検察特別資料から見たメーデー事件データ

 

「部外秘」『メーデー騒擾事件の捜査について』より

東京地検近藤忠雄検事、川口・河井・中村・平山検事

 

(宮地作成・編集)

 

 〔目次〕

   1、検察特別資料『メーデー騒擾事件の捜査について』の入手

   2、メーデー事件の概要と位置づけ

   3、検察特別資料の数量的データ抜粋・編集

   4、東京高裁第二審の「騒擾罪不成立」判決の骨子と見解抜粋

 

 (関連ファイル)         健一MENUに戻る

     『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

     『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

     『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』

     滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

     増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

           増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」

           丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

     脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』吹田事件の背景と全経過

     伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル

 

     宮島義勇『中国密航と50年8月・周恩来との会見』統一回復・北京機関・武装闘争

     吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

     大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”

     長谷川浩・由井誓『内側からみた日共’50年代武装闘争』対談

     由井誓  『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』山村工作隊活動他

     脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

     れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』

 

 1、検察特別資料『メーデー騒擾事件の捜査について』の入手

 

 〔小目次〕

   1、入手の動機と方法

   2、特別資料の内容、目次

   3、特別資料の性格と利用価値

 

 1、入手の動機と方法

 

 私(宮地)は、日本共産党の武装闘争とメーデー事件の資料をいろいろ収集してきた。また、それらをHPファイルとして転載してきた。その動機は、2つある。第一、私は、共産党愛知県委員会専従を13年間やる中で、名古屋大須事件の被告たちと直接間接かかわりを持ち、そこから、3つの騒擾事件の真相に強い関心を抱いてきた。第二、宮本・不破らは、「武装闘争は、分裂した一方の徳田・野坂分派がやったことで、現在の日本共産党はそれになんの関係も責任もない」としてきた。それは、戦後日本共産党史を偽造・歪曲・隠蔽するという宮本顕治の重大な誤りだと判断したからである。さらに、その誤りは、党史の範囲に止まらず、共産党と左翼の影響力が強かった1950年代の日本の社会運動史全体の偽造・歪曲に繋がるからである。

 

 ただ、メーデー事件の真相を追求する上で、警察・検察側の文書を捜したが、発見できなかった。『メーデー事件裁判闘争史』(白石書店、1982年、P.229)に、古本即売会で、「部外秘」『メーデー騒擾事件の捜査について』を入手したとあった。インターネット古本屋関係で捜したが出ていなかった。ところが、Googleで「メーデー事件」を検索していたら、たまたま、国会図書館所蔵の検察報告書を見つけた。早速、国会図書館の利用者登録をし、それによる郵送複写サービスを申し込んだ。この文書入手は、登録し、申込さえすれば、誰でも利用できる。

 

 国会図書館の書誌情報

 請求記号   AZ−718−58

 タイトル    メーデー騒擾事件の捜査について

 責任表示   近藤忠雄〔ほか著〕

 出版地     〔東京〕

 出版者     法務研修所

 出版年     1955.12

 形態       285p;21cm

 シリーズ名 検察研究特別資料;第18号

 全国書誌番号 83051035

 個人著者標目 近藤忠雄(1908−)コンドウ,タダオ

 普通件名    メーデー事件(1952)メーデージケン(1952)

 NDLC     AZ−718

 NDC(8)    326.22

 本文の言語コードjpn:日本語

 書誌ID     000001633895

 

 2、特別資料の内容、目次

 

 これは、検察研究特別資料第18号となっているが、東京地検近藤忠雄検事が中心となり、川口・河井・中村・平山検事らが、メーデー事件公判中の検察側基礎データをまとめ、検察庁に報告した「部外秘」文書である。全体が、7章、285頁にわたる詳細な報告書である。7章の目次を書く。そこには、メーデー事件の概要・経過の分析だけでなく、その数量的データも膨大、かつ、綿密で、このファイルに転載しきれないほどである。ここに転載するのは、そのごくごく一部である。

 

 特別資料「部外秘」『メーデー騒擾事件の捜査について』目次

 

 第一章、総論―事件の概要。事件発生当時の社会情勢。事件発生の原因。捜査の経過。(川口検事記)

 第二章、事件発生の状況と警備―メーデー中央大会開催に関する許可申請とこれに対する警視庁の対策。警視庁の警備計画。大会と集団示威行進の状況。騒擾の発生と鎮圧まで。警備並びに騒擾鎮圧に関する諸統計。(河井検事記)

 

 第三章、日本共産党関係者の検挙状況―日本共産党の事前の動向。日本共産党関係者の行動と検挙状況。メーデー当日の行動に関する日本共産党の報告等について。(近藤検事記)

 第四章、朝鮮人団体関係者の検挙状況―朝鮮人団体のメーデー参加状況。朝鮮人団体関係者の行動と検挙状況。メーデー騒擾事件後の朝鮮人団体の動向。(近藤検事記)

 第五章、労働団体関係者の検挙状況―自由労務者団体関係。一般労働団体関係。(中村検事、平山検事記)

 第六章、学生団体の検挙状況―事件発生前の学生団体の動向。学生団体の参加状況。学生団体の行動と検挙状況。学生に関する捜査上の特異点。(中村検事記)

 

 第七章、批判と反省―警備について。捜査について。(河井検事、川口検事記)

 

 3、特別資料の性格と利用価値

 

 1952年5月1日、メーデー事件が発生した。政府・検察庁・警視庁は、直ちに、騒擾罪適用を決定し、関係者の大量逮捕を行った。

 1953年2月4日、統一公判方式によるメーデー事件第1回公判が開かれた。

 

 1955年12月、「検察研究特別資料第18号・部外秘」『メーデー騒擾事件の捜査について』が、東京地検近藤忠雄検事、川口・河井・中村・平山検事ら5人によって、検察庁内部の秘密資料として出版された。このデータは、公判維持の基礎資料だった。この出版は、12月9日、第261回公判の時期であり、そこでは、弁護側が現場警察官2人を尋問し、ガス弾発射の真相を明らかにした。

 1958年5月中旬、被告・弁護団は、古本即売会に漏れ出していた、検察側の公判維持目的を持つ秘密・基礎資料を、2500円で入手した。誰が、この秘密資料を、部外に持ち出し、古本屋に流出させたのかは、不明である。

 

 この秘密・基礎資料は、検察側の論理構成・分析とともに、逮捕者・警察官など個々の人名リストに関して、詳細・綿密な大量のデータを含んでいた。検察側の裁判作戦は、それらデータを公判でひた隠しにしつつ、騒擾罪にでっち上げることだった。被告・弁護団は、そのデータを逆手にとって、警察・検察を追求した。『メーデー事件裁判闘争史』(メーデー事件裁判闘争史編集委員会編)から、関連する個所を転載する。私(宮地)が重要と判断した個所を、文中で黒太字にした。

である。

 

 第六章、権力の不正とたたかって。第二節、嘘の拳銃使用状況報告書。2、「検察研究特別資料」の全文(P.227〜230)

 

 2、「検察研究特別資料」

 嘘の拳銃使用状況報告書と「渡辺偽証」が検察官自身の手で、検察側の警察官証人の口から暴露されたのには経緯がある。権力の不正を追及する被告・弁護団の長いたたかいが、そのことを余儀なくさせたのである。

 

 一九五八年一月三十一日統一公判が開かれた。『人民の広場』によれば四百六十一回目の公判である。

 第二段階に関する検察側証人の取調べが終わろうとしていた。その時またもや検察官は七十五名の証人を追加請求し、加えて八百二十六名の警察官の負傷状況を書証で提出すると言い出したのである。憤激した被告・弁護団はそのすべてに断固反対する論陣を張った。次つぎと証人を繰り出し、裁判を長びかせることによって立証の失敗をとりつくろおうとすることが検察官に許されてよいわけはなかった(第五章第一節参照)。

 

 被告・弁護団が検察側にぶつけた怒りの一つに「追加すべき証人があるとすれば、ただ拳銃発射警察官である」という追及があった。

 

 射殺をさえ含む拳銃による被害は、メーデー事件における警官隊の暴虐の象徴であった。検察官は冒頭陳述で「暴徒」を「鎮圧」するため「十六名が計六十一発の拳銃弾を発射したが右拳銃発射に当っては前記の如き状況下にあり乍らも危害を避ける為銃口を相手の足許又は頭上に向けて発射する等の方法によったものである」と主張していた。だが拳銃使用の実相が明らかにされ、発射が許される状況でなかったということになれば、とりもなおさずデモ隊は「暴徒」でなかったという証明になる。いやむしろ警官隊の実力行使の違法性を積極的に浮彫りにできる。被告・弁護団はそう確信していた。

 

 ことは「騒擾」の成否そのものにもかかわっている。現に、第一段階については検察官自ら発射警察官三人を証人請求したのである。そして被告・弁護団は、反対尋問を通じて拳銃発射の違法性を明らかにすることができた、と考えていた。ところが、第二段階については、すでに調べ終わった九十余名の証人にも、追加請求された七十五名の証人にも、拳銃発射状況は全く含まれていなかったのである。奇怪なことであった。

 

 統一公判で松本善明は追及している。「特に言っておきたいことは、私は唯一の追加立証の許されるべき証人があると思うのは、それは拳銃使用に関する証人であります。これは第二段階の全体がどういうことであったかということを知る上において、不可欠の証人であります。……これはあるいは騒擾罪の成立を否定するかもしれません。検察官がこれをやるならば。しかし事態の真実をほんとうに検察官が公の立場で明らかにするというならばあえてやらざるを得ない。やるべきことなのです。なぜやらないかといえば、第一段階のときの立証で明らかになったように、検察側の拳銃使用の証人というものは全く嘘つきであるということがわかる。……だれにも信用されないような証言をしてる。このみっともなさをもう一度やることを検察官がやめようとしてるだけの話です。」

 

