年の最初から、食糧政策として、現物税・自由商業を提案していました。そこから、エスエル系知識人らは、レーニンの食糧独裁令に強く反対し、批判していました。レーニンの「ネップ」内容は、エスエル政策を3年遅れで、採用したものです。これは、内戦の第2原因となりました。3年間に及ぶレーニン、ボリシェヴィキの誤りの継続は、数万人の農民を射殺・人質・強制収容所送りにしただけでなく、ロシア農業経営そのものを破壊しました。この全経過は、レーニンが、農村ソヴェトから地方分権権力を奪っていく過程でした。この問題は、梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』と、『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』(戦時共産主義)の2冊が、膨大なソ連公文書を使って、解明しています。梶川氏は、これらによって、レーニンの「労農同盟論」の欺瞞を暴き、労農同盟の存在を否定しました。
1921年2月、ペトログラードの労働者ストライキ 労働者たちとメンシェビキ系知識人は、飢餓状態改善、そのための「食糧独裁令」撤廃を求めました。さらに、「労働の軍事化」「工場経営における個人独裁の承認と導入」方針に反対して、モスクワでの労働者ストライキに続いて、大規模なストライキを行いました。なぜなら、レーニン、トロツキーの方針は、労働者ソヴェトから工場内自主管理経営権力を奪っていく過程そのものだったからです。まず、最大の金属工場トルーボチヌイ工場の労働者がデモをし、ストライキを呼びかけました。瞬く間に、全市にストライキが広がりました。2月28日には、革命拠点のプチロフ工場6000人もストライキに立ち上がりました。チェーカーによる逮捕を免れていたメンシェビキ知識人も多数参加しました。
レーニンとペトログラード党議長兼ソヴェト議長のジノヴィエフは、武装した士官学校生徒の一中隊を急派しました。さらに、防衛委員会という特別参謀本部を設置し、ペトログラード包囲状態宣言を発しました。夜間通行、集会を全面禁止し、党員にたいする総動員令を出し、ストライキ鎮圧の特別部隊も編成しました。ストライキ参加工場を赤軍とチェーカーでロックアウトしました。レーニンとジノヴィエフは、ペトログラードの軍事的包囲と工場ロックアウトの下で、ペトログラード・チェーカーに指令して、メンシェビキ系知識人と労働者5000人を逮捕し、そのうちの多数を拷問死させ、銃殺しました。メンシェビキ指導者ダンの計算では、2月の最後の数日間だけで、逮捕された500人の「反抗的」労働者と組合幹部が牢獄で絶え果てました。
(注)、地図の□印は、クロンシュタット側の海上砦
1921年3月、クロンシュタット・ソヴェト水兵の反乱 ペトログラードのすぐ沖にあるコトリン島要塞全体が、クロンシュタット・ソヴェトで、1905年革命、1917年二月革命以来の“革命の栄光拠点”でした。ボリシェヴィキが一党独裁を強化し、他党派を逮捕し、農民への食糧独裁令による過酷な収奪を行い、反乱を武力鎮圧することに、農民出身の兵士たちは、“ボリシェヴィキの裏切り、反革命”と実感していきました。2月のペトログラード労働者ストライキに関心を寄せていたクロンシュタット・ソヴェトは、ストライキの真相を知るために、ペトログラードに代表団を派遣しました。
そこにボリシェヴィキによる「赤軍内における階級制持ち込み」の方針にたいする批判が高まり、ついに「15項目のクロンシュタット綱領」を掲げて、ボリシェヴィキ一党独裁反対の武装要求に立ちあがりました。「綱領」の内容は、軍隊内階級制を廃止した兵士ソヴェトから、軍隊運営決定権を剥奪するレーニン、トロツキーの方針に反対し、『すべての権力をすべてのソヴェトへ戻す』ことを求めるものでした。即ち、ボリシェヴィキ一党独裁権力でなく労働者・農民・兵士ソヴェトに権力を戻せ、という“革命の原点”に立ち返るものでした。その本質は、レーニン、ボリシェヴィキ一党独裁政権にとって、“全ソヴェトが彼らに死を宣告し、政権からの転落を告げる、恐怖の要求”でした。ただ、この性質は、「反革命反乱」ではなく、「ソヴェト革命」内部での権力問題要求でした。レーニンは、トハチェフスキーを鎮圧司令官に任命し、クロンシュタット・ソヴェト水兵、アナキスト、住民55000人を殺戮、死刑、拷問死、強制収容所送りで殲滅しました。鎮圧後、レーニンは、コトリン島での「ソヴェト再建」を許しませんでした。ここでは、アナキスト系知識人が、ウクライナのマフノ軍内と同じく、大きな思想的影響力を持っていました。この反乱については、P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』と、イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』の詳細な研究があります。
1922年2月、教会財産没収、聖職者全員銃殺指令 これには、すべての党派系、無党派系知識人が猛反発をし、レーニンの聖職者銃殺政策を批判しました。このテーマについては、私(宮地)が、『聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理』で分析しました。
私(宮地)は、ブレスト条約については、領土一部放棄などの屈辱的内容があるにしても、「土地、平和、パン」スローガンにおける「平和」を回復する手段として、やむをえない、正当な選択だったと判断しています。しかし、上記他の路線、政策は、ソ連崩壊後、「レーニン秘密資料」「アルヒーフ(公文書)」が一部公開されてきた2001年の現時点で見ると、すべてレーニンの重大な誤り、誤った大量殺人=「人道にたいする前衛党犯罪」だと考えています。
第3分類(1)〜(5)の知識人たちが、その当時、これらに批判的見解を持ち、その批判を言動に表したのは当然で、かつ、正当な言論の自由権に基づく行為です。たしかに、その批判内容は、「レーニン批判」「ボリシェヴィキ批判」であっても、それは「反革命」活動でも「反ソヴェト」行為でもありません。ところが、レーニン・政治局・チェーカーは、「レーニン批判」を口にする知識人に、すべて「反ソヴェト」知識人というウソのレッテルを貼りつけ、『反ソヴェト・グループ分布』表を作り、かつ、「12×7」の計算ができなかった“精神・神経症病み上がり”のレーニンがその追放リストを繰り返しチェック・指令し、数万人の“肉体的排除”を遂行したのです。
その行為こそ、レーニンの『浄化』という言葉の本質です。あらゆる批判者・抵抗者・「存在すること自体が異端」である聖職者を、銃殺、裁判なし射殺、強制収容所送り、拷問死、強制労働死、国外強制追放、辺境地移住などの“肉体的排除”手段によって、ボリシェヴィキ一党独裁国家を『浄化』しぬくことが、レーニンの権力目的だったのです。レーニンは、まさに、『権力のための権力者』として、『「国家と革命」の浄化』目的のために手段を選ばないという、強靭な信念をもつ、異様な天才でした。通常の「在権マルクス主義者」レベルでは、このような『浄化作戦』には、とてもその神経が耐えられないでしょう。ただ、これらの大量殺人指令とそれによるストレスが、第1回発作の引き金になったかどうかは分かりません。
一方、レーニンは、その「人道にたいする前衛党犯罪」指令の手紙・メモなど多数に、『極秘』『絶対に写しをとらないこと』とわざわざ書いて、6000点もを「秘密資料」として、隠蔽しつくしました。彼は、その“気配り”の面でも、もっとも『党派性』の高い政治家でした。その面でのレーニンの天才性は、1991年ソ連崩壊により、「秘密資料」のごく一部が公開されるまで、世界と日本の全左翼に、「レーニン神話」を74年間も信じさせ続けてきたことからも証明できます。
もっとも、レーニン死後、ドイツ、イタリア、日本のファシズムが世界を覆いかくすように広がりました。それに対抗できる唯一の「労働者の楽園」「世界初の社会主義国家、ソ同盟を守れ」というスローガンへの信仰が湧き上がってきました。そこから、レーニンの欠陥や粛清事実から目をそむけ、仮にそれを聞いたとしても、「『レーニンのしたこと』は、反革命分子にたいする大量殺人・国外追放措置で、すべて当然であり、正しい」となりました。その信頼が、スターリンの意図的情報操作とあいまって、「レーニン神話」をより強固で、永続的なものにしていたことは事実です。