 吉川主任検事はこの要求を拒否した。だが力なく陳弁する。「ところでこの武器使用の証人につきましては、当時の法廷をかえりみればわかるのでありますが、非常に武器使用の証人が法廷の空気を刺激いたしましたし、また尋問にはきわめて長時間を要するというような状況でありました。……こういう状況と基本的な立証の姿というものを考えたりして今回の申請の概況を見ました際に、……最小限度の立証を尽して先へ進むという観点から見るならば、まず拳銃の証人はこの際出す必要ない。また立証の過程においてすでに一般的な状況については出ておる分もありますし、まあ今後も出てくるであろう、そういう状況を睨み合わせますとこの際は申請する必要ない、こう考えて今回の申請からは除いたわけであります。」

 

 検察官はこの時すでに、虚偽の拳銃使用状況報告書が作成され、その“偽造”を指示した渡辺中隊長が偽証していたことを、確実に知っていたのである。その後の追及でわかったことであるが、前年一九五七年秋、検察官は追加立証を検討しており、その過程で丸山源八検事が拳銃使用状況報告書に“疑問”をもち、関係警察官を直接調査したというのである。真偽は別にして検察官自身のちにそう述べている。検察官としては被告・弁護団を最も“刺激”する拳銃発射問題について、不気味な爆弾をかかえ込んでいたのである。

 

 この爆弾をカムフラージュするため検察官は、八百二十六警察官負傷問題を持ち出したのかもしれない。そうだとすれば大きな誤算であった。統一公判で見せた検察官の態度は、被告・弁護団の怒りをいっそうかきたてた。その後の法廷でも機会あるごとに、負傷警察官立証を撤回せよ、拳銃発射警察官を隠すな、という抗議が続けられたのである。

 

 実のところ当時被告・弁護団には、拳銃弾による被害状況が十分わかっていなかった。射殺された高橋正夫と被告の川端弥太郎(佐川ガラス労組書記長・第二段階の攻撃で逃げるところを後方から射たれ、左臀部貫通銃創)は当然知っていたが、ほかには弁護側証人として協力を申し出ていた福島資男(左腰より右側腹部に至る盲貫銃創)、益子正教(左貫通右盲貫両膝関節銃創)、鈴木昭(右大腿部貫通銃創)、仲田美男(右大腿部貫通銃創)、小川幸雄(右足首盲貫銃創)、池田誠一(左臀部貫通銃創)、宮原久代(左臀部貫通銃創)、池沢康郎(右下腿部貫通銃創)(以上いずれも第二段階の攻撃を受け人民広場内で受傷)、内山治兵衛(「掃討戦」段階・国策パルプビル屋上で受傷、右腰より左腰に至る盲貫銃創)らであった。証人調べを終わっていた第一段階の発射警察官三人を除いては、第二段階の発射警察官十六人は氏名すらわからなかった。

 

 正義には常に味方がある。唯一必要な検察側証人は拳銃発射警察官である、という抗議が続けられていた一九五八年五月中旬、東京・神田の東京古書会館での即売会の目録にメーデー事件関係の秘密資料が出ている、という情報が被告団事務局にもたらされた。被告・弁護団は、法務研修所昭和三十年(一九五五年)十二月発行「部外秘」『検察研究特別資料第十八号メーデー騒擾事件の捜査について』を二千五百円で入手した。執筆者は東京地方検察庁検事近藤忠雄・川口光太郎・中村正夫・平山長・河井信太郎である。そこには、検察当局が病院調査や入院中の準現行犯逮捕によって確認していた拳銃弾被害者が二十二名であること、被告・弁護団が知らなかった前述の後藤和俊ら十二名の被害者の氏名と受傷・医療状況、十六警察官の氏名、所属、発射数、発射場所、拳銃使用状況などの概要が書かれていた。

 

 一九五九年三月二十七日弁護団の「第二冒陳」が行われた(第五章第五節)。「第二冒陳」の関係の証人請求と同時に弁護団は、十二名の拳銃弾による負傷者の証人尋問、拳銃負傷者・死亡者の診療録の提出、催涙ガス筒の効果の検証を請求した。そして重ねて、拳銃発射警察官を検察官自ら証人とするよう、鋭く求めた。弁護団の手にはすでにその十六人の証人尋問請求書が握られていた。検察官が応じなければ、われわれが証人請求する。気塊がみなぎっていた。

 

 検察官は被告・弁護団が確実な資料に基づいて追及していることを悟った。吉川主任検事は「過日法廷外ではありましたが、いわゆる拳銃使用報告を出してもらえないかというような要請がありまして、……拳銃使用報告をどうするかという問題もありますので、私どもとしては、弁護人との話合いの上で……あるいは弁護人のほうでそれで済ますということになるならば、証人の必要もないわけで、まあ、それで済まされないというときに、果してどういうふうに出すことにするかどうかと、そこまでは実はまだ考えていなかったわけです」となお遅疑逡巡したが、最後には「検察側から拳銃発射に関する残っております証人は、申請いたしましても結構です。検事側証人として出しましょう」と述べざるを得なかった。

 

 こうして五月六日の御園久信、飯島清次両名の証人尋問から拳銃発射に関する審理が始まったのである。それは大きな不正の暴露を避けられないものにした。いたずらに隠しだてすることは検察官の立場を決定的に不利に導く。検察官はただ、事態をいかに弥縫するかに腐心する破目となった。(P.227〜230)

 

 

 2、メーデー事件の概要と位置づけ

 

 特別資料第一章総論を、東京地検川口検事が分担した。彼は、事件の概要、事件発生当時の社会情勢、事件発生の原因、捜査の経過を詳細に分析している。もちろん、それは、騒擾罪を適用させる目的に基づく論理である。ただし、このファイルでは、この分析を転載しない。なぜなら、メーデー事件、および、日本共産党の武装闘争問題に関する私(宮地)の基本視点は、別ファイルで書いているからである。

 

 メーデー事件の概要と位置づけは、下記5つのファイルを紹介することで、置き替える。

 

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

 メーデー事件の人民広場内戦闘の真相は、参加した者それぞれの政治的思想的立場によって、大きく異なる。このファイルは、直接参加した広場の7人による〔7つの真相〕をそのまま載せた。広場内の写真もかなり載せた。

 

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』

 宮本顕治は、日本共産党員としても、武装闘争にまったく関与していないという党史になっている。たしかに、彼は、武装闘争期間、排除されて、点在党員組織隔離措置という一共産党員だった。その面で、彼には、武装闘争の指導部責任はない。しかし、現役共産党員としての武装闘争責任はある。武装闘争方針は、四全協と五全協であるが、具体的な実践は、五全協からだった。彼は、五全協前に、スターリンによる宮本顕治批判に屈服し、宮本分派を解散した。そして、「新綱領を認める」という8字の自己批判書を志田重男に提出して、主流派に復帰した。宮本顕治復帰後の武装闘争こそ、実践のほぼ100%を占める。ここに、日本共産党史の歪曲の真相がある。

 

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

 滝沢林三は、共産党員として、早稲田大学のメーデー事件における人民広場突入部隊の副責任者だった。突入後の広場の情景描写は正確である。彼は、早稲田部隊1500人の中で、唯一、メーデー事件被告にされた。

 

    増山太助戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

          増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」

          丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

 この著書は、貴重な証言に満ちている。メーデー事件前日の共産党会議において、彼は、人民広場突入に反対した。会議の決定は、突入しないことになった。しかし、志田重男の秘密指令で、その決定は覆された。その証言は、『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』にある。

 

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

 宮本・不破捏造・歪曲の日本共産党史によれば、日本共産党の武装闘争は、分裂した一方の徳田・野坂分派がやったことで、現在の日本共産党は、それにたいしてなんの関係も責任もないとしている。また、武装闘争は、朝鮮戦争に日本共産党が「参戦」した行為という真相をひた隠しにしている。その盲点を解き明かす。4事件におけるメーデー事件の位置づけを、このファイルの()を転載して確認する。

 

(表1) 4事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無

項目

白鳥事件

メーデー事件

発生年月日

概況

 

参加者

 

死傷者

1952121

札幌市白鳥警部射殺

殺人予告ビラ→実行→実行宣言ビラ

逮捕55人=党員19、逮捕後離党36人。実行犯含む10人中国逃亡

白鳥警部即死

195251

講和条約発効後の初メーデー

皇居前広場での集会許可の裁判中

明治神宮外苑15万人→デモ→皇居前

皇居前広場突入40008000人、逮捕1211

死亡2、重軽傷1500人以上、警官重軽傷832

裁判被告

 

裁判期間

判決内容

殺人罪・殺人幇助罪で起訴

被告追平ら一部は検察側証人に

8年間

村上懲役20年、再審・特別抗告棄却。高安・村手殺人幇助罪懲役3年・執行猶予。中国逃亡者時効なし

刑法106条騒擾罪で起訴253

分離公判→統一公判

207カ月間、公判1816

騒擾罪不成立、「その集団に暴行・脅迫の共同意志はなかった」。最高裁上告阻止、無罪確定、公務執行妨害有罪6

軍事方針有無

 

武器使用

共産党側の認否

関係者の自供

札幌市軍事委員長村上と軍事委員7人による「白鳥射殺共同謀議」存在

ブローニング拳銃1丁

軍事方針存在の全面否認

村上以外、「共同謀議」等自供

逃亡実行犯3人中、中国で1人死亡

日本共産党中央軍事委員長志田が指令した

「皇居前広場へ突入せよ」との前夜・口頭秘密指令

(プラカード角材)、朝鮮人の竹槍、六角棒

軍事方針存在の全面否認

志田指令を自供した軍事委員なし

増山太助が著書(2000)で指令を証言

警察側謀略有無

拳銃・自転車の物的証拠がなく、幌見峠の弾丸の物的証拠をねつ造

二重橋広場の一番奥まで、行進を阻止せず、引き入れておいてから襲撃するという謀略。判決は、「警察襲撃は違法行為」と認定

 

項目

吹田事件

大須事件

発生年月日

概況

 

参加者

 

死傷者

195262425

朝鮮動乱発生2周年記念前夜祭と吹田駅へ2コースの武装デモ→梅田駅

集会23000人、デモ1500人=朝鮮人500、民青団100、学生350、婦人50人、逮捕250人、他

デモ隊重軽傷11、警官重軽傷41

195277

帆足・安腰帰国歓迎報告大会、大須球場

 

集会1万人、無届デモ3000

逮捕890人、警官事前動員配置2717

死亡2人、自殺1人、重軽傷35〜多数

裁判被告

 