かくいう私(宮地)も、「1977年、40歳で除名」になるまで、日本共産党専従として活動し、その間、マルクス・レーニンの文献だけでなく、ロシア革命史、ロシア・ソ連文学を、百数十冊夢中になって読みまくり、「レーニン神話」の世界にどっぷりつかっていました。よって、他人のことを単純には批判できません。
3、逆説のロシア革命史=レーニンこそ「反ソヴェト」知識人
このテーマは、ここで書くには、大きすぎ、複雑すぎます。ただ、私(宮地)は、(関連ファイル)のすべてで、このテーマを書き、あるいは転載しています。説明不足による誤解を承知で、「反ソヴェト」知識人問題との関係で、簡潔に『逆説のロシア革命史』の一端をのべます。
レーニン・政治局とは、武装蜂起・権力奪取・憲法制定議会武力解散をした、得票率24%、議席獲得率25%という少数派による一党独裁政党の最高指導部でした。通常の議会制度では、瞬時に政権転落する支持率の政党でした。その少数派『クーデター』権力を維持するには、赤軍・チェーカーという中央集権的国家暴力装置に依存するしかありませんでした。権力奪取3年余後の1921年には、農民・労働者・兵士ソヴェトの「反ボリシェヴィキ一党独裁」全面反乱により完全に孤立した危機的状況に追いこまれていました。農民・労働者・兵士ソヴェトが反乱を起したという事実は、何を意味するのでしょうか。それは、レーニンとボリシェヴィキの方こそが、「反ソヴェト政党」「二月革命の成果にたいする裏切りの反革命政党」であることを、それらの農民・労働者・兵士ソヴェトによって宣告されたことになるのです。レーニンが、彼らの系統に属する知識人の存在自体を、“恐怖の存在”=『反革命の温床』『人民の敵』と思ったのは、一党独裁政権崩壊の危機に直面した少数派独裁権力者の当然の心理だったのです。
「ソヴェト」「反ソヴェト」という言葉は二面性を持っています。
(1)、「ソヴェト」=「ソヴェト社会主義共和国連邦」と規定する国家システムそのものを意味します。「反ソヴェト」=ソ連刑法の国家反逆罪に相当する政治犯罪概念です。レーニンは、この概念を当てはめて、「反ソヴェト」知識人のレッテルを貼り、数万人の“肉体的排除”をしました。
(2)、「ソヴェト」=二月革命から10月にかけて、ロシア全土に作られた、まったく新しい自然発生的権力機構である労働者・農民・兵士ソヴェトのことです。そこから、「反ソヴェト」=その自治的権力機構から、その実権を奪って、従来型の中央集権制国家機構に作り変えていこうとする動向です。1921年、各階級ソヴェトの反乱は、レーニン・ボリシェヴィキによる各階級向け政策・方針への反対というだけではありません。その根底には、その動向と結果にたいして、「奪われた権力」と受け止め、それに抵抗する思想がありました。私(宮地)がのべる『逆説のロシア革命史』の観点は、(2)の立場に立つものです。
レーニンは、1917年二月革命ツアーリ帝政打倒後、4月に、ドイツ軍部が仕立てた「封印列車」で、フィンランド駅に到着しました。そこで、『すべての権力をソヴェトへ』との「4月テーゼ」を訴え、大歓迎を受けました。その後、そのスローガンを一時、引っ込めます。7月以降、臨時政府参加のメンシェビキ、エスエルの政策に各ソヴェトの不満が高まりました。10月が近づくと、レーニンは、再び『すべての権力をソヴェトへ』と『土地、平和、パン』の政策を掲げ、それへの支持が、農民ソヴェトとペトログラード、モスクワ大都市ソヴェトで、高まりました。農民ソヴェトは、二月革命以来、地主から土地を取り上げ、農村共同体内で再分配する「農民革命」を自力で遂行していました。「10月革命」とは、都市プロレタリアート、兵士ソヴェトおよびボリシェヴィキによる都市における権力奪取と、土地再分配の「農民革命」との“複合革命”でした。レーニンが、すでに行なわれていた、既成の土地再分配結果と農村自治権力を『土地にかんする布告』で認めたかぎりにおいてのみ、農民ソヴェトはボリシェヴィキ一党独裁政権を支持しました。また、白衛軍の「反革命」に反対しました。なぜなら、白衛軍・地主部隊が勝てば、再び地主に土地を取り上げられてしまうからです。労働者・兵士ソヴェトも、レーニンのスローガンが、勝ち取った「地方分権的自治的ソヴェト権力機構」を承認したと受け止めて、熱烈に「10月革命」を支持したのです。これが、各ソヴェトによるボリシェヴィキ25%少数派政権への支持関係の実態です。
ところが、『すべての権力をソヴェトへ』スローガン・公約によって支持を得たレーニンが、一党独裁権力を手にして以降は、その公約を裏切ったのです。彼は、一貫して、各ソヴェトの地方分権・自治権をたくみに奪いつつ、「強固な中央集権的ボリシェヴィキ独裁権力の樹立」を目指し、10月のスローガンを自ら裏切っていく路線・政策過程を歩んだのでした。そして、「ソヴェト社会主義共和国連邦」の国家システムのあり方をめぐって、激烈な闘争が、ロシア全土の各ソヴェトとレーニン・ボリシェヴィキとの間でたたかわれました。その争点は、従来のどの国家もなしえなかったような(2)「各階級・地方ソヴェトの連合による地方分権的国家権力制度」を基軸に据えるのか、それとも、そこから権力を奪って、従来型の(1)「ボリシェヴィキ一党だけによる中央集権的国家権力システム」に、強引に持っていくのか、というテーマでした。
レーニンは、武装蜂起2カ月後の12月に、はやくも秘密政治警察チェーカーを、1918年1月に赤軍を創設しました。勝利したのは、チェーカーと赤軍という暴力機構を作り、『国家と革命』理論に基づく中央集権型国家暴力装置を強化し続けたレーニンでした。それは、各ソヴェト側から見れば『奪われた権力』という結果になりました。ダンコースは『奪われた権力』(ソ連における統治者と被統治者、新評論、1982年)で、その経過を解明しています。各ソヴェトは、1918年5月「食糧独裁令」による農民からの食糧収奪開始から1921年初めまでの2年8カ月間、ボリシェヴィキ路線とその方向を体験しました。それによる結論は、レーニンこそ、『すべての権力をソヴェトへ』の公約を裏切って、チェーカー・赤軍暴力に依存して、各ソヴェトから実権を奪っていった「反ソヴェト」知識人であるとなったのです。レーニンこそ、二月革命から10月にかけて自治権力を勝ち取った各ソヴェトにたいする「反革命分子」であるとなったのです。
1920年秋までに、内戦は終了しました。その間、各ソヴェトは、『「反ソヴェト」知識人レーニンがすること』に我慢していました。なぜなら、白衛軍・地主部隊が勝てば、ボリシェヴィキによる自分たちの自治権力剥奪どころか、帝政時代の支配体制に戻ってしまうことが明らかだったからです。内戦終了と同時に、農民・労働者・兵士ソヴェトが、『奪われた権力』の奪還を求めて、農民反乱・労働者ストライキ・水兵反乱という武力要求・実力行使要求行動に決起したのです。チェーカー・赤軍という中央集権的国家暴力装置を日常的に行使する「ソヴェト権力簒奪者」レーニンにたいする要求の形態は、武装抵抗、ストライキ、街頭デモという「実力をバックにした要求行動」にならざるをえませんでした。これが、“武装蜂起3年余後の1921年に勃発したボリシェヴィキ政権最大の危機”の性質です。「反ソヴェト」知識人レーニンには、各ソヴェトの要求に応える選択肢がありました。しかし、彼は、それを拒絶し、要求行動にたいして全面武力鎮圧・大量殺人という選択肢を採りました。
ただ、武力鎮圧後も、農民にたいして「軍事=割当徴発」を続ければ、その「悪政」によってすでに農業経営が破綻した極限状態を原因として、政権が崩壊してしまう危険が明らかでした。「軍事=割当徴発」路線を廃止し、10%の現物税、禁止していた自由商業承認などを内容とする「ネップ=新経済政策」は、たしかに正しい農民・農業政策でした。しかし、それは、レーニンが、政権転落を避けるための『一時的後退戦術』として、3年前からエスエルが提案していた政策を、“そっくりそのまま”“やむをえず”採用したもの、というのが真相です。