裁判期間

判決内容

刑法106条「騒擾罪」で起訴111

日本人61人・朝鮮人50人、統一公判

20年間

騒擾罪不成立

1審有罪15人、無罪87

刑法106条「騒擾罪」で起訴150

分離公判→統一公判

261カ月間、第1審公判772

口頭弁論なしの上告棄却で騒擾罪成立

有罪116人=実刑5人、懲役最高3

執行猶予つき罰金2千円38

軍事方針有無

武器使用

共産党側の認否

関係者の自供

多数の火炎ビン携帯指令の存在

火炎ビンと竹槍(数は不明)

軍事方針存在の全面否認

公判冒頭で、指揮者の軍事委員長が、軍事方針の存在を陳述。裁判官は、起訴後であると、証拠不採用

「無届デモとアメリカ村攻撃」指令メモの存在

火炎ビン20発以上(総数は不明)

軍事方針存在の全面否認

共産党名古屋市委員長・愛知ビューローキャップ永田は公判で軍事方針の存在承認→共産党は永田除名

警察側謀略有無

デモ隊1500人にたいして、

警官事前動員配置3070

デモ5分後の警察放送車の発火疑惑、その火炎ビンを21年間提出せず。警察スパイ鵜飼昭光の存在。警察側のデモ隊へのいっせい先制攻撃のタイミングよさ

 

 

 3、検察特別資料の数量的データ抜粋・編集

 

 〔小目次〕

   メーデー事件と武装闘争関係の2種類のデータ

   (データ1) 集団的暴力事犯の続発

   (データ2) 警備措置とその不備、問題点

   (データ3) 捜査の初期・中期・終期と公判請求

   (データ4) 警戒部隊の編成・装備と拳銃・催涙ガス使用状況、負傷状況

   (データ5) 暴徒側の凶器使用状況と死傷状況

   (データ6) 日本共産党関係者の行動と検挙状況

   第七章 反省と批判 (文章抜粋)

 

 メーデー事件と武装闘争関係の2種類のデータ

 

 メーデー事件と武装闘争関係のデータは、本来、2種類が存在する。共産党側と警察・検察側との両者のデータである。

 このファイル中の写真は、『広場の証言―写真で見るメーデー事件―』(1972年、絶版、法廷に提出した証拠写真)、『メーデー事件写真集』(1967年、メーデー事件被告団、絶版)をコピーしたものである。

 

 第一、共産党側データ

 これは、存在するのか。発表されているのか。宮本顕治は、ソ中両党の朝鮮戦争戦後処理方針における日本共産党にたいする人事指令で指導部に復帰できた。志田重男と宮本顕治らは、1955年六全協においても、武装闘争を「極左冒険主義」の誤りと規定しただけで、武装闘争の実態データについて、これまた、ソ中両党によるデータ公表禁止指令を受けて、何一つ発表しなかった。よって、データは当然存在するが、六全協後の日本共産党が公式に認め、発表した武装闘争実践データ、メーデー事件データは、今日まで皆無である。データとは、武装闘争実践の数量的資料のことであり、非合法の武装闘争方針文書のことではない。文書だけなら、いろいろ発掘されている。

 

    冥土出版『共産党非合法軍事文書集成1、2』復刻版

 

 不破・志位・市田らが、「共産党の武装闘争は、分裂した一方の徳田・野坂分派がやったことで、現在のわが党にはなんの関係も責任もない」という真っ赤なウソを撤回し、秘匿されている武装闘争データを公表すれば、共産党側と警察・検察側との両者のデータが揃う。宮本顕治らのスターリンへの屈服により、1951年10月五全協で統一回復した日本共産党全体が、ソ中両党の国際的命令に従属し、朝鮮戦争の後方基地武力かく乱戦争行動を起したということが、武装闘争の本質である。不破・志位・市田らが、その歴史的真実を認める日がいつか来るであろうか。それまでは、検察側の一方的なデータにならざるをえない。

 

 第二、検察側データ

 それは、全体で285頁の特別資料である。その内容は、2つで構成されている。()公判で騒擾罪を適用させるための論理と分析、(2)その基礎となる数量的データである。このファイルでは、(1)を転載しない。もっぱら、(2)を抜粋・編集しつつ、転載する。なぜなら、検察側の恣意的分析とかかわりなく、数量的データそのものは、客観的に正確な数量・人名・団体名を載せているからである。しかも、これらのデータは、メーデー事件の規模・実践レベル・警察側対応実態、および、事件の根底にある日本共産党の武装闘争方針と実践レベルを鮮明に浮き彫りにするからである。データは、私(宮地)の判断による8つの(データ)形式に直した。ただ、第七章反省と批判については、検察側による警視庁批判文章となっているので、抜粋して一部転載する。

 

 (データ1) 集団的暴力事犯の続発

 

 1、1952年1月〜5月における共産党員、朝鮮人による組織的・集団的暴力事犯

    被疑者10名以上の事犯集計(法務府検務局調査)

 月別    件数    検挙人員    起訴人員

 一月   七件     六〇名     三〇名

 二月   五件     六三名     二五名

 三月   二件    一四四名     五七名

 四月  一〇件     二四名     六〇名

 五月  二〇件  一三九六名    三一〇名

 六月  一七件   三〇八名     五五名

  註()、五月の項にはメーデー騒擾事件の検挙人員一、一〇六名・起訴人員二三一名を含む。

   ()、右件数の半数は朝鮮人を主体とする事件である。いずれも火焔瓶その他手製武器を用いる等犯行の手段は悪質化している。

 

 2、同期間における火焔瓶、ラムネ弾、ダイナマイト、催涙物、ガソリン等使用の暴力事犯発生件数六四件

    各高検管内別に集計すれば左記の通である(同右調査)。

 東京高検     二三件

 福岡高検     一八件

 大阪高検     一〇件

 広島高検      九件

 仙台高検      三件

 名古屋高検     一件

 地検管内別では、福岡九件、東京八件、横浜七件、大分六件・広島・長野各五件の順。

 

 3、使用された物による分類

 火焔瓶       二〇件

 ダイナマイト    一〇件

 ガソリン点火     九件

 ラムネ弾        七件

 催涙物         七件

 その他         二件

 

 4、使用目標となつたものによる分類

 警察署            七

 警察派出所、駐在所  一九

 警察官宅          

 警察隊            四

 税務署            九

 その他の官公署      

 民団関係          

 駐留軍関係         

 工場、民家         

 その他            

  註(1)、犯行時間は大部分が夜間で、しかもその半数は深夜である。

   (2)、被疑者の検挙をみたものは六四件中二一件である。

 

 (宮地コメント)

 これらのデータは、第一章総論、第二節事件発生当時の社会情勢(P.6〜22)にある。その第一・日本共産党の軍事方針、第二・集団的暴力事犯の続発におけるデータである。武装闘争の全期間でなく、1952年1月から6月の6カ月間の集計になっている。6カ月間に限定したことは、5月メーデー事件に騒擾罪を適用させる意図に基づいている。

 

 当時の日本共産党は、ソ連共産党・中国共産党に全面従属していた。スターリンと毛沢東は、日本共産党にたいして、朝鮮戦争参戦を指令した。徳田・野坂・志田らは、全国的な後方基地武力かく乱戦争行動を四全協、五全協で決定した。その具体的実践をしたのは、五全協からである。宮本顕治は、スターリンによって「分派」と批判された。彼は、スターリンに屈服して、志田重男に「新綱領(51年綱領)を認める」という自己批判書を提出して、主流派に復帰した。よって、五全協以後の武装闘争実践は、統一回復日本共産党が行ったものであり、宮本顕治は真っ赤なウソをついている。それら全期間のデータを載せているのは、現時点で、警察庁警備局『回想・戦後主要左翼事件』(警察庁警備局、1967年、絶版)だけである。以下の諸(表)は、それを、私(宮地)の独自判断で、分類・抽出したものである。

 

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説

 

(表2) 後方基地武力かく乱・戦争行動の項目別・時期別表

事件項目 ()

四全協〜

五全協前

五全協〜

休戦協定日

休戦協定

53年末

総件数

1、警察署等襲撃(火炎ビン、暴行、脅迫、拳銃強奪)

2、警察官殺害(印藤巡査1951.12.26、白鳥警部1952.1.21)

3、検察官・税務署・裁判所等官公庁襲撃(火炎ビン、暴行)

4、米軍基地、米軍キャンプ、米軍人・車輌襲撃

5、デモ、駅周辺(メーデー、吹田、大須と新宿事件を含む)

6、暴行、傷害

7、学生事件(ポポロ事件、東大事件、早大事件を含む)

8、在日朝鮮人事件、祖防隊・民戦と民団との紛争

9、山村・農村事件

10、その他(上記に該当しないもの、内容不明なもの)

 

 

 

 

 

 

 

2

1

1

95

2

48

11

20

8

15

19

9

23

1

 

 

 

 

5

 

2

 

3

96

2

48

11

29

13

11

23

10

27

総件数

4

250

11

265

 

(表3) 武器使用指令(Z活動)による朝鮮戦争行動の項目別・時期別表

武器使用項目 ()

四全協〜

五全協前

五全協〜

休戦協定日

休戦協定

53年末

総件数

1、拳銃使用・射殺(白鳥警部1952.1.21)

2、警官拳銃強奪

3、火炎ビン投てき(全体の本数不明、不法所持1件を含む)

4、ラムネ弾、カーバイト弾、催涙ビン、硫酸ビン投てき

5、爆破事件(ダイナマイト詐取1・計画2・未遂5件を含む)

6、放火事件(未遂1件、容疑1件を含む)

 

 

 

 

 

1

6

35

6

16

7

 

 

 

 

 

1

6

35

6

16

7

総件数

0

71

0

71

 

 (データ2) 警備措置とその不備、問題点

 

 警備措置

 1、警戒総本部長―警備第一部長

 2、現地警戒部隊―会場及び各デモコースの路線に従って大地区部隊に分け、その要員四、〇七二名

 3、警戒担当以外の全警察署には、それぞれ部隊構成をして、一〇、四五六名自署待機

 4、警戒総本部直轄部隊を編成し、一、五四〇名を本部に待機

 

 掌握していた事前情報

 (1)、「人民広場を実力でかちとれ」という日本共産党の通達、もしくは、ビラの一部は既に事前に入手されていた。

 (2)、四月二六日夜、後楽園スタジアムで開催されたメーデー実行委員会主催のメーデー前夜祭は、民青団その他の極左分子によって主導され、「統一メーデーを人民広場で、このスローガンこそ全国民の一致した要求です。この前夜祭に参加した力で、五月一日は人民広場をおおいつくそう。外苑メーデー反対、国民メーデーは人民広場で」と煽動しており、解散後約三千の急進分子が、赤旗を先頭にスクラムを組んでデモ行進を行い、水道橋巡査派出所を破壊する等の挙に出ていた。

 ()、四月二八日夜、渋谷公会堂で開かれた、西部文化協議会主催のメーデー前夜祭でも、「メーデーは人民広場で実力をもって挙行する」という挨拶がなされ、散会後学生約六百名がデモを行い、制止する警官隊に投石等の暴行に出た。

 

 警備体制の不備、問題点

 かような事前の動向からして、相当の大部隊が皇居外苑広場へ、警備の警察官を実力で排除してでも突入するという事態は充分に予想されたところといわなければならない。警視庁では、これに対して武装の予備隊三ケ中隊三三六名を皇居外苑広場内に配置し、別に拳銃を外した警戒部隊二ケ中隊一四三名を馬場先門、祝田橋の広場入口に二分して配置していたにすぎない。

 

 なお、神宮外苑大会場における過激分子の煽動と演壇、及びその周辺における集団暴行に対して、なんらの対策も講じられた形跡がない。行進開始時及び行進間の全学連・自由労務者等の不穏な行動によって、多数の過激分子が定められたコースに従わず、皇居外苑広場に向う中部及び南部コースに加わったことが判明した後の警備措置は、臨機応変・適切に行われたかという点についても疑問がある。暴徒の第一団約三千人が馬場先門に集結したのは午後二時過である。神宮外苑における事件の発生より三時間、行進開始時より一時間半を経過している。暴徒が皇居外苑広場に侵入した前後の措置についても問題となる点がある。いずれにしろ、メーデー当日の警備措置は、遺憾なく行なわれたということはできない。

 

 ともかく、当日の警備措置に若干遺憾な点があり、これが本件騒擾事件の発生、乃至はその拡大の原因となっていることは何人といえども認めざるを得ないであろう。

 

 (宮地コメント)

 これは、第一章第三節事件発生の原因(P.22〜27)にある。この内容は、東京地検側による警視庁批判である。全体的な批判は、下記の第七章にある。

 

 (データ3) 捜査の初期・中期・終期と公判請求

 

 1、捜査の初期

 騒擾の始期をいつとみるか、これがまず問題となつた点である。全般の状況、特に神宮外苑の大会場の暴行事件、デモ行進中の暴行等からみても、日比谷交叉点突破直後とするのがもっとも妥当なところと考えられた。

 騒擾参加者―()。馬場先門より突入した三千名。()、これより先三々五々広場内に入っていて、この第一波に合流したもの約千名。()、祝田橋より二回に亘って突入した約三千人。()、合せて約七千人と推定。()、このうち現行犯、準現行犯として逮捕されたものは一三一名(入院者を除く)。

 

 2、捜査の中期

 五月三日、送致一五九名、勾留請求一〇四名。

 五月三一日現在送致総人員九七六名、勾留請求累計六三二名、却下三四名、勾留中起訴一三〇名(指揮及び助勢のみ)、附和随行又は嫌疑不充分の者二七五名釈放、勾留取調中一九四名。

 

 3、捜査の終期

 七月一四日現在、送致総人員一一〇五名、勾留請求累計七四九名、却下四二名、勾留のまま起訴二四一名、勾留後附和随行又は嫌疑充分ならずとして釈放した者四五〇名、勾留取調中の被疑者一二名であつた。起訴の内訳は、騒擾指揮二六名、同助勢二〇六名、派生犯罪九名(公務執行妨害・鉄砲刀剣類等所持取締令違反等)。

 かくて、首魁の起訴にまで至らないまま、検挙済の者の大半の取調を終ったので、七月三日特捜部中心に編成されていた騒擾事件捜査本部を解散し、その後は特捜部において捜査を続けることとなつた。

 

 4、公判請求

 七月一四日公判請求の被告人氏名全員のリスト―起訴年月日、罪名(騒擾指揮、騒擾助勢)、氏名、職業団体別、犯時、犯所。

 起訴累計二六一名―騒擾指揮二七名、騒擾助勢二二四名、附和随行一名、派生犯罪九名。

 

 (宮地コメント)

 これらは、第一章総論第四節捜査の経過(P.27〜73)にある。犯時(犯行時間)、犯所(犯行場所)の詳細な特定をしている。

 

 (データ4) 警戒部隊の編成・装備と拳銃・催涙ガス使用状況、負傷状況

 

 1、警戒部隊の編成

 動員総数一六、〇六八名。内現地部隊五、六一二名。

 自署・自隊待機一〇、四五六名―内訳、本部九入八三。方面本部一二四。予備隊二、四〇三。警察署九、六六四。学校九八五。緊急招集(午後四時二五分)一、九〇九。

 

 2、皇居前広場並びにその周辺における警戒部隊の装備

 人員合計二、八五〇。拳銃着装数一、九八三。催涙筒携行数一五〇。催涙筒使用数七三.

 

 3、拳銃使用状況

使用場所

所属

人数

射耗数

発砲時刻のみで、他状況を省略

皇居二重橋前付近

一予、七予

九名

三二

午後二・五〇、九発。三・三〇、二発。三・三五、二一発

楠公銅像付近

七予

一名

午後四・一〇、二発

祝田橋付近

一予、七予

九名

三〇

午後三・三〇〜四〇、三〇発

馬場先門派出所

丸の内

二名

午後三・五〇、六発

合計

二一名

七〇

午後二・五〇〜四・一〇の間、二一名が七〇発発砲

 

 4、催涙ガス使用状況

使用場所

部隊

使用回

使用数

ガス投射時刻のみで、他状況を省略

皇居二重橋前付近

一予

第一回

一〇

午後二・四二

一予

第二回

一七

午後二・四五〜二・五五

一予、六予

第三回

四六

午後三・二五〜三・三五

合計

七三

 

 5、警備部隊負傷状況

 重態八、重傷七一、軽傷二週間一七五、一週間三二三、一週間未満二五五、計八三二。

 この一覧表は、()所属別、()場所別、(3)階級別、(4)警察病院治療状況別に、それぞれ詳細な表になっている。

 

 

    

 

中央自動車道路をはさんで 祝田橋から入って左側にある芝生を銀杏台上の島といい、

右側にある芝生を楠公銅像島という。警官隊は二重橋前からガス弾や拳銃弾を発射し、

棍棒で暴行をふるいながらデモ隊を追って中央自動車道路の手前まできて停止した。

 

 (宮地コメント)

 これらは、第二章事件発生の状況と警備第五節警備並びに騒擾鎮圧に関する諸統計のデータである。一予、七予とは、第一方面予備隊、第七方面予備隊の略称である。発砲した二一名の階級・氏名リストと発砲の状況詳細があるが、省略する。この拳銃使用状況の一覧表を検察側は、公表せず、隠蔽していた。しかし、この検察特別資料を被告・弁護団側が入手したことで、公判進行の力関係を劇的に変えることが可能になった。検察側は、拳銃発砲警官リストを、被告・弁護団側が入手したことを察知して、やむなく、拳銃発砲警官の検察側証人申請をした。被告・弁護団側は、その反対尋問を通じて、騒擾罪でっち上げの不当性を暴いた。

 

 (データ5) 暴徒側の凶器使用状況と死傷状況

 

 1、暴徒側の凶器使用状況

 皇居前広場周辺に遺留された兇器等より判断するに、彼ら暴徒は数日前より対警察官の戦闘準備をしたもののごとく、完全なる槍先をプラカード、旗竿等に装着し、又は警察官の警棒に対抗するために、必要以上の強靭な木材を使用したプラカード、更に二寸位の釘を数本突出させたプラカードを所持した。その他角材、丸太材、野球バット、目つぶし(硝子玉を混用)、石、瓦、鉄棒、鉄切れ、ラムネ瓶等多数携帯使用した。その種類・数量等は「現場遺留品目録」の通りである。(数量の「位」は省略。合計数量はない)

 

遺留場所

角材

木片

棒切れ

樫棒・丸太

ラムネビン

楠公銅像付近一帯

一五七

石油箱木箱二箱

八二

一二〇

二重橋付近一帯

六五

石油箱木箱一箱

八〇

三〇

祝田橋付近一帯

四〇

若干

九〇

六〇

一〇

三〇

合計

二六二

三箱

二五二

二一〇

一七

三〇

 

 2、暴徒側の死傷状況

 )、暴徒側負傷状況一覧表

 警察署別の一覧表で、七四署別に、()男、()女、()計という表になっている。七四の警察署が、病院現場、聞込み、内偵をして判明した。総計は、()男三三五、()女五九、()計三九四名の重軽傷である。

 

 )、死者

 死者は二名であり、その原因は、一名は拳銃弾による貫通銃創、一名は圧死である。その氏名、身分、年齢等は次の通りである。

 ()、東京都主事補、高橋正夫(当二三年)、左肺部貫通銃創により死亡

 ()、法政大学生、近藤巨士(当二二年)、圧死による死亡(済生会病院にて手当中死亡)

 

 )、拳銃弾による負傷者中氏名の判明したもの合計二二名とその内訳

 二二名について、八項目の詳細な表になっている。()住居、()職業、()氏名・年齢、()受傷状況―受傷日時場所・受傷時の模様、()医療状況―病名・処理結果、()準現行犯逮捕日時・場所、()取扱者・署、()処理顛末である。

 

  

 

 

 (宮地コメント)

 これらのデータは、第二章第五節第三暴徒側の凶器使用状況、第四暴徒側の死傷状況(P.170〜180)にある。

 暴徒の凶器といわれる物に、火焔瓶はない。火焔瓶の使用は、吹田事件と大須事件からであった。角材・木片・棒切れ・樫棒丸太を合計しても、741本である。検察のいう暴徒7000人の90%は何も持っていない。ラムネビンは中にガソリンが入っていない。