従来の「レーニン神話」説では、これらの背景・前後経過をすべて捨象して、「ネップ」路線採用を“レーニンの偉大な業績”として、レーニン讃美をする内容になっています。その「レーニン神話」説は、歴史の真実なのでしょうか。「ネップ」発令3カ月後の1921年6月、「反乱農民にたいする『裁判なし射殺指令』」に基づき、数万人の「反乱」レッテル農民・エスエル党員大虐殺が、5万人の赤軍とチェーカーとによって、ソ連全土で展開されました。さらに、1922年の「2大粛清事件」は、1921年3月「ネップ」発令後に、レーニンが直接指令・督促して、大々的に行ったものです。その「農民裁判なし射殺・聖職者全員銃殺・知識人追放の3連続大量殺人・“肉体的排除”」指令と「ネップ」との関係をどう見るべきでしょうか。レーニンが、「ネップ」によって、各ソヴェトの要求をのむという路線に全面転換をする戦略など採用していないことは明白です。レーニンは、1924年1月死去まで、文字通り『一党独裁権力を維持・強化することだけを目的とした絶対的権力者』として“絶対的に腐敗”していったのです。
もっとも、ここには、革命権力の国家システムのあり方に関する“永遠のテーマ”が潜んでいます。それは、まったく新しい型の地方分権ソヴェト形式政治制度のままで、統一国家が維持できるのか、それとも、いかなる革命も、内外情勢の圧力によって、権力奪取後は、中央集権国家機構にならざるをえないのか、という問題です。それらの両極端は、現実の国家システムとして、存在できません。となると、両者の「政略的妥協ライン」を、どちら側に傾けて設定するかという「統治と被統治」関係の綱引きになります。『レーニンのしたこと』は、プロレタリアート独裁型=実態は一党独裁型中央集権制国家機構を強化していくものでした。レーニンは、「暴力革命権力が、自らの国家を死滅させることができる」とする『国家と革命』という題名の“革命ユートピア小説”を書きました。しかし、その作者の「現存した社会主義国家」は、権力中枢部において、秘密政治警察と赤軍という暴力装置が自己増殖・肥大化を続け、「死滅ではなく崩壊」しました。
『レーニンのしたこと』が、「革命」なのか、それとも、実は「反ソヴェトの反革命」だったのかという判定は、ツアーリ帝政打倒後、上記どちらの国家システムを支持、正当とするかによって、正反対になります。74年間で、レーニン式暴力依存型国家システムは、数千万人のソ連国民の犠牲を伴って崩壊しました。それは、彼の一党独裁・中央集権型国家制度実験が失敗したことを証明しています。だからといって、二月革命以降、各ソヴェト型地方分権国家制度なら成功したかといえば、それも「歴史のIf」となり、即断できません。従来の「レーニン神話」から言えば、当時の状況、内外情勢から見ると、あの選択しかなかった、ということになるでしょう。この私(宮地)のファイル、および、(関連ファイル)は、それでも、別の選択肢があったし、当時においてもそちらを採りえたとする「選択肢的歴史分析方法」によるものです。
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(関連ファイル)
「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令と「労農同盟」論の虚実
レーニン「分派禁止規定」の見直し 逆説・1921年の危機
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り
梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』 1918年
梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』 戦時共産主義
食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、
レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討
中野徹三『社会主義像の転回』 制憲議会解散論理、1918年
アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』
ソルジェニーツィン『収容所群島』 第2章、わが下水道の歴史
P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』 クロンシュタット綱領、他
イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』 クロンシュタット綱領、他
ダンコース『奪われた権力』第1章
大藪龍介『国家と民主主義』 1921年ネップ導入と政治の逆改革