 

 暴徒側負傷状況一覧表は、警察側の()所属別、()場所別、(3)階級別、(4)警察病院治療状況別というそれぞれ詳細な表と比べると、そこにある思想の違いが浮き彫りになる。

 拳銃弾による負傷者22名の病名は、(1)拳銃弾が命中した部位の区別、(2)貫通銃創死亡1名、貫通銃創15名、盲貫銃創3名、銃創3名である。死亡1名の貫通銃創を含め、22名中19名、86%が貫通銃創・盲貫銃創だったことは、至近距離からの水平発砲だったことを証明する。

 

 メーデー事件を騒擾罪にでっち上げようとした検察側の意図は、第二審東京高裁の騒擾罪無罪判決で打ち砕かれた。

 一方、日本共産党が、人民広場突入を、朝鮮戦争の後方基地武力かく乱戦争行動と位置づけて、計画し、指令したことは明白な事実だった。党中央軍事委員たちは、誰も逮捕されなかった。共産党は、人民広場突入方針・実行の存在そのものを全面否定した。それによって、共産党は、逮捕者、負傷者、被起訴者を見捨て、見殺しにした。メーデー事件裁判が始まった当初から数年間、共産党は、自己の関与追求・指導部逮捕を恐れて、裁判支援運動に消極的対応をしていた。

 

 (データ6) 日本共産党関係者の行動と検挙状況

 

 1、日本共産党の事前の動向―軍事方針部分のみ抜粋

 )、三月二一日付「かいこ」(東京都委員会)の通達第六五号「第二三回メーデーを全都民の平和と独立のメーデーに」

 (4) 軍事組織を、意識的に発展させること。

 ……まだまだ観念的な論議で、実践課題になっていない傾向が非常に強い。従って、広汎熾烈な大衆闘争の中で、意識的に民兵としての中核自衛隊を、少数でも、実際的に組織し、武装させていく組織活動が、ほとんど行われていない。すでに中核自衛隊の組織と戦術は提示されている。計画的、具体的に、敵の武器を奪い、武装させる活動を急速に進める必要がある。これらの武装力の積極的な装備こそが、この闘争を、直ちに全国民の闘争に発展させ、その勝利を保証する決定的なものである。

 () 以上の党独自の宣伝、動員への組織を強化することが、このメーデーを勝利する鍵である…‥。

 

 )、四月二七日附AA(党書記局)の「メーデー当日の準備について」と題する通達

 メーデーは数日に迫った。今度のメーデーは物凄いもり上りが予想される。この数十万の大デモを正しく指導し得るのは、党だけであり、前夜祭の経験が明らかにこれを示している。各細胞は野次馬のお祭り気分を拭い去って、反戦独立の愛国メーデーを成功させるため、真剣に取組まなければならない。

 () 防衛行動隊

 A 各大衆団体ごとに防衛行動隊を組んで参加し、これを地区実行委の指導部の指揮下に入れる。この防衛行動隊の核は各細胞である。各自が大衆的に、五人組を組織し、指導する体制を整えること。

 B 右とは別に、党が直接掌握する中核自衛隊を組織し、各大衆団体防衛行動隊の援護行動をとる。(これについては、それぞれ担当S及び各メンバーに直接連絡する)

 

 )、五月五日の「まぐろ」(共産党千代田区委員会)の支店報告で報告されたメーデー方針

 メーデー実行委の方針は、神宮外苑でやるという方向に動き、その準備を進めたが、党はあくまで人民広場を、民族解放の闘いを前進させ、悪質社会民主主義者の分裂策動の陰謀を実力で粉砕すべく、人民広場獲得の基本方針を実践し、四月三〇日夜、大体次の方針でメーデーを闘いとることにした。

 

 大会について

 大会で、まず人民広場を闘いとることを決議ざせ、分裂主義者の正体を、実力で粉砕する。これを妨害するやつは、売国奴として、摘発し、突撃隊でこれを叩きのめす。特に中部の武藤である。売労ファシストの都職の原島、東交の河野を摘発して、実力で叩きのめす。そのための摘発隊と中核隊を組織する。

 宣伝は大体、各営業所を中心に、それぞれの立場からのビラが用意されているが、中心は、徹底的に売国奴を大衆の実力で粉砕せよと、具体的に名前を入れて、大衆の意識を行動に組織する。この闘いの中で議長団の武藤を叩き落す。人民広場への動議を、官労をはじめ、地区労、印刷から一斉に出させて、議長団に押し上げる。このため中核隊は、これを防衛し実行委に対して実力で圧力を加える。

 

 宣伝について

 大体、大会については、以上の観点からビラをはじめ、徹底的に煽動し、大体のイニシヤーを取る。このことは極めて重要であり、この闘いが不充分である場合には、人民広場をかちとることが極めて困難になるので、全力をあげて、G、行動隊、中核隊をハツキりと掌握する。宣伝行動隊については、学生の中から二〇〇名位組織し、これは特に、

 ◎アカハタ再刊第一号を徹底的に大衆の中に入れる。

 ◎日刊紙「平独」が五千部近く古い残紙があるのでこれを売る。

 ◎新綱領五〇〇部

 ◎軍事方針二〇〇部

 以上を販売が中心に宣伝して、この任務につく。

 

 デモコース、人民広場をどうかちとるか。

 デモの先頭が、都労連であるため、敵の策動をどう封殺するか、全体の組合せを全部変えることは困難であるが、全学連を先頭にする方針で行く。これが不可能な場含は、そのあとにし、日比谷に一旦入れたら、広場への突入は困難になるから、公園の入口から直接、最高裁の前からコースをまげて、桜田門から突入する。この点については、基本的には、あくまで、人民広場へ突入させるためにはデモコースを変えること、これにどう全体を引きつけ大衆的にこれに参加させるか以外にメドがつかず、その条件に応じた、臨機の処置をとる以外になかった。指導部はその態勢を整え「かいこ」との連絡も会場においてその準備を具体的に整えた。

 

 2、日本共産党関係者の行動と検挙状況

 なお、大会当日中部コースから皇居前広場にかけて、党本部中央委員候補兼・在京都委員岩田英一がオート三輪車に乗って出没し、デモ隊を鼓舞激励していたことは、第一章で述べた通りである。

 本件の騒擾に参加した党員は果して何名であるか、これを正確に把握することはできなかったが、検挙者のうち党員であることが明瞭な者及び証拠関係よりみて党員と推定し得る者の数は、約百五十名に達している。その地位は東京都委員会委員から細胞員に及んでいる。その他にも神宮外苑の会場、デモ行進の途中及び解散地点である日比谷公園において、デモ隊を指揮し、或いは激励し、これらデモ隊を皇居外苑広場へ誘導していた党員多数が見受けられたが、或いは誘導の使命を果すと同時に隊列を離れ、或いは日比谷公園から以後の行動について騒擾に参加したと認むるに足る確証を得られなかったため不問に付した者が相当数に上っている。従って、本件騒擾に参加した党員の数は、前記約百五十名より遥かに多数に上るものと認められる。

 

 (宮地コメント)

 日本共産党の事前の広場突入軍事方針は、これら通達、党中央軍事委員会への報告書の通りだった。そして、五月五日の「まぐろ」(共産党千代田区委員会)の支店報告で報告されたメーデー方針そのままに、実行されたのも事実である。それにもかかわらず、その実行が騒擾罪に該当するのかどうかは、まったく別問題である。警視庁・検察庁は、騒擾罪をでっち上げようとした。東京高裁の第二審判決は、米川命令と警官隊の実力行使を違法と断定し、その他の根拠をあわせて、騒擾罪不成立とした。

 

 共産党側には、別の問題点がある。別ファイルにあるように、4月30日の非合法東京都委員会の会議では、人民広場突入の正否をめぐって激論が交わされた。その結論は、広場突入をしないことになっていた。ところが、中央軍事委員会志田重男が、単独で、その決定をひっくり返し、個人ルートで、沼田秀郷、浜武司らに指令して、広場突入を遂行させた。この経過については、都ビューロー参加者増山太助が明確に証言している。この「まぐろ」報告は、共産党軍事委員の誰が書いたのか。彼ら中央軍事委員は、メーデー事件で誰一人逮捕・起訴されていない。共産党は、その逆転方針の存在を全面否定した。

 

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』都ビューローの広場突入反対討論・決定

 

 やや長くなるが、増山太助の証言の該当部分を抜粋・転載する。

 中央メーデー準備委員会周辺の討論を反映して、都ビューローが討議をくり返した問題点は、戦後“革命期”に、“人民広場”と呼称されて、たたかう労働者・人民の“意志の確認”“決起”の場所となっていた皇居前広場を、「独立」を機に、実力で「奪還すべきだ」という意見にたいする賛否をめぐる問題であった。当初、キャップの枡井は、「占領下の制約はなくなった」「其のメーデーは人民広場で」の主張であり、組織部を担当していた浜武司や、労対の益子正教らもこれに同調していた。しかし、東京はえ抜きの他のビューロー・メンバーのほとんどが、これに反対する立場をとった。私は、メーデーの主力部隊である総評の意向を尊重すべきだと考えていたし、なかでも、「平和四原則」を守り、総評を“ニワトリからアヒル”に変えるために奮闘していた高野実ら左派の立場を強めることが、「独立」後の彼我の状況を有利に展開するポイントであると確信していたから、共産党が系列下の組合や全学連をつかって、「人民広場」に固執し、実力で“奪還”することには反対であった。これにたいし、枡井らは、「少なくとも、共産党の部隊は人民広場に入り、使用させなかったことの不当性を抗議すべきではないか」と主張しつづけた。

 

 しかし、真剣な討論の末、しかもメーデーの前日に終日の討議をおこなった結果、全員の意見が完全に一致し、「人民広場には入らないこと」、「中央コースのデモ隊は、広場側を通過の際、シュプレッヒコールで人民広場使用不許可の不当性を訴えて、抗議の意思表示をおこなうこと」、「人民広場突入を強く主張する自労や学生部隊などをデモ隊の先頭に立たせず、後部に回し、市民を先頭に立てて、予想される敵の挑発から大衆を守るために、金属労働者や官公労の労働者たちによる統制を強めること」などを決定した。私たちは、この決定を生み出してホッとした。そして、「独立」後第一回のメーデーが、労働者、人民の血気さかんなメーデーになることを期待したのであった。

 

 私は、メーデーの当日、会場にいけない無念さを晴らすために、メーデー終了後、妻と娘たちに会い、せめて家族水入らずの祝盃をあげる予定を組み、その連絡をとった。そして、その文面のなかに、「人民広場へは入らないことになった。僕の分もふくめて、先頭に立って堂々と行進して下さい」と書いた。ところが、周知のように、メーデーはいわゆる「軍事行動」を展開して、“血のメーデー”になった。先頭に立っていた妻と娘は、祝田橋よりはるか手前で警官に襲われ、妻は頭部を殴打されて三針ぬう重傷、娘は腰部を打たれて大きなアザをつくった。二人は通りがかりのひとに助けられ、傷の手当をして、私の友人の家に逃げ込み、かくまわれた。私がこのことを知ったのは、夕飯を食べないで待っていた夕刻近くであったが、私は、思いもよらない“血のメーデー”に驚き、家族がそれにまき込まれたことに愕然とした。同時に、「ついに、東京都委員会の決定は守られなかったのか」と残念に思い、ともかく現場近くまでいって情報をつかもうとした。そして、私が友人の家に駆けつけたときには、まだ、その周辺にも、この日の昂奮が無気味な余韻を残していた。みると、友人宅の戸棚のなかにかくれていた妻の顔は青ざめ、娘はおびえてふるえていた。私は二人を見守りながら、まんじりともせずに一夜を過したが、ひさしぶりに会う妻と娘に、こういう状態で会おうとは夢にも思わなかった。やたらと涙があふれ出て、複雑な怒りが全身に充満し、どうすることもできない感情にさいなまれつづけた。

 

 翌日、東京都委員会は緊急ビューロー会議をひらき、善後策を協議した。まだ、現場の情報が十分収集できなかったが、何人かのビューロー員は、「あれほど慎重に討議して決めたのに……。なぜ、東京の党組織はああいう行動に出たのだろう」「これは、Yのひとり歩きではないか」と、Yを兼任していた枡井に、「おばさんだけは知っていたのではないか」と質問するひともいた。しかし、枡井も「知らなかった」といい、「ともかく、こうなったからには……、不当弾圧抗議の声明を出そう」ということになり、枡井が執筆することになった。その内容は、メーデーの日から放送を開始した、北京からの「自由日本放送」と趣旨が一致していたので、後日、枡井は得意気であった。この放送原稿は、NHKをレッド・パージになり、中国へ渡って「自由日本放送」の仕事にたずさわっていた藤井冠次の証言(『伊藤律と北京・徳田機関』)によると、伊藤律が書いたということであるから、枡井と伊藤律の評価は、だいたい一致していたことになる。

 

 また、六全協後の東京都委員会の総括のなかで、私は、“血のメーデー”における「軍事行動」の責任を追及したが、そこであきらかになったことは、前日ひらかれた東京都委員会のビューロー会議終了後、浜武司が中央へよびつけられ、「人民広場へ突入せよ」と指示されたという。これを伝えたのは、志田の命をうけた沼田秀郷であることも、本人の証言によってあきらかになった。浜は、夜を徹して各地区を歩き、「中核自衛隊」の動員手配をおこない、「全く自分の責任で、当日の行動を組織した」と証言していた。

 

 だから、私の推測では、中島誠が書いているような(『流動』一九七八年一一月号)「メーデーをきっかけに、『人民広場』を奪い返し、日本の首都のどまん中に一種の革命的状況をつくり出そうと計画し、動員を組織し、広場へのなだれ込みの順序、入り口の分担、隊列の組み方、そしてそこでの『戦闘』のやり方に至るまで何日も前から綿密に計画を練り、練習をも積み、『人民広場』での革命的状況をさらにどのようなものに展開してゆくかまで展望していた」というようなものではなかったと思う。もし、中央軍事委員会にそのような机上プランがあったとしても、“血のメーデー”は、党の「中核自衛隊」と党員を主力としてたたかわれたもので、大衆の蜂起を党が下から支えて、組織したものではなかった。だから、「革命的状況」を「展開」し、「展望」をきりひらくことは、全く不可能なことであった。(転載終り)

 

――――――――――――――――――――――

 

 増山太助証言は、メーデー人民広場突入事件における共産党軍事委員会の逆転命令・指令系統を明らかにした。4月30日東京都ビューロー会議での突入中止決定を、その夜に、軍事委員会ルートで無視し、突入を命令したのは3人である。(1)軍事委員長志田重男→(2)沼田秀郷→()浜武司→()各地区の中核自衛隊である。これは、沼田秀郷の本人証言によっても証明された。

 

 1955年六全協後も、日本共産党は、その存在だけでなく、共産党全体としての軍事方針の存在も否定した。メーデー事件裁判の全期間を通じても、宮本顕治・野坂参三は、「極左冒険主義」と言うだけだった。そして、「武装闘争は、分裂した徳田分派がやったことで、現在のわが党には、それにたいして何の責任もない。総括をして公表する義務もない」としてきた。野坂参三除名後、宮本顕治は、その内容を「徳田・野坂分派がやったことで…」と訂正した。これが、宮本顕治の真っ赤なウソであり、党史の偽造・歪曲であることは、別ファイルで分析した。共産党は、それによって、丸山眞男が批判したように、結果責任をとらない前衛党という体質を剥き出しにした。それは結果として、メーデー事件被告を見殺しにした。宮本顕治・野坂参三ら共産党中央委員会は、共産党としての広場突入軍事方針・指令・実行があったことをいさぎよく認めた上で、騒擾罪でっち上げ策謀とたたかい、騒擾罪不成立を主張することが、前衛党としての結果責任の取り方ではなかったのか。そのような裁判闘争のやり方をすれば、共産党が大弾圧を受けると言い訳をするのであれば、武装闘争方針など採るべきではない。

 

 現に、検察側の裁判方針は、(1)事実として存在した共産党の四全協・五全協の武装闘争方針・指令、(2)事実である共産党の人民広場突入軍事方針、()共産党の広場突入の指導などを、一体のものとして()共産党主導の騒擾罪として、メーデー事件をでっち上げようとした内容だった。

 それにたいして、メーデー事件被告・弁護団側は、共産党が(2)(3)を全面否定しているので、公判において、それらを意識的に無視し、または、それらは事件となんの関係もないという主張をせざるをえなかった。しかし、被告団の中から、警官隊の違法な襲撃に怒るとともに、その一方で、共産党がデモ行進部隊を広場へ誘導しておいて、警官隊と激突させた政治責任・結果責任をとるべきという怒りが噴出したのも当然だった。そして、共産党軍事委員たちが、被告を見殺しにする気なのかという雰囲気が高まった。

 その結果、1955年10月24日、メーデー事件被告、家族と共産党との懇談会が、野坂参三の出席で初めて持たれた。その経過と共産党側の対応については、『メーデー事件裁判闘争史』第7章3、「日本共産党の援助」(P.284〜290)に、詳述されている。

 

 (注)、第四章朝鮮人団体関係者の検挙状況、第五章労働団体関係者の検挙状況、第六章学生団体関係者の検挙状況は省略する。ただ、在日朝鮮人の活動については、他HPやファイルにある。

 

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』

    伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル

 

 

 第七章 反省と批判 (文章抜粋)

 

 〔小目次〕

   第一節 警備について 第一 警備計画 (全文) 第二 警備指揮 (全文)

   第二節 捜査について 第一 事前調査の不備 (全文) 第二 現行犯人逮捕と証拠保全 (全文)

 

 第一節 警備について

 第一 警備計画 (全文)

 

 本件騒擾事件の発生乃至は拡大の一因が、警備措置の不手際にあつたと認められることは、既に指摘したところである。

 すなわち、まず警備計画の立案に当って、情勢判断をあやまったことである。既に多数の文書の撒布又はメーデー前夜祭における一部過激分子の言動によって、日本共産党の指導を受ける諸団体がメーデー当日実力行使により皇居外苑広場を占拠し、反米・反政府の気勢をあげようとしていることは、事前に充分に察知せられたのである。警視庁においてはこれに対し、これは宣伝乃至は陽動作戦であって、五方面のデモコース解散地周辺若しくはPD工場、京浜工場地区等において工場襲撃その他の不祥事発生の危険があると判断し、警備力を都内に分散配置して皇居外苑広場周辺の警備を手薄にしたのである。この点、事前情報の入手について若干遺憾の点があったとも考えられるのである。

 

 次に、警備計画に基く命令を検討してみると、警備一辺倒の内容であって、不法事態発生の場合の検挙、証拠保全、事態収拾の具体策について充分考慮した形跡がみられなかった点である。しかもその計画は固定的であって、事態の変化に応ずる臨機応変の機動性に欠けるものであったといっても過言ではない。この点は、先行する諸事件と関連する日本共産党の軍事方針そのものに対する判断の誤りによるものであるとみてよいであろう。

 

 この警備計画については、警視庁警備第二部長や刑事部長も関与している筈であり、東京地方検察庁特捜部にも事前に連絡があったのであるから、計画立案の警衛当局だけを責めることはできない。

 

 ここに想起せられるのは、明治三九年九月五日、東京日比谷公園における日露講和条約反対国民大会を契機として発生したいわゆる日比谷騒擾事件である。本件メーデー騒擾事件は、その発生原因、発生状況、騒擾状況等幾多の点で右日比谷騒擾事件と類似しているものがあることが見出されている。本件発生後警視庁においても、日比谷騒擾事件に関する当時の警視庁第一部長松井茂の手記を再刊して部内の執務参考資料として配布したのであるが、惜しむらくは、平素よりかような先例について研究を遂げておき、本件メーデー当日の警備計画立案についても充分に先例の教訓を参酌することができなかったことである。結果論のそしりは免れないが、われわれもこの点について深く反省しなければならないとの念を新たにしたのである。

 

 第二 警備指揮 (全文)

 

 結果的にみると、本件警備指揮も又適切に行われたとはいえない。

 まず、報告連絡の拙劣を指摘することができる。正確な情勢判断と、これに対する的確な指揮命令は、迅速な報告連絡に俟つことが多いことはいうまでもない。しかるに本件騒擾事件発生当時、現場指揮の責任者たる警察職員は事態急迫して後は殆ど報告連絡をせず、徒らに暴徒の鎮圧に焦慮して、警備本部に対する報告を忘れたかの観があり、直接の報告担当者も又これを怠っていた事実が認められる。一方、警備本部においても、事態急迫を告げている事実を知りながら報告の到達を拱手して待って徒らに時間を経過し、数百米の距離にすぎない現場に連絡員を派遣することもせず、相当の時間を徒過した事実が認められるのである。

 

 次に、現場における指揮者と部下との連絡報告も充分でなかったといわなければならない。すなわち、皇居外苑広場における各予備隊の行動をみても、隊長と各中隊、各中隊と小隊・分隊との間の連絡報告が拙劣であったため、暴徒と乱闘に入って後は隊長の命令が的確に部下に伝達されず、部下から隊長への報告も殆どなかったという状況であった。たまたまこの状況を二重橋附近で傍観した元陸軍大学教官某は、当時の予備隊の指揮は士官学校卒業直後の中・少尉の戦闘指揮よりも拙劣だと酷評したとの新聞報道があったことからも、このことは窺えるのである。

 

 又、各予備隊には指揮班があり、その中には警部補或いは巡査部長級の記録班長がいて、指揮官の命令、部下よりの報告、警備本部よりの命令、他部隊との連絡、部隊の行動等細大洩らさずこれを記録することになっていたのである。この記録は、極めて重要な、しかも信憑性のあるものとして、訴訟上も重視しなければならないものであるにかかわらず、本件ではこれらを記録していたものは僅少であり、しかし満足すべき記録は皆無に等しい状態であった。その理由は、暴徒と乱闘に入った後は、記録班員までが暴徒制圧に助力することに気を奪われて自己本来の任務を忘れた結果と認められるのであって、事情はやむを得ないものがあったとはいえ、平素の訓練の必要性を反省させられる点である。

 

 なお、警備出動にあたり、部隊全員に行動の法令上の根拠を示してあらゆる事態に対処して確信をもって行動することができるように配慮した予備隊は、出動部隊中の一部にすぎなかった。すなわち、当日のデモは日比谷公園で解散することを条件として許可されているものであり、その後皇居外苑広場等に集団行進し或いは集団示威を行えば昭和二五年東京都条例第四四号(いわゆる公安条例)により無届の集団行進、集団示威運動として取り締るべきものであること、取締については同条例による警告その他の措置をとることができること等について、充分周知徹底していなかったと認められる。

 

 拳銃発射、催涙ガス使用等について所要の警告をし、或いは所定の方向角度に向けて発射する等の点については、概ね適切妥当な処置がとられたと認められる。但し警告を告知したとの点に関する証拠の保全について充分の考慮が払われていない。又部隊の前進、後退等について同一行動に対する命令が区々であることも、公判廷において問題となつた場合、状況に応じた適切な指揮命令であったか否かについて争の余地を残すであろう。号令、命令を統一制定すべきである。最初二重橋前において実力行使に出た中隊の長岡警部の「楔形隊形開け」という命令は、事態に応じた適切なものであり、同隊の行動の公正はこれによって証明することができるといってもよい。

 

 第三 衆議院行政監察特別委員会の本件に関する中間報告書中の批判 (省略)

 

 第二節 捜査について

 第一 事前調査の不備 (全文)

 

 騒擾事件は偶然突発するものではない。たとえ計画的に行われたものでなくとも、必ずこれに先行する諸種の動きがあり、機を得て騒擾事件に発展するのが例である。従って騒擾事件の捜査を完全にするためには、これに先行する諸種の動きについて充分の調査研究を積んでおくことが必要である。

 

 本件についていえば、メーデー実行委員会の動きと関連して、共産党系労働団体、学生団体、朝鮮人団体の参加に関する交渉状況、各所におけるメーデー前夜祭の状況について、事前に充分の調査が行われていなかった。このことが、本件捜査を著しく困難なものとし、結局、現場で直接行動した犯人の一部を起訴することができただけで、事件の背後関係や首魁にまで捜査の手が伸びなかった原因となっているのである。

 

 すなわち、共産党系諸団体はメーデー前たびたび会合を開いて、メーデー当日は実力でいわゆる「人民広場」に入る、そのため携行のプラカード等も直ちに武器として使用できる物を各自工夫するということを決定して、その準備をし、その意図はメーデー前夜祭における彼らの行動にも現われていたのであるが、これら団体の主要人物の住所・氏名・人相すら事前に調査できていなかった。そのため犯行現場でこれら諸団体名を記した多数の資料を押収しながら、これを充分に活用することができなかったのである。勿論現行法制の下では、平常これら団体関係者の言動を調査するには幾多の制約があって極めて困難ではあろうけれど、法律の許す範囲内で可能な限りの工夫研究を凝らし、虞犯団体と認められるものについては事前にできる限りの調査を遂げておかなければならない。

 

 事前調査の不備は、特に学生団体について甚だしく、学校当局の態度も影響して、事後における捜査を著しく困難なものとした。

 

 第二 現行犯人逮捕と証拠保全 (全文)

 

 本件メーデーの警備計画が警備に偏向して不法事犯発生に対する措置について充分考慮が払われていなかつたことは既に指摘したところである。すなわち、警備に出動した予備隊職員に対し現行犯人逮捕についての訓練がされていなかったばかりでなく、捜査係員をもって編成した現場検挙班、採証班の活動も立ち遅れて不充分なものがあった。

 

 本件犯行現場における現行犯人逮捕は、既述したように僅かに四八名で、そのうち検察庁に身柄のまま送致されたもの三一名にすぎない。末松警部等検挙班の逮捕した被疑者以外のものについては、逮捕の際の状況も充分明らかでないものが多く、乱闘中の逮捕であってやむを得ないものがあったとはいえ、被疑者の行動を目撃した証人の氏名確認(予備隊の同僚職員その他)も行われていなかったのである。

 

 又、逮捕後の身柄取扱にも不注意な点があったと認められる。後に判明した事柄であるが、放火容疑の、最後まで否認した一被疑者は、留置場入房の前二回に亘り所持のマッチを捨て去ったということである。逮捕直後の身体捜検を等閑に付したものであろう。自動車放火犯人であれば、着衣に油臭、油の痕跡等も残っていたものもあると思われる。逮捕直後に着衣、所持品を綿密に捜検し、鑑定等の証拠保全行為をすることを忘れてはならない。不用意に着衣の仮下げをしたため、検事の指揮により後にこれを押収したが既に洗濯した後で、予期の結果を得られなかったものもある。

 

 集団検挙の際の被疑者の取扱については、平騒擾事件、神戸騒擾事件等の先訓があるのであるが、これは末端警察職員にまで徹底しておかなければならない。

 

 暴徒鎮圧後における現場の遺留品の押収についても、その遺留場所、遺留状況の確認等証拠保全に必要な処置を講じないで、漫然集積してトラックで警視庁へ運び去っていた物が多かった。ただ各予備隊所属の写真班の活動はめざましいものがあり、その現場写真が本件捜査に重要な資料となったことは特筆すべきことである。しかしながら、この写真も暴徒が攻勢に立ち警察職員よりも優勢な場合は暴徒の犯行を充分に撮影することが困難である。又、折角撮影した写真に犯人の容貌や行動が判然写っているにかかわらず何処の何者か判らず、検挙に至らなかったものも少なくない。

 

 某警察署においては、公安係巡査がデモ行進開始当時から管内より参加している共産党系団体の近くに密行して終始その行動を観察していたため、後にこれら団体について検挙を行った際、被疑者全員が黙秘したにも拘わらず、この巡査の証言によりその大半を起訴することができた。

 

 将来、この種事件の発生の予想される場合には、警備に従事する警察職員にも犯人検挙と証拠保全について充分の訓練を施すと共に、別に強力な検挙班、採証班を編成して、警備部隊と行動を共にさせる必要がある。護衛を付けた写真班や、望遠写真機の準備、群衆中にできるだけ多数の密行者を潜入させることも考慮しなければならない。現場検挙の困難な場合は、尾行して現場を離れ、妨害の危険のない場所に至って逮捕することである。

 

 逮捕と共に忘れてならないことは証拠保全である。逮捕現場附近にいた同僚職員又は見物人等があれば、必ずその氏名を確認しておいて、逮捕手続書に附記しておくか、又は別に記憶によって逮捕に至った状況を顛末書又は報告書の形式にまとめておけば、後の捜査に役立つであろう。身体捜検、着衣の検査も綿密に行うべきである。住所が判明した者については速かに捜索差押許可状を得て家宅捜索を実施すべきことは、今更いうまでもなく実行されているものと思う。

 

 準現行犯人逮捕が本件捜査の進展に大いに役立ったことは既に述べた。将来の事件についてもこのことは忘れられてはならない。(河井検事、川口検事記)

 

 第三 通常逮捕と押収捜索 (省略)

 第四 勾留と接見禁止 (省略)

 第五 捜査方針と捜査体制 (省略)

 

 (宮地コメント)

 この「批判と反省」は、いろいろ興味深い内容を含んでいる。その一つは、東京地検による警視庁批判である。公判段階になると、検察・警察一体の建前も崩れて、騒擾罪をでっち上げるための警察側の不備・手落ちを指摘したくなるのであろう。それは、吹田・枚方事件における検察側秘密文書にも現われていた。脇田憲一が「吹田事争乱」で具体的に記述・引用している。

 

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』検察側秘密文書も引用

 

 ちなみに、騒擾罪が成立した名古屋・大須事件においては、検察・警察とも、騒擾罪を成立させる上での検察・警察一体がきわめてうまくいったと自画自賛をしている。

 

 

 4、東京高裁第二審の「騒擾罪不成立」判決の骨子と見解抜粋

 

 〔小目次〕

   1、騒擾罪の成立を否定した理由の骨子

   2、当裁判所の基本的見解―「警官隊の実力行使は違法」個所のみ

 

 (宮地コメント)

 これは、『メーデー事件裁判闘争史』(メーデー事件裁判闘争史編集委員会編、白石書店、1982年、絶版)の抜粋である。第九章判決、第三節第二審判決、騒擾不成立(P.552〜560)に掲載されている。その冒頭の骨子、および、下記()の「警官隊の実力行使は違法」個所のみを転載する。

 1972年11月21日、二審判決で騒擾罪不成立・無罪。12月4日、東京高検は上告断念。第二審無罪判決確定。メーデー事件発生から、20年7カ月後だった。

 

 1、騒擾不成立

 

 先回りしてここで第二審判決を見ることにしよう。騒擾罪の成立を否定した第二審判決によって第一審判決の誤りが一層端的に整理されるであろう。そして後に述べる第二審のたたかいの意味とそこでの問題点を理解することに役立つであろう。

 

 第二審判決が騒擾罪の成立を否定した理由の骨子は、

 (1)、「米川命令」による実力行使以前にデモ隊に「暴行、脅迫の共同意思」が成立していないこと。

 (2)、「米川命令」とこれに基づく警官隊の実力行使は違法であること。

 (3)、「突出部」および「順次波及」の数百名が警官隊に対し一体となって「暴行、脅迫」に及んだことは認められるが、それは専ら警官隊の実力行使に対抗するためにのみなされたものであり、その他の事情を合わせれば「未だ公共の静穏を阻害するに足りる程度の暴行、脅迫に当るものとは認めにくい」こと。

 (4)、その後の警官隊とデモ隊の「衝突抗争の事態」には「通じて暴行、脅迫の共同意思のある同一の集団による暴行、脅迫に当るものとは認めなかった」ことである。

 

 第二審判決は騒擾罪の成立要件である「共同意思」を厳格に理解し、証拠によって証明された事実に基づき「共同意思」の有無を中心に「集団」としての「同一性」を厳密に判断し、その態度を終始貫徹させたのである。(P.552〜553)

 

 まず当裁判所の基本的見解がそのことを明快に示している。少し長いが引用しよう。(注、553〜560の内、P.555〜557のみを抜粋・転載)

 「米川命令」以前のデモ隊の性格、状況についての判断も明快である。特に「団結意思」に関して言えば「集団員全体としては、第二三回メーデー中央大会の会場として皇居外苑広場を使用することを禁止した政府の措置を不当としてこれに抗議する意識のもとに同広場に集まっただけで」ある、と断定していることは重要である。それとして明言するところではないが、大衆行動の権利に対する一定の配慮を窺わせる。

 

 そしてこの「団結意思」を除けば、「共通した目的をもっていたものとは認められないのみか、かえって、同広場に集まった目的、所属の組織、団体、並びに同所に集合するにいたった経緯もそれぞれ異なるものであって、もとよりその全体を指揮統率するような指揮者もなく、中には広場に入れたことだけで当日の目的はすでに達せられたとして、解散大会を志向して退出の時期を待っていたにすぎない者や、原判決も認定しているように、これら集団員のうち後方や外周にいた者の中には、傍観者的態度の者や児童、幼児を同伴した女性、物を食べたりして休む者もあったり、あるいは、前記の如く警察官に対し石を投げる者に対し、附近の集団員の中にあって、これを制止する者もあったほどであることが認定できるのである。」

 

桜田門    二重橋

        馬場先門

 

 だから、デモ隊の前方の限られた一部で警察官に対し投石したり、棒や竹竿を振り上げたり、「ポリ公殺せ」と叫んだりする者があったとしても、又「およそ万にも達すると認められる」デモ隊の一部に警官隊と対抗しようとその意図を抱く者があったとしても、これらの者が「集団員全体の動向を左右し得る関係」にはなかった。「してみれば、原判決が、原判示集団員中の相当数の者は前記条例四条所定の警告をうけてもとうてい自発的解散に出る見込みがなく、このまま放置するときは、その集団行動の勢いが一層拡大していくことが必至であり、集団を解散させ集団員を排除するための要件たる公共の秩序を維持するため明白かつ切迫した事態に立ち至っていたと認定したことは、とうてい首肯し難いものというべきである。」

 

 続いて判決はいわゆる「突出部」の「前進」と「米川命令」についての判断に入る。「米川副隊長が指揮下の部隊に対し前進命令を下す直接の契機となった、桜田濠沿い砂利敷道路上の対面した警官隊の前面中央部よりやや濠寄りの部分の集団員が、一きわ高い喊声とともに、渦を巻くような形をしたりして幾分ふくれ上るように警官隊の方向へ出てきたとの原判示事実について検討してみるのに、原判決引用の当該関係証拠によれば、右集団員は、そのようにして対面する警官隊に対し積極的に攻撃してきたというのではなく、その部分の集団員が数メートルふくれ上るようにして出て来て、それまで維持していた前面警官隊との距離が原判示のように一五ないし二〇メートルにちぢまったという事実が認定できるだけであり、他にこの部分の集団員の行動として、前面の警官隊に対し一団となって攻撃をしかけてくる事態にあったことを思わせるような特別の動きがあったものとは認められない。

 

 そして、米川副隊長は、前記証拠上明らかなように、このように警官隊との間の距離をちぢめてきた集団員が、さらに前進を続け前面警官隊の方に攻撃をしかけてくる状況にあったかどうか、そしてまたこの部分の集団員以外のその周辺の集団員の動向はどうであったかを確認せず、そのまま放置するときは、右集団員は一体となり警官隊に攻撃をかけ、それによる警官隊の被害が甚大となるであろうと速断し、むしろこの機会に、警官隊の方からこれら集団員の方に進んで行き、実力を行使して、これらふくれ上るようにして出てきた集団員はもとより、桜田濠沿砂利敷道路から銀杏台上の島にかけて集まっていた集団員を排除すべきであると考え、ただちに指揮下の警官隊に対し前進を命じ、実力による排除措置に及んだのである。

 

二重橋砂利敷十字路に展開 ―→ 警官隊の攻撃開始      ―→ 警官隊の攻撃

した警官隊のL字型隊形        とデモ隊の崩壊           デモ隊の抵抗

(これら4地図は、『メーデー事件裁判闘争史』(メーデー事件裁判闘争史編集

委員会編、白石書店、1982年、絶版)P.193、195、199に掲載されたもの)

 

 右米川副隊長の命令が以上の趣旨に出たものであることは、原判決引用の当該関係証拠によって認められるとおり、米川副隊長は右命令を発するにあたり特に排除の対象となる集団員を限定することなく、同副隊長ら前進警察官が銀杏台上の島まで一気に前進し、この間ふくれ上るようにして出てきた右集団員以外の者に対してまで無差別に排除に及んだことに徴しても明らかである。してみれば、この米川副隊長の前進命令は、当時の集団員の行動を正確に認識したうえでの判断に立つものといい難いのはもちろん、さきに認定した当時桜田濠沿い砂利敷道路から銀杏台上の島にかけて集まっていた集団員中の前部に位置していた者の中に、警官隊に対し、投石したり、棒や竹竿を振り上げたり、あるいは原判示の脅迫にわたる言辞を弄する等の不穏な状況があったこと、並びに右集団員中には前示の如き意思を有していた者があったことを勘案してみても、米川副隊長が前記の如く判断したことに首肯するに足りる相当な理由があったものとは未だ認め難い。」米川の「速断」に対する批判の視点が明瞭である。

 

 以下の判断は特に重要である。判決は最高裁判所や高等裁判所の判例を引いて、東京都公安条例を合憲したことはもとより、その第四条によって「集団を解散させ集団員を排除する措置をも許容」されるとし、更に米川ら現地指揮官はこの第四条による警視総監の権限を委任の下に行使できる、としていたからである。この点では控訴趣意書などで示された弁護団の意見とは大きくかけ離れていた。だが判決は言う。「結局、当時の桜田濠沿い砂利敷道路から銀杏台上の島にかけて集まっていた集団員の前示状況からすれば、右集団員全体を対象として、前示条例四条に基づく解散を要する程、公共の秩序を維持するため猶予できない明らかでさしせまった事態に立ち至っていたものとはとうてい認められないのであり、この場合警官隊としては、警職法五条により、前示のように、集団員の前部にあって直接警察官に対して暴行、脅迫の行為に及んでいた者を排除する限度においてしか実力行使は許されなかったものというべきである……。

 

 ところで、本件において米川副隊長のした前記命令、並びにこれに基づく第七方面予備隊の本部、第二、第三中隊、及び第一方面予備隊第三中隊所属警察官の集団員排除措置は、前記の如く、警察官に対し暴行、脅迫の行為に及んでいた者を対象としこれを排除する措置としてなされたものではなく、まさに前認定のように、桜田濠沿い砂利数道路から銀杏台上の島にかけて集まっていた集団員全体、若しくはこれら集団員を一体としてその排除の対象とし、これに対して強制力の行使に及んだものと認めるほかなく、したがって、かかる米川副隊長の前記命令、並びにこれに基づく命令の執行は、前記説明に照らし、違法というべく、これを適法とした原判決の判断は事実の誤認に基づくものというはかない。」

 

 判例の立場を継ぎながらも、個々の犯罪行為に対する取締まりならともかく、大衆行動全体に対する実力行使は許されないとし、実力行使の限度をかなり厳格に抑えているのである。そこには集会、デモの権利についての一定の配慮がある。もつとも判決は「米川副隊長の前進命令並びにこれに基づく警官隊の実力行使が違法であるからといって、これに対抗する集団員のいかなる行為も違法性を阻却しなんらの犯罪を構成しないとはいえない筋合であるから、米川命令の違法を理由としてただちに騒擾罪の成立を否定する弁護人の所論も、未だ採るを得ない」とも述べていた。(P.555〜557抜粋)

 

以上  健一MENUに戻る

 (関連ファイル)

     『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

     『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

     『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』

     滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

     増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

           増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」

           丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

     脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』吹田事件の背景と全経過

     伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル

 

     宮島義勇『中国密航と50年8月・周恩来との会見』統一回復・北京機関・武装闘争

     吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

     大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織“Y”

     長谷川浩・由井誓『内側からみた日共’50年代武装闘争』対談

     由井誓  『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』山村工作隊活動他

     脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

     れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』